表題の問いの正解は「できることもある」である。21世紀にもなって金価格が高騰しているのをみると難しいなあと思う。ケインズもそう思っていたに違いない。
この章のここまでの節の結論は面白いので全文掲げる。
こうして、貨幣-利子率が上昇しても貨幣の生産量を刺激することはなく(貨幣の生産は完全に非弾力的だと想定されている)、その上昇は生産が弾力的なあらゆる生産物の産出量を抑止する。貨幣-利子率は他のすべての商品利子率のぺース・メーカーとなることで、貨幣を生産するための投資を刺激することなく――貨幣は生産不可能だと想定されている――これら他の諸商品の生産に対する投資を抑止する。しかも流動的現金に対する需要は債権に対して弾力的であることから、この需要を支配する条件が多少変化しても、貨幣-利子率にそれほどの変化はなく、一方、貨幣の生産は非弾力的であるため、(公的行動ならともかく)自然の力が供給側に影響を及ぼして貨幣-利子率を低下させるということも考えられない。通常の商品の場合には、その流動的ストックに対する需要は非弾力的だから、需要側にわずかでも変化があればその利子率は急激に上昇あるいは下落し、他方、その供給は弾力的だから、現物の先物に対するプレミアムもなかなか高くなりえない。こうして貨幣以外の商品の場合には、放っておいても、「自然の力」、すなわち通常の市場の力がはたらき、完全雇用が出現して商品全体の供給が非弾力的になるまで――この供給の非弾力性こそはわれわれが貨幣の通常の特性と見なしたものである――その利子率は低下する傾きをもつ。要するに、貨幣が存在せず、しかも貨幣的属性をもつ商品が他に全く存在しないとしたら――当然このような仮定も設けなければならない――さまざまな利子率は完全雇用状態でのみ均衡に到達することになる。
喩えて言えば、失業が深刻になるのは人々が月を欲するからである。欲求の対象(貨幣)が生産しえぬものであり、その需要が容易には尽きせぬものであるとき、人々が雇用の口を見つけるのは不可能である。月も生チーズも大差ないことを大衆に納得してもらい、チーズ工場(中央銀行)を公的管理のもとにおく、それ以外に苦境を脱出する途はない。
興味深いことに、伝統的に金を価値標準として特に適格ならしめると見なされてきた特性、すなわちその供給の非弾力性は、実は災いの根底にある特性にほかならなかったのである。
結論を最も一般的な形で述べると(消費性向は所与とする)次のようになる。すなわち、あらゆる利用可能な資産の、それ自身で測った自己利子率(own-rates of own-interest)のうち最大のものが、全資産の限界効率-―それ自身で測った自己利子率が最大となる資産によって測られている――のうち最大のものに等しくなったとき、投資率はもはやこれ以上増加しえないということ、これである。
ケインズの時代は金本位制と管理通貨制度を行ったり来たりしていたが、貨幣は生産しえぬものである前提は「貨幣が金だから」ではないだろうか?管理通貨制度のもとではどうだろうか?ケインズは管理通貨の使徒である。だから、貨幣量・利子率は操作可能性を持つのだが、政府・通貨当局は堅実財政主義に立っていた。だからそこを批判している。80年以上たった現在も財政再建が呼号されている。せっかく操作可能な手段があり、自由放任の害悪から逃れる術があるのに。
先走りし過ぎた。
他にもいろいろな論及があるが読んでいただくことにして、もう一回引用してこの章を終わる。
数千年ものあいだ人々がこつこつ貯蓄を続けてきたその挙げ句が、うずたかく積み上げられた資本資産の中の貧しい世界だというのは、思うに、人間の浪費性向のせいでもなければ、戦争による破壊のせいでさえなく、ひとえに高い流動性プレミアム、かっては士地所有に、現代では貨幣に付着しているところの高い流動性プレミアムのためである。この点で私は、マーシャルが『経済学原理』五八一ページで彼らしからぬ独断的口調で表現した古い見解とは考えを異にしている。
「誰もが知っているように、富の蓄積が阻害され利子率がかくも高水準を維持するのは、もとはといえば人々の大多数が先延ばしされた満足よりも現在を選好する、言い換えれば「待つ」ことに我慢できないからである。」マーシャル
一般理論とは見事なまでに真逆である。これでは師弟対立は避けられない。