the other half 2

31歳になりました。鬱で負け組。後悔だらけの人生だけど・・。

『そのときは彼によろしく』

2007-06-02 02:24:11 | 読書
『そのときは彼によろしく』市川拓司
(小学館文庫:ISBN978-4-09-408160-2)


部屋の片隅で渦高く積み上げられていた未読本の中の1冊。
およそ2日間ほどで読み終えた。
読後の感想は・・・う~ん、微妙。
五つ星で評価するなら、

★★☆☆☆
星2つというところだろうか。

物語のあらすじは、幼い頃に深い友情で結ばれた男の子2人と女の子1人が、大人になって運命的な再会を果たし、そこから始まるまた新しい友情と恋愛の物語。
物語の核をなすのは、水辺と水辺の植物を愛する智史(さとし)、ゴミの絵ばかりを描く佑司(ゆうじ)、そして男勝りな女の子、花梨(かりん)の3人。

主人公達が幼い頃に過ごしていた、中学校の近くにある緑の森やその奥にある水辺、そして更に奥に続く道をすすむとつきあたるゴミの山の中の“リビング”。3人はこのゴミの中に作ったリビングをたまり場にしている。
このあたりまでの情景描写は、読んでいてイメージが湧きやすく、それらの場所が、主人公達が感じているように、素敵な場所なのだ、という印象を受け、主人公達の思いに読み手側も感情を重ねることができる。
3人の関係も出会いこそ少々奇妙なものであったが、潔い友人関係は読んでいて好感を覚える。

そして月日は流れ、やがて大人になった智史は、子供のころからの夢であったアクアプランツのショップを経営している。そこにアルバイト募集の張り紙を持って現れる謎の女性・・。
彼女の秘密が明らかになるにつれて、物語の歯車は急速に回りだす・・。


男×2人に、女×1人と聞かされると、思わずドロドロした三角関係を連想してしまうが、この作品の中の3人の関係はすがすがしいほど爽やかである。
物語の途中までは、「きっと、あれがこうなって、ああなるんだろうなぁ」と予想したものが、「やっぱりね。」という感じで、なんというか話の展開が読めてしまって、読み応えに少しかける感じがする。
でも、まぁこんなもんかなぁ・・という思いで比較的好感を持って読み進めていったのだが、話の核心部分になって、「あらら・・そっちのほうに行っちゃうのね・・。」というある種の禁じ手のような展開にとてもがっかりさせられる。
そして話の結末も、「あぁ・・はいはい。そうね。無難な落ちだよね。」という感じ。

あえてこの作品の気に入らないところをあげるとすれば、2つ。

1つ目は、途中まで男女の友情・愛情を爽やかに描いた人間ドラマだったのに、肝心なところで、いきなりスピリチュアルな話になってしまう。そう、とても肝心なところで。スピリチュアルな世界に抵抗がない人には別に気にならないところかもしれないが、昨今のスピリチュアルブームに辟易している僕にとっては、おもいきり興ざめである。
そこに至るまでに描かれていた、アクアプランツショップで光る幻想的な水槽たちの情景、あるいは、彼らが子供の頃に過ごした緑の森やゴミのリビング、好感が持てる登場人物達のキャラクターや彼らのやり取りなどが築いた心地よい作品のイメージを、唐突に現れたそのスピリチュアル話が一気に吹き飛ばして、安物のおとぎ話のように作品の質を落としてしまう。(ように僕は感じる。)

そして2つ目は、この小説の構成というか、ストーリーの組み立てについてである。
この作品には、「エンディング」が2つある。(あくまでも僕の主観的感想だが。)

1つの小説にエンディングが2つ。全く持って不自然で読み心地が悪い。

ある時点まで、若者達の澄んだ友情の物語だったものが、いつの間にか父子の愛情物語として1つ目の「エンディング」を迎える。このエピソードでこの物語で重要な位置をしめるであろう(読むまでは少なくともそう思っていた)、あのフレーズが登場するのだ。
「あらら・・ここで登場するのね・・。これは予想していなかった。」

そして、なんとなく「これで終わった」感のあるこのエピソードの向こうに、もう一つの~物語の本流としての~「エンディング」が待っている。

1つ目のエンディングは、物語の伏線を膨らませていったら、予想以上に膨らんでしまって、こういう終わらせ方しかできなかった?的な感じ。実際に読んでいて、それまでの主人公達の話とはあまりからまない設定でありながら、なんとなく「読み終えた」感を覚えてしまう。

それを筆者も感じていたのか、ご丁寧にも、1つ目のエンディングの次のページの書き出しは、

「さて、物語はまだ続く。」

と仕切りなおしの言葉で始まる。
そこでやっと本筋のエンディングについてのエピソードが語られるのであるが、1つ目のエンディングで盛り上がってしまったせいか、なんとなく、「取ってつけた」感がする。

多分、これはストーリーの構成と、本筋のエピソードと伏線のエピソードのバランスがうまくいっていないからではないかと僕は思う。

結果的に、僕がこの本を購入するきっかけであり、唯一最大の要因だったタイトルの秘密、「その時とは“いつ”で、彼とは“誰”で、よろしくとは“どういうことを指しているのか”」は意外なところであっさりと判明してしまうのであるが、そのフレーズが登場するシーンも、「ここでかよっ!?」と突っ込んでしまいそうな場面なのである。これはそのシーンに至るまで、全く予想できなかった。おそらく、書店の棚の中から抜き出したこの物語のタイトルと、裏表紙に書かれた粗筋を読んでストーリーの展開を予想した人たちの中で、このシーンを予想できる人は皆無だと思う。

そんなわけで、僕的には少々「がっかり作品」だったのだが、この小説を原作とした映画が6月2日から全国で公開されるらしい。
原作を読んだ感想から、はっきり言って映画化した作品にも全く期待していなかったのだが、映画の公式HP(http://www.sonokare.com/#)を見て少し気が変わった。

主人公には山田孝之くん、そして監督は平川雄一朗さん、ついでに主題歌は柴崎コウ。
山田孝之くんは、TBS系ドラマ「白夜行」(原作:東野圭吾)で、重く暗い運命を背負った主人公を好演。そしてそのドラマの演出を手がけていたのが、平川雄一朗さん、おまけにそのドラマの主題歌「影」を歌っていたのは柴崎コウ。
「白夜行」は、原作小説も読んだし、TVドラマも見たが、原作で描かれる世界とTVドラマで描かれるそれが全く違っていて一部のファンの間で論議を呼んだ(らしい)。僕は原作小説を始めに読んでいたが、TVドラマの初回シーンを見たとき、いきなり“ネタバレ”から始まって「おいおい・・いきなりかよ・・。」と衝撃を受けた。多くの人が言うように原作は純然たる「ミステリー小説」だが、TVドラマ化された物語は、「登場人物の感情が絡み合う恋愛?愛憎?社会派?ドラマ」と言った感じで、印象が全く違う。
最初に小説から入った僕は、当初、原作とはかけ離れたTVドラマの雰囲気にあまり良い印象は持たなかった。だが、初回、2作目と視聴し続けるにつれ、原作とは違うけれど、原作とは“別の作品”として見ればこちらも充分面白い(むしろTVドラマのほうがわかりやすい)かも、と思うようになり、ドラマの「白夜行」にすっかりはまってしまった。それは主人公の一人である山田孝之くんの演技に惹かれたせいもあるかもしれない。

平川雄一朗さんの“演出力”は、「白夜行」や同じTBS系列のドラマ「セーラー服と機関銃」で立証済み。
山田孝之くんも秀逸な演技を見せてくれる俳優である。
なんだか期待できるコンビだ。
公式HPによると、映画のラストシーンは原作のそれとは全く違ったものになるらしい。おそらく、あの「白夜行」がそうであったように、平川雄一朗さんは、今回の映画化にあたっても、原作のイメージをおもいきり崩して、新たな視点から楽しめる映画に作り変えてくれるに違いない。

小説が原作の映画は、どうしても原作との設定の違いや世界観の違いにがっかりさせられがちだが、今回はむしろ、この原作をどこまで面白い作品に作り変えてくれるのか、そちらに期待したいところである。
映画が公開されたら、一度見に行ってみたいと思う。



「白夜行」の書評やドラマの感想などはまた別の機会に・・・。

『孤独か、それに等しいもの』

2007-02-05 02:05:11 | 読書
『孤独か、それに等しいもの』
(大崎善生:角川文庫:ISBN4-04-374003-4)

先日、駅ビルの中の小さな書店で、タイトルに惹かれて中身もあまり確認せずに衝動買いしてしまった一冊。

著者はノンフィクションで世に出た方らしい。その後、初の小説作品で吉川英治文学新人賞を受賞した、と著者略歴にある。

本作は表題作を含む5編の短編からなっている。

(目次)
・八月の傾斜
・だらだらとこの坂道を下っていこう
・孤独か、それに等しいもの
・シンパシー
・ソウルケージ

表題といい、目次にある短編のタイトルといい、なんとも言えない雰囲気というか世界観を感じて、大変な事前期待をもって読みはじめたのだが・・・。

三作目の「孤独か、それにひとしいもの」まで読んで、読了をあきらめた。

作品のタイトルは一々機微に触れるのだが、内容は桐原には合わなかったようである。
もっとも、後半の2作品は読んでいないので、こちらに相性のいい作品が含まれているのかもしれないけれど、とりあえず今は読む気にはならない。

そんななかで唯一、とても共感した文章がある。
少々長くなるが、以下に引用する。

・以下、「だらだらとこの坂道を下っていこう」P53より。
・※注、“”は桐原による。

(引用)________________

 恋愛にも飽和点があるものなのだろうか。たとえば山でいえば頂上のような場所だ。
 恋をして結婚をして子供を作り、人間がそうやって何かに向かって登攀(トウハン)していく生き物なのだとしたら、いったいどこがその頂点となるのだろう。
 三十代半ばとはそういうことがわからなくなる年齢なのかもしれない。
 “二十代は確かに坂を登っているような実感があった。仕事はきつく、経済的にも満たされず、生きていることの何もかもが競争のように思えていた。しかし、自分はまだ目に見えない頂上に向かって一歩一歩進んでいるのだという実感だけはあった。それがおそらくは活力の源だった。”
 “頂上を目指しているという実感がある限り、どんなにつらいことにも人間は耐えられるようにできているのかもしれない。”
________________(引用終)

※注:登攀=とうはん:登山で険しい岸壁などをよじ登ること。


最初の“”にはまさに同感である。
僕は20代の半分を某企業で過ごした。一応、東証一部上場企業であったから、それなりに全国に拠点をもち1000名を越える社員がいて、万単位のアルバイトたちを抱え、ときにはそのアルバイト君たちが現場を仕切っているような会社である。
その企業への入社した際、僕の身分は「時給制で働く“社員”」である。その当時の入社時研修では、「わが社では、時給で働いていただくみなさん一人ひとりも“社員”と考えています。月給・時給・年俸制と雇用形態に違いはありますが、基本はできる人ができる仕事(役職)をするという考えです。」と説明があった。
僕はその会社に、“時給制の社員”という名の、いわゆる“アルバイト”として入社した。
当時の僕はまだ若かったし、フリーターという身分にも、自分の将来にも何の不安も感じていなかったから、仕事に生きがいを求めることもなく、昇給や昇進にもあまり関心はなかった。
しかし、目の前に与えられた仕事を淡々とこなしていくうちに、僕は“時給制の社員”という立場のまま、現場の責任者になり、その上の管理職になり、いつのまにか名刺をもらって、クライアントとの折衝を行うようになっていた。当時のクライアントの担当者は、まさか目の前で商談をしている相手がアルバイトだとは思ってはいないだろう。今思えばなんだか相手に気の毒な話だ。

そうこうしているうちに、少し大きなプロジェクトの担当者の一人に抜擢され、そのプロジェクトがひと段落ついた頃には、給料は時給から月給に変わっていた。世間一般でいうところの「社員」である。

一つ一つ社内での立場があがるにつれて、責任と権限がわたされるようになって、いつしかその会社での仕事にやりがいをもっている自分がいた。
社内の研修や資格制度には積極的に参加したし、新しい仕事、より責任のある立場を任されるたびに、着実になにかの階段を登っている気がしていたのである。
それに僕は「バイトからの成り上がり社員」だったが、「使えない新卒」や「使えない正規社員」には絶対負けていないという自信もあったし、そのような気概もあった。仕事が多忙な時期は深夜残業もあたりまえのようにこなしたし、終電に間に合わず会社のそばのビジネスホテルを私費で定宿のように利用していたこともある。とにかく必至だったのだ。

常に上を目指したし、ステップアップした頂上には、達成感を味わえる“何か”があると信じていた。まさに“それがおそらくは活力の源だった。”のである。

その後、より興味のある仕事がしたくて、本社がある東京への異動を申し出た。
異動の直前、当時勤務していた地方支店に視察にきていた社長から多くの社員の前で、「うん、わかった。君なら(東京でも)やれるだろう。期待している。」と言われた。

“時給制の社員”からスタートした僕が上場企業のトップから期待されるようになった、とそのとき初めて自信をもった。(今思えばよくあるリップサービスだったと思う。なぜなら僕と社長は初対面だったのだから。笑。でもそんな言葉一つでモチベーションがあがる純粋な年頃だったのであると思うと、そんな幼い自分がかわいい。)

“見えない頂上に向かって一歩一歩進んよでいるのだという実感”が感じられなくなったのは、ちょうど鬱病を発症し始めた頃かもしれない。
もともと学歴もスキルも無い僕が、リサーチやデータ分析の専門部署でやっているのにはとても苦労がいったが、やりがいもあった。外回りの営業君たちがもってくる案件の相談に応じるのは自分を頼ってきてくれているんだ、という感じが嬉しかった。

それが30代を目前にして、鬱病を発症し、症状の悪化とともに普段の仕事ができなくなってくる。全く頭が回らない。これまでのレベルの仕事も、それ以上の仕事もできない。営業君たちと案件について話していても、なんのアイデアも、改善策も、画期的な企画も思い浮かばないのである。それどころか、相手の話している内容すら頭に入ってこない。

こうして、僕は病気の症状のせいもあり、この分野で自分の能力の限界を悟り、今まで目指していた“見えない頂上”を見失ってしまったのである。

その後の崩落は加速度的に進んでいった。
このままの部署では働けないと、人事異動で地方拠点に都落ちし、全く別の部署に、全く別の職位に任命される。僕はその仕事に慣れることはできず、目指すべき頂上もわからなくなっていた。

また、“頂上を目指しているという実感がある限り、どんなにつらいことにも人間は耐えられるようにできているのかもしれない。”ということは、裏を返せば、目指すべき頂上を見失った人間は、あらゆるものにたいして耐える力を失っているということだろうか。

僕は今月の誕生日で30歳になる。
仕事をなくし、友人をなくし、僕は今、“目指すべき頂点”を見つけられずにいる。

そんな僕はどこまでの試練に耐えることができるのだろうか。