この本は「雇用・利子および貨幣の一般理論」である。雇用量の決定要因を探るために書かれた。つまり「第18章 雇用の一般理論」とは一般理論そのものである。
この章は、経済体系の操作可能性の探求である。と同時にケインズ自身の手になる一般理論の要約が出てくる。
まずは一般理論の要約を引用する。すなわち、これが「雇用の一般理論」でもある。
ここでこれまでの諸章の議論を要約しておくことにしよう。ただし、〔これまで論じてきた〕諸要因をそれらを導入したのとは逆の順序で取り上げることにする。
[投資を増やしていくにつれて〕各タイプの資本資産の供給価格は押し上げられ、期待収益の低下と相俟って、ついに資本全般の限界効率は利子率にほぼ等しくなるこのように両者が等しくなる点まで新規投資率を推し進める誘因が存在する。言い換えれば資本財産業の物的な供給条件、期待収益に関する確信の状態、流動性に対する心理的態度そして貨幣量(賃金単位で測るのがいい)が相俟って新規投資率を決定する。
だが、投資率が増加(減少)すると、それにともなって〔所得率と〕消費率も増加(減少)する。なぜなら、所得が増加(減少)しているのでなければ所得と消費の開きを広げよう(狭めよう)とはしないのが大衆の一般的な行動様式だからである。ということはつまり、消費率は一般には所得率の変化と同一方向に(額は所得の増加ほど大きくない)変化するということである。そのさい〔所得の増加と〕一定額の貯蓄の増加をともなう消費の増加との関係は限界消費性向によって与えられる。賃金単位で測った投資の増加分と同じく賃金単位で測ったそれに対応する総所得の増加分との比率はこのようにして決まるが、その比率は投資乗数によって与えられる。
最後に、(一次近似として)雇用乗数が投資乗数に等しいと仮定すれば、乗数を最初に述べた要因〔資本の限界効率と利子率の関係〕の引き起こす投資率の増加(減少)に適用することにより、雇用の増加を推定することができる。
けれども雇用の増加(減少)は流動性選好表を引き上げ(引き下げ)かねない。それは雇用の増加が貨幣需要を増加させる傾きをもつからだが、その道筋は三様である。すなわち、雇用が増加すると、賃金単位と(賃金単位で測った)物価に変化がなくとも、生産物価値は増大する。しかしそれだけでなく、雇用の改善とともに賃金単位それ自体が上昇する傾向をもつし、産出量が増加すると短期的には費用が増大するから、産出量の増加こつれて(賃金単位で測った)物価も上昇する。
このように、均衡状態はあれやこれやの影響を受けるし、他にもこうした影響は存在している。そのうえ、上記諸要因にしても、たいした前触れもなく変化しがちであり、しかも相当の変化を被ることも一再ではない。ことほどさように、現実の出来事の成行きは極度に込み入っている。それにもかかわらず、これらの要因は切り離して考察するのが有用でもあれば便宜でもあると思われる。何か現実の問題を以上の図式に沿って検討しようとするなら、そうしたやり方を採ったほうがずっと扱いやすいと知れるだろうし、われわれの実践的直感(それは一般原理の扱えるものよりはもっと錯綜した複合体に対処することができる)に対してもっと作業しやすい素材を提供してくれることにもなろう。
以上が一般理論の要約である。
えええっと私も思った。ケインズの考える「理論」とはこのようなものである。本質から現実が規定されているのではなく、個々の現実の様々な絡み合いが現実を決定する、と考える。ヘーゲルから離脱したマルクスのように。実存主義・構造主義に近い、というかコモンセンスの分析哲学なのである。
再び本文の読解に戻る。経済体系の操作可能性が主題であった。
所与の条件:
- 利用可能な労働の現時点での熟練と量
- 利用可能な装備の現時点での質と量
- 現在の技術
- 競争の状態
- 消費者の嗜好と習慣
- 労働強度が違うときの不効用およぴ監督や組織活動の不効用
- もちろん国民所得の分配を決める諸力―以下に示す変数を除く―を始めとする社会構造。
独立変数
- 消費性向
- 資本の限界効率表
- 利子率
従属変数
- 雇用量
- 賃金単位で測った国民所得
こういうことを宣言されてしまうと、すぐに数理経済学的にもっともらしい方程式をいくつか作ってどうのこうのという輩が出てくる、というかそんな輩ばかりになってしまったが、先ほど指摘したように
「ケインズの考える「理論」とはこのようなものである。本質から現実が規定されているのではなく、個々の現実の様々な絡み合いが現実を決定する、と考える。ヘーゲルから離脱したマルクスのように。実存主義・構造主義に近い、というかコモンセンスの分析哲学なのである。」
雇用量と賃金単位で測った国民所得を上昇させるために所与の条件の下で独立変数をいろいろ動かしてみればいいんじゃない、ということである。やってみなきゃわかんないんだよ。
経済体系の決定因を所与の要因と独立変数との二群に分類するのは、何か絶対不変の見地のようなものから見ればむろんきわめて恣意的である。だが分類というものはすべからく経験をもとにして行わなければならない。そうすれば、一方に、変化がきわめて緩慢かあるいはほとんど重要性をもたないと考えられるために、われわれの問題にはごくわずか、あるいは短期的には相対的に無視しうる程度の影響しか及ぼさない諸要因が属し、他方には、われわれの問題に実際抜き差しならない影響を及ぼすと思われる諸要因が属する。われわれの目下の目的は、任意の時点における所与の経済体系の国民所得および(ほとんど同じことだが)その雇用量を決定する要因を見出すことである。要因といっても、経済学のように複雑な学問、正確な一般化を完全に成し遂げることの期しがたい学問においては、それは(完全な決定因といったるのではありえず、せいぜい〕その変化が主因となってわれわれの間題〔国民所得と雇用の水準〕を決定するといった程度の意味である。
われわれの最終的な仕事は、われわれが現実に生活している体系において中央当局が人為的に統制あるいは管理することのできる変数を選び出すことにあると言ってよい。
経済学は青二才の学問ではない。酸いも甘いも噛み分けた大人の学問である。
「何か絶対不変の見地のようなものから見ればむろんきわめて恣意的である。だが分類というものはすべからく経験をもとにして行わなければならない。」
分類こそが知の基本である 知の基本(分類)には経験が必要だ
宜なるかな