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the other half 2

31歳になりました。鬱で負け組。後悔だらけの人生だけど・・。

レキソタン、僕を救う。~再び~

2007-03-12 00:38:11 | 鬱病日記
2月11日




昨日の期待に反して、全く眠れない。
身体は重く、だるいほど疲れていると言うのに、眠れない。
睡眠薬はいつもの量を何時間も前に飲んでいる。

何度も寝返りをうつ。
枕の位置を変えてみる。
布団にくるまってみたり、布団に抱きついてみたりする。

寝る前に必ず聞くCDは、もう何回もかけなおした。
携帯をいじる。アドレス帳をぐるぐる巡る

ア・イ・ウ・エ・オ・・・・・

こんなときにメールにつきあってくれる友達なんていない。
眠れないベットの中で、僕の携帯のメモリは個人名より法人や団体のデータが多いことを確認して、ちょっとペシミストぶってみたりする。


居間の鳩時計が鳴く。
そのスパンが段々と早くなってきている気がするのは気のせいだろうか。

「明日は朝から学校に行くつもりだったのに、この調子じゃ、期待できないな。」

ただひたすらに眠ることだけを考えて・・・そうしていくと、ゆっくり、眠りに・・・・・・はぁ・・入れない。


隣の部屋では機械仕掛けの鳩が正確に時を刻みながら鳴いている。


僕はその鳴き声の数を数えるたびに、眠ることができないでいる僕に落胆する。





鳩が5:30AMを告げた。

もう、ムリ。限界だ。
このままでは本当に朝になってしまう。
というか、あと一時間もすれば社会人時代の僕の起床時間ではないか。

僕は小さな白い錠剤に最後の可能性をかけることにした。
僕を救ったあのヒーロー。

その名は“レキソタン 5mg”。

いつもベットサイドにおいてある2L入りのペットボトルからミネラルウォーターをカップに注ぐ。
僕はカップを口に近づけ、祈りを込めた希望の錠剤を僕の中心の奥深くに取り込んでいく。
あとは、力が抜けていく感覚に身体を預け、意識を何もないところに飛ばすだけ。

少しずつ気持ちが楽になって、楽になって、楽になって・・。

次に眼を覚ましたとき、携帯の時刻表示は16:00PMになっていた。
レキソタンは不眠の僕を救ってくれた。

だが、その日の予定はすべてとりやめだ。
学校に行くにしても少々時間が遅すぎる。

あきらめてベットに戻ると、僕は軽く眼を閉じた。


そして、その2時間後。
再び眼をさまして、軽く夕食をすませる。

結局のところ僕はこの日一日を、寝て過ごしてしまったことになる。

今は0:30少し前。多くの人々が眠り始める時間。


だが、というべきか、当然というべきか、僕の眼は冴えている。


今日行けなかった分、明日こそ学校に行かなければ。

今回は最初からレキソタンを飲んでベットにはいることにしよう。



今夜は良い睡眠が得られますように。
そして、明日眼を開けた時間が、朝でありますように。





やっぱり易疲労・易消耗。

2007-03-11 02:10:52 | 鬱病日記
3月10日



眼を覚ます。

もやっとした頭の中で今の時刻を考えてみる。
朝か?夜か?
遮光カーテンで常に薄暗い僕の仮住まいの部屋は、朝昼問わず薄暗い。

枕もとの携帯を手探りで探し当て、時刻を確認する。
9:30AM。

なんだよ、まだ4時間しかたってないじゃん・・。勘弁してよ。

昨日の“レキソタン・ショック”で、変な時間に昼寝をしてしまったせいか、昨夜は明け方まで眠れなかった。最後に時刻を確認したのが5:30すぎくらい。居間の鳩時計が鳴いていた。

少し前までは、昼間いくら寝ていても、夜になって就寝前の睡眠薬系の薬を飲めば2時か3時までには眠れたのに。

身体が徐々に普通になってきているのか。それとも不眠の傾向が強くなってきただけなのか。

今日はそのまま15:00PMまで寝てしまい、外出も面倒だったのだが、昨日も学校に行っていないので生気を搾り出して学校に向かうことにした。

いつものロビーを自習室がわりに、テキストを広げる。
身体がだるい。
頭もぼーっとして、なんだか時差ぼけになったようだ。
昼間どんなに眠り込んでいても、前日の夜がどんなに眠れなかったとしても、こんな症状は今まで感じたことはない。いつもとは違うちょっとした身体の変化。
治ってきているのか、それとも新しいステージの扉を開こうとしているのか。


勉強しているうちに、意識はなんとか冴えてきた。
結局、今日は3時間勉強して終了。
今日までのノルマも8割がた達成。

明日はできれば午前中から学校に行きたいが、今の時刻はもう2:00AMを過ぎている。
こうしている今もやはり身体が重く、だるい。
久しぶりに外で長い時間過ごしたせいだろうか。
疲れやすい症状は変わっていないようだ。

今夜はこの身体のだるさを引きずって、うまく睡眠にもっていけそうな予感がする。

明日、目覚めた時間が午前中でありますように。

レキソタンにやられる。

2007-03-10 00:51:07 | 鬱病日記
3月9日



今朝の起床時間は10:00AM。
ここ数日、午前中に起きることが多くなっている。
このまま普通の生活リズムに戻すことができればありがたい。

今日は昨日勉強をした勢いをそのままに、再び学校に行って相当程度の自習をしてくる予定だった。

テキスト、問題集などをカバンに整えていくうちに、なんだか身体がおかしい。
ああ、そうだ。今日はまだ薬を飲んでいない。

少し時間は早いがどうせ昼間は食事をとらないだろうから、朝昼分の薬を一気飲み。

しばらく様子をみたが、やはりおかしい。
胸の奥がソワソワして、不安感が湧き上がってくる。
昨日もこんな感じがあったが、今日は昨日よりも更に強い感じがする。
ここ数ヶ月、心の症状は安定していたのに、昨日から少し変である。

このまま外出するのにも不安があったし、うまく学校までたどりつけても勉強する余裕はないだろう。
仕方なく薬の力を借りることにした。

去年、まだ社会で働いていた頃に主治医に処方してもらった頓服が大量に残っている。
その名は「レキソタン」。My faborite drugである。

心の状態が落ち着いていなかった頃は、頓服だというのに毎日、2,3回は服用していた。レキソタンは精神的な緊張や自律神経失調症などの症状を緩和する薬で、僕の場合は不安で落ち着かない症状の改善を目的に処方された。
この薬は、目的なく漫然と使用し続けると、耐性のようなものが現れるようで、薬を飲んでもあまり効果が感じられなくなる時期がやってくる。
僕は会社員時代、レキソタン5mgを2錠同時に服用していながらも、どうしても不安感と悲しみが消えず、ランチをとっていたホテルのカフェで一人、涙をながして泣きまくった過去がある。それも片手にあまるほど。


それはそうと、薬を探さねば。
一面に薬が散らばった、テーブルの上。
雑多な薬剤が無造作につめられた薬袋を手にとり、お目当ての薬を探す。
最初に手に触れたのは、レキソタン“5mg”。
同じレキソタンでも今回は“2mg”のほうでいいかなと思っていたのだが、小さい薬袋をひっくり返すのも面倒なので“5mg”を服用することにした。

久しぶりのレキソタン。6ヶ月ぶりだろうか。
飲んでから割りと早く効果が実感されやすいのもこの薬の特徴で、面白いように楽になってくる。(人にもよると思いますが、あくまでも桐原の場合です。)

過去に一度、同僚の女性が失恋のショックから立ち直れずに、飲食もままならず、憔悴し、常に泣いているような状態で“すがられた”ので、最初は話を丁寧に聞いていたのだが、話の内容が稚拙で「大人なんだからそのれくらい、早く立ち直れよ。」と思い、話を聞くのもだんだん面倒くさくなってきたのでレキソタン2mgを飲ませたことがある。(本当はこんなことしてはいけないのですけれど。)彼女は見るまに元気になってしまい、薬って怖いなぁと逆に恐怖感を感じた。

そんなレキソタンの効果を期待して、とりあえずベットで横になり不安感が消えるよう、穏やかに呼吸を整える。

ゆっくり、ゆっくり。
もう大丈夫、時期によくなる・・。
心の中の自分にメッセージを届けていく。

数分たって、「なんだか、効いてきたかも・・。」と薬の効果を実感しながらそのまま横たわっていると身体全体の力が抜けてきた。

「あ、ちょっとやばいかな・・。」

と思ったのが最後、次に気づいた時は15:00PMを過ぎていた。
レキソタンの副作用である鎮静効果や眠気が現れたらしい。

時間も中途半端だし、もう学校に行くのもどうでもよくなってしまった。

やはり、久しぶりに飲んだレキソタンの効果はすごい。僕と相性が合う薬なのだろう。5mgではなく2mgのほうにしておくべきだったと後悔したがもう遅い。

レキソタンを大量に使い続けると、依存性がでてきてレキソタンなしには不安で生活ができなかったり、眠りにつけないといったこともあるらしい。
何十錠と残っている、まさに“売るほどある”量のレキソタンは、僕の最終兵器としてとっておこう。

今回は用量と服用のタイミングを少し誤ったようだ。
レキソタンをあなどってはいけない。


なかなかやるな。レキソタン。
これからも万が一の時はよろしく。


診察日:30歳の小池徹平

2007-03-09 01:29:27 | 鬱病日記
3月8日




今日は二週間に一度の通院日だった。
診察の予約は16:30。
それなのに今日はいつにもなく早起きで、9:00AMに眼が覚めてしまった。
そのままベットから起き上がろうかとも思ったが、起きても特にやることがないことに気づき、結局、また眠りについてしまった。

次に起きたのが15:00PM。
ちょっと気分が悪かったのだが、病院に行かなければならないので仕方なく起き上がってシャワーを浴びた。
最近、髪が伸びたせいか髪を乾かすのに時間がかかって仕方がない。

前回美容室に行ったのは数ヶ月前だ。
いつも担当してくれる美容師さん(明らかに僕より年下の女性)に、今日はどうしましょう?と聞かれ、

「小池徹平にしてください。」

と真顔で言ったら、その美容師さんはしばらく沈黙したあと、

「・・・全力をつくします。」

と言ってくれた。
29歳(当時)にもなって“小池徹平みたいにしてくれ”という僕もどうかと思うが、“全力を尽くす”と言ってくれた美容師さんにプロの根性を垣間見た。
その結果、小池徹平になれたかどうかは別として、僕のストレートの髪にはカラーとパーマ(小池徹平なのになぜ?)が施され、街中を闊歩する今風の若者のそれになっていた。
美容師さんのプロ根性に感服である。

こんなに精一杯、頑張ってくれた美容師さんには申し訳ないのだが、僕は普段の生活の中でワックスなどの整髪料などは一切使わない。パーマも滅多にしないので、洗髪後そのままブローして終わりである。セットしにくい髪質であることもあるが、基本的に髪の毛に何かをつけるのが嫌いなのである。

そんなわけで、美容師さんのプロ根性の証である僕の“小池徹平ヘア”(あきらかにそれは小池徹平ではなかったが。)は、二度と自分の手で再現されることはなかった。

その後、洗いざらしでも特に問題はない(というか気にならない)のでそのまま伸ばし続けていたのだが、「今っぽくアシンメトリーにしあげておきました。」という長めの前髪はどこかのホストさん達のようにフェイスラインをなぞっている。前回、全体的に明るめの茶に染められた髪は、伸びた分だけ根元が黒く目立ってきた。えりあしも“今風”に長く肩にかかっている
サイドやバックがやや重めだが、基本的に不潔な感じはしないので(むしろさわやか!=嘘。)なんとなく伸ばしていたのだ。なにより、今の髪型は僕のコンプレックスの1つである右眼をうまく隠してくれる。

しかし、シャンプーにもトリートメントにも、ブローにも何をするにしても時間がかかるのでいい加減くたびれてきたのも事実である。

そしてなにより、30歳で茶髪・ロン毛(死語ですか?)はどうだろう。キムタクじゃないんだから・・と自分で突っ込みをいれてみたりする。
でもまだ自分の気持ちは20代のままなので、しばらくこのままでいこうかな・・。
服装も髪型も清潔感があるのが一番だ。
その自己基準に照らせばまだ大丈夫。
次回は小池徹平ではなく、藤原竜也(最近見かけないけど。このあいだ写真集を買ってしまった。彼の独特の存在感はすばらしい。この話はまた別の機会に。)で言ってみようかな。


そうそう何の話だっけ・・・。
ああ、病院に行くところだったんだっけ。

帰りに学校による予定だったので、テキストと問題集などをカバンに詰め込み電車に乗って病院へ。

小部屋になっている診察室に通されること10分。
今日は診察がおしているようだ。
更に5分待って、主治医が現れた。

「お待たせしました~。どうですか(その後は)?」

僕は、前回受診したときとあまり変化がないことを告げ、
毎日の就寝時間と起床時間、ベットから起き上がってから何をしているか、たまに気持ちが不穏になるときがある、というようなことを一通り話した。
膝に乗せたノートパソコンのキーボードをカタカタ鳴らしながら、画面を凝視して、僕の話を聞いていた医師は、入力作業が終わった様子で、パソコンを座っているソファーの右に置いてこう言った。


「順調ですね。」


は?


順調?僕的には前回の2週間同様の生活で、良くも悪くも変化のない2週間だったと感じていたのだが、主治医が言うにはその生活でいいのだという。
前回の診察の際に、僕が話した内容をノートパソコンを使って確認しながら、微妙ではあるが確実に、前向きに回復へのコースを辿っているという。

そのあと主治医は、療養生活をフルマラソンに例えて話してくれたが、残念ながらその例えは正直言ってワケがわからなかった。
たぶん察するに、回復の段階には個人差があって、就職とか家族の反応とか世間体とか色々と回復を妨げる“誘惑”があるとおもうが、それらに惑わされることなく、自分のペースをしっかり守って療養を続けていけば必ずよくなる、ということを言いたかったのだと思う。

処方されている薬の変更もなく、15分ほどで診察は終了した。
次回の診察は2週間後。
少しは良くなっているといいなと思う。

その後、なんとなく心もソワソワして不安感があったので、そのまま帰ろうかとも思ったのだが、前回の試験も失敗しているので、さすがにもう勉強を再開しなければと思いなおし、学校のロビーを自習室代わりに3時間勉強して帰ってきた。
なんとなく前回の勘を取り戻してきた感じがする。

明日からは、少し早起きの練習をしてみよう。
ムリのない範囲で。


ごめんなさい、今日は休みます。

2007-03-08 00:44:32 | 鬱病日記
3月7日



夜になって何気なくテレビを見ていたら、いわゆる「ひきこもり」状態にある人の平均年齢が29.6才であると報じられていた。
その番組は報道番組でもないし、調査の手法や調査対象(あるいは母集団)、調査地域、いわゆる何を持って「ひきこもり」とするかの定義などについては触れられていなかった(若しくは僕が見落としていた)ので、どこまで信憑性のあるデータであるのかわからない。

「ひきこもり」とは、厚生労働省の文書によると、

“さまざまな要因によって社会的な参加の場面がせばまり、就労や就学などの自宅以外での生活の場が長期にわたって失われている状態のこと”

(引用)
http://kensaku.mhlw.go.jp/app/highlight?title=%81%75%82%D0%82%AB%82%B1%82%E0%82%E8%81%76%91%CE%89%9E%83%4B%83%43%83%68%83%89%83%43%83%93%81%69%8D%C5%8F%49%94%C5%81%6A%82%CC%8D%EC%90%AC%81%45%92%CA%92%6D%82%C9%82%C2%82%A2%82%C4&url=http%3A%2F%2Fwww.mhlw.go.jp%2Ftopics%2F2003%2F07%2Ftp0728-1b.html&keylist=%27%82%D0%82%AB%82%B1%82%E0%82%E8%27&extension=html&search_lang=japanese

を言うらしい。


仮に、29.6才が「ひきこもり」をしている人たちの平均年齢で、サンプルは正規分布に近く、“はずれ値”を除外しているとすると、まさに「ロストジェネレーション」の世代の“幅”とほぼ重なるのではないだろうか。

先月、30歳になった僕はまさにそのど真ん中である。


________________

<<せっかくこのブログに来てくださった方へ>>

今日は、いわゆる「ひきこもり」と「ロストジェネレーション」との関連について書こうと思い、上記まで筆を進めたのだけれど、どうも調子が悪くて頭の中で文章が作成できません。

裏づけや根拠の薄い論拠を持ち出して、いい加減に評論するのもよろしくないと思いますので、残念ながら、今日はここまでで終わりです。
なんだか消化不良で気持ち悪いですが、明日にでもまた何か書きますので、できたらまた明日、お越しください。

ごめんなさい。

社会という現実

2007-03-07 00:35:52 | 鬱病日記
3月6日


昨夜遅く、以前勤めていた会社の同僚、Mさんから携帯にメールが届いた。
同僚と言っても僕よりもずっと年上で、奥さんと小学生のお嬢さんがいらっしゃっる。外見は少し身体が大きな優しいお父さんといった感じである

同じ部署に勤めていたといいながら、僕はその会社ではほとんどを休職していたので、実はあまり接点はない。
ただ、僕が鬱病を理由に最初の休職に入ることが決まったとき、オフイスの向こうの出口からこのMさんが小走りにやってきて、人目につかないところで僕に一枚のメモを渡した。

「なんでもいいから、辛いことがあったら連絡して。俺も一緒だから。」

渡されたメモにはMさんの携帯番号とメールアドレスが殴り書きされていた。
あとで知ることになるのだが、実はMさんは、双極性障害(躁うつ病)だったのだ。
病歴も長く、多くの病院を転々として、現在飲んでいる薬の量も僕の薬の量の1.5倍はあるのではないかというくらい大量だ。
もともと教師をしていたようだが、発病後、学校に行くことができなくなり、ついに退職。その後、いくつかの職についたのち、今の会社に入社して来たのだった。

普段のMさんは、少々汗かきではあるが、とてもいい人で、仕事の話をしているときも一生懸命聞いてくれたし、仕事の手順も丁寧に教えてくれた。

でも鬱のときのMさんは、オフィスのデスクに座りパソコンのキーボードに手を置いたまま、滝のような汗をかき、一点を見つめたまま、両手の指を小刻みに震わせている。

また、躁のときは、午前3時くらいから眼を覚ましてしまうらしく、深夜の2時や3時にテンションの高いメールが届いたり、とんでもなく早い時間(午前5時とか6時とか)に、会社に出勤していることもあったようだ。

そんなMさんであったが、僕が休職中のときは鬱病の状態を良く知っている先輩として、自分の愚痴とも僕への励ましともとれるようなメールをこまめに送ってくれていた。僕が一度目の休職から復職したものの、鬱による体調不良で会社を休みがちだった時も、「つらいかい?ムリせずゆっくり休むといいよ。あわてないでさ。オレも今日はつらいわ~早退しようかな。」なんていうメールをくれたりしていた。

Mさんのお父さんは、Mさんが今の病気を発病したあと、鬱病を発症し、何年かにわたる闘病生活を経た後、自ら命を断ってしまった。
Mさんは、その原因の大半は自分にあると思っている。

よくMさんは、メールでお嬢さんのことを報告してくれた。あふれんばかりの優しさをもってお嬢さんを育てているのがよく伝わってくるメールだった。
オフィスのMさんのデスクの上にはお嬢さんの写真が一番目の届くところに立てかけられていた。いつもMさんは、「オレはこんなだけど、A子(お嬢さんの名前)にだけは将来幸せになって欲しい。」と言うようなことを言っていた。

そんなMさんから久しぶりに届いた深夜のメール。

「久しぶり。調子はどうだい?俺は金曜日からダメだぁ。上がりつつあるみたい。」

「そういえば言ったっけ?俺、とうとうあのバカ上司に「資格手当」剥奪されたよ。年収20万円のダウン。この上、時給まで下げられそう。」

そう、Mさんは、時給で働く非正規社員なのだ。
仕事は正社員と変わりなくノルマを課せられるのに、給与は正社員より安く使われる。
Mさんが言う「資格手当」とは、その会社内部で作られている社内資格というか役職手当みたいなものである。Mさんはその資格に基づく役職の任命をはずされたということだ。

Mさんの上司とは、僕が会社を辞めるきっかけになった上司で、いわゆる「ココロの病」に対して、全く理解がない。

・みんな会社にくるのは嫌なものだ。
・人生、逃げてばかりはいられないぞ。
・朝つらいのはみんな一緒だ。
・会社に通えないのは心構えが悪いからだ。
・(休職による休養が必要だと判断した僕の主治医に対して)その医者は本当に大丈夫なのか?病院を変えたらどうか?
・今ここで退職をすれば、また何度も同じ事を繰り返すことになるぞ。

つまりその上司は、鬱病や躁うつ病は、病気などではなく、個人の“心の持ちよう”の問題、つまりただ単に甘えているだけに過ぎないと信じて疑わない種類の人間である。

確かに病気を抱えながら働いているMさんの仕事ぶりは、他の社員と比べてやや劣っていたのかもしれない。
調子の悪い日には欠勤や早退することも度々あったようだ。

でも、その上司の僕に対する一連の態度や普段の発言から、今回のMさんの給与の問題の根底には、鬱病や躁うつ病と言った心の病に対する無理解があると思わざるを得ない。

もし時給を下げられることになれば、Mさんはおそらく1000円前後からそれ以下の水準の時給で奥さんとお嬢さんを養っていかなくてはならない。

その上司は、おそらく、Mさんを自分から退職する方向に持っていきたいのだと思う。なぜなら、なんだかんだと理由をつけて時給をジリジリ下げていき、仕事も取り上げていくのが、この会社が非正規社員を(時には正規社員をも)辞めさせるときに使う常套手段だからだ。Mさんもそれは感じていたようだ。

やや躁状態にあるMさんからのメールは、延々と続き、僕がついに睡魔に負けてメールのやりとりがとまったのは、3:30を過ぎていたと思う。

僕はMさんのメールの後ろに、あのデスクの上の写真に写るお嬢さんの存在を感じざるにはいられなかった。

Mさんは今後どうするのだろう。
年齢的にも経歴的にも、この都市の景気を考えても、地元での再就職は期待できないのではないだろうか。

ここにも一人、社会的な弱者がいる。
これがこの国の社会の現実である。
働きたくても働けない。
働けば働くほど生活がつらくなる。
Mさん一家は今後どのような生活を強いられるのだろうか。

僕には「再チャレンジ」という機会も、「美しい国」というフレームも、Mさんの生活の中には見出すことはできない。

この現実に、この国が抱える社会的格差の一端を垣間見たきが気がする。


僕を先導する左眼、僕の十字架となった右眼。

2007-03-06 02:23:32 | 鬱病日記
3月5日



10:00AMと12:00PMに一度ずつ目が覚めた。
眠気が抜けなかったので、そのまま目をつぶり、次に気づいたのが14:00PM。
いつもの“起床時間”より、少しだけ早い。
もう少し眠ろうかと思ったが、不思議と今日は眼が冴えて(というか、14時の時点で異常だけど)、眠れる気配がしなかったので仕方なく起き上がることにした。

昼は過ぎているが、まだ夕方と言うにも早い中途半端な時間帯。
どうしようか悩んだが、2,3日前から放置している眼科の定期検査とコンタクトレンズを買いに行くことに決めた。

まずはシャワーを浴びる。
体力があったら帰りに学校によって勉強をしてこようと思ったので、テキストや問題集など一式を整える。


久しぶりに外にでた。
やはり外の空気は新鮮だ。


季節はずれの雨で、路上に積もった雪は表面が溶かされて凍り、ツルツルのスケートリンクのようになっている。

足元に気をつけながら途中でコンビニにより、新聞と“スニッカーズ”を購入。
スニッカーズは「お腹が空いたらスニッカーズ」(若い方はご存知ないかも・・。)というくらいあって、あのカロリーの塊のようなチョコバーはよく僕の昼食代わりになっている。今日も電車がくるのを待つ間、駅の待合室でスニッカーズとホットの缶コーヒーでその日初めての食事。


まずは三ヶ月に一度のペースで通っている眼科の定期検査だ。
僕は両眼ともコンタクトレンズを使用している。
そのうち左眼の視力は矯正して1.0。

右眼は矯正しても0.1しかでない弱視である。
いわゆる斜視(簡単に言うと、本人の意思とは無関係に視線=“黒目の向く方向”がずれてしまう症状)というやつで、過去に手術も3回したが成果は出なかった。
問題の右眼は若干乱視も入っているので、光や色、物の区別はかろうじて識別できるものの、眼に映るすべてのモノの輪郭がぼやけてはっきりとしない。


僕の右目は生まれつきの斜視で弱視だったので、小さい頃のある時期まで、「人間は片方の視力だけを頼りに生きている」と本気で思っていた。
斜視で“両眼視”(大雑把に言うと右眼と左眼の両眼を使って目の前の物体を認識する機能)ができないため、目の前の物体や人との距離をうまくとりにくい。
歩いていて“そこに看板がある”、“そこに柱がある”と確認して歩いていても、思い切りそれらの看板や柱に右肩をぶつけてしまう。

また、中学生のときに行った理科の実験では、実験が終わりアルコールランプの炎を消そうと、“ランプのふた”を、その炎の上にかぶせようとした。
その時、自分は炎の上に“ふた”をかぶせているつもりだったのだが、実際は炎の真上に“ふた”を持った手をかぶせてしまい、軽く焼けどをしてしまった。周りのクラスメイトは、僕が何をしようとしていたのか、わからない様子で“きょとん”としていた。


また、斜視ゆえに右眼の視線だけが変な方向をむいてしまうので、良くクラスメイトや近くの知人達から、
「どこを見ているのかわからない。」

と言われたり、履歴書用の照明写真を撮るときに何度も
「まっすぐ前をむいてください。」

と言われたりした。

本人はまっすぐ前を向いているつもりなのだから、そういわれてもとても戸惑ってしまう。しかし、そのとき、僕の右眼はおそらく右斜め上、顔の中心から見て外側に飛んでいるのだろう。そして、左眼だけが正面を見据えている。たぶん周りから見ていて気持ちのいいものじゃないのだろうな、と思う。

小学校の学年があがるにつれて、「僕の眼はみんなと違う」ということを理解し始めるのだが、学校行事の中で一番嫌だったのが、各行事ごとにクラス単位で行われる「記念撮影」や、修学旅行中に同行する写真館の人によって撮影されるスナップ写真の数々である。

なぜなら、どの写真も皆が真正面をむいていたり、その場面を満面の笑みで楽しんでいるのだが、僕の顔は笑っていても、右眼だけは“そっぽ”を向いているのである。自分で見てもとても気持ちいものではない、
小さい頃の写真はどれも右眼がずれていて、僕はそれらの写真を見るのが本当に嫌だった。だから小学校時代を含めて、学生時代は、いや、大人になってからも写真に写るのは極力避けている。
プリクラなんてもってのほか。
自分の奇妙な姿を見るのが嫌なのである。

そんな僕でも、その右眼のズレに対して“同級生から”いじめられたりからかわれたりしたことはなかった。

小学高学年のことである。
イヤイヤ通っていた剣道の道場で、稽古の終了直前、面や胴、小手といった防具をとって最後の挨拶をするために皆が正座している中で、年をとった師範の一人がこんなことを言った。

「桐原、お前の目は“がちゃ眼”か?お前を見ているとこっちまでおかしくなってくる。」※がちゃ眼=僕も良く意味がわからないが、多分、差別用語だと思われる。

その師範の発言に、同じく正座をして座っていた30人程度(?だったと思う)の小学生がみないっせいに笑った。

その発言をどうしてその場でしなければならなかったのか、今になっても不思議に思うが、稽古終了の挨拶をしたあと、僕が泣いているように見えたらしく、稽古を見学していた複数の名も知らない保護者達から、必至に励まされたことを思い出す。
その時の師範の発言は、正直に言って自分自身あまりピンと来ていなかったのだが、他の保護者達に励まされたときに、あぁ、僕は大人=師範にからかわれ、皆の笑いものになったんだ、と認識した。
特に怒りも悲しみも感じなかったが、自分の意思ではうまくコントロールできない自分にあらためてため息をついた。


そんなこんなで僕はこの年になるまで、左眼に頼って日常生活を営んでいたわけであるが、片眼視だけを続けると、視力が良いほうの眼(僕の場合は左眼)も、悪いほうの眼(上右)にひきずられて、徐々に視力が悪くなってくるらしい。

僕の左眼も、昔は裸眼で1.0~1.2くらいでていたのだが、今では矯正してやっとその水準というところである。だいぶ視力は落ちた。
右眼の裸眼での視力はその比ではない。


そんな僕がなぜ今になって眼科に通っているのかというと、半年前にコンタクトレンズをつくりに行ったクリニックで、緑内障の疑いを指摘されたからである。
それも左右両眼に。

緑内障とはご存知のとおり、ほうっておくと失明につながる大変恐ろしい眼の病である。

僕は左眼の視力を奪われると、健常な人と同じ生活は望めなくなってしまう。

そのクリニックは、コンタクトレンズ店に付随しているクリニックであるため、難しい検査ができないため、どこか他の病院で検査を受けてきて欲しいと言う事だった。


そこで駅側ののクリニックに行き、眼圧測定、眼底写真、視野の検査、あとは名前のわからない検査の数々を受けてでた医師の診断は、

「現時点で緑内障と診断を下すほどひどい状態ではないが、緑内障でない、と言い切るにも少々問題のある眼である。また、角膜(?)の一部が破れかかっていたり、その他諸々の問題を抱える眼であり、緑内障や網膜はく離と言った病気になりやすい眼であることは確かである。よって、3ヶ月に1度のペースで定期的に検査にきなさい。」

というものであった。
緑内障でなくてひとまず安心したが、視野の検査の結果、僕の右眼は視力の低下だけではなく、視野の半分が欠けていることが判明した。
僕の右眼は皆と同じ視力を得られないばかりか、視野自体が半分も欠落していたのである。これは結構ショックだった。

これまで左眼だけを酷使してきたツケが回ってきたのか。

今日の検査では、前回のときと症状に大きな変化はなく、診察と検査だけで終了した。
次回の受診は6月である。


今は、死んでしまうことよりも、視力を失うことのほうが怖いかもしれない。




追記~全く関係ないけど。
薬局でカロリーメイトが一箱128円で売っていた。通常価格は210円。
たびたび昼食をカロリーメイトに頼る僕になんてお得なセール!
3種類2箱ずつ買い求めた。
これでしばらくは日中の食事の心配は要らない。

血が足りない。

2007-03-05 00:01:23 | 鬱病日記
3月4日



昨日は昼間に寝すぎたせいか、眼が冴えてしまい、深夜遅くまで眠れなかった。
おまけに途中から持病の頭痛が・・。
最初は我慢していたのだけれど、いつまでたっても痛みが去る気配がないので、常備備えて愛用している市販の頭痛薬を服用した。それが、4:00AM。


もう、朝じゃん・・・勘弁してくれよ・・。


頭痛が治まるのと同時に意識も遠くなってきて、いつの間にか眠ってしまったのだが、次に目が覚めたのが8:00AM、もう少し眠りたくてベットに潜り込んだのだけれど、その1時間後、携帯のアラームで再び起こされた。


結局その日も最終的にベットから起き上がったのは15:00PMだった。
最近、深夜に就寝、14~15時起床というパターンが定番になってきてしまった。
生活のリズムが崩れると、心も不穏になってくる。

こうしている今も、心がソワソワして、漠然とした不安が渦巻いていて、たまに意識が飛びそうになる。

この「意識が飛ぶ」感覚は、鬱病に関する解説書や専門書にも書かれていないのでもしかしたら僕だけが感じる感覚なのかもしれないが、例えていうなら、貧血で倒れる瞬間のような感じである。その前後に必ず耳鳴りめいたもの(自分の鼓動が耳いっぱいに響いて他の音が遠く、聞こえなくなる感じ)がやってくる

東京のクリニックに通っていた頃、医師に相談したところ、おそらく薬の副作用だろう、ということで薬を変えられた経験がある。

こうしている今も、数分に一度の感覚で、頭から一気に血がひいてフラっとくる。
そういえば、最近立ちくらみも多くなった。血の気が足りないのかも。

今日は15時に起きてから“お昼寝”はしなかったので、割と楽に寝付けるだろう(と期待している)。


明日は色々とやらなきゃならないことがたくさん。

起きられるかな。



誰か血をわけてください。

桐原失踪説

2007-03-04 01:30:07 | 鬱病日記
3月3日



昨夜はいつもより早くベットに入ったせいか、いつにもまして寝付けず、何度も寝返りをうったり、枕を抱えてみたり、布団にくるまってみたりしながら、眠りにに落ちるまで随分と苦労した。


やっと眠れて、ふと目を覚ますとまだ部屋が暗い。
僕が居候中の母の家で占拠している物置代わりの部屋は、いつも遮光カーテンが引かれていて薄暗い。

ベットカバーもブルー、カーテンもブルー。

朝なのか夜なのかわからなくて、枕もとの携帯を確認すると、まだ1:30AMだった。
いつもならまだ起きている時間。

なんだか時間の感覚がおかしくなってきた。

それからまた眠りについて、次に目をさましたのが15:00PMで、朝昼の薬を飲んで再び起きたのが18:00PM。

いくらんなでも寝すぎだろう、と自分でも呆れる。

僕の眠りは浅い眠りで、眠っているほとんどのあいだ夢を見ている。

内容は起きてから数分もしないうちに忘れてしまうのだが、いつも、過去の嫌な思い出ばかりがシーンを変えて現れる。

あまりにも昔のことばかり夢にでてくるので、近い将来自分が死んでしまうのではないかと考えてみたりする。




当たり前の話だが、今、僕が死んでも、社会は何も変わらない。



昨日の暮らしは今日の生活に結びつき、明日の朝を迎える。
いつもと同じ繰り返される光景。
社会と言うのはそういうものだ。



困るのは支払いが終わっていないローンの返済くらい。
これは残った母親に迷惑がかかるから、死ぬまでに早めに返済しておこう。


葬式はいらない。
墓石もいらない。
もちろん仏壇も。


第一、僕が死んだところで葬式にきてくれる人は、ほとんどいないだろう。
友達はもともといない上に、この病気になってから周りからどんどん人が去っていってしまった。みんな口々に「気の毒だけど、頑張ってね!」と言っていたっけ。
鬱病患者に「頑張って!」は禁句なんだよ、って教えてあげればよかったかな。

身内と呼べる人は、今、居候させてもらっている母と、離れて暮らす妹と弟の二人の「きょうだい」。

妹や弟にさえ、僕が死んだことが伝わるかどうか怪しいものである。
僕らの家族の距離は、少し遠い。

親戚は来ないだろう。というか、呼べる人がいない。
桐原の血筋のものとは一切縁を断っているし、母方の親戚とも僕は交流がない。
親戚中探し回って「桐原亮司」という名前を覚えている人が何人いるだろう。

僕の生まれた家、つまり桐原の本家がある小さな地方都市の集落では、「桐原のところの上の兄貴は消息不明」なことになっている。

中学や高校の同級生たちとも連絡はとっていないし、というよりもむしろ、その頃から友達はいなかったわけで、同窓会に行っても多分、大半の人が知らない人だろうと思われる。僕も、中学はおろか高校を卒業するまで、クラス全員の名前を覚えることができなかった。

一番笑えたのは、高校卒業を機に生まれ育った町を離れ、進学した地方の私立大学を中退して、今の街で初めて一人暮らしをはじめたときに、生活費を稼ぐためにバイトをしていた深夜のローソンで、まったく偶然に中学校の同級生(と彼は言っていた)と再会したときの話である。

「あ・・?!・・っていうか、桐原じゃね?」

「・・はい。・・そうですけど・・?」

「マジで?!何してんのこんなところで??覚えてる?オレ、山田(仮)だよ!すげぇ久しぶり!」

「あぁ・・。・・そうだね。」

「超、ウケる!(笑)お前さ、確か××(※日本の地名)の大学に推薦で入ったんだよな?なんでこんなとこにいるワケ?」

「・・色々あって。っていうか、あっちは暑くて。耐えられなかったから。」

「はぁ?(笑)相変わらず独特な感性っていうか、変なやつだな。(笑)そうそう、お前さ、知らないかもしれないけど、地元じゃ失踪したことになってるぜ!」

「・・そうなんだ。」

「うん、失踪して大病に罹って入院してるとか、海外に絵の勉強しに行ったとか、大阪でホストクラブ経営してるとか、色々話でてるけどね。そういえば、このあいだ自動車学校で一緒になったA子がさ、“桐原はアジアで死んだらしい”って言い出して、結構みんな信じてたぞ。(笑)」



そう。僕は大病を煩って海外に絵の勉強しにいったあと、大阪でホストクラブを経営した結果、アジアのどこかで行き倒れたのだ。

みんなが言うなら、それでいいかな。


その“山田”君は、深夜の人気のないコンビニの中でひとしきりしゃべったあとで、「同窓会あったら連絡するな!じゃ!」と言って帰って行った。


ちなみに彼は僕の当時の住所も携帯番号もメルアドすら知らない。


その後、住所をあちこちと転々とした僕のところに、「同窓会」の案内がくることもなく、10年余りが経過して今日に至る。

もし地元の小さな町で、“山田”君が僕の噂を口にしてくれていたら、僕は「アジアでの不審死」から、「○○市××区のS駅前のローソンで深夜に働いている」奴に情報がアップデートされていることだろう。


アジアのどこかの国で行き倒れて死ぬのも悪くはないが、できれば、誰もいない静かなところで、寒い思いも熱い思いもすることもなく、眠りにつくように静かに息を引き取りたい。




今夜眠りについたとき、また、明日を迎えることができるだろうか。




この世に未練はないけれど、周りに迷惑をかけるのでローンを払い終えるまでまってくれるとありがたい。

ぐったり。

2007-03-03 00:23:26 | 鬱病日記
2月2日



一日中ベットの中にいた。



眠ったり、目覚めたり、また眠って、また起きて。



なんだか、ここ数日でものすごく疲れてしまった。


頭の中で、これから先のことを考えてみても、やはり先は見えず、病状を見ても、医師の期待通りに回復しているとは言い切れず、仮に来月、病気が治ったとして仕事はどうしようとか、家はどうしようかとか、新しい社会に適応していけるかなんて余計なことを考えて、不安の中で立ち往生。


はぁ・・。


テンションさがりまくり。