goo blog サービス終了のお知らせ 

the other half 2

31歳になりました。鬱で負け組。後悔だらけの人生だけど・・。

政治力。

2007-05-19 02:06:34 | 鬱病日記
5月18日



夕方、母が家に帰ってくるなり愚痴を言い始めた。
うんざりだけど、これも普段と変わらない日常。
しかし、今日は少し様子が違う。

「お母さん、始末書を書かされることになったの・・。」

え?また何かやらかした?
それとも部下の不始末に対する監督責任を問われたとか?

それから母はひたすら自分の置かれている窮状を訴えたが、支離滅裂で話がよく理解できない。相当パニクッているようだ。
注意深く話の筋をひろって、彼女の話をまとめるとこうだ。

今日、勤務中に職場の理事に呼び出された。
自分では覚えの無いことを延々と注意された。
態度が普通じゃない。精神的に大丈夫か?的なことも言われた。
その面談中も話を聞く姿勢や、質問を発した母の態度について全て注意された。
とにかく理事は怒っており、始末書を来週の月曜日に提出するようにと指示された。

とのことだ。
このブログでも何度か触れたが、母は福祉施設の管理職。
仕事には厳しく、上司にこびない一匹狼的な性格ではあるが、部下からはわりと慕われているようだ。基本的に反体制的なところがある。

直属の上司である“副施設長”(女性)とは事あるごとにぶつかっており、数々の嫌がらせを受けている。天敵である。
唯一の理解者であった前任の“施設長”は、随分前に政治的な理由で退任に追い込まれており、母は後ろ盾を失った状態だ。

前任の施設長が去ったあと、これまた裏の事情(親族経営の施設なので兄弟間のいざこざや、新施設長候補の健康的理由などと諸説ある)で、現在、その施設のトップである施設長の椅子は空席である。

権力の空白地が生まれると、それまで均衡を保っていた政治力のバランスが崩れ、ポスト争いが勃発するのはどの世界でも同じこと・・。

容易に体制に組せず、部下の信頼も厚く、前任の施設長の息のかかった母の存在は、施設のトップの座を狙う“彼ら”にとって最も邪魔な存在だったらしい。

前任の施設長からは全幅の信頼を得ていた母は、その施設長が退任したこの1~2年の間に様々な冷遇を受けてきた。“彼ら”による、前任施設長の運営方針を引き継ぐ守旧派に対する“粛清”がはじまったのである。

主流派部門の責任者であった母は、施設内で最もレベルの低い人たちが送られる、非主流派の小さな部署に異動を命じられる。
それまでの部署での自分の仕事に対してプライドを持っていた母は、事実上の更迭となる異動を受け入れるか、その施設を退職するかでかなり悩んでいたようだ。
悩んで悩んだ末に、異動を受け入れた母だったが、その職場の予想以上のサービスレベルの低さに愕然とし、モチベーションが思い切り下がっていた時期もあった。それでも、その施設を利用する高齢者とのやりとりや、母を慕ってくれる職場の部下達とのやりとりをとおして、少しずつ、やりがいを見出していた矢先のことだった。

母を追い込んでいるのは、母の直属の上司である副施設長(女性)とその福祉施設の理事(男性)が率いる勢力である。これまた、お約束のように二人は男女の関係にあるという噂も施設内のあちこちで聞かれるという。

更迭とかわらない異動命令。
“経営難”を理由とした給与の大幅減給。
そして、“上司にたてついた”事を理由にした、始末書提出命令。

母はどんどん追い込まれている。
そんなに反発せずに、“彼ら”とうまくやっていけばいいのであるが、自分の信念を曲げてまで保身に徹するという選択肢は彼女の中には一切ない。
それでいて、自分の派閥をつくるようなことも好まない。

このあたりの性格は、僕にも確実に受け継がれており、「ああ・・親子だな。」と複雑な思いで苦笑してしまう。

つまり、母も(そして僕も)世渡りが下手なのである。
そして、仕事ができるだけに、理解のない上司からすると、自分の意見に遠慮なく異議を唱え、言い訳できない「正論」を真正面から突きつけてくる母のような存在は、扱いにくいことこの上ないのだ。

だから、彼女は今、確実に組織の中で潰されようとしている。

ひとしきり話を聞いたところで、「どうしたらよいかわからないのよ・・。」と頭を抱える母の相談(愚痴?)に付き合うこと2時間。

自分自身に始末書を書くような事実が思い当たらないのであれば、始末書を提出する必要はない、というのが僕の意見だ。

なぜなら、始末書という文書を残してしまうと、“彼ら”の繰り出す新たな一手に“正当性”を与えてしまう恐れがある。当然、母の立場はどんどん悪くなるし、“彼ら”の最終的な目的である、「母の退職あるいは、解雇」に一層近づくことになる。
かといって、始末書を提出しなければ、理事の命令に背いたという事実を持って、“彼ら”に格好の攻撃材料を与えてしまう。

行くも地獄、帰りも地獄なら、自分の信念をつらぬくべきだ。そのほうが後悔しないだろう。

残念ながら、今の母には援護射撃をしてくれる大物上司も、“彼ら”を黙らせる政治力もない。
裏のかけひきや、根回しを嫌う母なのだから、いつかそういう状況になることはある程度予想して、慎重に行動すべきだったのかもしれない。

しかし、その仕事が高齢者への福祉サービスの提供という人間くさい職業である以上、施設を利用しているお年寄りの側に立って体制側=経営側にモノ言うことは、おそらく母にとって疑うべきも無い使命であり、信念だったのだろう。

母は今、隣室で布団の中に入っている。
でも、恐らく眠ってはいないだろう。
彼女は今、混乱し、当惑し、苦悩している。

こういうときに、第三者の視点で相談に乗ってくれる外部の人物がいればいいのだが、そういう存在の知人・友人も母は持っていないらしい。

ただ一人、母と母の仕事ぶりに理解のあった、前任の施設長のところには電話で相談したようだ。
前任施設長といえども、今の施設運営に口を出せる立場にはないのでどこかのドラマのように、裏から政治力をつかって“彼ら”を黙らせる、なんて展開は期待できないだろう。
ただ、その前任の施設長への電話のなかで、おそらく始末書の提出を拒否して転職を勧められた母がもらした一言を耳にした時、僕の心に痛みが走った。

「・・・ええ、転職も考えましたが年齢も年齢ですから正職員としての採用があるかどうか・・実は“頼りにしていた長男も病気療養中で、働けずに家にいるんです。”私一人ならどんな仕事でもして生きていきますが、息子のこともあって、ある程度の収入は確保したいんです・・・。」

母さん、ごめんなさい。
本当はそろそろ僕が仕送りでもして生活をささえてあげなければならない年なのにこんなにだらしなくて・・。



この土日、幸か不幸か母は休みである。
いたずらに長い時間が確保されている分、悩みに悩みぬくだろう。



母は、月曜日にどういった態度にでるのだろうか。



どちらに転んでも、僕もアフターフォローの準備だけはしておかなければ・・・。
しかし、鬱で自分のことで精一杯なのに、母の人生を引き受けるのは正直しんどい。

カウンセラーという人たちは、このような相談に毎回耳を傾けているのだろうか。
そうであれば、全く忍耐強い人たちだと思った。



隠れていた偏見。

2007-05-17 02:09:57 | 鬱病日記
5月16日



今日は通院日だった。
本当は午前中に診察の予約が入っていたのだが、時間どおりに起き上がることができなかった。
やっぱり、まだ朝や午前中は身体が辛い。
そのまま放っておいて、18時以降の予約無しで受診できる時間帯に改めて受診しようかとも思ったが、一応、大人のマナーとして、病院に予約をキャンセルする旨の電話だけはいれておくことにした。

18時以降に改めて受診したいことを伝えると、電話の向こう側で何か書類をめくる音がする。ほんの数秒、無言の時間が続いた後、電話の向こうにいる受付のお姉さんがこう言った。

「桐原さん、実は今日12:00のお時間でキャンセルがでているのですが、こちらの時間ではどうですか?」

予約をキャンセルしたことで、すっかり二度寝の体勢になっていた僕は、予想していなかった先方の提案に軽くパニくりながらも、頭の中でこれから身支度を整えて、12時までに病院に着けるかどうか、必至に計算する。
しかし、あまり頭がうまく働かない。

え~と、シャワーを浴びるのに30分かかって、その後、髪を乾かして、コンタクト入れて、着替えて、あ、そうだ、今日は「傷病手当金」の申請書を持っていかなきゃならないから、それも用意して・・家から駅まで20分かかって・・・・・・う~ん?今までで何分??あ~よくわからない!!

「・・・じゃ、じゃあ、12:00に伺います。よろしくお願いします。」

うまく所要時間を計算できないまま、その場の流れで12:00に診察してもらう方向で返事をしてしまった。
電車の時間だけ確認して、とりあえずシャワーを浴びる。

僕は髪が長めの茶髪なのでシャンプーとドライに少々時間がかかる。(30歳で茶髪もどうかと自分でも思うのだが、まぁそれはおいて置こう。)
僕の悪い癖なのだがシャンプーを泡立てて、髪と頭皮を満遍なく一定のリズムで洗っていたり、髪をドライヤーで乾かしていたりすると、いつの間にか考え事を始めてしまう。それも、時間の無い時に限って。

今日のテーマは、
「人生に意味はあるのか。」
「生きていくことに意味はあるのか。」

生きていくことの意味なんて、はじめから無い。
人生においては、Whyよりhowのほうが重要だ。

なんて事を反芻しながら、気づけばギリギリの時間。
早く行かなきゃ。

早足で歩きつつも、信号が変わる間に、道中のコンビニで新聞を買うなんていう、ちょっとした冒険をしてみたりする。
時間的にやばい。ちょっと走ろう。

そんなこんなで、なんとか病院に到着。
いつもは「3時間待ちです。」なんて平気で言われる病院だが、予約をしていると応対が早い。
個室の診察室にとおされてわずか2~3分という(この病院にしては)驚異的な速さで医師が現れた。

「どうでしょう、その後は?」

僕は、明け方まで眠れなかったり、夕方まで眠っていたりと、生活リズムが乱れがちであること。
かつての部下であるバイト君達からのメールを読んで、凹んだこと。
同居している母から、「いつまでそうやって寝ているつもりなの?」という様な事を言われ、今の療養状態になかなか理解を得られないこと。
などを話した。

膝の上に置いたノートパソコンのキーボードをテンポ良く叩きながら、医師は黙って僕の話を聴いている。

その後訪れるしばしの静寂。

やがて口を開いた医師から発せられた質問は意外なものだった。
「桐原さん、お住まいはどちらでしたっけ?」

住まい?なんで今更、しかもこんなタイミングで住所の確認なんだろう。
予想だにしなかった医師の質問にいぶかしみながらも、僕は居候中の母の家の住所を伝える。
「××区の××です。すこし郊外になりますが。」

医師が言った。
「桐原さん、“障害者職業センター”という団体があるのをご存知ですか。」

・・え?・・障害者?・・職業センターって何??

“障害者”という単語に困惑している僕を前に、医師が語った説明を要約するとこうだ。
“障害者職業センター”とは、正確には

「“独立行政法人高齢・障害者支援機構”という団体によって設置・運営されている団体で、障害のある方に対する職業指導のほか、精神障害者を対象にした社会生活技能等の向上を図るための、精神障害者自立支援カリキュラムの実施を支援している団体」

なのだそうである。精神障害者のみならず、知的障害者の就業等についても支援を行っているそうだ。


「精神障害者」


という言葉が僕の胸に小骨のように突き刺さっている。
自分は精神障害者なのか?
そこには明らかに動揺している自分がいる。

医師から渡されたパンフレットには、見るからに“普通とは違う雰囲気の人たち”(※こんな表現でごめんなさい。)が、段ボールの組み立てや、木材加工?のような作業に取り組んでいる写真が掲載されている。
僕にも、彼らと同じことをしろと言うのだろうか?
段ボールの組み立てや木材加工・・。


昔、まだ僕が10代の頃、精神科病院の急性期閉鎖病棟に勤めていたことがある。
鍵がかかった「閉ざされた空間」で入院生活を送る人々。
最初にその鍵のかかった病棟の中に案内されたときの衝撃は、未だに忘れられない。
そこには僕が今まで生きてきた「リアルな世界」とは物理的に隔絶された、もう一つの社会、「異質なコミュニティ」が存在していた。
その鍵のかかった病棟の中で、“白衣を着たこちら側の人”として患者さん達のお世話をしているうちに、僕は精神病に対する理解を深め、いわゆる“障害者”と呼ばれる人たちと“障害者”をとりまく社会的な問題に対する理解も改めて深めてきたし、時間の経過とともにいつのまにか、“こちら側”にいるはずの僕と、“向こうの世界”の彼らとの境は極めて曖昧なものとなっていった。

精神病患者や精神・知的障害者に対する偏見なんてとんでもない!

少なくとも、今まではそう思ってきた。
しかし、医師の口から僕に告げられた“精神障害者向け施設への通所”という提案を最初に聞いたときは、正直、かなりショックだった。
僕は鬱病を患っており、「精神科に通う患者である」ことは自覚していたが、「精神障害者」という言葉が自分に向けられるとは思いもしなかった。

実はこの話は重要なところが抜けている。
医師がこの施設のことを持ち出したのは、この施設が

「精神疾患により休職している方の円滑な職場復帰に向けて、個別の計画に基づくウォーミングアップのための支援を行う、職場復帰のための支援=リワーク支援」

を行っているためであった。

つまり、この「リワーク支援」なるものを受けることによって、生活リズムを取り戻すと共に、家族(僕の場合は母)に対しても、「きちんと治療してますよ。」的な見せ方をしましょうということらしい。

僕はこの病気になって休職をしてから、2度の職場復帰と、1度の転職による社会復帰に失敗している。

医師から渡されたパンフレットによると、この団体は、精神障害者に対する支援だけではなく、

「(精神疾患により休職している者が所属する)事業所に対しても、受け入れ態勢等の整備に係る助言・援助」

も行っているとある。
つまり、精神病患者とその主治医及び家族、そしてその患者が所属している事業所間の橋渡し役になり、円滑な会社復帰を支援してくれる、ということである。

「このリワーク支援を受けた、他の患者さんからの評価もいいんですよ。」

なんだ。こんな団体があるのなら、もっと早く紹介してくれればよかったのに。
結局その団体のパンフレットをもらって、他にもいくつか身体面に対する問診をうけたあと、その日の診察は終了した。

いつもならこのままJRの駅まで地下鉄に乗って移動するのだが、今日は天気が良かったので、日頃の運動不足解消もかねて大きな公園沿いに、地下鉄一駅分の距離を歩いた。

その途中、小腹が空いたのでいつものカフェでベーグルとカフェラテを飲むことにした。
猫舌な僕はホットのカフェラテがいい具合に冷めるのを待ちながら、先ほど医師から渡されたパンフレットを改めて見直してみる。
この団体の支援を受けるには、まず始めに面談を受けなければならないらしい。しかも予約が必要だそうだ。
正直に言ってあまり気がすすまなかったが、折角、医師が薦めてくれたものであるし、個人別にプログラムを組んでくれるというので、リハビリのつもりで通うのもいいかな、と思い、冷めたカフェラテを一口飲んでからセンターに電話をかけた。

「あの、初めてお電話させていただいたのですが・・・」

僕は電話の向こうの男性職員に、現在、鬱病で精神科に通っていること、医師からこのセンターのリワーク支援を進められたことなどを話した。

「なるほど。でも、現在は休職ではなく、もうお仕事を辞められていらっしゃるということですよね?う~ん・・。」

・・ん?
明らかに電話の向こうの担当者は困惑している。なんだか医師の説明と違う気が・・。

その後の会話で、個別に面談を受ける前に、「ガイダンス」に参加して説明を受ける必要があること、そのガイダンスも予約制なのだが、今月はもう全ての日程が埋まってしまっていて、来月まで空きが無いことなどを告げられた。
しかたがないので、来月に行われるガイダンスの中で最も早い日程で空きのある日に予約をし、電話を切ろうとしたその時、男性職員は次のようなことをたずねてきた。

「あ、それと今、手帳はお持ちでないですよね?」

目の前にスケジュール帳を開いていた僕は、
「あります。」

と答えたのだが、ここでいう“手帳”とは、障害者手帳のことを意味していたらしい。


精神障害者。



この言葉がまた僕の頭の中を駆け巡る。

電話を切り、すっかり冷めてしまったカフェラテを口に含みながら、僕は考えた。
精神科勤務時代に多くの患者さんを見てきたから、僕は他の一般的な人々よりも、精神病や精神障害者に対する理解が深いということがあったとしても、間違っても精神病患者や精神障害者に対する偏見など微塵ももっていないつもりでいた。

しかし、僕は、医師から「精神障害者」という言葉を突きつけられたとき、激しく動揺し、正直なところ、「ここまで落ちたか・・。」(※精神障害者の方、こんな表現でごめんなさい。)と目の前が暗くなった。
偏見など無い、と思い込んでいたのに、僕の心の中には精神障害者の問題はどこか人事であり、自分とは別の世界の出来事となっていた。
社会的に弱者で支援が必要な人たち。でも、まさか自分がその立場になるとは・・。
その上、彼らは気の毒だが“援助を受ける側の人たち”で、“僕ら”は彼らに“援助をしてあげる立場にある者”と、精神障害者の人たちを何か、“一段高いところからみるような気持ち”が、僕の心の根底にへばりついていたのだ。

結局僕は、“今のところは”、精神病患者ではあるが、精神障害者であることの認定は受けていない。
でも、鬱病になった人の中には、長年の闘病の末、最終的に障害者としての認定を受けて、公的な扶助を受けながら生活されている方もいると聞く。
これは人事ではないのだ。

鬱病と診断されたときもそうだった。
精神科勤務時代は、もちろん鬱病の患者さんのお世話もしたが、自室のベットで泣きながら塞ぎこむ患者さんの苦しみを、看護のテキストなどを読んで理解したつもりになっていた。
しかし、実際にその病にかかって、鬱という苦しみを味わうと、「あの患者さんは、こんなにも苦しい思いをされていたのか・・。」と自分の理解の浅さを思い知らされた。

頭での理解は、所詮、知識でしかないのだ。
自分の身体で体験しなければ、真の苦しみはわからない。
その立場におかれてみなければ、世間の偏見や社会生活を送る困難さを真に理解することはできない。

今後、その施設の援助を受けるかどうかはまだわからないが、今回の診療は、自分の中の隠れた偏見をえぐり出してくれたという意味で、実に貴重な体験になった。

こんな年でこんな病気になって、しかも無職で一日中引きこもっていても、心のどこかで、社会の弱者に対して、一段高いところにいる、と思い込んでいた自分が恥ずかしい。

これからは、もっと謙虚な姿勢で何事にも望もうと心に刻んだ一日であった。

母は確実に老いていく。

2007-05-14 03:27:50 | 鬱病日記
5月13日(その2)



今日は母の日である。
昨夜の喧嘩のこともあってか、昼過ぎに起き出して来た僕に対し、母の“あたり”は柔らかい。

シャワーを浴びてから、少しでかけてくると言い残し、家を出る。

電車にのっていつもの繁華街へ。

母の日の贈り物を買うのだ。
これまでは東京で働いていたこともあって、毎年、花キューピットの花束をネットで予約して贈っていたけれど、同居しているのに花キューピットに宅配してもらうのはいかにも不自然である。

それに今は所得が無いから、予算も“こぢんまり”と納めたい。
今年はカーネーション、1本で許してもらおうと思っていたのだが、ふらっと立ち寄ったギャラリーで、いわさきちひろの絵を見つけてしまった。

それは母と幼子が向かい合うように、いわさきちひろ独特の繊細なタッチで描かれており、その幼子は母に赤い花を一輪渡そうとしている。

これだ。

母はいわさきちひろのファンである。
ちなみに僕も、母の影響を受けていわさきちひろのファンになった。
小学生のときに書いた絵を見た先生が、「桐原の絵はいわさきちひろのようだなぁ」と言ってくれてとても喜んだ経験がある。今思えば、ただそれは、水彩絵の具を水で溶かしすぎて全体的にぼやけた絵になっただけのことだと思うが、そうであっても嬉しい。
今日、見つけたのも何かの縁。値段も大きさも手ごろだし、今年はこれでいこう。

ラッピングを終え、近くの花屋で赤いカーネーションを一輪だけ買う。
別に買い求めた小さめのメッセージカードに日ごろの感謝の意味を込めて、「ありがとう」と書く。

準備は万端整った。

しかし、街にでてきた僕がそのまま手ぶらで帰るはずも無く、前回に引き続き本屋めぐりである。
今日はいつもとは違う大型店に行って見た。

今日の収穫は経営学のテキスト7冊と、ビジネス論文誌1冊、そして恩田陸氏の小説を1冊購入。
合計¥20,773。

前回といい、今回といい、今月は今月は確実に3万円以上、本を買っている。
家計簿を見るまでも無く、確実に破産だ。

そんなことはともかく、いつものカフェで今日始めての食事。
ベーグルとカフェラテ。
ベーグルもカフェラテもおいしい。

僕は好き嫌いが多く、基本的に「ごはん」(=米を炊いたもの。いわゆる飯。)が嫌いだ。もうかれこれ一年以上食べていない。
夕食時の僕の主食は「豆腐」である。
だからベーグルだけの生活でも全然ありなのである。

話は横道にそれたが、カフェで一服した後、夜の8時を回ってから電車で帰宅。
一度、自分の部屋(というか物置)に入り普段着に着替えた後、できるだけさりげなく、ラッピングされたカーネーションといわさきちひろの絵、メッセージカードを渡した。


はい、これ。今日は母の日なので。

「そんな・・・こんなこと、しなくてもいいのに・・。」

見る見るうちに瞳に涙が溢れ、母の放った言葉の語尾は涙声でかすれて聞き取れない。
感動してくれてありがとう。
作戦通りうまくいった・・と思った次の瞬間、母は僕の方を振り返りこう言った。


「それに、母さん、カーネーション嫌いなの。」

・・・・・・。

嫌いって・・。

だったら先に言っとけよ!

でも、とかなんとか言いながら、小さな花瓶に赤いカーネーションをさし、部屋の中で飾る場所を求めて右往左往している。

やっといいポジションが見つかったのか、今度はしきりに携帯のカメラでカーネーションを撮影している。
なんだ、さっきの言葉は照れ隠しか。
全くお互い不器用な母子である。

いわさきちひろの絵はとても気に入ってくれたようだ。

「あらこの子供の絵・・・亮司が小さかったころにそっくりだわ・・。」

いわさきちひろの淡い画風で描かれた子供に似ていると言われても、なんとも返答に困る。ご存知のかたは良くおわかりと思うが、その独特なタッチで描かれた人物像は写実というほど輪郭がはっきりしたものではなく、かといって抽象画ともいいきれず・・。
小さい頃の僕の姿を絵の中に重ねるとは、母にもまだ母性が残っていたらしい。



大事そうに絵を見つめ、その中に幼き頃のわが子の面影を思う母の背中は、少し老いて見えた。


夕食を終えて、「おやすみ」、と自室に戻ろうとしたとき、背中越しに母の声が聞こえた。


「ありがとう、亮司。一生大事にするからね・・。」


一生だなんて言うな。
もう終わりが近いかのようじゃないか。
無くしたらまた買ってやる。
だから、一日でも長く生きて欲しい。


母の言葉にちょっと、泣きそうになった僕がいた。


言ってはいけない言葉。

2007-05-14 02:43:41 | 鬱病日記
5月13日




昨日、母と大喧嘩になった。
母が残業を終えて夜遅くに職場から帰ってきた時、僕が自室(というか物置)で横になっていたのが癪(しゃく)に障ったらしい。

普段はそんなことで一々文句を言う母ではないが、その日はどうやら虫の居所が悪かったようだ。

その日僕は、朝の4時を過ぎるまで眠ることができずにいた。
目を覚ましたのは午後だったが、疲れが抜けず、夕方からベットに倒れこんでいた。


「あんた、仕事もしないでいつまでそうやっているつもりなのさ?」


母は、鬱病について理解があるようでいて、たまに心無いことを言う。


だるいんだからしょうがないじゃん。
自分だって働けるものなら明日からでも働きたいよ。
でも身体と頭がついていかないから。
医者の許可もでていないし。
また無茶をして、失敗するのが嫌なんだ。
だから今回は慎重に行きたいんだ。
いずれにしても、(傷病手当金の支給が打ち切られる)12月までにはなんとかしたいと思っているけど。

だいたい、職場で何があったかしらないけれど、職場のストレスでやつあたりするの、やめてくれない?!

福祉施設で管理職をしている母は、ここのところ休みの日にも必ずと言っていいくらい職場からの電話で緊急の対応を求められている。(母曰く、休日に上司に相談してくるほどたいした内容ではないらしいが・・。)
最近、イライラしていたし気持ちのぶつけようがないのはわかるが、それを僕にぶつけられてもどうしようもない。僕は母の夫ではないし、親でもない。

怒涛のごとき言い争いは数十分に及び、最後に母は言ってはいけない言葉を数年ぶりに口にした。


「そういうところが、あんたの父親にそっくりなんだよっ!」


まだ、母と僕が桐原の家にいた頃、妹や弟、父方の祖父や祖母と一緒に、桐原の本家を形作っていたころの話。

物心ついたときから母と父の間では喧嘩が絶えず、母の身体には生傷が絶えなかった。「桐原の家」の中で一人孤立し、行き所のないストレスを母はその子供にぶつける。

その時、決まって最後に口にしたのがこの言葉である。

僕は、多分、物心ついたときから父を恨んでいる。
父を父と認めていないし、子を持つ父としても、一人の人間としても、軽蔑しているし心底、最低な男だと思う。
思春期の頃は、父を憎み、恨みをもち、深く軽蔑していたが、その反面、いくら父を否定してみても、現実的に奴の元を離れるて“独力で生活していくことができない自分”という矛盾した感情と実情の間に生まれた葛藤に深く悩まされ、自分という存在を嫌悪し、その存在の不条理を嘆いた。

そんな僕が認めたくなかったことは、僕の身体の中に奴の血が、狂気に満ちた桐原の一族に脈々と受け継がれてきた呪われた血が流れているという事実だった。

普通の親子関係にある場合でさえ、血の繋がりは濃いというのに、僕の場合は生後まもなく大病をし、緊急に輸血が必要となり、出産後間もない母と、当時の父の血がこの身体に直接輸血されたという。

なんともおぞましい・・。

人間の血液はおそらく一定のサイクルで入れ替わっているはずだから、30年前にこの身体に入れられた血が、今もそのまま残っているということはありえないはずだけれど、その事実に対する理解をもってしても、“この世で最も憎むべき奴の血がこの身体に直接的にも間接的にも受け継がれている”という現状は、僕のなかで再びあの葛藤を呼び覚ますのだ。

僕は、僕の中に流れている「桐原」の血脈が、頭をもたげ、僕の前面に押しでてくることを恐れている。
桐原の血によって、また奴と同じ過ちを繰り返すのが怖い。
僕は、僕の中の汚れた血に、ずっと恐怖を感じてきた。
どんなに否定してみても、どんなに奴から遠ざかってみても、僕の中には奴の血が確実に流れている・・。
いつかその血脈が暴走し、僕を支配する日が来ることを、僕が「桐原」の一族の血をひくものとして、覚醒してしまうことを恐れている。

だから僕には親友はいらない。
だから僕には恋人はいらない。
だから僕には信じられる人も、愛すべき人もいらない。

なぜなら、ある日突然スイッチが入り、僕が僕でなくなる日が来たとき、まっ先に傷つけてしまうのは僕が愛すべき彼らたちであるだろうから。


そんな思いを知ってか知らずか、当時の母は何度も何度もあの言葉を口にした。
僕はどんな言葉で叱られ、なじられようようとも、どんな体罰を受けたとしても、あの言葉を浴びせられることが何より一番嫌だった。
なぜなら、僕自身が奴の血をひくものである事を思い知らされるからだ。


どうしても耐えられなくなった僕は、18歳を迎えて、母と一つの約束を交わした。
どんなにひどい言葉を口にしてもいい。どんな暴力をふるってもいい。だけど、あの言葉だけはもう二度と口にしないで欲しい。

そんな約束も虚しくその後も、幾度となくあの言葉は繰り返され、別居生活を経て正式な離婚が成立するまで、あの言葉から逃げることはできなかった。
しかし離婚後は逆に、父や桐原の家に対する話題を持ち出さないことが、母との間での暗黙のルールになった。


それなのに、である。

母は昨日、その言葉を口にした。

久しぶりに味わう嫌悪と、目の前につきつけられた自分の中に流れる「血」の事実。直後に奴に対する憎悪と、吐き気が相互に襲ってきた。10数年ぶりに食らった、魂への一撃。僕という存在の基盤を揺るがす、禁忌の言葉。

言葉を無くした僕に背を向けて、母は「夕食をつくらない宣言」をして居間にもどっていった。

食事なんてどうでもいい。僕はどんなにその事実を否定してみても、母と父の間に生まれた紛れもない子。母がこの世で最も憎んでいる奴にいくら似ていると言われても、僕だって望んでお前達の間に生まれたわけじゃない。

そんな思いを心にたぎらせながら、その不快な思いを消したい一身で、夜の分の薬と睡眠薬を服用し、眠り込んでしまうことにした。


その数十分後。

木製のドアの向こうから母の声が聞こえた。


「・・亮司、お母さんが悪かった。ゴメン。」


別にいいよ。疲れていたんでしょう。こちらこそ居候の身で横柄な態度をとってごめんなさい。

そう言って二人は眠りについたが、あの言葉が、僕の心の中の葛藤と不安を呼び覚ましてしまった事実は、変わらない。



僕は桐原亮司。桐原の血脈を受け継ぐ者。そして、絶やす者。



ご無沙汰です。

2007-05-12 02:44:16 | 鬱病日記
5月11日 


桐原です。
しばらく更新をしていなかったので、くたばってしまったか?とご心配頂いた方もあったかもしれないが、このとおり、なんとか生きている。

前回のブログで随分と感傷的なことを書いてしまい、しばらくその余韻にひたっていたのだが、その後なんとも言えない空虚感に襲われて沈没してしまった。

この感覚、というかこの感情は、東京から地方の支店に都落ちしてきた時に既に克服したもの、と思っていたのだが、ここにきて当時と似たような形で復活してしまったようだ。



「みんながうまくやっているのに、自分だけ何もできない。」

「この病気にさえならなければ、自分もうまくやっていけたはずなのに。なぜこんな病気になったんだ。」

「病気になる前の自分なら、もっとうまくできたはずなのに、なんで今の自分にはこんな簡単なことさえできないんだ。」



転勤で僕の最初の採用地でもある地方支店に戻ってきた時には、かつて僕の下で働いていた社員やバイト君たちが、いつのまにか僕の上司になっていた。

いつか、僕に社内で引き抜きの話があったとき、当時の上司に言われた、

「そっち(新しい部署)に行ったら、もう(本流の部門には)もどってこられないぞ。」

という言葉を思い出す。

本社の少人数で組織された新部署と、常に動きがとまらない本流の大所帯の部門とでは、用意されている役職の数もその構造も違うし、当然出世のスピードも違う。


それまで評価されてきた僕の“スキル”は、全く畑違いの本流部門の評価基準では、評価の対象に値しないものだった。


「自分だって、(東京に)転勤せずに、地方の本流部門でやっていれば、今頃は・・彼らと同じスピードで昇進していたはずなんだ!」


と憤ってみても、東京への転勤は自分の希望だったのだし、本社部門への転籍も自分の意思だった。
その部署で働いていた頃は、「泥臭い現場で、シフト勤務で働くかつての同僚や部下たち」よりも、知的でスマートで、ビジネスの上流で働いている、そんな自分は自分の思うように順調に成功への道を歩んでいると信じて疑わなかったのだ。

地方支店への転勤が決まり、その配属先が“本流部門”であると知った時も、二年間のブランクはあるとは言え、かつて僕も“本流部門”の最先端で一組織をマネジメントしていたのだ、昔のようにやればいいんだ、自分にならできるとたかをくくっていた。


そんな僕の思い上がった気持ちは、転勤初日に打ち砕かれることになる。


「なんで皆と同じようにできないんだ。」

「なぜ、あいつが上で俺が下なんだ。」

「昔はうまくやっていたじゃないか?なんで今の自分にはできないんだ。」


何もかも、できない、できない、できない、できない・・・・。


その当時、僕の服薬していた薬の量は、東京のクリニックに通っていた頃のそれと比較して、3倍の量になっていた。

病気の進行に伴い、欠勤が多くなった僕の勤務状態を踏まえ、会社は僕を支店内の間接部門に異動させた。
その部署の責任者は、僕を初めてバイトとして採用してくれ、“現場”での僕の仕事ぶりを評価してくれていた、かつての女性上司だった。

業務の難易度は格段に低くなり、業務量も減ったが、複雑でその場その場で臨機応変な対応を求められる“現場”のそれとは違い、その間接部門で僕に任された仕事は、デスクの拭き掃除に、コピー、研修用資料のホチキス止め、電話の応対といったごくごく単調な作業。

「まぁ、焦らず、無理せずやりなさい。」

「昔の“尖がっていた”桐原君が懐かしいわ。まぁ、徐々に良くなっていくだろうから、昔のように上司に向かって反抗的な意見が言えるようになるまで、気長にやりなさい。私はいつでも受けて立つから。笑」

その上司は、僕の病気を偏見なく理解してくれていたし、僕自身の性格やかつての仕事ぶりについても理解してくれていたので、その間接部門への異動は会社としては僕に対する最大限の配慮だったのかもしれない。

しかし、その異動は当時の僕にとって、“皆と比べて、過去の自分と比べて、仕事のできない自分”という自己評価に、“会社も同じ評価である”というお墨付きを与えるもの以外の何者でもなかった。


僕のプライドはガタガタに崩れ落ちた。
かつての思い上がりも、粉々に砕け散った。



「今の僕には、何も、できない・・・。」


留まって足踏みしている僕の両脇を、かつての同僚が、かつての部下たちが何事もなかったように、颯爽と駆け抜けていく。



そんな思いを抱えたまま、僕は病気療養を目的とした休職期間に突入した。
そして就業規則が定める休職期間を最大限使った後、なんとも言えない後ろめたさを感じながら、会社を逃げるように去ってしまうことになった。


僕は敗北したのだ。


かつてのようなプライドの高い、仕事に厳しい僕はいない。


僕は負け犬。


僕は負け組。







そんな思いは克服したはずだった。



そんなマイナス思考の塊が、かつてのバイト君たちの近況や活躍を聞いて、醜い嫉妬心と共に心の中で頭をもたげてしまったのだ。

心の片隅にポツンとできたどす黒い染みは、繁殖するカビのように僕の心の表面全体を覆い尽くしてしまった。


こうなってしまっては、もう、なにも手につかない。


この数日間、僕はこの、自分自身が生み出した醜い心塊と格闘し、組み伏せられ、もだえあげいたあげく、その思考にまんまと支配されてしまったていた。


このブログが沈黙している間、実は僕は、こんな醜い時間を送っていたのである。



そして今、なんとか復活してこの記事を書いている。

僕をここまで引き上げたのは、かつて読んだ齋藤茂太氏(精神科医・医学博士)の著書の中に書かれていたこんな言葉。


「人は皆、同じところを走っているようでいて、実は一人ひとり違ったトラックを走っている。」


記憶が曖昧なので、本当はもっとスマートで心に迫る、含蓄のある表現だったかもしれない。
今、物置と化した小部屋の中で埋もれている書籍の中から、その本を探し出そうと試みたのだが、どうしたことか見つからない。
正確な書名をご紹介できず、残念である。


今、僕はその言葉を繰り返し繰り返し心の中の小さな自分に語りかけながら、なんとか正気と狂気の淵をフラフラしながら渡り歩いている。


少し上りがちになっていたこの状態を一気に改善しようと、今日は夕方になってから電車に乗っていつもの大型書店に行った。

思い切り衝動買いである。

書店中を閉店時間まで歩き回って購入した本は小説、ビジネス書、専門書など合わせて7冊。
しめて16,405相当。

まだまだ読みきれていない本が部屋中に山積みになっているというのに、である。

もうこうなってしまっては、買い物依存症といえるのかもしれない。

心にぽっかりあいたの不安の穴を、いくつもの書籍で埋めていく。
開いた書棚に、一冊一冊、分野ごとに丁寧に分けてしまっていくように。




まだ、復活しきれてはいないけれど、なんとかここまで這い上がってこれた。


また明日、目が覚めたとき、少しだけ新しい風が吹いていることを願って今日はおしまいにしよう。


ゆっくり休めよ。自分。














通り過ぎていく者、置き去りにされる者。

2007-05-07 02:52:49 | 鬱病日記
5月6日




この連休を利用して、かつて僕が東京で「まともな社会人」だった頃にアシスタントをしてくれていたO君が、今僕が住む北国の街まで訪ねてきてくれたことは、昨日・一昨日の記事で紹介したとおりである。


実はO君が帰路についた後、偶然にも僕がかつて地方支店で勤めていた頃に、僕がマネジメントをしていた部門(社内ではセンターという。)でアルバイトをしてくれていたN君から久しぶりにメールが届いた。N君とはもう何年も会っていないが、今でも年に何度か、忘れた頃にメールをくれる。

僕の下で働いていた頃のN君は、まだ大学生で社会経験もなく、純情で、人を疑うことを知らない“ウブ”な若者だった。
業務の合間に他のバイト君たちと一緒に雑談をしていた時、話の流れで僕がN君に、

「N君は今、彼女とか好きな子はいないの?」

と聞いたら、顔を真っ赤にして

「そ、そんないませんよっ!い、いません!(照)」

と照れまくっていた姿を思い出す。

僕が首都圏に異動になった頃は、まだアルバイトを続けていたN君だったが、いつのまにか大学を卒業し、地元の企業に就職して今では立派な社会人になっていた。

N君が今所属しているのは「経営企画部」。
悪くないじゃないか。というか、僕好みの部署だよ。

メールでは、4月から新しく始まった大型プロジェクトのメンバーに選ばれ、多忙な日々を送っており、残業や休日出勤の連続でプロジェクトが終了する10月頃までは忙しい日々を送ることになりそうだ、とあった。

若い時代に会社の中枢部門に所属し、その会社が進める大型プロジェクトに参加するとは、なかなか良い経験をしているようである。

日々の多忙を報告してきたメールの中にも悲壮感は全く感じられず、「大変だけどやりがいがある」というような意気込みが行間からたっぷりとにじみ出ていた。

“毎日が新しい発見や刺激の連続で、仕事が楽しくてたまらない。”

そんな時期が僕にもあったなぁ・・。
僕は彼の充実した日常を想像し微笑ましく思う反面、会社の主力メンバーとして活躍している彼の人生に対して、少なからず嫉妬を覚えてしまった。

かつての部下の活躍を素直に喜べない自分。
かつての部下の人生の明るさに嫉妬を感じている自分。
そんな自分が嫌になる。

そのメールは、「近いうちに皆で(皆とは誰のことかわからないけれど・・)飲みましょう!」との一文で締めくくられていた。


僕は彼に返事のメールを送った。

「大変な仕事だろうけれど、君ならできるよ。頑張って!」

僕の中で生み出た醜い嫉妬心を、心の奥に抑え込んで作った一行のメール。
恥ずかしいけれど、それが今の僕の精一杯だった。

飲み会の件にはあえて触れなかった。
今の僕の姿を彼に見せることはできない。
希望とやる気に満ちて前向きな人生を謳歌する彼の姿は、今の僕にとっては少し眩しすぎるんだ。

数分後、N君から返ってきたメール。

「桐原さん!色々ありますけどお互いがんばりましょうねっ!」

彼は僕の病気のことを知らない。

絵文字がちりばめられたそのメールには、幼さを残しつつも、スーツを着て大人の顔になったN君の写メが添付されていた。

ウブだった彼は、今、確実に大人への道を歩いている。


N君からのメールで懐かしいような、頼もしいような、嬉しい気持ちを感じた。
でも、かつての部下の活躍に醜い嫉妬心を感じてしまった僕は、なんて最低なんだろう。



自己嫌悪に陥りつつ、ベットで横になって携帯をいじっていた僕は、アドレス帳に登録されていた懐かしい名前を目にして指を止めた。

T田くん。

N君と時期はずれているが、かつて僕がマネジメントを担当していた“センター”で働いていてくれたバイト君。(※前回の記事にでてきた、川崎のT君とは別人。)

N君とは対照的に、喜怒哀楽を比較的素直に表現していた彼。
ある日、昼休みの休憩室でN君の叫び声が聞こえた。
何事かと思って振り向いたら、かじりかけのハンバーガーを片手に持ちながら目を硬くつぶり天を仰いでいるN君がいる。
もう片方の手で作った握りこぶしで自分の太ももを叩きながら彼が言った一言。

「チーズが入ってねぇじゃん!!!!!!(怒)」

チーズバーガーをオーダーしたのに、包みの中身はハンバーガーだったということらしい。笑
単純で、素直で、まっすぐで、女の子が好きな“少年らしい”若者だった。

彼は僕の在任中、大手流通チェーンに就職が決まったということで一度バイトを辞めている。念願の就職を果たし、元気に活躍しているはずの彼から連絡があったのは、その数ヵ月後だった。

「桐原さんっ!聞いてくださいよっ!(就職が決まって)オレ、スーツ3着も買ったんですよ。それなのに新人研修が終わって配属されたのが、鮮魚売り場だったんです!鮮魚売り場ですよ?!毎日、白長靴はいて白い帽子かぶって・・全然スーツ着る機会がないんですよっ!」

真剣に話している彼には悪いが、冗談で言っているのではないことがわかるぶん、余計にコミカルに聞こえてしまった。笑

就職したのは大手の流通チェーンだし、今までのバイト先(=僕と彼がいた会社)で見てきた“会社員”は、皆、スーツを着て働いていた。
僕は別に鮮魚コーナーが悪いとは思わないし、職業に優劣はないと思うのだが、彼の中でイメージしていた“就職”と、実際に配属された職場には大きなギャップがあったようだ。

結局、彼はその「鮮魚コーナー」でやりがいを見出すことができなかったようで、また僕のいた会社にアルバイトとして戻ってきてしまった。

当時の彼は、周囲の友人達が社会人としてデビューしていくなかで“いい年(※と言っても20代中ごろ)をしてアルバイトを続けている自分”と、“やりたいこともみつからない”、そんな自分の将来に不安を感じ、悩んでいた。

「まだ若いんだし、焦らなくてもそのうち興味のある仕事にめぐりあえるさ。俺なんてT田君の年齢の頃は、ここの会社で一番下っ端のバイトしてたんだから。大丈夫、大丈夫。」

悩む彼に、そんな言葉を繰り返していた事を思い出す。

その後、僕の首都圏への転勤が決まったとき“センター”のバイト君たちに囲まれ、花束と餞別のネクタイを贈られた僕を前に、

「桐原さんがいなくなるなら、俺もここやめますよっ!!(泣)」

と最初に言ってくれたのも彼だった。
僕の転勤を境に彼とのメールのやりとりも少なくなっていたが、その後バイト先をやめ、医療系の専門学校に通っているとの便りがあった。
そういえば昨年も

「単位がとれないから卒業できなさそうなんです・・。(学校を)辞めようかどうしようか、悩んでます。」

というメールが来ていたっけ。

そんな事を思い出しているうちに、冒頭のN君のこともあり、なんとなくノスタルジックな気分になっていた僕は、久しぶりにT田君にメールを送ってみることにした。

「久しぶり。元気にしているかい?」

数分たって返事が返ってきた。

「桐原さんじゃないですかぁ!丁度オレも桐原さんにメールしようと思ってたんですよ!でも、久しぶりだから、何を書いて送ったらいいか悩んでいるうちに数日たっちゃいました(笑)オレは相変わらず頑張ってますよ!桐原さんは最近どうっすか?」

あまり調子が良くないんだよね・・。

「そうなんすか?なんか良くわからないですけど、色々ありますからね。オレが卒業して資格取ったら、桐原さんのこと治してあげますから!待っててください!じゃぁ、またメールします!」

ありがとう、T田君。
でも君が目指している、理学療法士の資格では、僕の病気は治らないんだけどね。笑
肝心なところがちょっとずれている彼のメールは、僕のもとで働いていてくれた当時のまっすぐな彼だった。



劣悪な職場環境に耐えながら税理士資格を目指すO君。

常に新しい刺激を受けながら社会人として成長を続けるN君。

少し回り道はしたものの自分の進むべき道を見つけ、理学療法士を目指すT田君。



君達の姿はどれも眩しく、誇らしい。
君達の未来はきっと明るいものになるよ。


かつてのバイト君たちの生き様はどれも大きなポテンシャルに満ちていて、嫉妬してしまうほど羨ましい限りだ。

今の君達に、僕の情けない姿を見せることはできない。
今の僕には1年後、半年後の自分がどうなってしまっているかもわからないのだから。

けれど、いつか君達がそれぞれの社会の中で大きく羽ばたいている姿が僕には見えるんだ。

立ち止まっている僕の周りで、彼らの時間は確実に進んでいる。
しゃがみこみ頭を抱えていじけている僕のそばを、彼らは颯爽(さっそう)と駆け抜けていく。

僕だけ置き去りにされるなんて、なんだか、卒業式を迎えて生徒を送り出す担任になった気持ちだよ。


いつか、僕が君達においつくことができたなら、そのときはまた笑って話をしよう。

そんな日が来ることを、信じてもいいよね。


少し、元気をもらったよ。ありがとう。




気持ち悪し。

2007-05-03 03:05:26 | 鬱病日記
5月2日



・・・・気持ち悪い。

今日も胸焼けというか、吐き気で目が覚めた。

気のせいか昨日よりも激しい感じがする。
知らないふりをして、睡眠を続けようとしたがムリだった。
何度も寝返りをうって、楽な姿勢を探す。

ん~・・・・もう無理!

とりあえずベットから起きあがって、ミネラルウォーターを少しだけ口に含む。
そして朝の薬のうち、吐き気止めとして処方されているドンペリンだけを飲んで、また少しベットに横たわる。

う~・・・気持ち悪い・・・。

一体なんだというのだろう。
この調子でいくと、また去年の今頃のように固形物が食べられなくなっちゃうなぁ・・。などと考えていたら、いつの間にか眠ってしまっていた。

昼前に再び起き上がって、残りの朝・昼分の薬を飲んでまたベットへ。
吐き気やむかつきは少しおさまった気がするが、今度は身体がだるい。

あ~・・・何なんだこの身体・・。オレにどうしろと言うんだよ?

今日は夕方から精神科の定期診察の予約が入っている。
でもその時間まではまだまだ余裕があったので、少しばかり眠ることにした。
しかし、これが失敗の元だった。
次に目が覚めたときは予約時間の30分前。
何をどうやっても30分で病院まで向かうのは無理である。

あ~・・・やっちゃった・・・。

実は、今日の定期診察のあと、昨日のうちにネットで調べておいた胃も肝臓も診てくれそうな内科系クリニックを受診するつもりでいたのだ。
でもそれは、定期診察が予定通り夕方に終了することを前提としたもの。
これからその「内科系クリニック」に向かえばもちろん診察はしてくれるだろうが、精神科の定期診察のほうにも行かないと、明日からの薬がない。

・・・困った。

悩んだ末、鬱の薬がなくなるのは困るので、定期診察の予約を一度キャンセルし、18時以降の予約なしで診ていただける時間帯に受診することにした。
しかし、この時間帯はいつも込んでいるんだよなぁ・・。
と思いつつ病院に向かうと、受付のお姉さんが

「これからですと、1時間ほどお待ちいただくことになりますが、よろしいですか?」

と言う。
この病院のこの時間帯で1時間待ちはまだ早いほうだし、今更帰るわけにもいかないので、受付をすませ、狭い診察室で待つこと1時間半。
やっと主治医が現れた。

僕は、前回薬が変わってから、日中に横になったり眠ってしまうことが若干多くなった気がすること、昼間に長く寝てしまうので、睡眠薬を飲んでも明け方まで眠れない日が続くこと、夜中に一人で涙を流して泣いたこと、などをできるだけ端的に伝えた。

「あ~そうでしたか・・。(前回処方した)トリプタノールを飲まれている患者さんの中では、副作用の1つとして「日中の眠気」を訴える方が多いんですよ。」

いつもより日中に起きていることが辛かったのは、やはり気のせいではなかったらしい。
その後、医師と相談した結果、折角整いつつあった昼夜の生活バランスが逆転してしまったので、また元の正常な生活リズムに整えるために、トリプタノールをはずして、前回の処方変更前の状態に戻すことになった。

本題の鬱の話もひと段落したあと、この病院(正確にはクリニック)が精神科と心療内科を標榜していることを思い出し、ダメもとで最近の胃腸の不調を訴えてみた。

「ん~・・そうですか。難しいなぁ。とりあえず色々な薬をお出ししながら、だましだましやってきている状態なのですが、これ以上、吐き気や胃のむかつきを抑えるとなると、抗鬱薬の量を下げるしかなくなってしまうんですよね。(弱り顔)」

やっぱりね。そうだよね。
心療内科といったって、レントゲンや胃カメラ、CTなどはおろか注射器の一本もないし、看護師さんもいないんだから、検査や処置のしようがないんだよな。と納得して帰ってきた。

診察を終え薬局で薬を受け取ったのは20時5分前。
昨日調べた「よさげな内科系クリニック」の中に20時までやっているクリニックが1件あったはず。
今から向かえば地下鉄と徒歩で10分~15分程度。クリニックに着くのは20時を少し過ぎてしまうが、もしかしたら時間外で診てくれるかもしれない。
淡い期待を胸に、そのクリニックに電話をかけてみた。

電話に出たお姉さん:「う~ん・・・ちょっと今日は(時間外で)お待ちすることはできないですねぇ・・・。」

そうだよね・・・。
大型連休の真っ只中で、明日から休診ですものね。残業なんかしたくないよね。
ちなみに、昨日見つけた“よさげなクリニック”のうち、残りのクリニックは全て今日は休診だった。

あ~・・胃が苦しいんだよなぁ。。。。

明日から連休だから、どんなに早くても月曜日の診察になるよなぁ。
初診でいきなり胃カメラとかありえないから、胃のポリープを見てもらうのもっと先だなぁ。肝臓のポリープ(?)も診てもらいたいし。
う~ん・・。

その後、そのまま帰宅すればよかったのだが、折角電車にのって都心までやってきたので、いつものカフェでいつものカフェラテを飲みながらコンビニで買った新聞を読んでから帰ることにした。
胃が苦しいのにカフェラテかよっ!とも思ったが、実際に恐る恐る飲んでみるとそれほど辛くない。調子に乗って一緒に今日初めての食事となるクロワッサンを1つ食べた。
悪くない。意外といけるかも・・。

帰宅したのは22時を過ぎていたが、母が「夕食を作ることを放棄する宣言」を出したので、冷蔵庫の中にあったレトルトのピザトーストと、あきらかにスーパーのお惣菜コーナーで買ったと思われるイカリングのフライ、それにカップ一杯のミルクで夕食を済ませることにした。
ピザとかフライとか重たいものを食べて大丈夫かな?と少し心配したが、ミルクも飲むし、さっきカフェラテを飲んでも大丈夫だったのできっと平気だろうと思い、(少し量は控えめにしたが)結局、ピザもフライも食べてしまった。



しかし、これが大失敗。


今、めちゃくちゃ気持ち悪いです・・・。



なんだよぉ。さっきのカフェラテは大丈夫だったじゃん。どうしたいの俺の身体?


早速、吐き気止めを飲み、市販の胃薬も同時に飲んだ。
早く効いてくることを祈りつつ・・。

しかし、寝起き直前のような空腹時にも胸焼けを感じ、食後の満腹時にも吐き気を感じる・・。だいたいどちらか一方の症状で分類されるようなイメージがあるが、どうして両方気持ち悪くなるんだろう。

僕の胃の中では、いったい何が起きているのか。

なんでもいいけど、早く治って欲しい・・・。
この連休中は胃薬と吐き気止めを手放すことはできなさそうだ。


病院難民。

2007-05-02 01:01:07 | 鬱病日記
5月1日




今朝は胸のむかつきで目が覚めた。
お酒は飲めない僕だけど、二日酔いの朝はこんな感じなのだろうか。
しばらくベットでじっとしていたが、胃に何かいれたほうがいいのかもしれないと思い、ベットサイドに常備しているミネラルウォーターを恐る恐る飲んでみる。

あまりかわらない・・・というよりもむしろ、気分の悪さが増した感じ。


ここ最近、胃腸の調子があまり良くない。
油っぽいものや、お肉系の料理を食べるとすぐ胸焼けしてしまう。
30歳になったら、身体の中身も老いるのかなぁ。などと感じたりもするが、僕はもともと胃腸が弱いほうで、去年の今頃も2週間くらい固形物が食べられなかったことがある。
その時は近所の病院にも行ったが、薬も点滴もなく「安静にしていてください。」という言葉だけで帰されてしまった。

今回もそのパターンかな・・。
それにしても今日はあまりにも気分が悪かったので、近所の内科をネットで調べてみたのだが、純粋に「内科」とうたっている医院がとても少ないのを見て少し戸惑った。
今のようにネットが普及する以前は、医療機関についての詳しい情報はなかなか得ることができず、情報源といえばせいぜいタウンページと口コミくらいなものだったように思う。
その反面、病院やクリニックが「内科」と標榜していれば、胃でも腸でも心臓でも肝臓でも、身体の中身のことならなんでも診てもらえるというような気持ちを持つことができた。(実際に医師の専門や得意分野がなんであったかはわかりにくかったが・・。)

しかし、今の情報過多の時代にあって、実際にネットで病院・医院を検索してみると、内科は内科でも、“消化器内科”とか、循環器科とか、呼吸器内科など専門化が進み、純粋に「内科」と標榜している医療機関でも、HPで「呼吸器疾患に特化した・・・」、「糖尿病の診療に力を入れて取り組んでおり・・」、「(医師の)専攻は循環器で・・」とか、「(医師のプロフィールに)日本透析学会専門医」という記載があったりして、一見便利なようで、結局自分はどこに行けばいいのか迷ってしまうことも多くなったような気がする。

例えば、僕は以前にこんなことがあった。
ある日、喉の右側に外見から見てわかるくらいの大きさのこりこりとした“しこり”ができているのに気づいた。首の周囲を触ってみると、少し小さいが左側にも同じような“しこり”がある。
たぶんリンパが腫れているだけだろう、とイソジンでうがいを続けながら数日ほど放っておいたのだが、日に日にしこりが大きくなっていくので若干不安になり、一度、病院で見てもらうことにした。


(※リンパの腫れくらいで大げさな・・と思われる方もあるかもしれないが、以前僕は両足の付け根のリンパが腫れ、気になってあちこちの病院を回って、様々な検査を受けた末、半年後に腸に腫瘍(正確には違うのだけれど詳しく書くと長くなるので省略。)が見つかって、再発を含め二度手術をしたことがある。その経験から人よりリンパの腫れに敏感なのかもしれない。)


しかし、そこで一歩立ち止まってしまった。
“首のしこり”という症状は、どの診療科に行けば良いのだろう。

一昔前であれば、体調が悪くなったときはとりあえず「内科」に行った。
しかし、今日のように診療科が専門分化され、例えば「内科」と言っても医師のプロフィールに「循環器学会専門医」などのような記載があると、「首のしこりはあきらかにここの内科ではないよな・・」となり、その医院に行くのをためらってしまう。


これは困った。


自分の知恵と記憶を総動員して、自分がどこの病院に行けばよいかを考えてみる。

学生のころ、右太ももの内側に“しこり”ができたときに「皮膚の下が盛り上がっているのだから、皮膚科かな?」と思って総合病院の皮膚科を受診すると、外来の看護師さんに、「“しこり”なら外科に行ってください。」と言われたことがある。その時はその後ろで医師が「まぁいいや。ちょっと診てみますね。」と言ってそのまま処置室で切開手術となった。その時、なるほど、“しこり”は切開するから外科なのね、と学習した。


じゃあ、今回の“しこり”も外科でいいのだろうか・・・?
でも何かが違う気がする。

首の内側には食道がある。食道の病気なら消化器科か?
でも、気管も通っているから、呼吸器内科か呼吸器外科になるのだろうか?
いやしかし、結局は喉の部分の“しこり”なのだから耳鼻咽喉科でいいのではないだろうか?
でも、しこりは表面的に出てきているから、「喉」というと何か身体の内側過ぎてちょっと違う気もする・・・。
そもそも、“しこり”と言っているが、あきらかにリンパの腫れだから、イマイチ耳鼻科のイメージにつながらない。

改めて良く見ると左右の“しこり”だけではなくて、喉仏のあたりがなんとなく腫れているような気もする・・。甲状腺が腫れているのだろうか?そういえば、甲状腺の病気の中にも、鬱病に似た精神症状を伴うものもあると聞く。となれば、甲状腺は何科で見てもらえばいいんだろう?

などと考えに考え抜いた末、結局は現在の罹りつけ医である「精神科」の医師に、「首にしこりができてきて、だんだん大きくなってきているのですが、どこの診療科にかかったらよろしいんでしょう?」という、とんでもなく間抜けな質問をすることになってしまった。

その間抜けな問いに、主治医は戸惑いながらも、とりあえず触診してくれた。
その時の主治医の手つきは驚くほど不慣れでぎこちない動作だったが、それでも真顔で触診してくれている主治医の姿を見て「専門外ですものね、ごめんなさい先生。」と心の中でお詫びをした。

最終的にこの時の主治医(くどいようだが精神科医)のアドバイスは、

「う~ん・・とりあえず耳鼻咽喉科に行ってみてください。それも耳鼻咽喉科だけでやっている医院ではなく、消化器科や呼吸器科、あるいは内科などの診療科がある総合病院に行ったほうがいいと思います。」

とのことだった。
“多分、耳鼻咽喉科でいいと思うけど、異常が見つからなかった時に、同じ病院内の他の診療科で診てもらえるから総合病院のほうがいいだろう。”
といった程度の判断だったと思う。

その後、主治医のアドバイスどおり耳鼻咽喉科のある総合病院に行って鼻から内視鏡などを通す検査をしたり、あれやこれやとしたのだが、結局、「悪性のものではありませんから、ご心配なく。」ということで診察はあっさりと終了してしまった。


さて、話はだいぶ横道にそれてしまったが、今は喉のしこりの話ではなく、“胃(あるいは腸)”の問題である。
胃のムカつきだけなら迷わず消化器科に行くのだが、実は昨春の健康診断で胃と肝臓にポリープ(?)が発見されていたので、胃のついでに肝臓も診てもらいたい。となると肝臓は何科になるのだろう?


・・・・・。


正解は多分「内科」でいいのだと思うが、ネットで「私は循環器が専門の内科医です。」と書かれている医者に、胃と肝臓を診てもらうのは何か不安である。

昔と違って、病院や医師の得意分野などの情報が容易に手に入るようになり、自分の望む病院や医師を選ぶことができるようになった反面、情報が見えすぎて“選びにくくなった”ことも事実だと思う。



そんなこんなで、ネットで病院を検索しながらヨーグルトを食べていると、なんとなく胃のむかつきもおさまってきたような気がしたので、少し横になって様子を見ることにした。

気づいたときには一眠りしたあとだったので、結局は病院に行かずじまい・・。


自分の症状や病気が明らかに「何科」に行けば良いのかわかっている人や、わかりやすい症状の人の場合、例えば糖尿病を持病にもっていらっしゃる方や、肺気胸で何度も発作を起こしている人(=過去の僕)、目や鼻の症状や、皮膚の湿疹など症状と診療科名が連想しやすいものにとっては、その分野の治療に力を入れている病院や、それを専門とされている医師を選べるようになったので、それはそれでとてもいい世の中だと思うのだが、一昔前のような「町のかかりつけ医」的な医師、家庭医とでも言うのだろうか?そのような、病気の初期診療、いわゆるプライマリーケアを担当してくれて、これまでの自分の病歴を全て把握してくれているお医者さんが少なくなったような気がするのは気のせいだろうか?

そういえば、医師会だったか、厚生労働省だったか忘れたけれど、同一診療圏における病院と医院の役割分担を政策的に進めているという話を結構前に聞いたような気がする。

あちこちで医師不足が深刻だという報道を聞くが、「初期診療の専門医」というカテゴリーや医科大学でのカリキュラムが確立していけばいいのになぁと思った。
(世の中はもうその方向で動いているのかな?)


とにかく、今の僕には医師抜きの生活は考えられない。
お医者さん、ありがとう。


止まらない涙。

2007-05-01 00:14:05 | 鬱病日記
4月30日



涙が止まらない。
何度ぬぐっても、とめどなく涙が溢れてくる。

時間は深夜1時をまわったところだろうか。
ベットに入ってから、もう1時間も泣き続けている。

理由もないのに、ただ悲しいから、涙が流れてくる。
誰もいない。
何の理由もない。

ただ悲しいから、泣いている。

泣いて泣いて、明け方まで泣き続けて、泣き疲れて目覚めた時は、夕方になっていた。



薬が変わってから、調子が少しおかしい。
日中の身体のだるさもひどくなったし、薬を一気に飲んだあとは、貧血で倒れる直前のように、身体が崩れてくる感じがする。
吐き気やめまいも感じるようになった。吐き気止めも飲んでいるのに。

薬が身体に合わないのだろうか。

当然こんな状況で勉強に集中できるはずもなく・・。


最近、ちょっとしんどいかも・・・。

いつのまにか、春。

2007-04-29 02:22:25 | 鬱病日記
4月28日




今日、久しぶりに外にでた。
前回外出した時は沿道に残雪が残り、まだ風も冷たかった。
今日は、関東地方で天気があれたようだけれど、僕の住む街ではポカポカ陽気。
知らない間に季節が変わっていたことに、少しショックである。

今日外出した目的は、久しぶりに学校に行って勉強すること。
テキストなどを詰め込んだカバンを背負い、外出しようと部屋を出ると、母が明らかに不機嫌な様子で電話をしている。

母の部下からの緊急連絡で(実は緊急ではなかったらしのだが。)、その部下には対応ができない事象が発生したらしい。
このところ、母が休日のたびに職場から電話がかかってくる。
はたから見ていても気の毒だ。
結局、今日も電話の指示では現場が対応できなかったらしく、母はぼやきながら職場に向かった。


その後、僕は学校に向かうのだが、電車に乗って学校についたときには、いつも自習用として使っているロビー横のテーブたちが全て埋まってしまっていた。
これでは勉強ができない。
最近はほとんど勉強していなかったので、さすがにヤバイと思い学校に行ったのだが、大型連休初日だというのに、いつもは空いている自習スペースがなぜ満席になっているのだろう、などと思いながら、仕方なく学校での勉強はあきらめざるを得なかった。

学校以外で勉強できそうなところを探したが、芳しい場所が見つからなかったので、もう面倒くさくなってしまい、今日の勉強はあきらめてしまった。

だからと言って、このまま部屋に帰るのもなんなので、いつもの大型書店に物色に・・・。

僕は、新聞の書評欄や広告欄などで目についた書籍を、携帯のメモ機能に残している。もう8つくらいたまっただろうか。
早速、書店の「検索くん」(勝手に命名。)で、お目当ての本を探す。

複数の書籍がヒットし、どれもあらすじやタイトル、装丁まで知的好奇心を刺激するものであったが、ハードカバーばかり買い込むも重たいし、部屋にはまだ未読の本が山積みになっている。
ここは心を鬼にして通りすぎることにした。

その気持ちをそらそうと、2Fの専門書売り場に向かう。
エスカレーターを上って右手すぐの書棚からがビジネス書のオンパレードである。
僕も気づけばマネジメントやマーケティング、マーケティングリサーチ、などの単語が並ぶ本棚の前で、一冊一冊中身を確かめるように試し読みしている。

こんな本、今更買い足したって、現役時代には戻れないのにね。
未練がましい自分が少しだけ嫌になった。

しかし、書店に入った僕が手ぶらで店を出てくるなんてことはあるはずもなく、本日は金融系の専門書を3冊ほど購入して帰ってきた。

いつかのブログでも書いたが、専門書の場合、それがどの分野に属するものかは関係なしに、タイトルに「○○入門」、「入門○○」といったタイトルがついていて、分厚く、中身に図表が少ないものは、往々にして初心者には難解極まることが多い。というのが僕の持論である。

今、僕は、僕の書棚の中で「読めるものなら読んでみろ!」と言わんばかりの顔で並んでいる、本格的な金融論のテキストを読破することを目標に、まずは金融の基礎、金融ってそもそも何だよ?みたいなところから勉強しているところである。
いつかこの堂々たるゴシック体で書かれた『金融論』なる書物を読破してやろう。

それはそうと、試験の日程だけは確実に近づいてくるのに、勉強は一向に進まない。
これはいけない。

明日は少し早めに家をでて、学習スペースを確保しようか。



起きられればの話だが。