6月20日
お久しぶりです。桐原です。
前回の記事からだいぶ期間があいてしまいました。
その間、色々なことを考え、そして色々な事件が起きて、精神的にいっぱいいっぱいだったので、ブログの更新もままなりませんでした。
その間に考えたり、起こった事件についてはいずれまたここのブログでネタにします。
今日は、気分転換に見にいった映画のことを少し、書きます。
今日、見に行った映画はタイトルにあるとおり、「そのときは彼によろしく」(監督:平川雄一朗)。
この映画の原作は同名小説「そのときは彼によろしく」(著:市川拓司)
原作小説の“がっかり感”は、このブログで以前書いたとおりである。
小説としてのこの作品は、全く持って僕を満足させるものではない。
それなのになぜ、わざわざ映画化された作品を見に行こう、という気になったのかといえば、主演が山田孝之くんで、監督が平川雄一朗さんだったからである。
東野圭吾氏の著作に「白夜行」という有名な作品があるが、それをテレビで連続ドラマ化したときに、暗く重い過去を背負って生きていく主人公を演じたのが山田君、そのときの演出が平川さんだった。
テレビドラマの「白夜行」は、原作小説のそれとは全く印象の違う作品に仕上がってしまい、ファンの間では評価が真っ二つに分かれたが、それはそれで両方とも僕は“あり”だと思った。
小説では登場人物の心理描写がほとんどないため、ドラマにするときはどうなるんだろうと思っていたら、ほほぅ・・なるほど。結構楽しめたのだ。
今回の鑑賞は、原作を超える面白い作品を作る二人、そこにわずかな期待をかけてのことだった。
ここから先は、できれば先に小説版「そのときは彼によろしく」に関する記事を読まれてから、改めて読んで頂きたい。(左の「読書」のカテゴリーからどうぞ。)
というわけで、ここから先は原作小説の粗筋をある程度知っている方(上記で紹介した記事を読まれた方)を前提に書いていきたいと思う。
映画版では、登場人物もずっと少なくなり、あちこちに散りばめられていた小さなエピソードたちは、ばっさりと切り落とされている。
映像化して欲しかったエピソードも削除されていたりして、若干がっかりだが、余計な話を省いた分、全体的な話の流れや登場人物の関係はぐっとスマートでわかりやすいものになっている。
実はこの映画、初回シーンから、ほぼネタバレである。
このあたりはドラマ「白夜行」の初回放送を彷彿とさせる。
僕が原作で一番嫌いだった“スピリチュアルな要素”も、だいぶ現実的な描き方になっており、やはり多少の違和感は残るものの、比較的、地に足のついた話になっているように思う。
そして、原作小説で決定的に失敗だと思っていた、“エンディングが2つある構造”については、これも映画化によってだいぶストーリーに手直しがされ、なんとか一つのエンディングにまとめられたようだ。
恋愛・友情小説でありながら、原作において父子の愛情物語という“山場”を演じさせられたうえ、読者の大方の期待にそむき、大事なセリフを言う役を与えられてしまった“父”は、今回の映画の中においては、要所要所でキーマンとして登場する大事な役割を背負っている。
原作小説の“父”が子(=主人公)に託したセリフを聞いたとき、おそらく100人中99人が、「おまえかよっ!」と突っ込みたくなっただろうと思われるが、今回の映画化ではそんな間抜けなセリフを言わずに済んだようだ。(似たようなセリフを言わされてはいたけれど・・。)
原作で、幼少時代の3人の主人公が過ごしていた“ゴミの山”は、緑の“つた”で覆われた“古びた廃バス”に変わっていた。
“ゴミの山”には愛着があったが、“緑のつたで覆われた古びた廃バス”もこれはこれで映像的に美しく、(たぶん、この映画の中で一番美しいカットだと思う)美術さん頑張ったね!という感じである。
同じく、主人公達が幼少時代にすごした“水辺”は、予想以上に大きな湖になっていた。
公式サイトにも「・・・小さな湖畔で遊び、・・」と紹介があるのに。あのサイズはでか過ぎるだろう・・。
主人公が経営するアクアプランツショップは、実写化されて、まぁ予想通りのキレイさ。
山田くんの演技も悪くなく、その父役の俳優さん(とても有名な人なのだが、名前がでてこない・・。)の演技も安定感があり、キーマンを演じるとともに、若者3人の主人公が繰り出す映画を、地につなぎとめてくれる役割を果たしているようにも受け取れる。
だがしかし、問題は、主人公の一人を演じる長澤まさみだ。
彼女は作品の中で一番重要な役柄を演じているのだが、どこからどう見ても、長澤まさみにしか見えない。
役柄が見えないのだ。
原作では、幼少の頃から男勝りで、サバサバとしていてクール(=かっこいい)な性格という設定であり、大人になって主人公達と再会したときの性格も、クールでさっぱりとしていて、女々しさを感じさせない。それがとても気持ちよく感じられていた。
なのに、である。
映画に出てきた“彼女”は、原作にある“彼女”ではなく、長澤まさみだった。
原作の“彼女”に人間的な魅力を感じていた僕にとっては、大きな不満である。
幼少期を演じていた子役の女の子のほうが、(演技の上手い下手は横においたとして)、原作のイメージを忠実に再現している。
映画全体を5つ☆で評価すると、
★★.5☆☆☆
★=2.5、というところか。
僕は原作小説を★=2つと評価した。
映画も本当は★=2つ程度にしたいところなのであるが、物語の筋を1つにまとめてわかりやすいものにしているところ、中途半端なスピリチュアル要素が、どうにか許容範囲なものに薄められているところなど、映画版スタッフの苦労の跡を加えて、★=2.5。
原作がとても面白いのに実写になると途端に面白くなくなってしまう作品は山ほどあるが、原作の出来が良くないと、やはり映画化して面白くしようとしても限界があるようだ。
あ、そうそう。
最後にもう一つ付け加えておくと、原作小説では予想だにしなかった人物から飛び出した“あのフレーズ”は、映画版では“然るべき人”から“然るべき人”に伝えられるようになっている。予想通りと言えば予想どおりだが、やはり、こうすべきなのが本当なのだと、見ていて感じた。
その胸のつかえが降りたところも、映画化して成果をあげた点だと思う。
若干、辛口の評価になってしまったが、原作も、映画も、僕は多分、もう読み返すことはないし、また見たいとは思わない。
ちょっとがっかり作品であるが、映像としては悪くないので、平川監督の次回作に期待したい。できれば、山田君主演、長澤まさみ抜きで。
お久しぶりです。桐原です。
前回の記事からだいぶ期間があいてしまいました。
その間、色々なことを考え、そして色々な事件が起きて、精神的にいっぱいいっぱいだったので、ブログの更新もままなりませんでした。
その間に考えたり、起こった事件についてはいずれまたここのブログでネタにします。
今日は、気分転換に見にいった映画のことを少し、書きます。
今日、見に行った映画はタイトルにあるとおり、「そのときは彼によろしく」(監督:平川雄一朗)。
この映画の原作は同名小説「そのときは彼によろしく」(著:市川拓司)
原作小説の“がっかり感”は、このブログで以前書いたとおりである。
小説としてのこの作品は、全く持って僕を満足させるものではない。
それなのになぜ、わざわざ映画化された作品を見に行こう、という気になったのかといえば、主演が山田孝之くんで、監督が平川雄一朗さんだったからである。
東野圭吾氏の著作に「白夜行」という有名な作品があるが、それをテレビで連続ドラマ化したときに、暗く重い過去を背負って生きていく主人公を演じたのが山田君、そのときの演出が平川さんだった。
テレビドラマの「白夜行」は、原作小説のそれとは全く印象の違う作品に仕上がってしまい、ファンの間では評価が真っ二つに分かれたが、それはそれで両方とも僕は“あり”だと思った。
小説では登場人物の心理描写がほとんどないため、ドラマにするときはどうなるんだろうと思っていたら、ほほぅ・・なるほど。結構楽しめたのだ。
今回の鑑賞は、原作を超える面白い作品を作る二人、そこにわずかな期待をかけてのことだった。
ここから先は、できれば先に小説版「そのときは彼によろしく」に関する記事を読まれてから、改めて読んで頂きたい。(左の「読書」のカテゴリーからどうぞ。)
というわけで、ここから先は原作小説の粗筋をある程度知っている方(上記で紹介した記事を読まれた方)を前提に書いていきたいと思う。
映画版では、登場人物もずっと少なくなり、あちこちに散りばめられていた小さなエピソードたちは、ばっさりと切り落とされている。
映像化して欲しかったエピソードも削除されていたりして、若干がっかりだが、余計な話を省いた分、全体的な話の流れや登場人物の関係はぐっとスマートでわかりやすいものになっている。
実はこの映画、初回シーンから、ほぼネタバレである。
このあたりはドラマ「白夜行」の初回放送を彷彿とさせる。
僕が原作で一番嫌いだった“スピリチュアルな要素”も、だいぶ現実的な描き方になっており、やはり多少の違和感は残るものの、比較的、地に足のついた話になっているように思う。
そして、原作小説で決定的に失敗だと思っていた、“エンディングが2つある構造”については、これも映画化によってだいぶストーリーに手直しがされ、なんとか一つのエンディングにまとめられたようだ。
恋愛・友情小説でありながら、原作において父子の愛情物語という“山場”を演じさせられたうえ、読者の大方の期待にそむき、大事なセリフを言う役を与えられてしまった“父”は、今回の映画の中においては、要所要所でキーマンとして登場する大事な役割を背負っている。
原作小説の“父”が子(=主人公)に託したセリフを聞いたとき、おそらく100人中99人が、「おまえかよっ!」と突っ込みたくなっただろうと思われるが、今回の映画化ではそんな間抜けなセリフを言わずに済んだようだ。(似たようなセリフを言わされてはいたけれど・・。)
原作で、幼少時代の3人の主人公が過ごしていた“ゴミの山”は、緑の“つた”で覆われた“古びた廃バス”に変わっていた。
“ゴミの山”には愛着があったが、“緑のつたで覆われた古びた廃バス”もこれはこれで映像的に美しく、(たぶん、この映画の中で一番美しいカットだと思う)美術さん頑張ったね!という感じである。
同じく、主人公達が幼少時代にすごした“水辺”は、予想以上に大きな湖になっていた。
公式サイトにも「・・・小さな湖畔で遊び、・・」と紹介があるのに。あのサイズはでか過ぎるだろう・・。
主人公が経営するアクアプランツショップは、実写化されて、まぁ予想通りのキレイさ。
山田くんの演技も悪くなく、その父役の俳優さん(とても有名な人なのだが、名前がでてこない・・。)の演技も安定感があり、キーマンを演じるとともに、若者3人の主人公が繰り出す映画を、地につなぎとめてくれる役割を果たしているようにも受け取れる。
だがしかし、問題は、主人公の一人を演じる長澤まさみだ。
彼女は作品の中で一番重要な役柄を演じているのだが、どこからどう見ても、長澤まさみにしか見えない。
役柄が見えないのだ。
原作では、幼少の頃から男勝りで、サバサバとしていてクール(=かっこいい)な性格という設定であり、大人になって主人公達と再会したときの性格も、クールでさっぱりとしていて、女々しさを感じさせない。それがとても気持ちよく感じられていた。
なのに、である。
映画に出てきた“彼女”は、原作にある“彼女”ではなく、長澤まさみだった。
原作の“彼女”に人間的な魅力を感じていた僕にとっては、大きな不満である。
幼少期を演じていた子役の女の子のほうが、(演技の上手い下手は横においたとして)、原作のイメージを忠実に再現している。
映画全体を5つ☆で評価すると、
★★.5☆☆☆
★=2.5、というところか。
僕は原作小説を★=2つと評価した。
映画も本当は★=2つ程度にしたいところなのであるが、物語の筋を1つにまとめてわかりやすいものにしているところ、中途半端なスピリチュアル要素が、どうにか許容範囲なものに薄められているところなど、映画版スタッフの苦労の跡を加えて、★=2.5。
原作がとても面白いのに実写になると途端に面白くなくなってしまう作品は山ほどあるが、原作の出来が良くないと、やはり映画化して面白くしようとしても限界があるようだ。
あ、そうそう。
最後にもう一つ付け加えておくと、原作小説では予想だにしなかった人物から飛び出した“あのフレーズ”は、映画版では“然るべき人”から“然るべき人”に伝えられるようになっている。予想通りと言えば予想どおりだが、やはり、こうすべきなのが本当なのだと、見ていて感じた。
その胸のつかえが降りたところも、映画化して成果をあげた点だと思う。
若干、辛口の評価になってしまったが、原作も、映画も、僕は多分、もう読み返すことはないし、また見たいとは思わない。
ちょっとがっかり作品であるが、映像としては悪くないので、平川監督の次回作に期待したい。できれば、山田君主演、長澤まさみ抜きで。