the other half 2

31歳になりました。鬱で負け組。後悔だらけの人生だけど・・。

逃げ場なし。

2007-05-30 01:39:48 | 鬱病日記
5月29日



昨日も明け方まで眠りにつくことができなかった。
空が明るんできて、カラスが鳴き出したことを覚えている。
おそらく、4:00AMを少しまわったところだろう。
そこから記憶が途切れた。


眠りからさめて、今日最初に時計を見たのが14:00PM。
そのまま起きてしまえばよかったのだが、なんだか身体が重く、いつものようにベットで寝たり、起きたり、ウダウダ過ごすことになった。
次に時計を見たのが16:00過ぎ。
今日の予定では、昼間のうちに街まででて、カフェラテでも飲みながらテキストを読むつもりでいたのだ。家にいるとすぐ横になってしまうから、外にいるほうが効率が良い。
でも、もう夕方になってしまったし、これから出かけるのもどうかなぁ・・と思案した。少し悩んだが、とりあえず外出することに決めたのは、母が帰ってくる時間が迫っていたからだ。
ここ数日の職場での動きをみる限り、今日当たり、またドカンと大きな出来事が起きているに違いない。そして、その事についての愚痴を、母はまた僕にぶつけてくるだろう。こう毎日毎日、重い愚痴を何時間も聞かされてはたまったものじゃない。少しでも母と過ごす時間を少なくしようとする魂胆だった。

バッグにテキストと、読みかけの小説を入れ、駅に向かう途中のコンビにで新聞を買う。

電車に乗っていつのものカフェに着いたのは18:00PM頃だった。
今日はまだ何も食べていなかったので、ベーグルとカフェラテ(ホット)を注文する。禁煙席に座り、カバンをおろし、新聞を中ほどまで読みすすめたところで携帯がなった。
母からのメールである。

「どこにいるの?お母さん、もう倒れてしまいそう。」

はぁ・・・・。
どこにいるの?って、昨日から今日は外出すると言っておいたはずだし、第一もう30歳のおっさんなんだから、夕方家を空けていてもわざわざ居場所を確認することはないだろう。
そしておそらく、メールの後半にある「・・もう倒れてしまいそう。」というくだりは、職場においてまた上司に呼び出されて精神的に追い詰められたということだろう。とにかく愚痴をいいたいのだと思う。

それまで、おいしいベーグルとお気に入りのカフェラテで心地よい時間を過ごしていた気持ちは、母の一行のメールで一気に吹っ飛んでしまった。
母の愚痴から逃れようと外出してみても、母は携帯という最新兵器で、まるでパトリオットミサイルを放つかのように、僕を捕捉して攻撃してくる。
もし母が妖怪だとしたら、無数に伸びた触手を長く伸ばして、唯一の愚痴のはけ口である息子の居場所をとことん調べ上げ、その触手でからみ取って自分の懐までつれてくるのだろう。
母が職場で追い込まれていくのと比例して、僕は母の“超マイナス暗黒思考”に基づく長時間にわたる愚痴で、どんどん追い詰められていく。まさに逃げ場なしである。

学生の頃から友達のいない僕であったが、不思議なことに、なにかと僕のところに相談にくる生徒は多かった。それは同じクラスの子であったり、隣のクラスの生徒だったりした。男子も女子も関わりなく、普通の生徒から不良生徒、果てには隣の高校の生徒からも相談に乗ってくれとお願いされたことがある。
この不可思議な現象については、実は理由があるのだが、これはまた他の機会にお話したいと思う。
社会にでてからもバイト君たちの進路相談や家庭内の問題など、いくつもの相談(あるいは面談)を重ねてきたが、自分に向けられる愚痴や相談が、こんなにも重く忌々しいと思ったことは過去に一度もない。
それだけ、今の母はある意味で強力である。

母からのメールで、勉強する気もすっかり失せてしまった僕は、読みかけの新聞を読み通し、すっかり冷めてしまったカフェラテを飲み干して店をでた。

電車にのる途中で、母が好きなパン屋で幾種類かのパンを買い、最寄の本屋で母が楽しみに視聴していたNHKの某番組のテキストを買う。
これらは、母と対面したときの衝撃を少しでも和らげるための“装備”である。
機動隊が持つ盾と防弾チョッキのようなものだ。

これからまちうける展開を想像し、重い気分を背負ったまま家のドアをあける。
居間に続く扉を開き、足を一歩踏み入れた瞬間、ソファに座っていた母が立ち上がり、今日、職場で起きた出来事を怒涛のごとく喋り始めた。
声は弱弱しく、身体もフラフラとおぼつかない。心身ともに相当弱っているようだ。今にも泣き出しそうな目をしながら自分の職場での窮状を語り続けている。

僕は黙って話を聞いている。カバンもおろさず、居間にさえ入っていない。居間に一歩踏み入れた状態で、ずっと立ちっぱなしで20分たった。

ようやくできた空白のタイミングで、僕はやっと一言を発することができた。

「話はわかるんだけどさ。とりあえず、カバンおろしたいんだけど。」

一度部屋にもどってカバンをおろし、部屋着に着替え、洗面台の前でコンタクトをはずす。
身を守るためにわざわざ買ってきた、“母お気に入りのパン“と、“趣味のテキスト”は、先方からの思わぬ先制攻撃によって使うタイミングをはずしてしまったが、わずかばかりの希望を込めて、居間のソファでうずくまる母に手渡してみる。
普段ならとても喜ぶのだが、今日はほとんどと言っていいほど、何の反応もない。

「買ってきてくれてありがとう。でも、今、そんな本を読む気にはなれないの・・。」

だ、そうだ。
この2週間で、僕の知りうる限り、母はどんどん鬱病の代表的な症状を示し始めている。
特に今日は情緒不安定で、言っていることがさっぱりわからない。
本人も、何から、何を話して良いのか、頭の中で整理できていないのだと思う。

よくよく聞いてみると話はこうだ。
昨日(ブログには書かなかったが)、例の「始末書」について職場の理事に呼び出され、再提出を指示したのに、まだ提出がされていない点について激しくお叱りをうけた。
本当は今でも書きたくないのだが、仕方なく書いた「始末書」を今日改めて提出したところ、また呼び出しをくらい、「本質的に私の言っていることを理解していない。」といわれた。
その上、そもそも「始末書」を書かなければならない“問題”について、始めは「上司に対する態度の悪さ」(そもそもその事実もないし、仮にそうであったとしても始末書をかかせるような問題ではないと思うのだが。)と説明を受けていたのが、日を負うごとに内容が変化し、今日の呼び出しに至っては、その理事が赴任するより以前の、“母が今の職場に就職してから本日にわたるまでの一連の出来事について”始末書を書け、と話が変わってきたそうである。

狭い個室で男性上司と一対一になり、時にはテーブルを激しく叩くなどの威嚇行為を目にしながら、「お前は悪い」「お前はおかしい」と連日責め立てられた母は、日に日に精神的にも肉体的にも憔悴しきっていた。

今日は施設に隣接する医療施設の顔なじみの職員や、母の部署で働く部下達からもあきらかに様子がおかしいけれど、何かあったの?というような質問があいついだそうである。

結局のところ母はどうしたいのか、つまり、今の職場で働き続けたいのか、それとも(年齢など)色々なハンデはあるかもしれないが、新しい職場を求め転職するのか、或いは他に選ぶ道を見つけているのかを尋ねても、

「お母さん、もう、どうしていいか、わからないの・・ねぇ、亮司。どうしたらいいの?」

と目に涙を浮かべる始末である。
どうしたらいいの?って、そんなこと知るか。という話だが、まさかそう本人に告げることにもいかないので、これからどうするか検討することになった。

まず、母の希望として、これ以上今の職場で(今の状況のまま)勤めるのは絶えられない。職場にも行きたくない。
ということだったので、明日から2,3日休みをとることになった。
また、

「そのうち僕の顔を見ると、頭痛がしたり吐き気がしたりして職場にくるのが嫌になるかもしれませんね?(不適な笑み)」

と言い放った理事は、今日の呼び出しの際も、母が弱気になり、

「私はここで働くのには適していない人材なのかもしれない、と思い始めています・・。」

ともらした瞬間、一変して穏やかな表情になり、それを決めるのは桐原さんご自身の問題ですね。と言ったそうだ。
これらの発言や、

「始末書は何回でも書き直しをさせるぞ。」

などの言葉から察するに、その理事とタッグを組む副施設長の勢力は、母を精神的に追い詰めて、自ら退職届けを出させようとしていると考えてほぼ間違いない。
そこで、結果的に今の職場を辞めることになっても、勤務を続けることになっても、今の状態で働き続けるのは限界があるので、労使間の紛争の調停をしもらえる第三者機関を探すことになった。
職場に労働組合があればよかったのだが、あいにく今の母の職場にはない。

だからと言って、弁護士に相談するのも今の段階ではちょっと違うような気もするし、相談料などもかかる割には、何も解決しそうにない気がする。(※勝手な思い込みだけど。)
それでネットを使っていくつか調べているうちに、各都道府県の労働局に「総合労働相談センター」なる相談窓口が設置されていることがわかった。
この機関では、労働者と事業主の間で起きる職場でのトラブルの解決を手伝ってくれるのだという。
具体的には、解雇、配置転換、賃下げ、セクハラ、いじめ、などの相談実績があるようだ。
自治体の機関で信用性が高いということと、秘密厳守だという点、何より相談は無料で予約不要ということだったので早速明日、そのセンターを訪れてとりあえず相談してみることになった。(今の状況の母と職場の関係が労使間のトラブルとみなされるのか、一般の業務指導の範疇に入るのかの判断を含めて。)

頭が全く混乱してしまい、言っていることもバラバラで要領を得ない。じっと座っていることすら危うい母が、センターに相談に行っても、自分がおかれている現状をうまく説明できるとは思えなかったし、現に母も自信がなさそうだったので、仕方なく、明日は僕も母に同行することになってしまった。

愚痴の吐き出し口だった僕は、ついに問題の核心に巻き込まれつつある。
例えば、僕の身体がスポンジでできていたとしたら、今の僕をギュッっと絞ると、ドロドロとした黒い液体が止めどもなく染み出し、流れ落ちてくるだろう。
それは今までに、僕が母から聞かされた愚痴そのものだ。


はぁ・・厄介なことになってしまった。
明日の相談結果にもよるが、労働局に労使間の話し合いの調整に入ってもらうか、それとも向こう(職場)の思惑通りで少し悔しいが、きっぱりと見切りをつけて退職願を叩きつけるか、あるいはまた他の道をさぐるのか。

本当は母自身で片付けて欲しい問題だが、母の収入は居候している僕の生活そのものに直結してくるだけに、迷惑ながらも、あまり人事ではない。
ここのところ母はたまに、

「過疎地に福祉施設のそばに引っ越して、ケアマネージャーとして働いていこうかしら・・。」

などととんでもないことを口にする。
過疎地の福祉に貢献するのは大変結構なことではあるが、僕が今の状態で過疎地に行ってしまっては社会復帰もまた遠のいてしまう。
これだけは絶対に阻止しなければならない。

また、母の精神状態・身体の状況から見て、今回の一連の事件のストレスによる何らかの精神疾患(或いはそれに類するもの)が疑われるので、心療内科を受診することをすすめた。

親子二人で鬱で無職・・・。

悪夢だ。


そして明日は8:00AM起床。
これもまた悪夢だ。


急募、カウンセラー。

2007-05-28 01:21:42 | 鬱病日記
5月27日



昨日、昼間から寝てばかりいたせいか、深夜を過ぎてもなかなか眠りにつくことができないでいた。追加で睡眠薬を1錠だけ飲んで、いつも寝るときにかけるCDを何度も繰り返し聞きながら、やっと眠りについた頃には外が明るくなりはじめていた。

そして今日、ベットの中で目を覚ました時には、日は高く上り14:00を過ぎていた。
今日は日曜日。母も仕事が休みで家にいることだろう。
昨日のこともあるので、できるだけ母との接触は避けたいところである。

恐る恐る居間に向かうと、母がソファの上で横になっていた。
目を閉じてはいるが、起きているのか寝ているのかはわからない。

僕はコンビニに行こうと、玄関に通じるドアを開けた。

「どこか行くの?」

母の声が聞こえた。

「コンビニに新聞を買いに行ってくる。何か買ってきて欲しいものある?」

「いや何もないわ・・。あ、履歴書を買ってきて頂戴。」

わかった、と返事をし僕はコンビニ向かう。
履歴書か・・。母も今後の選択肢の1つとして転職の可能性を考え始めているようだ。
新聞とカフェラテと履歴書、そしてチョコレートが好きな母のために、ナッツ入りのチョコレートを1袋買う。

家に戻って母に履歴書とチョコレートを渡した僕は、すぐさま自分の部屋に戻る。顔を合わせていると、いつ、また愚痴話に発展するかわからないからである。
“超マイナス暗黒思想”の母の愚痴に付き合うには、相当な心構えと、充分な体力、そして長時間の忍耐が必要である。
母の気持ちや、今おかれている環境の辛さもわかるが、昨日のダメージもまだ癒えていないので、今日のところは正直勘弁して欲しいというのが本音である。

僕はベットに横になり、いつもより時間をかけて、念入りに新聞を読んでいく。
書評欄にまた気になる本をみつけてしまった。早速、携帯の“メモ”機能に書名と著者名、出版社を書き込んでおく。この本は次回、本屋に行った時、在庫があれば間違いなく購入することになるだろう。

新聞を読み終えたが、夕食までにはまだ時間がある。
いい機会なので、衝動買いをしてたまりに溜まった本に手をつけよう。
最近は専門書など硬めの本しか読んでいなかったので、たまには少し柔らかめの内容の本を読みたいと思い、ジャンルは小説(フィクション)と決めた。
そして一番最初に目についたのが、本棚におさまりきれずに山積みにされている本たちの一番下でおしつぶされそうになっていた本である。

タイトルは「そのときは彼によろしく」(市川拓司:小学館文庫)という。
この本は、本屋で平積みにされていた中の一冊で、なんとなく気になりながらも、数回素通りしても買わなかった本である。でも、いつまでたってもその本が平積みされたままなので、どうしも目についてしまい、「そのときは彼によろしく」というタイトルが気になって気になって仕方がない。
「そのときは彼によろしく」って、“そのとき、とはいつ?”、“彼って誰?”、“よろしくって、具体的に何をしろっていうの?”という疑問がわいてしまい、気になって気になって、堪えきれずにとうとう購入してしまったもだ。
しかし、長い間他の本たちと同じように、読まずに部屋の隅に放置されていた。
もう間もなく、この小説を原作とした映画が公開されるというので、それまでには読み終えていようと思い、今日はこの本を読むことに決めた。
読了後の感想は、また別の機会に記事にしたいと思う。

久しぶりに小説を読むと、文体や文の癖のようなものが専門書や学術書のそれとは違っていて、とても違和感を感じる。
しかし、数ページほど読み進め、次第にその小説の世界観の中に潜っていく過程で、その違和感もいつしか薄らいでいった。

やっと小説の世界に入り込んで、さてこれから物語の核心へ・・という段階で母の声が聞こえた。
夕食の準備ができたから食べにきなさい、ということだった。

僕は自分の部屋を出て、ダイニングテーブルに母と向かいあうように座る。
いつものように、僕の前には“ご飯”ではなく、豆腐が置かれている。
僕が“ご飯”が嫌いだからだ。
ここまでは普通。いつもの日常。

二人の間に会話はなく、誰も見ていないテレビから笑い声が漏れている。

ひたすら食事に集中して、早くその場を離れようとしている僕に向かって母が声をかけてきた。


「亮司・・お母さん、悩んでいることがあるの・・・。」


はぁ・・・。今日もきた。


「もう、どうしたらいいのかわからなくて・・。」


返事をする間もなく、うつむいた母の声は涙声になっていく。
もうこうなってしまっては、誰にも止めることはできない。

それから延々2時間。結局今夜も母の口から発せられる愚痴や悩みを聞くはめになってしまった。

職場にいきたくない。
何もかも嫌になった。
自分は駄目な人間だ。
何もする気にならない。
今の職場に留まるか、違う施設に転職するか、どうしてよいのかわからない。
(事実を捏造され提出を強制されている)「始末書」も書きたくない。でも書かないわけにはいかない、でも、やっぱり書けない。
どうしたらいいのか、もう、なにもかもがわからない。
とにかく自分は駄目人間だ。
(職場の理事に恫喝されたときに言われたとおり)自分は人格的に問題があるに違いない。
自分の周りで働いている人たちも、みんな不快な思いをしているんだと思う。
娘にも縁を切られるようなことを言われた。それは自分の性格が悪いせいだ。
etc


間違いなく、認知の歪みによる負の連鎖思考である。

僕は母の話を注意深く聞きながら、全ての問題をごちゃごちゃに絡めて悩んでいる母の脳の中を整理するように、慎重に会話を進めていく。
滝のように放たれる母の言葉の要所に出現する認知の歪みについて、さりげなく訂正をし、自ら自覚してもらうよう促していく。
しかし、母の負の思考の連鎖は、かなり強靭でなかなか素直に話を受け入れてもらえない。
こんな風に認知療法のまねごとのようなことをしたところで、所詮僕は素人であり(しかも、現役の鬱病患者なのだ。)専門家のようにうまく来談者の心を整理してあげることができない。
母は、話すだけ話し、涙を流すだけ流して、話を自分から打ち切った。
無論、結論はでない。
しかし母は、もう喋ることも疲れたといわんばかりの様子でソファに横になった。

そこでやっと、僕も解放される。


あ~しんどい・・・。

母の辛さもわかるが、自分の体調も辛い。
母をなんとか支えてあげたいが、「そろそろ勘弁してくれよ。」というのが本音である。

最近思うのだが、僕は、15年前に母と一緒に桐原の家を出てから(あるいは出る前から)、時には母の夫であり、またある時は母の父の役割を求められてきたように思う。そう振舞うことで、母と僕はある期間の人生を並走してきたのだ。
持ちつ持たれつ、と言えばそれまでだが、実際のところ僕は母の夫でもないし、父でもない。所詮、限界があるのである。

母の憂鬱はしばらく続きそうである。場合によってはこのまま本当に鬱病になってしまうかもしれない。

僕はもうしばらく夫であり父であり続けなければならないようだ。
はぁ・・。重い。


SOS。至急、カウンセラーの派遣を乞う。



なんて言っても誰もこないよね・・。ふぅ・・。
しかたない、腹をくくろうか・・。

しんどいなぁ。


そしてまた、母は泣く。

2007-05-27 01:57:30 | 鬱病日記
5月26日




昨日の気分をひきずって、今日は朝から気分が重い。
何もせずに、一日中、ベットの中にいた。

寝たり、起きたり、また寝たり・・。



なにやってんだろ、俺・・・。



夜になって、母が仕事から帰ってきた。
カバンをおろすまもなく、また母の愚痴が始まった。
またかよ・・・。


「亮司、今日、お母さん、とってもショックなことがあったの・・。」

「はぁ・・今度は何?」

面倒くさげに返事をした僕に、母は携帯の画面をつきつけた。
誰かからのメールのようだ。

文章は短く端的にこう書かれていた。


『これからは電話やメールをしてこないでください。忙しいので返事しません。』


あまり穏やかではない内容に戸惑いながらも、差出人を確認すると、そこには母の娘(=僕の妹)の名前があった。


僕:「何かあったの?メールとか、電話とか。」

母:「いや、何もないよ。先月一度メールをしただけ。返事は来なかったけど・・。もうこれって、連絡をしてくれるな、っていう意味だよね。もう、関係を持ちたくない、ってことなんだよね・・。そうなんでしょう?」

僕:「いや・・妹とは全く連絡とってないから、よくわからないけど・・。あまり気にしないでいいんじゃない?時期がくれば向こうから連絡してくると思うよ。」

母:「・・・お母さん、もうK(妹)やT(弟)のお母さんじゃないから・・。嫌われてるから・・。いいんだ・・もう・・。」


かれこれ15年ほど前、母が桐原の家を出たとき、一緒についていったのは、当時中学生だった僕だけだった。
まだ小さかった妹や弟は、学校が変わるのが嫌だという理由で桐原の家に残った。
当時の桐原の家でおきていた惨劇は、以前の記事にも書いたとおりだが、それ以外にも陰に陽に母は苦労し、我慢を重ね、耐えてきたのだ。
それは、子供達のため。
自分の子供達を、片親にしないために。

片方の親がいない家庭なんて世の中にたくさんあるんだし、そんなことはどうでもいいからこの家を出よう。そして法的にも離婚という形をとったほうがいい、と言ったのは他でもない僕だった。

当時、桐原の家では、今でいうところのドメスティック・バイオレンス(DB)が、毎晩のようにくりひろげられていた。祖父や祖母、小さな妹や弟たち家中の者を巻き込んで。
それを抑えるのが当時の僕の役目だった。

父母、二人の間に割って入り、父の暴力から母を守り、父を引き離しているあいだに母には逃げてもらう。怒りを倍増させた父としばし格闘したあと、うさばらしに父が車で再び夜の街に消えていくことでその日の騒動は終わる。
その後、祖父と祖母が自室に戻ったことを確認し、不安そうな顔で立ち尽くしている妹と弟を部屋まで連れて行ってベットに入るのを見届ける。そして泣き続ける母へのケアである。

当時の僕は、母がどこまで我慢できるかどうかということよりも、毎晩繰り返されるこの恒例行事にクタクタになり、自分自身どうにかなってしまいそうだったのだ。だから、母のためというよりも半分は自分が楽になるために、母に離婚を薦めた。


僕が母と一緒に桐原の家を出た後、妹と弟はその後も桐原の家で育つことになるが、そのうち弟は当時の僕と同じ年齢に近づくにつれて、当時の僕と同じように、父に憎悪を抱くようになっていった。
顔を合わせれば殴り合いのケンカをする日々。それでも弟が桐原の家に留まっていたのは、祖父と祖母がいたからだった。父の暴力は老いていく祖父や祖母にも容赦ない。祖父は少し精神を病んでいて、自分の言葉で気持ちを表すことができない。僕の記憶を辿っても、まともに言葉を交わしたことはない。そんな祖父と寄り添うように日々を過ごす祖母は、弟にとっての母親代わりだった。
あのときの僕が、母を守ったように、弟は母親代わりの祖母と祖父を守るために、桐原の家を離れることができないでいたのだ。

後日、弟から聞いた話だが、それまで「(弟に)家を出て行ってもらっては困る。」と懇願していた祖母だが、昨年夏に父が再婚し新しい命を授かった途端、祖母の態度は「(弟が家をでていくのは)好きなようにしたらいい。」に変わったそうである。その一言に弟はショックというか、一気に全身の力が抜けたらしい。自分の今までの頑張りって、なんだったのだろう。これまで我慢して守ってきたのは、誰のためだったのだろう、と。そして間もなく、弟は桐原の家を出る。

一方で妹は、父とも比較的良好な関係を築き、祖父や祖母、或いは桐原の親戚たちともうまくやっている。

妹と弟、二人に共通していることは、父母の離婚の原因は全て母にある、と教えられていることである。事実は決してそうではないのだが、そのように教えることができる人がいるとしたら、それは祖母である。

その誤った認識の上に立って、“少し扱いにくい性格”の母と再び接点を持とうとすることは、彼らにとっても、母にとっても難しいものだったようだ。
妹も弟も、母からのメールや電話には一切返事をしていないらしい。それを嘆きながらも、母は月に一度はなんらかのメールを二人に送り続けていたようだ。そして、事あるごとに、「あらぁ・・この子、小さい頃のT(弟)にそっくりだわぁ・・。かわいらしい。(微笑)」と感慨にふけったり、数冊の料理本を整理しながら、「この本、K(妹)に送ってあげようと思っているのよ。すっかり忘れちゃって・・。彼氏とうまくいっているのかしら。どんな孫を産んでくれるのかなぁ・・。楽しみだわ(微笑)」と言ってみたりする。


そんな背景があって、冒頭の妹からのメールである。
これまでも頻繁に連絡をとりあっていたわけでもなく、たまに電話をしていると思ったら口喧嘩。また妹は、母に限らず僕がメールを送っても返事がこないことがほとんどなのだが、そんな一方通行のメールであっても、そのメールがエラーで戻ってこない限り、そのメールは母にとって娘とつながっている唯一の証、妹が健在であることを確認できる唯一の方法だったのだ。
娘の結婚と幸せを願い、自分のような思いだけはさせたくないと、祈っていたに違いない。
妹も母も、お互いもっとうまくやればいいのにと思うのだが、二人とも不器用な性格なようだ。それとも、離れていた期間が少し長すぎたのだろうか。
妹は思ったことは口にしないと気がすまない性格に育ってしまったようで、電話口で猛烈な勢いで母をなじることがある。母に対して「あんたは、精神病だから言ってることわかんないんだよっ!」と言い放ったこともあるそうだ。

まぁ、どっちもどっちな気もするが、妹の母に対する思いは、僕の父に対する憎しみと異質ながらも、その深さは似ているのかもしれない。

ちなみに言うと、弟の父に対する意識は僕のそれとほぼ等しい。端的に言うと、弟も父を憎んでいる。しかし、弟は母とも距離を置く。

整理するとこうだ。
母の側に着く者は、本来であれば桐原の家を継ぐべき長男である僕。
父と桐原の一族に着く者は、妹。
母と父、双方から距離をおいているのが弟。

弟は妹とは違い、僕に心を開いていてくれる。今、弟が親族の中で連絡を取っているのは唯一僕だけだそうだ。
妹は、いつの間にか桐原の血に染まってしまった。

そうは言っても、僕だって、好んで母の側に立っているわけではない。
毎日の愚痴にはうんざりするし、“少し扱いにくい性格”の母と一日一緒に過ごすことは、本当に疲れる。
しかし、ここで僕が母から離れてしまったら、彼女の人生はあまりにも悲しすぎはしないだろうか。子供達のために耐え忍んだ15年間、正式に離婚が成立するまでに18年。母は自分を殺して、ひたすら耐えてきた。子供達を守るために。そしてお金も地位も縁故もなく、誰に頼ることもなく、ゼロから自分とその子の生活を支えてきた母。スーパーの鮮魚売り場のパートから始まって、頑張って、頑張って独学で国家資格を2つも取得し、ヘッドハンティングで福祉施設の管理職となった母。
一見強そうでいて、実は驚くほど弱い人なのだ。
それは、結果的に一番長く母のそばで生活することになった僕が感じるのだから間違いはない。だから、母を一人にすることはできないのだ。自分の人生を自ら産んだ子供達のために費やした母に対して、今度はその子供である僕たち(或いは“僕”)が母の生活と心のあり方を支えてあげなければならない、そう思うから今、僕は、母の側に立つ。

そんな大見得切ってみたところで、母に生活の全てを依存している今の僕では何の説得力もないのだが・・。そのあたりのことを考えると、改めて自分のふがいなさに凹む。


話は戻って、冒頭のメールである。
そのメールの内容は、母にとって相当ショックなものだったようだ。

妹からのメールを見せられた後、15分程度、母のフォローをした。
気にすることはない。
困ったことがあれば向こうから連絡をしてくるはず。
同じ女の子なんだから、時期がくればきっと母の気持ちも理解してくれるはず。
etc

なんとか母をなだめて、僕は自分の部屋に戻った。

僕が部屋の扉を閉めた直後、居間のテレビのボリュームは不自然に大きくなり、間の抜けたタレント同士のトークの合間から、母の泣く声が聞こえる。必至に声を抑えているようだが、嗚咽が聞こえてくる。
こんなときの母はとても哀れだ。
妹をせめているのではない。自分が“母親”失格な人生を送ってきたのだと、自分自身を責めているのだ。
僕には何もすることができない。悲しむだけ悲しんで、好きなだけ涙を流してください。そうすれば、少し心が落ち着くから。

母が泣いている居間には、僕と妹と弟、3人がそろって写った唯一の写真が飾られている。まだ小学校にあがる前の僕たち3人。
母の心の中で、妹と弟はこの年で成長が止まっている。

その写真立てが飾られた部屋で、母は泣いている。


その写真の存在を、妹も弟も知らない。


そしてまた、母は泣く。



久々に。

2007-05-26 01:32:13 | 鬱病日記
5月25日


一日中ベットの中で過ごした。

なんか・・・寂しい。


久しぶりに「孤独発作」発症だろうか。

嫌だな。寂しくなるの。




夜になってパソコンでネットを覗き、いつものようにフリーメールの受信箱に溜まった広告メールを削除していく。

僕は二つのフリーメールを使っていて、この2つは自分の中で一応使いわけている。
本名をさらしているものと、そうでないもの。

本名をさらしているほうは、滅多に使うことがない。
複数登録している転職サイトから、求人情報のメールが日に1~2通届くくらい。

そんな求人メールの中に、見慣れない名前の人からのメールがまじっていることに気づいた。

誰だっけ?

メールの中身は、mixiへのお誘いだった。

あ、昨日R君と携帯でやりとりしたときに、「招待しておくよ。」とか言っていたっけ・・。
R君、の本名って、こういう名前だったんだ・・。初めて知った。

R君は僕と同い年で、学年では彼のほうが1つ下になるのだけれど、彼は自分の会社を持っている。
大学在学中に企業したそうだ。
それほど大きい会社ではないようで、色々と大変なこともあるようだが、なんとかうまく軌道に乗せてやっているらしい。
彼とは僕が川崎に住んでいたときに知り合った。

でも、本名を知ったのはこれがはじめて。
僕の携帯電話のアドレス帳には、下の名前だけの人や、ニックネームだけの名前が多い。あえてそうしているのではなく、単に知らないのだ。彼らの本名や詳しい素性を。
相手が「俺のことは“S”って呼んで。」って言われればそうする。
特段、本名のことは気にならないし、どこの出身でどういう素性の人間かは気にならない。聞かれて答えないこともないが、誰も聞かないし、その必要も感じないので、お互い必要最低限の情報だけでやりとりをしている。
だから、相手も僕の本名や年齢などを知らないことが多い。
一応断っておくが、ネットの中だけではなく、リアルの世界での話だ。


よく考えたら変だけど。


例えば、下の名前しかしらない人の運転する車でドライブをしていて、事故にあったとする。
彼は大怪我をして意識がない。
そこに警察がやってきた。

あなたのお名前は?
 桐原亮司です。

運転している方とあなたはどういうご関係ですか?
 ・・・たぶん、友人ということになると思います。

運転している方のお名前と、連絡先、ご自宅の住所などはおわかりですか?
 ・・・彼は・・“S”です。それ以外のことは知りません。


この時点で、間違いなく僕は警察署まで同行しなければならなくなるだろう。
そう考えると、本名を知らない“友達”というのも、不都合なものだ。
その前に、彼ら一人ひとりと僕との関係が、友達と定義できるものなのかすら疑わしいものだけれど。


mixiは、以前にも職場関係で誘われたことが何度かあった。
でも、これまでは面倒くさくて全てその誘いを断ってきた。
会社で顔を合わせるのに、なんでわざわざネットを通してまでやりとりをしなければならないんだ。という理由で。

でも、今回のご招待は話の流れ上、お断りしにくい状況になってしまったので、さきほど、mixiへの登録をイヤイヤながらも済ませてきたところである。

ご招待いただいたR君のページを見て、やはり、mixiなんかに参加するべきではなかったと後悔した。

そのページには、僕が知らなかったR君の本名や素性が記されている。
 へぇ、こんな奴だったんだ・・・。

日記には最近の仕事っぷりが書かれていた。
最近、香港に出張に行ってきたそうである。

バリバリ働いている。

あっちでも、こっちでも。
国内のみならず、海外にまで目を向けて。
仕事を精一杯楽しんでいるようだ。


そして、僕は、お得意の鬱状態に陥る。
こんなにバリバリと社会の中で活躍している同い年の人がいるのに、僕は毎日何をやっているのだろう・・。

自己嫌悪。


やっぱり、mixiなんてはじめなきゃよかった。

詳しいことを知らないで済む関係なのであれば、やはり、そのまま知らないでいたほうがいいのだ。

R君の余計な一面を知ってしまい、これからの僕のR君を見る目は変わるだろう。
その視線は、激しい自己嫌悪と薄汚れた嫉妬に満ちていると思われる。

あぁ、嫌だ。嫌だ。


孤独発作が現れようとしている時に、余計なことをしてしまったようだ。




検査結果&追い込まれる母(2)

2007-05-23 05:14:02 | 鬱病日記
以下、(1)より続く。




家に着いたのは夕食時だったので、母が料理を作って待っていると思っていた。しかし、居間から玄関まで出迎えにでてきた母の顔は疲労と苦悩の色に満ちていた。

すごく、嫌な予感がする・・・。

なんでも大げさに心配する母に、今日の検査結果をできるだけなんともなかったように話す。
案の定、脂肪肝という名に激しく動揺し、何が悪いのかしら?お薬は飲まなくて大丈夫なの?腫瘍とか潰瘍とか悪い病気ではないの?などといった質問が矢継ぎ早に飛んできた。
そんな質問をなんとか交わしつつ、一度部屋にもどり着替えをすませてから、僕はできるだけ母の姿を見ないようにして、テレビを見ているふりをする。
なぜなら、この時間になっても、母は食事を作っておらず、ダイニングテーブルに腰掛けたまま、何かモノ言いたげにうつむいているからだ。
これは絶対何かあったに違いない。おそらく職場で。

僕はロンブーの淳が運転するタクシーに乗った杉浦太陽が語る、今回の結婚にあたっての裏話、という全くどうでもいい話題に耳を集中させる。
動いてる杉浦太陽って、久しぶりに見た気がするなぁ。関西弁なんだ・・。確か、兄弟でユニット組んでるだっけ・・などと考えていたら、後ろから母の声がした。

「亮司・・。」

トーンが重い。返事をするのが怖い。しかたない、今日もつきあうか・・。

それから3時間、僕は母の仕事上での愚痴をひたすら聞く羽目になる。
毎日の恒例行事だから慣れているとは言え、人の愚痴をひたすら黙って聞くのは本当につらい。特に母は、鬱病である僕を超えるほどの超ネガティブ思考人間なので(本当は、母も鬱病なのではないかと僕は思っている。)話す内容も、重たく、暗く、全ての行為は絶望的観測につながっていく。

いつもなら、話半分で適当に流しておくのだが、今日はそうはいかなかった。
以前の記事でも書いたが、母は今、職場でかなり追い込まれている。
何の落ち度もないのに、職場の理事(男性)と副施設長(女性)のタッグから、職場内いじめ、と呼んでもおかしくないような扱いをされている。(※ちなみに母の役職は主任。部下を持ち一つの部署をまとめる責任者的立場。)
書く、書かないで悩んでいた、例のでっち上げられた事実に基づく「始末書」は、母の決断で結局書くことになり、始末書の書式で悩む母からアドバイスを求められた僕は普通の会社で一般的に通用する形の「始末書」の書式や良く使う表現などを教えてあげた。
その親子合作の「始末書」の内容は、事実に基づくものではなく、母にはなんら責任も落ち度もないものだった。というより、その「始末書」の対象となった(とされている)事実そのものがでっちあげなのである。
そんなもの書かなくてもいいんじゃないか、というのが僕の意見なのだが、母は悩んだ末に理事の言うとおりに「始末書」を書いた。

その「始末書」を提出したのが昨日。
そして今日、その理事から業務終了後に呼び出しがあったらしい。

提出した「始末書」の中身がなっていない。
全然私(=理事)の言った事を理解していないようだ。
ちゃんと話を聞いているのか。
頭は大丈夫か。精神的に大丈夫なのか?
そんな態度では日頃の仕事ぶりも信用ならない。
部下に対してどのように接しているか調査しなければならない。
あなたの周りで働く人は皆不愉快な思いをしている。
いずれにしても、この始末書は書き直しだ。
何回でも書き直させるから覚悟しろ。

と、延々、密室で責め立てられたそうだ。
僕もそうなのだが、母も、昔、夫だった人(=僕にとっては父。認めたくないけど。)との怒声と暴力に満ちた日々が原因で、高圧的な中年男性や、怒りを前面にだして話をする男性にトラウマがある。かつての恐怖が蘇るのだ。
相変わらず今日もそのトラウマが“発動”し、身体は振るえ、相手の話している内容も頭の中に入ってこない、自分の話した言葉も覚えていない、ただ、責められ続けたことだけは覚えている、という状態になったようだ。

今、母の職場では、前任の施設長から全幅の信頼を受けていた母など、前任の施設長の息のかかった者に対する粛清が始まっているのである。むしろ、母は最期まで残っているわずかなメンバーの一人だ。

母から聞く話からしか想像できないが、過去の出来事を含めて、今回の「始末書」騒ぎにいたるまでの一連の経緯を見る限り、理事&副施設長タッグは、母が自ら退職を願い出るように仕向けている。実際に、過去に何人も、彼らによって追い込まれたあげく、やむなく辞職していった職員が多数いるらしい。

そんな職場はさっさと見切りをつけてしまえばいいのに、と思うのだが、母は自分の年齢を理由に、転職は厳しいから・・としりごみしてしまう。
ケアマネージャーと介護福祉士という二つの国家資格も持ち、特別養護老人ホーム(通称:特養)とグループホーム、双方で管理責任者として勤めあげたキャリアがあるのだから、もっと堂々としていいのにと思う。(ちなみに、母はこの2つの資格を全て独学で取得した。そういうところはとても尊敬している。)
すくなくとも、大学も中退で運転免許すら持たない僕よりは、間違いなく高いスキルとキャリアをもった人材だと思うのに。

ダイニングテーブルを挟んで向こう側に座っている母は、見るからに憔悴しきっており、およそ自分の身の回りの全ての物事について自信を無くしていた。

正直な話、延々と愚痴を聞き続けるのも辛いが、落ち込みまっくったネガティブ人間をひっぱりあげるのも容易ではない。
そもそも、僕は鬱病患者なのだから人のモチベーションを上げるよう四苦八苦してる場合ではないのだ。落ち込みたいのは僕のほうである。

また、詰問とも呼べるような理事との面談が一段落し、部屋を出ようとした母にその理事はこう言ったという。

「桐原さん、あなたそのうち、僕の顔を見るだけで頭痛がしたり、お腹が痛くなったり、吐き気がしてきたりして、働けなくなるかもしれませんね?(微笑)」

この理事という男はなんという人間なのだろう。
あきらかにパワハラというか、脅迫と捉えてもおかしくないのではないだろうか。
それにこの一言で、一連の「始末書」騒ぎや母への冷遇や言動の全ての目的が、母を辞職に追い込むことである、とわざわざ証明したようなものである。
いい年のおっさんが、上記のようなことを女性である部下にニヤつきながら言う場面など、想像しただけで気持ち悪い。

いつもは母の愚痴にうんざりしている僕も、さすがにこの言葉を聞いたときには、驚いたし、母に同情した。
その結果、つぶれそうになっている母を励まし、さっさと転職してしまえばいいんだ、などと繰り返し繰り返し唱え、母がなんとか普段の安定した状態(普段もあまり安定しているとは言えない気もするが・・。)までひっぱりあげるのに相当な時間を要した。

母自身が気の毒だということもあるが、今、母に精神的に倒れられてしまっては、親子そろって鬱という、笑えない状態になってしまう。それだけは避けなければならない。


母もなんとか落ち着いたのを見届けて、僕は、自分の部屋(=物置)に引っ込んだ。
はぁ・・疲れた。と思った途端、今度は胃の痛みに気づいてしまった。母の話を聞いている段階からチクチクとした痛みを感じていたのだが、母から離れて気が抜けた瞬間に痛み倍増である。

頭の中で、今日検査した胃カメラの画像が蘇る。
あぁ・・・原因の一つはこれだ。間違いなく。
連日に渡る母の愚痴。と超暗黒ネガティブ思考への対応。

今夜も多分、僕の胃は、どこかで出血をはじめているに違いない。


頼む、母さん。早く立ち上がってくれ。

しかし、職場での母への“追い込み”は、今後一層激しさを増すことになるだろう。


子供のイジメ問題も深刻だが、たちの悪い大人たちの行き過ぎた言動もどうにかしてもらいたいものである。


しかし、今日は朝~夜までイベント盛りだくさんだった。
明日もこまごまとした所用を済ませなければならないのだが、気づけばもう5:00AM。

きっと昼過ぎまで沈没していることだろう。
あぁ、また一日を無駄にしてしまう。

そんな自分に自己嫌悪。

検査結果&追い込まれる母(1)

2007-05-23 05:11:50 | 鬱病日記
2月22日 ※超長いです。時間に余裕のある方だけどうぞ。


今日は、内科の検査日。
昨晩の20時以降は夕食や間食を一切せず、身体はすっかり検査待ちモード。

しかし、予定より30分も遅く起きてしまい、めちゃくちゃ焦りながらも駅にダッシュ!・・でも走るとつらいから少し早足で・・。

そんな風にバタバタしながらも、なんとか予約時間どおりに病院に着いたのだが、先客が数人いて結局待たされることになってしまった。

僕は基本的に“待たされる”ことが大嫌いである。
有名ラーメン店などで長い列をつくって順番を待っている人達の気が知れない。

なんかイライラするけど、他にも患者さんが来ているのだからしかたない。
つ~か、結局待たせるなら予約制にするなよ。なんて思ってしまう。

しばらくして名前が呼ばれ、やっと診察室へ案内された。
昨日のドクターがパソコンを前に座っている。

僕:「よろしくお願いします。」

医師:「はい、よろしくね。そこのベットに横になってください。」

指示されたベットに仰向けに寝る。看護師さんから、ズボンを少し下げて、お腹を出すように、上着を胸のあたりまでまくりあげるよう指示される。

医師:「最初は、エコーからね。」

医師は僕のお腹の上に生暖かいローション?というかゼリー状の潤滑剤とおぼしきものを塗ってから、エコーの機械でお腹を上に下に左右にと滑らせていく。

医師:「はい、大きくお腹を膨らませて・・・はい、戻して。」

医師の指示通りお腹を膨らませたり、元に戻したりといった動作を何度となく繰り返す。

せ、先生・・そこ、そんなにおされると、めっちゃ苦しいんですけど・・汗

医師:「はい、大きく膨らませて~。」

む、無理っす・・。っていうか、先生、マジ苦しいから。汗

腹部エコーの検査は、みぞおちあたりへの攻撃が多少苦しかった程度で、特段なんということはなく終了した。

さて、次は胃カメラだ。

看護師:「次は、こちらの部屋へどうぞ。」

腕への筋肉注射と、なんとも言えない味がする液体をキャップ一杯分飲まされたあと、看護師の指示で、ベットに仰向けに寝る。

看護師:「カメラは鼻からいれますから、これから麻酔していきますね。」

そう。最近の胃カメラは口ではなく鼻からカメラを入れるのだ。
口からいれるよりも格段に負担は小さい。なにより、あの嫌な嘔吐感や苦しさがないのだという。
口からの胃カメラをご経験されたことがある方にはお分かり頂けると思うが、昔の胃カメラの検査(=口から入れるタイプ)の苦しさといったら、相当なものである。カメラの挿入時のみならず、胃の中にカメラが入っているあいだ、何度となく激しい嘔吐感に襲われ、顔中の穴という穴、目や鼻、口からでた大量の涙や鼻水、涎などで顔中ぐちゃぐちゃになってしまう。決して他人には見せられない顔になる。

以前にテレビの企画で、タレントさんたちが人間ドックを受けていたのを見た。その際、使っていたのが鼻からの胃カメラだった。
確かにその時はあまり苦しそうな顔をしていなかったし、なによりテレビで放送できるほど“キレイ”な顔のままで検査が行われていることが負担の軽さを象徴している。
しかも、検査中に医師らとおしゃべりまでしているではないか。

これは相当楽な検査になったに違いない。

そんなことを考えていた次の瞬間、安心しきってベットの上で仰向けになって寝る僕の片鼻に、スプレーが3~4回噴霧された。

・・・アレ?ちょっと痛いぞ。

例えて言うなら小学生になって初めてのプールの授業中、水の中で誤って鼻から息を吸おうとして、思い切り水を鼻で吸い込んでしまった時の痛さ。

でも、この程度の苦痛なら、いや、口からの胃カメラに比べたら、こんなものは苦痛とは言えない。

看護師:「じゃぁ、鼻にお薬入れていきますね。鼻から喉に落ちてきますから、ゴックンと飲み込んじゃってください。」

僕の鼻の中に大量のローション状の何か(麻酔?)が流し込まれていく。

・・・アレ?なんか気持ち悪い・・あ、喉に来た。飲み込むんだよね・・ゴックン・・・苦い~。胃が気持ち悪い~。

このあたりから段々と雲行きが怪しくなってきた。

看護師:「はい、ちょっと管いれますね・」

そう言うと、その看護師さんは細長いチューブ状の何かを、先ほどのローション状の何かで満たされている僕の鼻の奥深くまで突っ込んだ。

・・・く、苦しいし、少し痛い・・。

その数分後。

看護師:「はい、抜きま~す。」

うわぁ・・鼻の奥から喉にかけて違和感が・・汗

看護師:「じゃ、次はこっちを入れますね。」

って、太いじゃん!!めっちゃ太いじゃん!!

看護師:「はい、いきま~す。」

うぇ・・気持ち悪い。鼻からの胃カメラって、思っていた以上につらいかも・・。
なんて思いながらも片鼻をローション状の何かで満たされ、鼻の奥から喉にかけてやや太い管を差し込まれたまま、しばらく放置された。

隣の診察室では、あきらかに別の人の診察が始まっている。
この病院に医師は一人。
麻酔が効いてくるのをまっているのかな?

と、思っていたのだが医師は、僕の検査のことなど忘れたかのように、次々と診察を行い患者をさばいていく。

放置プレイか?もしかして、本当に忘れているんじゃないのか??

不安になったのは僕だけではなかったらしい。隣の部屋での診察が終わったタイミングを見計らって、看護師さんがすかさず医師に声をかけた。

看護師:「先生、胃カメラお願いします。」

医師:「あ、そうだった。」

おい。マジ忘れかよ・・。
さっきのローションみたいなヤツが喉の奥から食道を通って、胃に達しているような気がする。
段々、吐き気がしてきた。早く終わらせて欲しい。

看護師が鼻に刺さっていた太目の管を抜いた。

医師:「はい、じゃぁ横になって。はい、入れますね。痛かったら言ってください。」

・・って、思っていたよりカメラでかっ!
その時は不安感と気持ち悪さもあって、事前に想像していたヤツよりも太く感じた。
でも、冷静に見ると実際はきっと細いんだろうな・・。

胃カメラの先端が鼻の奥に到達した瞬間、痛みが走る。痛いよ先生・・。涙

医師:「はい、今、喉まできますからね。ゴックンとしてください。」

ゴックンとしてください、と言われても、さっきのローションみたいな麻酔?が効いていて、涎を飲み込むことができない。
そんなこととはお構いなしに、医師はカメラを僕の体の更に奥まで進めていく。

うぅ・・気持ち悪い・・・・。

ベットサイドに置かれた装置の画面に、カメラをとおした僕の胃の中が写っている。
なんか、赤い点々がある・・と思ったら、カメラは医師の巧みな操作によって、胃の中のあらゆるところを映し出していく。

喉を通っているカメラが気持ち悪いので、その画面をじっと見続けることはできなかったが、素人目にも、アレ?っという画像がチラリと見え隠れする。

カメラで僕の胃の中をくまなく観察した医師は、手際よく管を抜いて何事も無かったかのようにこう言った。

医師:「はい、抜けましたよ。これで検査は終わりです。」

看護師さんからもらったティッシュでローション?でぐちゃぐちゃになった鼻の周りを拭きながら、ベットから降りようとする僕に看護師さんが声をかける。

看護師:「こちらでうがいをしてください。あと、喉にも麻酔がかかっていますので、これから1時間は食べ物を食べたり、水を飲んだりしないでくださいね。準備ができましたらお呼びしますので、待合室でお待ちください。」

やっぱ気持ち悪いよ~胃が。
昔の“口から胃カメラ”時代よりは確かに楽かもしれないけど、「口からいれるよりはるかに楽」という前評判を鵜呑みにしていた僕にとったは予想以上に苦しかった。

数分後、看護師さんに呼ばれ、再び診察室へ。
医師がパソコンの前に座って、画像をいじっている。
僕の胃だ。

医師:「はい、桐原さん、お疲れ様でした。これね、あなたの胃なんですけど、ここ、食道と胃の境目。わかります?ここね、ちょっと胃液が逆流して炎症起こしてるんですよね。あと、この辺とか、この辺、これもそう・・赤いでしょう?これ、全部炎症ね。ちょっとこの辺は胆汁が胃に逆流してきちゃってますけど・・、健康診断で引っかかったという胃のポリープというのは見当たらなかったんですけど、ここにね、胃潰瘍になりかけている部分があるんです。胃の中全体が炎症を起こしている状態で、いわゆる表層性胃炎っていうやつですね。これは恐らく現在通われている心療内科のお薬の影響があると思いますよ。消化器科的には、原因となっている薬の量を減らす、ということが一番の対処法になるんですけど、今の病状(鬱)もあるでしょうから、なかなか減らせないとは思いますが・・。」

昨年の健康診断の時(バリウムを飲んで胃のレントゲンを撮った時)に指摘された、ポリープらしきものは見当たらないという。
それならそれでいいのだが、ポリープって、放っておいたら自然になくなるものなのだろうか?まぁ、いいや。いわゆる急性期の胃炎ってことですよね?
心療内科の薬が原因かぁ・・・。
前回の診察(心療内科)の時にも、一応胸焼けや胃のもたれを主治医に相談していたのだが、

主治医(心療内科):「う~ん・・結構、(抗鬱薬以外の)お薬を出したりして、だましだましやってきてるんですけどねぇ・・。これ以上どうにかする、ということになると、抗鬱薬の量自体を減らしていかなければならないんですが、現在の病状ではちょっと・・・ムリですね。(困惑顔)」

と言われているから、今の時点での(心療内科での)減薬はムリだなぁ・・。
胃潰瘍も気になるけど胃薬出してくれるって言うし、そっちのほうに期待しよう。

医師:「それと次にね、肝臓のほうなんだけど・・」

あ、そっちもあったんだっけ。
去年の健康診断の腹部エコーでは腫瘍?(医師がどのように表現していたか忘れてしまった。)らしきものがあるけど心配ない、というとても不安感をあおる診察のお言葉を頂いたのだった。

医師:「桐原さん、最近、太りました?」

え?あ、はい・・。薬(抗鬱薬)を飲み始めるようになってから少し・・

と僕が言い終わらないうちに、医師は訳知り顔で何度も頷いて言葉を続けた。

医師:「初期の脂肪肝です。」

えぇっ・・?!( ̄□ ̄;)!!
し、し、脂肪肝???

僕の頭の中では、今まで、脂肪肝=オデブさん+オヤジ。という公式が成り立っていたのだが、まさか自分が脂肪肝と診断されるとは・・・ショックである。
かなり、ショックである。
多分、今年一年を通して、少なくとも上半期一番のショックである。

なぜ僕が脂肪肝なんかに?!
自分がオデブさんになったというのだろうか?
それとも30歳という大台にのってしまった年のせいか??

脂肪肝の原因は、飲酒によるもの、糖尿病によるもの、肥満によるものの3つに大別されるらしい。
僕は初診時の問診票で飲酒はしない、と答えているし、実際に一滴も飲めない。
血液検査でも糖尿病を含め、特別に異常な値はでていない。
すると残るは・・肥満。

いや、確かに、確かに太りましたよ。
まだ倒れそうになりながら働いてた、去年の今頃と比べて実は6kgも増えている。はい、それは認めます。でもね、BMI値では標準の範囲なんですよ?!(適正体重よりは少し上ですけど・・汗)
でも、脂肪肝ってどうすればいいんだろう。
食事療法とか薬とかあるんでえすか?

医師:「痩せてください。」

はい・・・。
肥満(あまり使いたくないけど。)による脂肪肝の場合の治療方法は、ともかく“痩せること”に尽きるらしい。
つまり適切な食生活をおくること。

まぁ、確かに最近ウェスト周りが気になっていたのは事実なんだけど・・。
収入がないからジムには通えない。でも、腹筋を毎晩40回はやってるし。
でも痩せないんだよなぁ・・。

痩せないというよりも、その前に、なぜ太るのかがわからない。
就寝時間や食事の時間は乱れまくりだけど、基本的に朝は食べないし(寝てるから。)、日中に起きてもトースト1~2枚とヨーグルト、それにカップ一杯の牛乳くらいしか食べない。夜は母が一応、料理を作ってはくれるけど、基本的にご飯(米=いわゆるメシ)は食べないから、僕の主食は豆腐。おかずがなんであろうとも、どんなにご飯がおいしく炊き上がっていたとしても、僕の食卓には豆腐(絹ごしね。)とその日のおかずしか並ばない。
なぜなら僕は、ご飯(米=メシ)が嫌いだから。どんなに短く見積もっても、この一年間は一口も米を食べていない。
夕食のおかずにしても、胸焼けがひどいから揚げ物などの油モノと、脂ぎった肉などはほとんど食べない。というか食べられない。
もちろん、間食もしない。あ、たまにチョコレート食べるけど。

この食生活のどこに太る要素があるというのだ?!

やはり、薬(抗鬱薬)のせいだろうか?
今日の検査をしてくれた消化器科の先生も、心療内科で処方されたお薬を飲まれている方で、どうしても体重が増えてしまう人や、僕のように胃炎を起こす人が多い、と言っていた。

でも、薬自体にカロリーがあるとは思えないので、薬が引き金になって食欲が増す、というなら話はわかるが、そもそも食べていないのに、なぜ太る?
しかも、主治医(心療内科)からは、痩せる薬(漢方)まで処方されているというのに。

運動しないからかな。
それとも年のせいで、基礎代謝が悪くなっているからだろうか。

いやぁ~どちらにしてもショックだ。めっちゃショック。
脂肪肝と言われるくらいなら、小さな腫瘍でもできていてくれたほうが良かった・・。それなら切って終わりだし。

やだなぁ・・・。凹むわぁ・・・。

医師は次回の診察を2週間後に行うので受付で予約をいれておくように、と僕に指示してから一枚の写真らしきものを手渡した。

医師:「はい、これ。桐原さんの胃の中ね。あげますから、持っていってください。」

渡された画像は大人の手のひらほどの大きさで、画面が4分割され、それぞれに違った角度から撮影された僕の胃の中が写っている。
ぱっとみ、プリクラのように見えてかわいい・・・・わけがない。
こんなものもらっても仕方ないけど、捨てて帰るわけにもいかないので仕方なくバックにしまう。

本日の検査結果に相当ショックを受けながら、同じビルに入っている薬局で胃薬を3種類だしてもらった。
また薬増えたよ・・。いつ、どのくすりを、どれだけ飲むのかわかんなくなるんだよなぁ・・。


脂肪肝宣告にショックを受けた僕は、その病院から駅までの区間、地下鉄二駅分の距離をあえて歩いて帰ってきた。


あぁ・・暑いな。
なんで今日はこんなに暑いんだろう。
なんて思いながら歩いていると、胃の辺りがムカムカしてきた。

まだあの麻酔薬が残っているのかなぁ。ウェ・・吐きそう。汗

それでもなお歩き続けていると、妙な脂汗をかき始めてしまった。

なんか、変だぞ。・・これって・・。

汗をかいているのに背筋が寒い、そのうえ吐き気。

あ~これって、貧血で倒れるパターンじゃん・・何でこんなときに・・(ToT)
歩けば歩くほど具合は一層悪くなる。かと言って、人通りの多い街の真ん中でしゃがみこむわけにもいかない。もう少し耐えてくれ、自分。
僕は通りすがりの薬局でスポーツ飲料を買い、すぐさま地下街にあるトイレの個室に駆け込んだ。
立っていられないので、とりあえず頭を下に下げる感じでしゃがみこみ、様子を見る。本当は横になりたいけど、トイレの個室で横になるのは嫌だ。それにそもそもトイレの個室に人が横になるだけのスペースなどない。
しゃがみこみながらも壁に寄りかかっていたのだが、その姿勢でも一向におちつく気配がないので、覚悟を決めて床にお尻をついて、足を投げ出し、支えきれない身体をトイレの個室の壁にあずけるようにして座る。
潔癖症の僕にとって、公衆トイレの床に座るなど普段は到底考えられない。余程の決意である。それだけ体調に余裕がなかったということだ。
相変わらず脂汗は止まらず、背筋は寒いまま、頭のてっぺんから血が抜けていく感覚は止まらない。意識が飛びそう・・汗
しかし、今はこうしているよりほかに、どうしようもない。
一瞬、地下街のインフォメーションセンターに行って、救護室みたいなところを借りようかとも思ったが、そもそもインフォメーションセンターがどこにあるのかわからないし、仮にその場所を知っていたとしても、今の状態で立って歩くことは不可能だ。
しかたがない、じっとしていよう・・。

気持ち悪いながらも、「ここでこのまま死んだら、誰がはじめに発見してくれるんだろう。」なんてことを考えてみたりもする。

そのまま数十分は過ぎただろうか。
少しずつ血の気が元にもどってきた。
僕は、先ほど買ったスポーツ飲料をほんの少しだけ口に含み、恐る恐る飲み込んでみる。大丈夫、もう麻酔はきれたみたい。そのまま二口、三口と口に運び、それを飲みきる頃には体調もすっかり元に戻っていた。

あ~しんどかった。貧血なんて久しぶり。余程、検査結果がショックだったのだろうか。

その後、駅までなんとかたどり着いた僕は、いつものカフェでクロワッサンとカフェラテ(ホット)を飲みながら、新聞を読み、頃合を見計らって席を立った。
僕が今居候している母の家は、街の郊外にあり、その方面へ向かう電車は、この時間帯は1時間に3本程度しかない。このブログでもことあるごとに嘆いてきたが、本当に不便なところに家を借りたものである。



(2)へ続く

心療内科+消化器科

2007-05-23 00:42:22 | 現在の処方箋
5月22日

消化器科から胃薬が処方されました。



■消化器科
<毎朝食後>
・オメプラゾン20×1錠
<毎食後>
・セレキノン錠×1錠
・ムコスタ錠100×1錠



■心療内科
<毎食後>一日3回
・デプロメール50 50mg×1錠
・トフラニール錠25mg2錠
・ドンペリン錠10×1錠
・マグラックス錠330mg×1錠
・ソラナックス0.4mg錠×1錠
・ダーゼン5mg錠×1錠

<食前>一日3回
・ツムラ防風通聖散エキス顆粒(医薬用)×1包


<睡眠前>
・ロヒプノール錠2×2錠
・セロクエル25mg錠×2錠
・ヒルナミン錠5mg×1錠
・プルセニド錠12mg×1錠

散財

2007-05-22 00:33:10 | 鬱病日記
5月21日


今日は検査の予定だった。
胃のポリープと、肝臓の腫瘍(?)。

どこの病院に行ったら良いのかわからなくて、ネットで検索してやっとみつけた病院の中で一番よさそうだったところ。
院長は肝臓病の専門家で消化器疾患にも力を入れているらしい。

最近、胸焼けしたり、胃がもたれたり・・年のせいかな・・と思いつつも、去年の健康診断で経過観察となった胃のポリープと肝臓の腫瘍(?)が気になって、一年ぶりの精密検査。

完全予約制だったので、事前に検査の予約をして、前の晩から食事を取らないなど食事制限をして、指定された午前8:30に病院へ。

午前8:30といえば、普段の僕の生活リズムからすると、早朝というか深夜である。
起きるのがしんどかった・・。

予約診療というわりには結構またされて、とりあえず医師の問診と腹部の触診。
医師が問診票を見ながらたずねる。

「現在、他のクリニック(心療内科)に通われているんですね・・。今はどんな薬を飲んでいますか?」

僕は事前に用意してきた、いつも調剤薬局から渡される薬の種類と効用が書かれたA4用紙×2枚を提出。

「う~ん、なるほどね。どのくらいの期間のんでるの?」

かれこれ、2年半超といったところでしょうか。

「ここのビルにも心療内科のクリニックが入ってますけれど、やっぱりね、これだけの量の薬を長期間服用すると胃に負担がどうしてもね、かかっちゃうんですよね・・。まぁ、今回はその薬の因果関係と、ポリープのほうもきになりますから、しっかり検査しましょうね。」

なるほど、肝臓や消化器疾患だけでなく、心療内科の現場の事情も知っているとはまるで僕のためにできたようなクリニックだ。

そこで、胃カメラと腹部エコーにうつると思いきや・・

「今日は採血だけしていただいて、検査は後日、検査結果が出てくるタイミングでやりましょう。明日には血液検査の結果でますから。」

今日じゃ、ないのかよ・・・。
急にお腹空いてきた。

そしてお会計。

受付のお姉さん:「本日は3,300円になります。」

!!
普段、公費負担制度で心療内科に通っている僕の一回の診察料は数百円程度。
しばらく一般診療科を受診する機会がなかったので、金額を聞いてちょっとひるんだ。
でも、3割負担で皆この金額を払っているんだよね・・。収入ない人にはきついなぁ。

もちろん、採血は会計終了前に済んでいるので次回の検査日時を改めて予約する。

看護師さん:「いつ頃がご都合よろしいですか?」

できるだけ早い時期に予約があいているところで・・・。

看護師さん:「ん~・・では、明日の午前10:00はいかがですか?」

また、早朝・・・。今日より遅いけど。


クリニックを出た頃のには正午近くになっていて、小腹もすいたのと喉がめちゃくちゃ渇いたこともあって、すぐそばのファーストフード店(フレッシュネスバーガー:店舗数は少ないけれど意外にお気に入り。)で軽く昼食。

血を抜かれた始めた時点で、かなりの貧血で、採決中に倒れそうになった(マジ話)のだが、その後、昨夜深夜明け方まで眠れなかったこともあって、身体がすご~くだるい。
歩くのも、立っているのも、座っているのも辛い。
このまま帰ってしまおうかとも思ったが、こんな昼間から活動しているのも久しぶりだし、このタイミングで帰ってしまうと、確実に部屋で眠ってしまうことは間違いないので、行く当ても無く街中を徘徊することに・・。

地下街を駅に向かって歩いていると、リフレクソロジーのお店を発見。
久しぶりにやってもらおうかなぁ・・と思っている間に、いつの間にか受付が終了していた。
しかも、(約)5000円のコースに首と背中のマッサージをオプション料金でつけて、挙句の果てにはハンドマッサージ(これがなんと2000円)まで薦められ、当初予定していた、5000円程度の予算を上回る、9,446円のお支払い。

足裏マッサージは気持ちよかったけど、オプションはいらなかったなぁ・・。

段々と目が冴えてきたので、いつもの徘徊パターン=本屋めぐり。
今日は3件もはしごした。
大型書店で探していた本が無くてあきらめかけていたものが、商店街の小さな書店で発見したりするからびっくり。

そして本日の本のお買い上げ総額、9,025円。
マジで~(汗)
半分は資格試験のテキストや参考書だけど、小説とか哲学書とか、ドキュメントとか色々買って、部屋に帰って来て無作為に山積みになっている未読書を数えたら、ざっと40冊ちょっと。
マジで~(汗)再び。

まぁ半分くらいは試験のテキストや参考書だけれど・・買うペースに読む時間がついていかない。
じゃぁ、買うなという話になるのだが、これがどうしてもやめられない。
やっぱ、この衝動買いは病気だね。


明日は検査。
これで、余命数ヶ月、とか宣告されたら楽なのにね。

不謹慎なのは承知な上で、なんとなく、素直に、そう感じてしまう自分がいる。

その数ヶ月を少しでも伸ばそうと必至で生きている方もいるというのに、ここには自分の命を切り売りしようとする青年がいる。

たぶん、地獄に落ちるな、俺。







政治力。

2007-05-19 02:06:34 | 鬱病日記
5月18日



夕方、母が家に帰ってくるなり愚痴を言い始めた。
うんざりだけど、これも普段と変わらない日常。
しかし、今日は少し様子が違う。

「お母さん、始末書を書かされることになったの・・。」

え?また何かやらかした?
それとも部下の不始末に対する監督責任を問われたとか?

それから母はひたすら自分の置かれている窮状を訴えたが、支離滅裂で話がよく理解できない。相当パニクッているようだ。
注意深く話の筋をひろって、彼女の話をまとめるとこうだ。

今日、勤務中に職場の理事に呼び出された。
自分では覚えの無いことを延々と注意された。
態度が普通じゃない。精神的に大丈夫か?的なことも言われた。
その面談中も話を聞く姿勢や、質問を発した母の態度について全て注意された。
とにかく理事は怒っており、始末書を来週の月曜日に提出するようにと指示された。

とのことだ。
このブログでも何度か触れたが、母は福祉施設の管理職。
仕事には厳しく、上司にこびない一匹狼的な性格ではあるが、部下からはわりと慕われているようだ。基本的に反体制的なところがある。

直属の上司である“副施設長”(女性)とは事あるごとにぶつかっており、数々の嫌がらせを受けている。天敵である。
唯一の理解者であった前任の“施設長”は、随分前に政治的な理由で退任に追い込まれており、母は後ろ盾を失った状態だ。

前任の施設長が去ったあと、これまた裏の事情(親族経営の施設なので兄弟間のいざこざや、新施設長候補の健康的理由などと諸説ある)で、現在、その施設のトップである施設長の椅子は空席である。

権力の空白地が生まれると、それまで均衡を保っていた政治力のバランスが崩れ、ポスト争いが勃発するのはどの世界でも同じこと・・。

容易に体制に組せず、部下の信頼も厚く、前任の施設長の息のかかった母の存在は、施設のトップの座を狙う“彼ら”にとって最も邪魔な存在だったらしい。

前任の施設長からは全幅の信頼を得ていた母は、その施設長が退任したこの1~2年の間に様々な冷遇を受けてきた。“彼ら”による、前任施設長の運営方針を引き継ぐ守旧派に対する“粛清”がはじまったのである。

主流派部門の責任者であった母は、施設内で最もレベルの低い人たちが送られる、非主流派の小さな部署に異動を命じられる。
それまでの部署での自分の仕事に対してプライドを持っていた母は、事実上の更迭となる異動を受け入れるか、その施設を退職するかでかなり悩んでいたようだ。
悩んで悩んだ末に、異動を受け入れた母だったが、その職場の予想以上のサービスレベルの低さに愕然とし、モチベーションが思い切り下がっていた時期もあった。それでも、その施設を利用する高齢者とのやりとりや、母を慕ってくれる職場の部下達とのやりとりをとおして、少しずつ、やりがいを見出していた矢先のことだった。

母を追い込んでいるのは、母の直属の上司である副施設長(女性)とその福祉施設の理事(男性)が率いる勢力である。これまた、お約束のように二人は男女の関係にあるという噂も施設内のあちこちで聞かれるという。

更迭とかわらない異動命令。
“経営難”を理由とした給与の大幅減給。
そして、“上司にたてついた”事を理由にした、始末書提出命令。

母はどんどん追い込まれている。
そんなに反発せずに、“彼ら”とうまくやっていけばいいのであるが、自分の信念を曲げてまで保身に徹するという選択肢は彼女の中には一切ない。
それでいて、自分の派閥をつくるようなことも好まない。

このあたりの性格は、僕にも確実に受け継がれており、「ああ・・親子だな。」と複雑な思いで苦笑してしまう。

つまり、母も(そして僕も)世渡りが下手なのである。
そして、仕事ができるだけに、理解のない上司からすると、自分の意見に遠慮なく異議を唱え、言い訳できない「正論」を真正面から突きつけてくる母のような存在は、扱いにくいことこの上ないのだ。

だから、彼女は今、確実に組織の中で潰されようとしている。

ひとしきり話を聞いたところで、「どうしたらよいかわからないのよ・・。」と頭を抱える母の相談(愚痴?)に付き合うこと2時間。

自分自身に始末書を書くような事実が思い当たらないのであれば、始末書を提出する必要はない、というのが僕の意見だ。

なぜなら、始末書という文書を残してしまうと、“彼ら”の繰り出す新たな一手に“正当性”を与えてしまう恐れがある。当然、母の立場はどんどん悪くなるし、“彼ら”の最終的な目的である、「母の退職あるいは、解雇」に一層近づくことになる。
かといって、始末書を提出しなければ、理事の命令に背いたという事実を持って、“彼ら”に格好の攻撃材料を与えてしまう。

行くも地獄、帰りも地獄なら、自分の信念をつらぬくべきだ。そのほうが後悔しないだろう。

残念ながら、今の母には援護射撃をしてくれる大物上司も、“彼ら”を黙らせる政治力もない。
裏のかけひきや、根回しを嫌う母なのだから、いつかそういう状況になることはある程度予想して、慎重に行動すべきだったのかもしれない。

しかし、その仕事が高齢者への福祉サービスの提供という人間くさい職業である以上、施設を利用しているお年寄りの側に立って体制側=経営側にモノ言うことは、おそらく母にとって疑うべきも無い使命であり、信念だったのだろう。

母は今、隣室で布団の中に入っている。
でも、恐らく眠ってはいないだろう。
彼女は今、混乱し、当惑し、苦悩している。

こういうときに、第三者の視点で相談に乗ってくれる外部の人物がいればいいのだが、そういう存在の知人・友人も母は持っていないらしい。

ただ一人、母と母の仕事ぶりに理解のあった、前任の施設長のところには電話で相談したようだ。
前任施設長といえども、今の施設運営に口を出せる立場にはないのでどこかのドラマのように、裏から政治力をつかって“彼ら”を黙らせる、なんて展開は期待できないだろう。
ただ、その前任の施設長への電話のなかで、おそらく始末書の提出を拒否して転職を勧められた母がもらした一言を耳にした時、僕の心に痛みが走った。

「・・・ええ、転職も考えましたが年齢も年齢ですから正職員としての採用があるかどうか・・実は“頼りにしていた長男も病気療養中で、働けずに家にいるんです。”私一人ならどんな仕事でもして生きていきますが、息子のこともあって、ある程度の収入は確保したいんです・・・。」

母さん、ごめんなさい。
本当はそろそろ僕が仕送りでもして生活をささえてあげなければならない年なのにこんなにだらしなくて・・。



この土日、幸か不幸か母は休みである。
いたずらに長い時間が確保されている分、悩みに悩みぬくだろう。



母は、月曜日にどういった態度にでるのだろうか。



どちらに転んでも、僕もアフターフォローの準備だけはしておかなければ・・・。
しかし、鬱で自分のことで精一杯なのに、母の人生を引き受けるのは正直しんどい。

カウンセラーという人たちは、このような相談に毎回耳を傾けているのだろうか。
そうであれば、全く忍耐強い人たちだと思った。



隠れていた偏見。

2007-05-17 02:09:57 | 鬱病日記
5月16日



今日は通院日だった。
本当は午前中に診察の予約が入っていたのだが、時間どおりに起き上がることができなかった。
やっぱり、まだ朝や午前中は身体が辛い。
そのまま放っておいて、18時以降の予約無しで受診できる時間帯に改めて受診しようかとも思ったが、一応、大人のマナーとして、病院に予約をキャンセルする旨の電話だけはいれておくことにした。

18時以降に改めて受診したいことを伝えると、電話の向こう側で何か書類をめくる音がする。ほんの数秒、無言の時間が続いた後、電話の向こうにいる受付のお姉さんがこう言った。

「桐原さん、実は今日12:00のお時間でキャンセルがでているのですが、こちらの時間ではどうですか?」

予約をキャンセルしたことで、すっかり二度寝の体勢になっていた僕は、予想していなかった先方の提案に軽くパニくりながらも、頭の中でこれから身支度を整えて、12時までに病院に着けるかどうか、必至に計算する。
しかし、あまり頭がうまく働かない。

え~と、シャワーを浴びるのに30分かかって、その後、髪を乾かして、コンタクト入れて、着替えて、あ、そうだ、今日は「傷病手当金」の申請書を持っていかなきゃならないから、それも用意して・・家から駅まで20分かかって・・・・・・う~ん?今までで何分??あ~よくわからない!!

「・・・じゃ、じゃあ、12:00に伺います。よろしくお願いします。」

うまく所要時間を計算できないまま、その場の流れで12:00に診察してもらう方向で返事をしてしまった。
電車の時間だけ確認して、とりあえずシャワーを浴びる。

僕は髪が長めの茶髪なのでシャンプーとドライに少々時間がかかる。(30歳で茶髪もどうかと自分でも思うのだが、まぁそれはおいて置こう。)
僕の悪い癖なのだがシャンプーを泡立てて、髪と頭皮を満遍なく一定のリズムで洗っていたり、髪をドライヤーで乾かしていたりすると、いつの間にか考え事を始めてしまう。それも、時間の無い時に限って。

今日のテーマは、
「人生に意味はあるのか。」
「生きていくことに意味はあるのか。」

生きていくことの意味なんて、はじめから無い。
人生においては、Whyよりhowのほうが重要だ。

なんて事を反芻しながら、気づけばギリギリの時間。
早く行かなきゃ。

早足で歩きつつも、信号が変わる間に、道中のコンビニで新聞を買うなんていう、ちょっとした冒険をしてみたりする。
時間的にやばい。ちょっと走ろう。

そんなこんなで、なんとか病院に到着。
いつもは「3時間待ちです。」なんて平気で言われる病院だが、予約をしていると応対が早い。
個室の診察室にとおされてわずか2~3分という(この病院にしては)驚異的な速さで医師が現れた。

「どうでしょう、その後は?」

僕は、明け方まで眠れなかったり、夕方まで眠っていたりと、生活リズムが乱れがちであること。
かつての部下であるバイト君達からのメールを読んで、凹んだこと。
同居している母から、「いつまでそうやって寝ているつもりなの?」という様な事を言われ、今の療養状態になかなか理解を得られないこと。
などを話した。

膝の上に置いたノートパソコンのキーボードをテンポ良く叩きながら、医師は黙って僕の話を聴いている。

その後訪れるしばしの静寂。

やがて口を開いた医師から発せられた質問は意外なものだった。
「桐原さん、お住まいはどちらでしたっけ?」

住まい?なんで今更、しかもこんなタイミングで住所の確認なんだろう。
予想だにしなかった医師の質問にいぶかしみながらも、僕は居候中の母の家の住所を伝える。
「××区の××です。すこし郊外になりますが。」

医師が言った。
「桐原さん、“障害者職業センター”という団体があるのをご存知ですか。」

・・え?・・障害者?・・職業センターって何??

“障害者”という単語に困惑している僕を前に、医師が語った説明を要約するとこうだ。
“障害者職業センター”とは、正確には

「“独立行政法人高齢・障害者支援機構”という団体によって設置・運営されている団体で、障害のある方に対する職業指導のほか、精神障害者を対象にした社会生活技能等の向上を図るための、精神障害者自立支援カリキュラムの実施を支援している団体」

なのだそうである。精神障害者のみならず、知的障害者の就業等についても支援を行っているそうだ。


「精神障害者」


という言葉が僕の胸に小骨のように突き刺さっている。
自分は精神障害者なのか?
そこには明らかに動揺している自分がいる。

医師から渡されたパンフレットには、見るからに“普通とは違う雰囲気の人たち”(※こんな表現でごめんなさい。)が、段ボールの組み立てや、木材加工?のような作業に取り組んでいる写真が掲載されている。
僕にも、彼らと同じことをしろと言うのだろうか?
段ボールの組み立てや木材加工・・。


昔、まだ僕が10代の頃、精神科病院の急性期閉鎖病棟に勤めていたことがある。
鍵がかかった「閉ざされた空間」で入院生活を送る人々。
最初にその鍵のかかった病棟の中に案内されたときの衝撃は、未だに忘れられない。
そこには僕が今まで生きてきた「リアルな世界」とは物理的に隔絶された、もう一つの社会、「異質なコミュニティ」が存在していた。
その鍵のかかった病棟の中で、“白衣を着たこちら側の人”として患者さん達のお世話をしているうちに、僕は精神病に対する理解を深め、いわゆる“障害者”と呼ばれる人たちと“障害者”をとりまく社会的な問題に対する理解も改めて深めてきたし、時間の経過とともにいつのまにか、“こちら側”にいるはずの僕と、“向こうの世界”の彼らとの境は極めて曖昧なものとなっていった。

精神病患者や精神・知的障害者に対する偏見なんてとんでもない!

少なくとも、今まではそう思ってきた。
しかし、医師の口から僕に告げられた“精神障害者向け施設への通所”という提案を最初に聞いたときは、正直、かなりショックだった。
僕は鬱病を患っており、「精神科に通う患者である」ことは自覚していたが、「精神障害者」という言葉が自分に向けられるとは思いもしなかった。

実はこの話は重要なところが抜けている。
医師がこの施設のことを持ち出したのは、この施設が

「精神疾患により休職している方の円滑な職場復帰に向けて、個別の計画に基づくウォーミングアップのための支援を行う、職場復帰のための支援=リワーク支援」

を行っているためであった。

つまり、この「リワーク支援」なるものを受けることによって、生活リズムを取り戻すと共に、家族(僕の場合は母)に対しても、「きちんと治療してますよ。」的な見せ方をしましょうということらしい。

僕はこの病気になって休職をしてから、2度の職場復帰と、1度の転職による社会復帰に失敗している。

医師から渡されたパンフレットによると、この団体は、精神障害者に対する支援だけではなく、

「(精神疾患により休職している者が所属する)事業所に対しても、受け入れ態勢等の整備に係る助言・援助」

も行っているとある。
つまり、精神病患者とその主治医及び家族、そしてその患者が所属している事業所間の橋渡し役になり、円滑な会社復帰を支援してくれる、ということである。

「このリワーク支援を受けた、他の患者さんからの評価もいいんですよ。」

なんだ。こんな団体があるのなら、もっと早く紹介してくれればよかったのに。
結局その団体のパンフレットをもらって、他にもいくつか身体面に対する問診をうけたあと、その日の診察は終了した。

いつもならこのままJRの駅まで地下鉄に乗って移動するのだが、今日は天気が良かったので、日頃の運動不足解消もかねて大きな公園沿いに、地下鉄一駅分の距離を歩いた。

その途中、小腹が空いたのでいつものカフェでベーグルとカフェラテを飲むことにした。
猫舌な僕はホットのカフェラテがいい具合に冷めるのを待ちながら、先ほど医師から渡されたパンフレットを改めて見直してみる。
この団体の支援を受けるには、まず始めに面談を受けなければならないらしい。しかも予約が必要だそうだ。
正直に言ってあまり気がすすまなかったが、折角、医師が薦めてくれたものであるし、個人別にプログラムを組んでくれるというので、リハビリのつもりで通うのもいいかな、と思い、冷めたカフェラテを一口飲んでからセンターに電話をかけた。

「あの、初めてお電話させていただいたのですが・・・」

僕は電話の向こうの男性職員に、現在、鬱病で精神科に通っていること、医師からこのセンターのリワーク支援を進められたことなどを話した。

「なるほど。でも、現在は休職ではなく、もうお仕事を辞められていらっしゃるということですよね?う~ん・・。」

・・ん?
明らかに電話の向こうの担当者は困惑している。なんだか医師の説明と違う気が・・。

その後の会話で、個別に面談を受ける前に、「ガイダンス」に参加して説明を受ける必要があること、そのガイダンスも予約制なのだが、今月はもう全ての日程が埋まってしまっていて、来月まで空きが無いことなどを告げられた。
しかたがないので、来月に行われるガイダンスの中で最も早い日程で空きのある日に予約をし、電話を切ろうとしたその時、男性職員は次のようなことをたずねてきた。

「あ、それと今、手帳はお持ちでないですよね?」

目の前にスケジュール帳を開いていた僕は、
「あります。」

と答えたのだが、ここでいう“手帳”とは、障害者手帳のことを意味していたらしい。


精神障害者。



この言葉がまた僕の頭の中を駆け巡る。

電話を切り、すっかり冷めてしまったカフェラテを口に含みながら、僕は考えた。
精神科勤務時代に多くの患者さんを見てきたから、僕は他の一般的な人々よりも、精神病や精神障害者に対する理解が深いということがあったとしても、間違っても精神病患者や精神障害者に対する偏見など微塵ももっていないつもりでいた。

しかし、僕は、医師から「精神障害者」という言葉を突きつけられたとき、激しく動揺し、正直なところ、「ここまで落ちたか・・。」(※精神障害者の方、こんな表現でごめんなさい。)と目の前が暗くなった。
偏見など無い、と思い込んでいたのに、僕の心の中には精神障害者の問題はどこか人事であり、自分とは別の世界の出来事となっていた。
社会的に弱者で支援が必要な人たち。でも、まさか自分がその立場になるとは・・。
その上、彼らは気の毒だが“援助を受ける側の人たち”で、“僕ら”は彼らに“援助をしてあげる立場にある者”と、精神障害者の人たちを何か、“一段高いところからみるような気持ち”が、僕の心の根底にへばりついていたのだ。

結局僕は、“今のところは”、精神病患者ではあるが、精神障害者であることの認定は受けていない。
でも、鬱病になった人の中には、長年の闘病の末、最終的に障害者としての認定を受けて、公的な扶助を受けながら生活されている方もいると聞く。
これは人事ではないのだ。

鬱病と診断されたときもそうだった。
精神科勤務時代は、もちろん鬱病の患者さんのお世話もしたが、自室のベットで泣きながら塞ぎこむ患者さんの苦しみを、看護のテキストなどを読んで理解したつもりになっていた。
しかし、実際にその病にかかって、鬱という苦しみを味わうと、「あの患者さんは、こんなにも苦しい思いをされていたのか・・。」と自分の理解の浅さを思い知らされた。

頭での理解は、所詮、知識でしかないのだ。
自分の身体で体験しなければ、真の苦しみはわからない。
その立場におかれてみなければ、世間の偏見や社会生活を送る困難さを真に理解することはできない。

今後、その施設の援助を受けるかどうかはまだわからないが、今回の診療は、自分の中の隠れた偏見をえぐり出してくれたという意味で、実に貴重な体験になった。

こんな年でこんな病気になって、しかも無職で一日中引きこもっていても、心のどこかで、社会の弱者に対して、一段高いところにいる、と思い込んでいた自分が恥ずかしい。

これからは、もっと謙虚な姿勢で何事にも望もうと心に刻んだ一日であった。