11月15日(本日は二段編成です。)
僕の住んでいるこの街に、今日、初雪がふりました。
(以下、BGMはこの曲を聴いているつもりでお願いします。→http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=37158)
夕方から降り始めた雪は、少しずつアスファルトの表面を白く染めていきます。
あたりはあっというまに白い絨毯を敷き詰めたように、白く、白くなりました。
雪国育ちの方は実感していただけると思いますが、新雪がうっすらと降り積った上に、自分の足跡をつけていくのは、真っ白なキャンバスに自由に絵の具を塗りたくっていくのに似た快感に繋がります。
数分であたりは足跡だらけ。
地面やアスファルトが足跡から顔を出し、足跡まみれになった辺りはとてもきれいとは言いがたい。そこには価値は見出せないのです。もう汚れているので興味がない。それ以上、汚しようがないのです。
足を踏み入れないで、だまってみているほうが断然キレイなのに、あえて人が足を踏み入れていない場所をみつけて、わざと足跡を付けていく。
清純なものを汚していく、支配的な快感。
こう書くと少しアブノーマルですが(笑)、人間の欲求の中にはそういう部分も、つまり、汚れや破壊を「快」と感じるような感覚ももともと含まれているのではないかと思うのです。
例えば保育園の園児達に、真っ白な模造紙とクレパスを与えたらどうなるか、想像に難くないことですよね?
少しやんちゃな男の子が、積み木で作った「お城」を壊して歩く。
そういうことは、つまり「汚し」や「破壊」は大人の尺度では受け入れることのできない行為なのであり、人はその成長の過程の中で、「汚し」や「破壊」に向かう欲求を周囲の大人たちによって抑圧されていく、なんていう仮説を立ててみたりするわけです。
だから大人になって、初雪で覆われたアスファルトを自分の足跡で汚していくのが妙に楽しいのも、その抑圧された欲求の名残かと思うわけです。
だって、楽しいんだもん。白い海原が自分の足跡によって点々と汚れていく過程が。
ハードロックのギタリストがステージ上でのボルテージが最高になると、意味もなく突然自分のギターや機材を壊し始めるのも同じ理屈ではないかと思います。
ロックという「悪魔の歌」にそそのかされた現代のアダムというわけです。
抑圧されていた「破壊」の欲求が大人になってから発露する場面は、そう、例えばテレビなどで高層ビルの爆破・解体シーンを見ると胸がすぅっとしませんか?近所で見慣れた古い家屋が撤去され、更地になった土地を見て、何か心がすぅっとする。
「破壊」から連想されるものに“廃墟”があるかと思うのですが、一時期ブームになりましたよね。“廃墟”ばかりを集めた写真集が結構売れたようです。この“廃墟”に惹かれる心理というのも、これまたなかなか面白いものだと思うのですが、単純に抑圧された破壊欲求の発露、とは言えない気がするんですね。われわれが廃墟に惹かれるとき、心の中では幾層かの心理的段階が作用しあって、結構複雑な動きをしているのではないかと。なんだか“廃墟”というテーマだけで1冊本がかけそうな気がします。
まぁね、時期も時期だし、初雪というイベントもあったので、そろそろブログを更新しようと思い、無理やり、「初雪」から「汚れ、破壊の欲求抑圧説」を組み立ててみました。
こういうのって、乳幼児心理学とか、発達心理学のどこかの段階でやるんですかね?最近は臨床心理ばかり目立ってますけど、発達心理学とかね、僕は今の時代にかなり重要な学問だと思いますけどね。
前回の記事が“アンチ心理士(特に医療現場の)”的な内容だったので誤解されたかもしれませんが、僕は自称、心理学と精神医学、そして宗教のマニアです。笑
____(ここからは全く別の話です。)____
そのつながりで、今は通信教育で宗教を学んでいます。仏教です。
最近は便利なもので、通信教育だけで僧侶になれるんですね(笑)
それもその辺のいんちき宗教団体などではなく、京都の西本願寺が主催しているのだから面白い。
もっとも、僧侶になるためのコースは3年制で、入学にあたって本願寺派の住職の認証が必要だそうです。
僕は知り合いに住職などおらず、どこかの檀家でもない(というか、今の母の家には宗教の匂いがしない。仏壇も神棚もない。生まれ育った桐原の家は宗教的にかなり複雑でしたけど・・)ので、普通に仏教と浄土教学を中心に系統だてて考えていこうというコースです。
浄土教は面白いですね、親鸞とか法然とかのそれです。
浄土教というか、仏教は面白い。
特に信仰の対象として仏があって、その宗教体験がいいとかそういうことではなくて、哲学的体系として非常に面白いものがある。
例えばですね、
これは中央仏教学院というところで講師をされている寺川氏(龍谷大学名誉教授)の論なのですが、
あの「千の風になって」という歌がクラシック界では異例のヒットとなりましたね。あの歌にはもともと曲(メロディ)がないのはご承知のとおりで、最初は歌詞という「詩」だけが、米国を始めとするキリスト教国で瞬く間に広まって、多くのひとが感動し、涙したわけです。
ここで、この詩が米国でブレイクしたところに着眼すると、とても面白い論が語れる。
米国は自由の象徴のように言われますが、明らかにキリスト教国です。
しかしあのうたはアニミズム(自然崇拝)的な自然観や東洋的思想が色濃くでている。それがキリスト教国でブレイクするわけです。
僕はキリスト教は専門ではありませんが、キリスト教の立場で言うと死んだ善人は天国に召されなければならない、“風になって”いつまでのそのあたりをうろついていてもらっては困るわけですね(笑)。でも、その世界観、つまり原始宗教や東洋思想が色濃い詩がキリスト教国で受け入れられる。これはとても興味深い事実です。
宗教を学ぶとこういうことも考えることができて、なかなか面白いものです。
日本では憲法で、「国による宗教教育」は禁止されています。
先の大戦の影響です。
しかし、純粋な宗教教育は、僕は義務教育の段階でしっかり学んでおくべきだと考えます。
昔は高校なんかで「倫理」というまれな科目を選択すると、世界宗教のいくつかと、宗教までいかない、思想・哲学とかが学べたのですが、今はどうなんでしょう?
宗教とはどういうものか、宗教がなぜ生まれ、今尚なぜ人々は信仰に頼るのか。
宗教が人間や社会にもたらす影響にはどのようなモノがあり、それにはどのような意味があるのか。
まがい物の宗教と、本物の宗教との見極め方は?
特定の宗教宗派に囚われない、学問としての「宗教学」は今の時代に生きる日本人に一番欠けているものなのかもしれません。
言ってみれば「宗教リテラシー」ですね。
これは「新聞リテラシー」と同じくらい重要だと思います。
まぁ、余談ですけどね。
そんなこんなで桐原は生きています。
前回書いた医療現場の心理士批判について、我が意を得たりと叫びたくなる本を見つけて購入してしまったのですが、この本については読了してから「書籍」のカテゴリでご報告したいと思います。
それでは今日はこの辺で。
僕の住んでいるこの街に、今日、初雪がふりました。
(以下、BGMはこの曲を聴いているつもりでお願いします。→http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=37158)
夕方から降り始めた雪は、少しずつアスファルトの表面を白く染めていきます。
あたりはあっというまに白い絨毯を敷き詰めたように、白く、白くなりました。
雪国育ちの方は実感していただけると思いますが、新雪がうっすらと降り積った上に、自分の足跡をつけていくのは、真っ白なキャンバスに自由に絵の具を塗りたくっていくのに似た快感に繋がります。
数分であたりは足跡だらけ。
地面やアスファルトが足跡から顔を出し、足跡まみれになった辺りはとてもきれいとは言いがたい。そこには価値は見出せないのです。もう汚れているので興味がない。それ以上、汚しようがないのです。
足を踏み入れないで、だまってみているほうが断然キレイなのに、あえて人が足を踏み入れていない場所をみつけて、わざと足跡を付けていく。
清純なものを汚していく、支配的な快感。
こう書くと少しアブノーマルですが(笑)、人間の欲求の中にはそういう部分も、つまり、汚れや破壊を「快」と感じるような感覚ももともと含まれているのではないかと思うのです。
例えば保育園の園児達に、真っ白な模造紙とクレパスを与えたらどうなるか、想像に難くないことですよね?
少しやんちゃな男の子が、積み木で作った「お城」を壊して歩く。
そういうことは、つまり「汚し」や「破壊」は大人の尺度では受け入れることのできない行為なのであり、人はその成長の過程の中で、「汚し」や「破壊」に向かう欲求を周囲の大人たちによって抑圧されていく、なんていう仮説を立ててみたりするわけです。
だから大人になって、初雪で覆われたアスファルトを自分の足跡で汚していくのが妙に楽しいのも、その抑圧された欲求の名残かと思うわけです。
だって、楽しいんだもん。白い海原が自分の足跡によって点々と汚れていく過程が。
ハードロックのギタリストがステージ上でのボルテージが最高になると、意味もなく突然自分のギターや機材を壊し始めるのも同じ理屈ではないかと思います。
ロックという「悪魔の歌」にそそのかされた現代のアダムというわけです。
抑圧されていた「破壊」の欲求が大人になってから発露する場面は、そう、例えばテレビなどで高層ビルの爆破・解体シーンを見ると胸がすぅっとしませんか?近所で見慣れた古い家屋が撤去され、更地になった土地を見て、何か心がすぅっとする。
「破壊」から連想されるものに“廃墟”があるかと思うのですが、一時期ブームになりましたよね。“廃墟”ばかりを集めた写真集が結構売れたようです。この“廃墟”に惹かれる心理というのも、これまたなかなか面白いものだと思うのですが、単純に抑圧された破壊欲求の発露、とは言えない気がするんですね。われわれが廃墟に惹かれるとき、心の中では幾層かの心理的段階が作用しあって、結構複雑な動きをしているのではないかと。なんだか“廃墟”というテーマだけで1冊本がかけそうな気がします。
まぁね、時期も時期だし、初雪というイベントもあったので、そろそろブログを更新しようと思い、無理やり、「初雪」から「汚れ、破壊の欲求抑圧説」を組み立ててみました。
こういうのって、乳幼児心理学とか、発達心理学のどこかの段階でやるんですかね?最近は臨床心理ばかり目立ってますけど、発達心理学とかね、僕は今の時代にかなり重要な学問だと思いますけどね。
前回の記事が“アンチ心理士(特に医療現場の)”的な内容だったので誤解されたかもしれませんが、僕は自称、心理学と精神医学、そして宗教のマニアです。笑
____(ここからは全く別の話です。)____
そのつながりで、今は通信教育で宗教を学んでいます。仏教です。
最近は便利なもので、通信教育だけで僧侶になれるんですね(笑)
それもその辺のいんちき宗教団体などではなく、京都の西本願寺が主催しているのだから面白い。
もっとも、僧侶になるためのコースは3年制で、入学にあたって本願寺派の住職の認証が必要だそうです。
僕は知り合いに住職などおらず、どこかの檀家でもない(というか、今の母の家には宗教の匂いがしない。仏壇も神棚もない。生まれ育った桐原の家は宗教的にかなり複雑でしたけど・・)ので、普通に仏教と浄土教学を中心に系統だてて考えていこうというコースです。
浄土教は面白いですね、親鸞とか法然とかのそれです。
浄土教というか、仏教は面白い。
特に信仰の対象として仏があって、その宗教体験がいいとかそういうことではなくて、哲学的体系として非常に面白いものがある。
例えばですね、
これは中央仏教学院というところで講師をされている寺川氏(龍谷大学名誉教授)の論なのですが、
あの「千の風になって」という歌がクラシック界では異例のヒットとなりましたね。あの歌にはもともと曲(メロディ)がないのはご承知のとおりで、最初は歌詞という「詩」だけが、米国を始めとするキリスト教国で瞬く間に広まって、多くのひとが感動し、涙したわけです。
ここで、この詩が米国でブレイクしたところに着眼すると、とても面白い論が語れる。
米国は自由の象徴のように言われますが、明らかにキリスト教国です。
しかしあのうたはアニミズム(自然崇拝)的な自然観や東洋的思想が色濃くでている。それがキリスト教国でブレイクするわけです。
僕はキリスト教は専門ではありませんが、キリスト教の立場で言うと死んだ善人は天国に召されなければならない、“風になって”いつまでのそのあたりをうろついていてもらっては困るわけですね(笑)。でも、その世界観、つまり原始宗教や東洋思想が色濃い詩がキリスト教国で受け入れられる。これはとても興味深い事実です。
宗教を学ぶとこういうことも考えることができて、なかなか面白いものです。
日本では憲法で、「国による宗教教育」は禁止されています。
先の大戦の影響です。
しかし、純粋な宗教教育は、僕は義務教育の段階でしっかり学んでおくべきだと考えます。
昔は高校なんかで「倫理」というまれな科目を選択すると、世界宗教のいくつかと、宗教までいかない、思想・哲学とかが学べたのですが、今はどうなんでしょう?
宗教とはどういうものか、宗教がなぜ生まれ、今尚なぜ人々は信仰に頼るのか。
宗教が人間や社会にもたらす影響にはどのようなモノがあり、それにはどのような意味があるのか。
まがい物の宗教と、本物の宗教との見極め方は?
特定の宗教宗派に囚われない、学問としての「宗教学」は今の時代に生きる日本人に一番欠けているものなのかもしれません。
言ってみれば「宗教リテラシー」ですね。
これは「新聞リテラシー」と同じくらい重要だと思います。
まぁ、余談ですけどね。
そんなこんなで桐原は生きています。
前回書いた医療現場の心理士批判について、我が意を得たりと叫びたくなる本を見つけて購入してしまったのですが、この本については読了してから「書籍」のカテゴリでご報告したいと思います。
それでは今日はこの辺で。