4月19日
※なんとなく“やっつけ”の記事で、わかりにくく、未整理な文章になってしまいました。推敲する意欲も力も今はないので、下書きどおり掲載します。読みにくいかと思いますが、僕が伝えたかった“熱意”だけでも感じ取っていただければ幸いです。 桐原亮司
今朝起きたのは正午を過ぎていた。
新しく増えた薬のせいか、だるさや眠気が増したような気がする。
そのまま2~3時間ほどベットの中で寝たり起きたりして、自分の部屋から出たのは夕方になっていた。
この時間になっては学校に行く気にもならず、起き抜けに牛乳をカップ一杯飲んだあと、新聞を買いに近所のコンビニに行った。
なにげなく、新聞のページを一枚ずつめくっていくと、意外な見出しが目についた。
『遠ざかる尾崎の叫び 没後15年 若者はかわったか』
(朝日新聞,2007,4,19)
“尾崎”とは言うまでもなく、尾崎豊である。
なぜ全国紙にこのタイミングで尾崎豊の特集が組まれたのかを考えながら記事を読んでいくと、程なくその答えが見つかった。
今月25日は尾崎豊の没後15年にあたるそうだ。
記事によると、学校や親や教師といった大人社会に対する反抗や、自己の内面の不安感を書いた尾崎の歌詞が、今では高校の「倫理」の教科書に掲載されているそうである。
このことだけでも驚きを禁じえないが、それを薦めたのも「自己の生き方を模索する代表例」(同紙より引用)として、現場の教師から掲載を薦められたとのことである。
“校舎の窓ガラスを壊してまわる”という歌詞を歌うシンガーを教科書に掲載することをすすめるなんて、なんと理解ある教師だろう。
それも尾崎の言葉を教科書に取り上げられた出版社も一社ではないらしい。
現代の教師も捨てたものではないと歓心。
記事では、死後15年たった今でもベスト版のセールスは年10万枚にのぼる、という事実を掲載する一方、現代の若者達の“尾崎離れ”の様子を描いている。
記事の中で著名な精神科医である香山リカさんが、「学生の反応は年を追うごとに悪くなっている」と証言している。
記事によると、香山さんは‘00年ごろから大学の授業で「卒業」などを聞かせているという。
当初から(尾崎の歌詞について)「この怒りがどこから来ているかわからない」といった意見があったそうだが、最近は「きっぱりとした否定的な感想」が目立つそうだ。
・周りに迷惑をかけるのは間違い
・大人だって子供のことを思っているのに反発するのはおかしい
僕はこの記事に少なからざる衝撃を受けた。
実は僕は尾崎豊というアーティストの存在を彼の葬儀の中継をとおして初めて知ることになるのであるが、中学3年から高校2年くらいまでにかけて、僕は尾崎豊の歌とともに生きてきた一人である。
高圧的な大人と、不条理な社会、自分のことを理解してもらえない親や教師への反抗と、自分という存在に対する不安。
僕らはそんな経験を経て大人になってきたものだと思っていた。
本音と建前を使い分け、不条理な世界に対する反抗を受け入れながら、社会のくだらない常識を徐々に受け入れていくことは、それが大人になるための通過儀礼なのだと思うようになっていた。
若者は、特に思春期の若者は、その不安定な身体と心を抱えたまま、周囲の大人や理不尽な規則、社会の不条理に全身をつかって反抗しながら、その悩み苦しんだ過程を通じて、少しずつ“大人社会”の仲間いりをしていくものだと思う。
この記事を読むまでは、そう信じていたし、それは時代を隔てた世代でも、この世代共通の通過儀礼だと思っていた。
それなのに、最近の若者は、尾崎の歌に、尾崎の訴えに、尾崎の心の叫びに、共感するどころか、“反発”するというのである。
僕にとっては、衝撃的な事実である。
近頃の若い者は・・という決まり文句は使いたくないが、人はその成長のどこかで(それも10代の早い時期に)、“反抗する何か”を対象としてもち、出口の見えない憤りを抱えながら“健全な反抗”を経験することがその人格や社会性を構築する上で不可欠なものではないのかと思っている。
不法行為を推奨するものでもないし、社会規範を逸脱する行為、他人に迷惑をかける行為は自重しなければならない。それは「人間として社会で生きるうえでの約束ごと」だからである。
権威を振りかざす大人や、既存の不条理な制度、理不尽な社会などに反抗し、それでも押さえつけられ、納得させられる理由もないまま、“悪者・問題児・異端児”扱いされる。
その僕らとは違う“常識”の中で生きている教師や親達とぶつかり合うことで、社会という得体の知れない大きな壁にぶつかり、大人達の「常識」を少しずつ受け入れることで、その大人たちの言い分をひとつずつ、しかたなく受けていく過程で(それは自分自身の敗北につながるのだが)、僕たちは一つずつ「大人」の仲間入りをしていった。それを裏から見ると、僕たちがあれだけ反抗した“社会の一員”になっていくということは、大人たちと戦って敗れた、僕らの「言い分」を一つずつ捨てていく過程でもあったのだ。
これは、世代の壁を越えて普遍な原理だと思っていた。
そんな“健全な反抗心”が、今の若者には感じられないというのだから、これほどショックなことはない。
僕は、30歳になった今も例えば尾崎のこんな歌詞に胸をうたれ、その言葉の真意を考えてしまう。
<人は誰も縛れたかよわき子羊ならば 先生あなたはかよわき大人の代弁者なのか>(『卒業』より:原文は朝日新聞掲載記事より引用)
ヒトが成長する過程では、不条理で理不尽で不平等な社会や、その構成員である大人たちに対する、「純粋なで健全な反抗心」が必要なのではないかと僕は思う。
特に思春期の若者達は、学校という閉鎖社会のなかで、自分という存在に対する不安感と、周囲の何者ともしれない“何か”に対して、あまりあるエネルギーをぶつけて発散しなければならない。
「怒る」ことは、必ずしも悪いことではないし、むしろヒトの成長のある時期においては、「健全な反抗心や、得たいのしれない怒り」を感じ、時には行動に移すことは、その人格の形成過程において、とても重要なことではなかろうか。
若者の“尾崎離れ”について、同記事のなかで作家吉岡忍さんは次のように分析をしている。
「彼の歌は、内面に深く食い込んできて、今の若い人にとっては触って欲しくないところに及ぶ。現状に適応してトラブルなく日々を過ごすことに価値を置くとそこに気づきたくないのだろう。」
一方で記事の最後の部分では、「ミスター・チルドレンなどが参加したトリビュート盤の影響で10代のファンも増えてはいる」(同紙より)とのことだ。
尾崎豊が残した楽曲と、彼の生き様は今でも多くの人々に影響を与えているし、これからも、彼の作品は新しい世代に引き継がれていくことを祈ってやまない。