the other half 2

31歳になりました。鬱で負け組。後悔だらけの人生だけど・・。

「汚し」の欲求/「千の風」を宗教学的に論じてみる。

2007-11-16 01:12:26 | Weblog
11月15日(本日は二段編成です。)



僕の住んでいるこの街に、今日、初雪がふりました。

(以下、BGMはこの曲を聴いているつもりでお願いします。→http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=37158)

夕方から降り始めた雪は、少しずつアスファルトの表面を白く染めていきます。
あたりはあっというまに白い絨毯を敷き詰めたように、白く、白くなりました。

雪国育ちの方は実感していただけると思いますが、新雪がうっすらと降り積った上に、自分の足跡をつけていくのは、真っ白なキャンバスに自由に絵の具を塗りたくっていくのに似た快感に繋がります。

数分であたりは足跡だらけ。
地面やアスファルトが足跡から顔を出し、足跡まみれになった辺りはとてもきれいとは言いがたい。そこには価値は見出せないのです。もう汚れているので興味がない。それ以上、汚しようがないのです。

足を踏み入れないで、だまってみているほうが断然キレイなのに、あえて人が足を踏み入れていない場所をみつけて、わざと足跡を付けていく。

清純なものを汚していく、支配的な快感。

こう書くと少しアブノーマルですが(笑)、人間の欲求の中にはそういう部分も、つまり、汚れや破壊を「快」と感じるような感覚ももともと含まれているのではないかと思うのです。
例えば保育園の園児達に、真っ白な模造紙とクレパスを与えたらどうなるか、想像に難くないことですよね?
少しやんちゃな男の子が、積み木で作った「お城」を壊して歩く。

そういうことは、つまり「汚し」や「破壊」は大人の尺度では受け入れることのできない行為なのであり、人はその成長の過程の中で、「汚し」や「破壊」に向かう欲求を周囲の大人たちによって抑圧されていく、なんていう仮説を立ててみたりするわけです。

だから大人になって、初雪で覆われたアスファルトを自分の足跡で汚していくのが妙に楽しいのも、その抑圧された欲求の名残かと思うわけです。
だって、楽しいんだもん。白い海原が自分の足跡によって点々と汚れていく過程が。


ハードロックのギタリストがステージ上でのボルテージが最高になると、意味もなく突然自分のギターや機材を壊し始めるのも同じ理屈ではないかと思います。
ロックという「悪魔の歌」にそそのかされた現代のアダムというわけです。

抑圧されていた「破壊」の欲求が大人になってから発露する場面は、そう、例えばテレビなどで高層ビルの爆破・解体シーンを見ると胸がすぅっとしませんか?近所で見慣れた古い家屋が撤去され、更地になった土地を見て、何か心がすぅっとする。

「破壊」から連想されるものに“廃墟”があるかと思うのですが、一時期ブームになりましたよね。“廃墟”ばかりを集めた写真集が結構売れたようです。この“廃墟”に惹かれる心理というのも、これまたなかなか面白いものだと思うのですが、単純に抑圧された破壊欲求の発露、とは言えない気がするんですね。われわれが廃墟に惹かれるとき、心の中では幾層かの心理的段階が作用しあって、結構複雑な動きをしているのではないかと。なんだか“廃墟”というテーマだけで1冊本がかけそうな気がします。


まぁね、時期も時期だし、初雪というイベントもあったので、そろそろブログを更新しようと思い、無理やり、「初雪」から「汚れ、破壊の欲求抑圧説」を組み立ててみました。
こういうのって、乳幼児心理学とか、発達心理学のどこかの段階でやるんですかね?最近は臨床心理ばかり目立ってますけど、発達心理学とかね、僕は今の時代にかなり重要な学問だと思いますけどね。

前回の記事が“アンチ心理士(特に医療現場の)”的な内容だったので誤解されたかもしれませんが、僕は自称、心理学と精神医学、そして宗教のマニアです。笑

____(ここからは全く別の話です。)____

そのつながりで、今は通信教育で宗教を学んでいます。仏教です。
最近は便利なもので、通信教育だけで僧侶になれるんですね(笑)
それもその辺のいんちき宗教団体などではなく、京都の西本願寺が主催しているのだから面白い。
もっとも、僧侶になるためのコースは3年制で、入学にあたって本願寺派の住職の認証が必要だそうです。
僕は知り合いに住職などおらず、どこかの檀家でもない(というか、今の母の家には宗教の匂いがしない。仏壇も神棚もない。生まれ育った桐原の家は宗教的にかなり複雑でしたけど・・)ので、普通に仏教と浄土教学を中心に系統だてて考えていこうというコースです。
浄土教は面白いですね、親鸞とか法然とかのそれです。
浄土教というか、仏教は面白い。
特に信仰の対象として仏があって、その宗教体験がいいとかそういうことではなくて、哲学的体系として非常に面白いものがある。

例えばですね、

これは中央仏教学院というところで講師をされている寺川氏(龍谷大学名誉教授)の論なのですが、
あの「千の風になって」という歌がクラシック界では異例のヒットとなりましたね。あの歌にはもともと曲(メロディ)がないのはご承知のとおりで、最初は歌詞という「詩」だけが、米国を始めとするキリスト教国で瞬く間に広まって、多くのひとが感動し、涙したわけです。
ここで、この詩が米国でブレイクしたところに着眼すると、とても面白い論が語れる。
米国は自由の象徴のように言われますが、明らかにキリスト教国です。
しかしあのうたはアニミズム(自然崇拝)的な自然観や東洋的思想が色濃くでている。それがキリスト教国でブレイクするわけです。
僕はキリスト教は専門ではありませんが、キリスト教の立場で言うと死んだ善人は天国に召されなければならない、“風になって”いつまでのそのあたりをうろついていてもらっては困るわけですね(笑)。でも、その世界観、つまり原始宗教や東洋思想が色濃い詩がキリスト教国で受け入れられる。これはとても興味深い事実です。

宗教を学ぶとこういうことも考えることができて、なかなか面白いものです。

日本では憲法で、「国による宗教教育」は禁止されています。
先の大戦の影響です。

しかし、純粋な宗教教育は、僕は義務教育の段階でしっかり学んでおくべきだと考えます。
昔は高校なんかで「倫理」というまれな科目を選択すると、世界宗教のいくつかと、宗教までいかない、思想・哲学とかが学べたのですが、今はどうなんでしょう?

宗教とはどういうものか、宗教がなぜ生まれ、今尚なぜ人々は信仰に頼るのか。
宗教が人間や社会にもたらす影響にはどのようなモノがあり、それにはどのような意味があるのか。

まがい物の宗教と、本物の宗教との見極め方は?

特定の宗教宗派に囚われない、学問としての「宗教学」は今の時代に生きる日本人に一番欠けているものなのかもしれません。
言ってみれば「宗教リテラシー」ですね。
これは「新聞リテラシー」と同じくらい重要だと思います。

まぁ、余談ですけどね。


そんなこんなで桐原は生きています。
前回書いた医療現場の心理士批判について、我が意を得たりと叫びたくなる本を見つけて購入してしまったのですが、この本については読了してから「書籍」のカテゴリでご報告したいと思います。


それでは今日はこの辺で。



通院日・・・ついでに心理職について考えてみる。

2007-11-04 23:43:14 | 社会復帰編
11月4日



どうも最近調子がイマイチだ。
昼間にどうしようもなく身体がだるくなって、横になる癖がついた。
横になったが最後、そのまま2~3時間寝てしまう。

昼間の変な時間に寝てしまうので、夜の睡眠が浅くなった。
その上、眠りに着きにくい。

こんな状態で社会復帰しても大丈夫なのだろうか・・。


・・・なんて不安を抱えつつ、今日は2週間に一度の通院日。
派遣のアルバイトの面接を受けて合格したことは、主治医には内緒の話である。

「どうですか?」

いつものようにノートパソコンを小脇に抱えて主治医が診察室に入ってきた。


・・・・。


先生、髪の毛、染めましたね。
しかも茶髪っていうか紅いですよね・・その色は如何なものかと・・(笑)

まぁ、僕もいい年をして茶髪なので何も言えないが、ジーパンの上に白衣を着てやってくるサンダル履きの主治医はいつものようにラフだった。


今回の診察では、社会復帰の話についてもちらっと触れられた。
僕が、「家で寝てるとだるくなるのが、少し散歩などをするとかえって楽になる。」と言ったのが発端だった。

「毎日通うところがあったほうが楽なのであれば・・」

と言って、主治医は「デイケア」の施設を紹介しようとした。
ちなみに利用は有料だそうだ。

そのデイケア施設で何がなされるのかはわからないが、以前、この主治医のすすめで通った「障害者施設」で痛い思いを経験しているので(過去記事参照)、デイケアへの通所の件はあえて深く聞かなかった。

「最初はコンビニのバイトを一日3~4時間、週3日とかって感じで慣らしていくといいんですけどね、本当は。」

そんなんじゃ、暮らしていけねぇ~っつうの。
以前から感じていたことだが、僕の主治医は社会からヒトが隔離、或いは排除されることがどれほど大変なことなのか良く考えたことがないのではないかと思う。

鬱病治療の基本は、薬物療法と充分な休養、そしてわずかばかりの精神療法(というなの雑談)である。

同じ行為でも医学的には「精神療法」、心理学的には「心理療法」。
しかも、精神科医はいわゆる臨床心理学などの名目で研究されている、カウンセリング理論や、技術をその養成過程で学ぶことはない。
一方で心理士も、精神・身体医学についての学習はほとんどなされないまま、「カウンセラー」になっていく。

こんなことだから、去年の国会で同じカウンセリングを行う資格であるにもかかわらず、“医療心理士”(仮称?)、“臨床心理士”(※公的資格として既存)の二つの資格制度が作られそうになって、結局つぶれた、なんてことになるのである。

精神科医療における心理士の役割については議論があるところであるが、一応、臨床心理士という名の資格をみにつけた人の中で、とてつもなく少ない求人にありついたわずかな運の良い人が、病院・クリニック(?)等で“心理士”をしている。仕事の内容はともかくとして。

心理臨床という立場に立ったときに、「臨床心理士」という、指定された大学院の修士まで進まないと受験資格すら得られない、超・難関(というか、面倒くさい)資格制度をつくり、世の中に跋扈する怪しげな“××カウンセラー”などの不貞の輩を廃し、「心理職」という“まっとうな”(?これも怪しい表現だが)職域を確保しようとした河合隼雄氏の功績は大きい。臨床心理士制度と言えば、ユング心理学の大家で臨床心理をとわず、心理学を学ぶ者はその名を知らぬ人はいないともいえる、河合隼雄氏(元文化庁長官)の名を出さぬわけにはいかず、氏の努力なくして今の臨床心理士制度は語れない。ある種のカリスマであった。

受験資格を大学院修士課程修了とした点は、医師の養成過程をかなり意識し、チーム医療のなかで“ひけをとらない”立場に立ちたかったという思いが滲みでているようだ。
折りしも、昨今、医師に限らず、看護師は4年生大学卒業者が多くなり、薬剤師を養成する薬学部は6年制になった。理学療法士や作業療法士は以前から学部での養成がすすんでおり、栄養士でさえも管理栄養士の資格をとってまともに病態栄養学などを究めようとするなら、学部卒は当たり前だ。(医療現場における栄養士のありかたについては別途。)
このように医療技術者の高学歴化は医療の高度化にともない必然的に求められてきた。一見すると、学会認定資格でありながらも修士課程修了を条件とした臨床心理士資格制度は先見の明があったのかもしれない。

が、

心理畑の人は、6年間大学や大学院に通っても、心理学的アプローチしか学ばない。(若干の大学における取り組みを除く。)

その求められている役割が“医療”でないのなら、例えば同じ精神科医療の現場で活躍されている制度に精神保健福祉士(PSW)という国家資格がある。基本的に学部卒が受験要件であり、医学系科目も学ぶがはっきり言って質も量も(医師のそれと比較して)それほど本格的ではない。
だが、PSWという立場で患者と向き合う上では、他の医療スタッフが共通して「医療」をバックボーンとして患者に接するのに対し、PSWは「福祉」の立場からモノをいい、福祉の立場から患者の社会復帰を支援するのだから現行制度で全くと言っていいほど問題が無い。
(もっとも、本当に「福祉」をやりたいなら、医療機関では無理だ。と言った声も良く聞く話ではあるが・・。)

では、心理士はどうか?
心理士が「心理学」という学問的バックボーンを背負って、患者にアプローチする事は意味があることなのかもしれない。
だがしかし、それでは心理士の行う心理療法と精神科医が行う精神療法は、互いにどうあるべきなのか。
それを事を考えたとき、問題はそう簡単に片付くものではない。

医師が精神療法を行った患者に心理士が心理療法を行うのか?

精神医学と医療現場の心理学は、まだお互いにベストな距離を測りかねているように見えてならない。
また、PSWのそれとは違い、心理士が患者に施す行為の一部は限りなく“治療行為”に近い。言うまでもなく、カウンセリングのことである。

チーム医療という言葉が日本にあらわれて、かれこれ10年は軽く超えただろう。
僕が以前働いていた病院の婦長が言った言葉が忘れられない。

「患者さんの治療については医師の指示に従います。しかし、看護については私達のやり方に口を出さないで頂きたい。なぜなら、あなた(医師)は、看護学について学んできていないのだから。」

医者は医学というバックボーンを背負い、看護師は看護学というバックボーンがある。薬剤師には薬学、PSWやMSW(精神科病院以外の医療ソーシャルワーカー)は社会福祉学、栄養士は栄養学、心理士は心理学。

そう、違う畑の専門化が患者をみるのだからそれでいいのかもしれない。
しかし、精神科医療の特殊性を考えたとき、既存の臨床心理士養成カリキュラムでは医学関連領域の科目が絶対的に不足している。

それは管理栄養士が米国のように「臨床栄養士」として医療スタッフの一員とはみなされないことが多いことと、本質的には同じ問題なのかもしれない。

心理士も、栄養士も、他で働くならいざ知らず、ことに医療の現場で戦いたかったら、もっと“医療”的学問をまなばなければならない。

だから先に触れた国会のおかしな議論のようなことになっていくのだ。

具体的に言うなら、このままの資格制度で“精神医学を知らない心理士”が増えていき、開業する心理士などどがあらわれ、繁盛し始めたとしよう。(日本の現状ではまずありえないだろうが・・。)

そこに鬱病の患者が現れたとき、或いは統合失調症の患者が現れたとき、その心理士は的確な判断のもとに、然るべき医療機関にその患者を紹介することができるのか?という話である。

はっきり言うが、鬱病はカウンセリングでは治らない。
充分な休養と適切な量・種類の薬物療法が必要なのだ。
そんな患者を、カウンセリングという名の下にしばりつけておくのは、症状を悪化させる以外の何者でもない。
だから、少なくとも「心の病」を対象に“擬似治療”を行うのであれば、自分の専門分野(心理学)の範囲でおさまるモノなのか、それとも他の専門職(精神科医・心療内科医など)の支援が必要なのかといった判断はできなくては困るのだ。


(医師が行う精神療法も、程度の差はあれ、どれも市販の書籍に書いてある程度の情報しか与えてくれない。本当の意味で精神療法ができる医師がいないのかもしれない。)



(※個人的に臨床栄養士の問題かは臨床心理士の問題と同等程度の大きさで僕の胸の中に納まっている。僕が大学で専攻した栄養学は、栄養学ではなく“食物栄養学”だった。僕のやりたかった病態栄養学とは程遠い。患者の栄養状態を“診断”して、経管栄養の必要性の有無の決定にまで意見を出せる米国の臨床栄養士と日本の栄養士の差は、要請過程におけるカリキュラムの問題が一番大きい。)


心理学と栄養学、全く違うようでいて、実は僕のなかで繋がっている学問であり、仕事なので少々荒っぽい論調になってしまった。

本来ならばもう少しきちんとした「論文」でも書けばよいのだろうが、残念ながら僕はその立場にない。


それどころか精神科医療サービスの受け手側になってしまった。


逆にその立場から言わせていただくなら、
医師による診断があるのは当然であり無くてはコトが始まらない。
しかし、現在日本の看護師は、看護学を背景に「看護診断」という独自の「診断」を行う。
それなのに、なぜ「心理アセスメント」や「栄養アセスメント」が医療行為として機能せず、充分な評価が得られない(保険点数の対象にならない・若しくは点数が低い)のか。


簡単に言うと、信頼されていないのである。
患者からも、他の医療スタッフからも。


もっと頑張れ、心理士!栄養士!



・・・っていうか、お前が頑張れ、桐原。(笑)



なんだか今日の記事は滅茶苦茶だなぁ・・・。
体の調子が悪いと頭の働きまで悪くなる。


薬飲んで寝よう・・・。


出端(でばな)を折られる。

2007-11-01 01:10:05 | 社会復帰編
11月31日


先日受けた面接に合格し、いよいよ明日から派遣先に出社することになる。
・・・はずなのに、前日になっても連絡がこない。

いつ、どこに、どうやって、行けばよいのかわからない。

派遣人数が1人の小規模業務だからと言って、なめるなよっ!と憤慨していた丁度そのとき、携帯がなった。
今回の業務の派遣元担当者E嬢からだ。

「はい、桐原でございます。」

「××株式会社のEですぅ。お疲れ様ですぅ。」

この担当者の話癖は、語尾を意味なく延ばすところである。
何度も聞いていれば慣れるのだろうが、最初はかなり耳障りに思う。

「桐原さんに申し訳ない報告をしなければならないんですぅ。」

E嬢によると、当初11月1日からの派遣予定だった業務だが、営業の“仕切り”が悪く、派遣期間や、研修の有無、業務資料等、調整が必要な段階で、当初予定の11月1日からの派遣は難しくなった、のだそうだ。

「じゃぁ、いつから働けるんですか?」

業務開始も未定らしい。ここの会社(支店)の営業はアホか?
最悪遅くても22日からは・・・って、こういう話が業務開始予定日の前日まで発覚しないというのは、担当者の無能力さを表すと同時に、組織としてまったくなっていないと思う。

予定日から働けないと言っても、いつから始まるかが未確定なので、いきなり「明日からになりました!」なんてこともあるわけで、その上期間も中途半端だから別の仕事を探すに探せない。



ふざけんなっ。



前にも書いた(?)ように、この派遣元会社は僕が社会からはじき出されることになった因縁の会社で、かつて僕はこの会社の正社員だった。


と、いうわけで・・。


「じゃあ、他の仕事ください。以前僕がいた部署Aとか部署Bとか、こまごました業務があると思うんですよね~。多少、時給が下がってもいいんでそういうの手伝わせてくれませんか。」


入社時、この会社の競合会社にも合格しているのを、わざわざ蹴ってまで入社したのに、この始末である。このくらい言っても当然だ。

「あ・・そ、そうですねぇ。わかりましたぁ。課長にも相談して改めてご連絡しますぅ。本当になんだかすみません~。」


そして早速携帯からもとの上司の会社のアドレスにメールを送る。

「・・・という状態になっておりまして、つきましてはそちらの部署の仕事を手伝っても構わないので、E嬢に声をかけてみてもらえますか?お願いします。」

はい、根回し終了。
僕が辞める直前に所属していた部署は人事関連の部署で、細かい仕事なら腐るほどある。主に個人情報を人事システムに入力する仕事がまわってくるのでは・・・と踏んでいるのだが・・・。


そんなこんなで、出端(でばな)を折られ、少々計画に狂いが生じたが、肯定的に考えると、いきなり病み上がり(あがってないけど)で、クライアント先に派遣されるより、派遣元のオフィスで事務仕事の手伝いをやってからのほうが、リハビリぽくって良いかもしれない。


あとは元上司がうまく取り計らってくれることを祈りつつ・・。


明日以降の連絡を待つことにしよう。



あと、もう一つ。

全くの余談(というか、このブログの存在自体が余談)だが、今、桐原はダイエットをしている。
毎食、“ダイエット用クッキー”しか食べない、という生活だ。

直径3cmほどの平たい円状のクッキーを1食あたり7個食べる。

僕の場合は、これに日によってヨーグルトとか、コーヒーゼリーなんかをあわせて食べるが、かれこれ2週間になるだろうか、少し痩せてきた気がする。
今居候しているうちには体重計というものがないのでやせたか太ったかは見た目の判断。
でも、なんかいい感じ♪
もう少し続けよう。