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the other half 2

31歳になりました。鬱で負け組。後悔だらけの人生だけど・・。

沈没中。

2007-01-28 23:32:32 | 鬱病日記
1月28日


一日中、ベットの中で過ごす。

今回の波はちょっと長いかも。

明日の朝なんて来なければいいのに。



※復活するまで、内容のある文章はもう少しお待ちください。

沈みっぱなし。

2007-01-27 22:52:23 | 鬱病日記
1月27日


昨日からの不調を引き継いで、調子が悪い。

予想どおり、朝から始まる学校には行くことができなかった。

午後からもベットに潜りっぱなし。




何なんだ、いったい。



どうしていつもこうなのかと考えてしまう。



鉛色の空の下で、窒息してしまいそうだ。



明日は学校に行かなくちゃ。

なんだかおかしい。

2007-01-26 23:05:45 | 鬱病日記
1月26日


調子が悪い。

身体がだるい。

ベットから起き上がることができない。

身体が鉛でできているかのように重たい。

ここ2,3日、生活リズムが変わったせいだろうか。
今日は特別に嫌な感じだ。

結局、今日は19時くらいまでベットの中から起き上がることができなかった。
たまった薬も3食分一気飲み。

気分も憂鬱で若干の不安感がある。
最近、数ヶ月は心の症状は落ちついていたのに。


本当は、今日のブログでは、「軽症鬱病」の回復過程についての記事を書くつもりだったのだけれど、頭が働かないので、別の機会に譲りたいと思う。

明日は午前中から学校だ。
起きることができるだろうか。



また薬増えちゃった。

2007-01-26 01:00:33 | 鬱病日記
1月25日


ダルい・・・・・・・。

超ダルい・・・・・・。

身体が泥になってしまったように、ベットに沈み込んでいく。

仰向けになったり、横を向いたり、うつぶせになったりと、姿勢を工夫してみるがどんな格好になっても身体の芯が抜かれてしまったかのような倦怠感で、自分の身体の重みで自分が潰れてしまいそうになる。
まるで自分の身体にそって引力がそこだけ強くなったかのようにどうしても起き上がることができない。


昨日の予感は的中だ。
いつもは半日しか起きていない身体で、昨日は朝から夕方まで弟の手術に付き添った。久しぶりに丸一日、外で行動した疲れが翌日にどっと襲ってくるのだ。
多少、調子がいいからといって、調子に乗って昼間活動しすぎると、決まって次の日の朝はこうだ。
やっぱり、治ってないんだなぁと痛感させられる。

結局、今日は14時近くまでベットの中に埋もれていた。
今日は一日ずっとそうしていたかったのだが、夕方から2週間に一度の通院の予約が入っている。起きなければならない。

ダラダラとベットから身体を引きずり出し、とりあえずシャワーを浴びる。
髪の毛や身体を洗っているうちに、だんだんと目が覚めてきた。
でも、身体の感覚はダルいままだ。

ドライヤーで髪を乾かしながら、電車の時間を考える。
今日は少し余裕をもって駅まで行けそうである。

コンタクトをはめようとするが、また手指が震えてなかなかうまく装着できない。
何度も眼球を指でつつきながら、なんとか両眼にコンタクトを入れることができた。コンタクト一つで大仕事である。

いつものように徒歩で駅まで向かい、終着駅で地下鉄に乗り換えた。
普段ならそのまま病院(というか正確にはクリニック)に向かうのだが、今日はその前に弟が入院している病院に様子を伺いに行かなければならない。昨日、本人と約束したのだ。

10年ぶりの再会から、今回で3度目の対面である。
病室に通じる病棟の廊下を歩きながら、未だにどこか緊張している自分がいる。


ベットまでたどり着くと、弟は目を開いたまま、昨日と同じ体勢のでベットに横たわっている。
僕が挨拶代わりに無言で軽く手を振ると、弟は「やぁ、どうも。」と気楽に返事を返してきた。どうやら緊張しているのは僕だけのようである。

僕はベットサイドの丸椅子に腰掛け、二言三言話を交わす。
昨日よりはだいぶ身体も楽になったとのことだ。
だが、胸には管が入ったままだし、腕にも点滴用の留置針がささったままである。
身体を動かすのがつらいので、ほぼ一日中同じ姿勢でベットに身体をあずけているそうである。腰からお尻にかけて「床ずれ」ができそうだと笑いながら話していた。
主治医の話だと、状態が安定していれば、明日、胸に刺さっている管を抜くことになるらしい。術後の経過が良好だとその分、退院も早くなるとか。
早ければ月内にも退院できるかもしれない。
後は会計だが、弟はフリーターで蓄えもないので、どうしてもお金が足りないときには相談するように話して、正味30分ほどで病室を後にした。

お金が無い時は相談しろ、と兄らしいセリフを残してきたが、僕は無職で鬱病で母親の家に居候中である。無論、収入はなく今は退職時に任意継続した健康保険組合から支給される「傷病手当金」に頼って生活している。

手術の費用は入院中の医療費を含めてどれくらいになるのだろう、実際に弟からお金の相談をされたときはどうしようかなぁ・・なんてことを考えているうちに病院についた。

今、通院している病院は18時までは完全予約制、18時からの夜間診療帯は予約なしでもOK、そのうえ隔週で土日も営業という社会人にとってはとても通いやすい病院である。しかし、18時以降は混雑しやすく、日によっては受付してから診察まで2時間待ち、3時間待ちといったことも珍しくない。小規模な良くある街のメンタルクリニックながら最近、事務スタッフも一人増え、結構な数の患者さんを抱えているようであった。

受付を済ませると、小さな小部屋の診察室に通される。
しばらくして、主治医がいつものようにノートパソコンを片手に入ってきた。

「どうも~。その後、どうですか?」

僕は午前中はほとんど寝ていて起き上がれないこと、憂鬱感や不安感はあまり感じなくなったが、口渇感や手指の振るえに悩まされていることなどを話した。

主治医の判断は、「順調に経過してきている。もう少し今のお薬で様子を見ていきましょう。」だった。

僕には何が順調なのかよくわからなかったが、おそらく専門的な見地からして、僕が話したことの中に、病状の微小な変化を捉えての言葉であろう(というか、そうあって欲しい。)と解釈して納得することにした。

ただし、口渇感や手指の振るえは今服用している薬の副作用だと思われるので、口乾感を軽減する新しい薬(ターゼン5mg錠)を新たに処方された。ただ、手指の振るえについては、病状の回復とともに自然になくなっていくと思われるのでしばらく辛抱してください、とのことだった。

15分ほどで診察は終わり、次回の診察の予約と会計をすませて、処方箋を受け取り、同じビルの中にある調剤薬局で薬を受け取った。

しかし、医療費は高い。僕は行政の医療費補助制度を利用しているので、通常の健康保険よりも自己負担が少なくて済むのだが、それでも2週間に一度の通院で結構なお金がとんでいくので、医療費補助制度が適用されていなかったら、無職の僕には到底通院を継続することは不可能であったろうと思われる。

次回の診察は2週間後の14:50という、なんとも微妙な時間。
この2週間で少しでも体調が回復していればいいなと思いながら、雪の降る道を帰途についた。

手術当日

2007-01-25 01:28:44 | 鬱病日記
1月24日


午前6:30。
携帯のアラームが耳元で鳴り響く。
目を閉じたまま、手探りで携帯を探り当て、アラームを止める。

起きなきゃ。起きたくない。でも今日は起きなきゃ。やっぱムリ。

頭の中で葛藤すること五分。
意を決してベットから起き上がる。
この時期の朝の部屋の空気は冷たい。
雪国の宿命だ。

ぼうっとしていると時間がなくなってきたので、とりあえず急いでシャワーを浴びて身支度を整える。
今、居候している家から最寄の駅まで徒歩で25分。
予定の電車に間に合うか?やばいかな。
焦りながらコンタクトを両眼にいれようとするのだが、今朝は指の振るえがひどくてレンズを瞳にのせることができない。
なんども指で眼球をついてしまう。
なんでこんなに急いでいるときに副作用がでてくるのか。本当にまいる。
結局、片眼ずつ5分かけてあわせて10分。
朝の10分は痛い。

駅まで早足で歩く。
雪道なので走ると転ぶ。
最寄り駅は郊外のローカル線なので、お目当ての電車を逃すと次がくるまでかなり待たなければならない。
携帯電話で時間を確認しつつ(桐原は腕時計をもっていない。)、必死で歩いて何とか電車に間に合った。

久しぶりの朝の電車は通勤、通学ラッシュで立つ位置がない。
東京勤務時代はこんな程度じゃまだまだ楽だったなぁ。
なんてことを思いながら、途中、地下鉄に乗り継いで病院近くのマックに到着。

今日は弟の手術の立会いで、午前9:00に病室にくるように言われている。
手術は2~3時間程度と聞いているが、なんとなく嫌な予感がしたので、普段は食べない朝食を食べておくことにした。
途中で差し入れのミネラルウォーターを購入し、徒歩で病院へ。

昨日、10年ぶりの再会を果たした病室、401号室だ。
弟は術前の処置で点滴などを受けており、半ば眠っているような状態だったが、僕が来たことは認識してくれたようだった。
しかし、昨日、顔を確認したばかりだというのに、いまだに目の前の青年が自分の弟であるという実感がわかない。
なんとも不思議な感じである。

その後、30分ほどでいくつかの注射をしたあと、手術室へ移動することになった。
ストレッチャーに乗せられた弟の横について、手術室前まで同行したが、その時点ですでに弟は若干眠りについていたように見えた。

付き添いの看護師さんに、あとは手術が終わるまで病室で待機しているようにいわれたので、401号室にもどろうとすると、不意に変なことを尋ねられた。

「桐原さん・・・ご兄弟ですよね?どちらがお兄様なの?あなたは弟さん?」

・・・兄ですけど。
それも来月三十路をむかえるいいおっさんですけどなにか?

弟とは3~4才(たぶん)年が離れているので、僕の外見が20代半ばに見られたのか、弟が落ち着いてみられたのか。
なんとも複雑な気持ちである。

喜んでいいのか、どうなのかよくわからないまま病室に戻ると、別の看護師さんが再び聞いてきた。

「あ、桐原さんですね?えっと・・・弟さんですか?」

・・・兄です。何度も言いますが、兄は僕です。
まぁ、兄って言っても兄弟らしいことは何もしてあげられていないのだけど。



空の病室に座わって待つ。
廊下では医療機材を運びながら看護師さん達が忙しそうに歩き回っている。

看護師さんてえらいなぁ。と素直に思ってしまう。

病室に待機して2時間半を越えた頃だろうか。
手術を終えた弟が、ストレッチャーにのって戻ってきた。
意識があるのかどうかは見た目にはわからない。
弟が病室で術後の処置を受けているあいだ、僕は廊下で主治医の先生に手術結果の報告を受けた。
胸を開いてみると予想していた範囲とは別に病巣が見つかったこと、事前に予定していた箇所も含めてその病巣も切除したこと。
手術自体は成功だが、注意点として、年齢の割には肺に肺気腫の兆候が認められるので、喫煙は絶対にひかえるように、家族からも(といっても僕しかいないのだが)強く本人に伝えて欲しいとのことだった。


病室にもどりベットの横の椅子に腰掛け、弟の様子を伺う。
肺にチューブがさしこまれており、点滴をうけている。
周りには色々な薬剤や医療器具が並べられている。

麻酔から目覚めているのかどうかはわからないが、時折、顔をしかめ苦しそうな顔をする。

僕は過去に色々な箇所を6回ほど手術しているのだが、それぞれつらい思いはするものの、呼吸器の手術ほど術前と術後で体力の差を実感するものはなかった。

入院するときは、普通に地下鉄にのって、生活必需品をつめたバックを背負い、地上にでる階段を普通に登れたものが、退院時にはその廊下を一息で下ることができないほど体力が消耗する。次第に慣れてはくるが、職場の健康診断などでは未だに肺活量の検査で年齢に応じた標準値を超えなかったりして、再検査を促されることがままある。

話を戻そう。
数分してから弟が自分でナースコールを呼んだ。
僕が隣にいることは認識していないようである。

抗生剤の副作用と思われる吐き気が耐えられないこと、布団をかけると暑いのだが、身体が痙攣のように震えることなどを、何度となく、声を絞り出すように伝え、検温や血圧測定などの看護師さんからの問いかけには、声をだすのが苦しいのか顔を横にふったり、うなずく動作をしたりして対応していた。

14時くらいだったろうか。
不意に弟が僅かに目を開き、うつろな目で僕のほうを見た。
僕と認識しているかどうかは怪しかったが、とりあえず僕はうなずいた。
弟はそのまま、また瞼を閉じ、苦しそうに顔をしかめた。

午前中、朝一番の手術で2時間程度で終了と説明を受けていたので、昼には帰るつもりでいたのだが、この調子では意識が完全にもどるまで、あと数時間は病室にどまることになりそうだ。

朝、朝食を食べて正解だった。

結局、5時頃まで病室にいただろうか。
看護師さんが「状態も安定していますので、もうお帰り頂いても結構ですよ。」
というので、弟が再び目をあけるのをまって、少しだけ会話を交わし、明日また顔を出す約束をして帰途に着いた。

手術というのは比較的簡単な手術でも、やはり手術室に入るときは多少なりとも緊張するものである。(その病気にもよるだろうが)術後の体力の消耗も激しく、入院手続きから、入院準備、病棟生活に手術に対する医師からの説明と同意、退院にあたっての会計処理など、一人で行うのは結構しんどい。


僕の過去の手術体験のうち3回は全部自分一人で対応した。
手術の同意書は、当時の会社の先輩にサインをもらい(笑)
近所の大型スーパーで入院に必要な生活必需品を買い揃え、
着替えやバスタオルなど必要と思われる一切をかばんに詰め込み、
地下鉄に乗って病院へ行く。
やっとの思いで病院に着き一人で入院手続きをしようとすると、係りの人は例外なく一様に戸惑った表情を浮かべた後、ちょっと同情したような寂しそうな視線をなげかける。

今の時代、一人でカラオケに行ったり、一人で焼肉に行く人がいるくらいなんだから、一人で入院しにきて何が悪いのか。と、心の中で叫びながら、おとなしく担当の看護師さんに病室まで誘導されるのが常である。

退院のときも一緒で、荷物をまとめて会計処理をし、病院の外にでたとき、入院したのは春だったのに、いつの間にか夏になっていて、ちょっと驚いたりもする。
そして、重たい荷物をもって地下鉄と徒歩で自宅に帰る寂しさと、身体的負担はかなりのものである。

いくら孤独になれている僕といえども、少々弱音を吐きたくなったりもする。

その点、弟にはできる限りのことをしてあげたいと思うのだが、どうやら弟にも同棲中の彼女がいるらしいので、どこまで手助けをしてあげるべきか、少々戸惑っている。本人も積極的にその話はしないので、僕からもなかなか聞きにくい。
やはり僕と彼は微妙な距離にいるのである。


「鬱病日記」といいながら、最近は自分の病気に関する記事が少ないので、最後に無理やり追記しておく。
今日はいつになく早朝から夕方まで、一日中起きて活動していたわりには、身体はよく動いてくれたほうだと思う。
ただ、これまでの経験的に、調子にのって動き回った翌日の朝はひどいダルさに襲われるので明日の朝が怖い。
ちなみに明日は夕方から、今度は僕の通院の番である。
手指の振るえなどがひどいことを伝えようと思うが、処方箋の変更などは特になく、現状維持でおわるような気がする。

その結果は明日のブログでご報告したい。

401号室の再会

2007-01-24 00:23:25 | 鬱病日記
1月23日

今日はいつもより早く目が覚めた。
今はたぶん8時くらいかな、と思いつつベットの中に頭まで潜り込む。
どうもベットを出る気になれない。
結局、途中で薬をのみながら15時くらいまでベットの中にいた。

本当はもう少し眠っていたかったのだけど、今日は夕方に病院にいかなければならない。
昨日、弟から入院したと知らせがあった。
手術前に家族に病状を説明するから、誰かつれてこい、という話らしい。

色々あって、弟は父親とも、母親とも距離をおいている。
身内で連絡をとっているのは僕くらいだそうだ。
(そうはいっても、年に数回メールのやりとりをする程度だし、彼の住所を僕は知らない。)

教えられた病院は、街の繁華街から少し離れた場所にあった。
中規模の比較的きれな病院である。
呼吸器科や呼吸器外科に特化した病院で、高度な手術も多数実績のある病院らしい。

正面の入り口から病院にはいる。
診療時間を過ぎたロビーには、人影がなく、奥の処置室から看護師たちの話し声が聞こえる。
照明は薄暗く、受付カウンターにはカーテンが降りていた。

401号室。
教えられた病室を目指してエレベーターで4階へ向かう。
ドアが開くと真正面がナースステーションだった。
看護師数名と、医師と思われる男性がせわしなく行き交っている。
病室までの道順を聞こうと思ったが、気ぜわしい雰囲気になんだか聞きそびれてしまった。

廊下の案内板を頼りに、401号室の前にたどり着いた。
入り口の扉は開いている。

弟との対面は実に10年ぶりである。
僕の頭のなかには、幼かった頃のやんちゃでいたずら好きの弟のイメージしかない。成人した弟はどんな風貌だろう。
いささか緊張しながら、病室の中を覗き込むと、酸素マスクをつけ、いくつかの管につながれた半裸の男性が、数人の看護師に囲まれて何かの処置をうけているようだった。
弟の病状はそんなに悪いのだろうか?

一呼吸おいて、一番近くの看護師さんに声をかけた。
「あの・・、桐原と申しますが、××の病室はこちらでしょうか?」

一瞬、きょとんとした表情を浮かべた看護師は、事情を察したらしく、病室の奥を指差した。
処置をされていたのは、別の患者さんらしい。

多少ためらいながらも、病室の奥に足をすすめる。
カーテンでしきられたベットの上に、無精ひげをはやした若い男性が、目を閉じたまま眠っている。

彼だろうか?
いまいち自信がない。

すると、その彼はふいに目を開き、僕の存在に気がつくと、即座に「どうも。久しぶり。」と声をかけてきた。
どうやら目の前にいる彼が、僕の弟らしい。
顔は笑っていたが、目つきは鋭く、その奥には悲しい色を含んでいる。

ぎこちないながらも、挨拶をかわし、何年ぶりだろう、なんて話をする。
彼の胸にはチューブが入っていた。

僕はお見舞い代わりに勝ってきた数冊の雑誌を差し出した。
彼がまだ小さかったとき、とてもお気に入りだった「ガンダム」の特集雑誌である。
他にも色々考えたが、手術前日に食べ物を持っていってもしかたないし、なにより生活必需品がどこまでそろっているのかわからない。
そして最後に思い至ったのが、僕のなかでの彼のイメージ、「ガンダム」のプラモデルを集め、大切に遊ぶ、幼少の彼の姿だった。

雑誌を手渡すと、彼は苦笑いしながら、ありがとうと言った。

数分、とりとめのない話を交わしていると、一人の医師がベットサイドまでやってきた。

「桐原さんのお兄さんですか?」

僕が頷いて頭をさげると、病状と手術の説明をするので、別室に来て欲しいと案内された。弟も同席である。

その医師があまりにも深刻な顔をしているので、何か悪い病気なのかと思ったが、話を良く聞くと、なんのことはない、病名は右肺の「自然気胸」とのことだった。
気胸とは肺の一部に「嚢胞」(ブラという)ができ、その嚢胞が破れ肺から空気が胸腔内にもれて肺を圧迫してしまう病気である。
細身の若年男性に多いとされ、胸痛をともなう「発作」を定期的に繰り返すのが特徴だ。

実は僕も数年前に同じ病院の系列病院で、胸腔鏡下手術という方法で気胸の手術を受けている。

目の前の主治医は、CTによる肺の断層写真を示しながら、丁寧に病状と手術の方法、術後から退院までの見通しを説明してくれた。

以前に僕が手術を受けたときは、こんなに丁寧な説明はしてくれなかったなぁ、と思いながら医師の説明にあいずちをうつ。
(ちなみに、僕の場合は、肺の一部を切除することを手術の1時間前に知らされた。笑)

ひとしきり医師からの説明が終わった後で、数枚の書類を手渡された。
手術に関する同意書だけで3~4枚あったかと思う。
手術とはなかな面倒くさいものである。
病室にもどり、必要書類に署名をしながら、弟の夕食につきあった。

10年も会っていないと、話す話題もそうあるわけではなく、30分ほどでなんとも気まずい沈黙が訪れるようになった。
タイミングを見計らって、席をたち、また明日来ることを約束して病室をあとにした。

手術にあたっては近親者が病院で待機していなければならないとのことで、明日は9時までに病院に行かなければいけない。
弟はあくまで父や母と呼ばれる人たちの世話にはなりたくないようだった。
この手術のことは、僕と弟だけしか知らない。

家に帰り、母親が帰ってきて夕食を食べたあと、何気に、「明日朝早くから学校行くから。朝食はマックで済ませるから用意しなくていい。」というと、「無職なのにマックで食事だなんて、贅沢な身分だね。」という答えが返ってきた。
からかっているのか、本気で言っているのかはわからないが、こういう時に無職だと分が悪い。いっそのこと、弟の手術の話を打ち明けてしまおうかとも思ったが、過剰に心配して、錯乱し、パニックになることが目に見えているので、それはやめにした。何より、弟がそれを望んでいない。

明日は早朝から外出だ。
いつもなら熟睡しているところである。
起きられるかどうか心配だが、なんとか頑張って行ってみよう。


この10年で弟は児童から青年に成長していた。
それでも僕の夢の中に時折でてくる弟は、ずっと児童のままだろう。

過去の彼と、今の彼の印象の違いに戸惑いながら、僕は微妙な家族関係を渡り歩いている。

黒い塊~家族の肖像

2007-01-23 01:50:25 | 鬱病日記
1月22日


昨日から、黒い塊が胸につかえて気分が悪い。
気持ちが重い。
身体が言うことをきかない。

今日は夕方から学校に行く予定だったが、結局いけなかった。
カリキュラムだけが進んでいく。。。
復習も予習も追いつかない。。。
試験は来月。。

焦る。。。


何かしなければと思うのだが、何から手をつけたらよいかわからない。
せめてこの胸の黒い塊がきえてしまえば幾分楽になるのに。


夕方、学校に行くのをあきらめて、ベットの中でうたた寝をしていたら、滅多に鳴らない携帯がなった。

うつろな意識のなかで番号を見ると、相手は10年前に生き別れた弟からだった。

僕には妹と弟が一人ずついる。
小さい頃から家庭は荒れていたので、つい最近まで「家族」という言葉が大嫌いだった。暖かな家族など僕には信じられない。学生時代、家に帰るということは、父親(そう呼ぶのも汚らわしい)と母親の壮絶な戦いに加わるという意味をもった。

父は昼間は寝ていて、午後になるとでかけていく。そして夜中に帰ってくるらしかった。僕は家の二階の自分の部屋で、今日は何事も起きないことを祈りながらベットに入る。だが、だいたいの場合において、その期待は見事に裏切られるのである。

父の車のエンジン音が聞こえる。
しばらくして玄関の扉が開く音が聞こえる。
「ヤツ」が帰ってきた。
母親は居間で起きている。
間を空けず、口論がはじまるのがわかる。
その声は数分の間に、父の怒声と母の鳴き声と叫びに変わる。

僕は枕で耳をふさぐ。
僕には関係のないことだ。
僕は違う。

物が倒れる音がする。
母が倒されたようだ。
その上から「ヤツ」は、なおも暴力を振るう。
過去に母はヤツから家の2階から階段で1階まで突き落とされたり、包丁を顔に向けて投げつけられたことがある。壁に突き刺さった包丁は、先端が壁にめり込んだまま、折れて抜け、ウチの台所には先端がかけた包丁が何事もなかったかのように使われていたことを思い出す。

また、母が叫んでいる。その叫びはすぐに悲鳴に変わった。

僕には関係ない。。。
枕で耳を強く抑え、意識を他の場所に飛ばす。
それでも1階の居間で起きている、毎夜の乱闘騒ぎは大きくなるばかりだ。
また一階で何かが倒れる大きな音が。

祖父母が起きてきた気配を感じる。
幼い妹と弟が泣いている。

もうダメだ。
僕は決意を固め1階の居間に駆け下りていく。
枕元には大きなナイフを用意してある。
でも、今日は使わない。
これは最後の機会まで待つんだ。

居間に降りるとあとはいつものお決まりのパターンである。
激高し虚勢をはるヤツと、錯乱し泣き崩れる母の間に身体でわってはいり、ヤツをつきとばす。

しばしの格闘のあと、母親を別の部屋に移動させ、祖父母が部屋に戻るのを見届け、妹と弟を居間のとなりの子供部屋につれていき、再び寝かしつけるのだ。

その頃には勢いをなくしたヤツが、居間のテレビの前に陣取って、くだを巻きながらビールを飲んでいる。

今ならヤレる。

でもまだだ、まだ時期じゃない。何よりも今夜もくたくたに疲れてしまった。
早く一人に戻りたい。

妹と弟がベットにはいったのを確認し、僕は2階への階段をのぼる。
上りきった踊り場で、身体が震える、寒い、座りこむ。
いつものことだ。
しばらくすれば落ち着くから、それまでの儀式。
そしてやっと僕の時間がやってくる。

疲れた。

今日はもう眠ろう。
明日の学校はどうしようか。
明日のことはもういい。
今日は疲れた。もう眠ろう。

翌朝、何事もなかったように眠っているヤツを見て、ムカムカした思いを抱きながら学校に行くのが日課だった。

ヤツとの確執のエピソードは枚挙にいとまはないのだが、それはまた別の話で。

話がだいぶ横道にそれたが、そんな弟からの突然の電話でびっくりしたものの、身体がだるかったので、そのままにしておいた。
するとしばらくたって、メールが届き、入院をして手術をすることになったという。

手術は明後日。主治医から手術の前に必ず親族を連れて来いといわれたので、なんとかしてきてくれないか、という内容だった。

自分の調子も悪い中、どこまで役にたてるかわからないが、明日、病院に行って来たいと思う。


とりあえず、明日は弟の入院している病院に行ってくる。
肺がん治療専門病院だということが少々ひっかかるが、まぁ、たいしたことはないだろう。

僕も昔、肺の手術をしているから、その苦しさは少しわかるかな。

そんなことよりも、実際に弟にあったとき、顔がわかるかどうか心配である。
僕の頭の中には小学生だった頃の弟の姿しか記憶にない。

なんだか緊張してきた。

虚像と実像のはざまで

2007-01-22 02:45:25 | 鬱病日記
1月21日


今日の目覚めはここ数日間の中で最悪なものだった。
詳細は↓の記事「放課後のピアノ」をご参照いただくとして、何が辛かったというと、どうしようもない夢を見た後、いつもより身体がだるく、ここ数ヶ月間、影を潜めていた「胸の中の黒い塊」が現れたのだ。憂鬱でしかたがない。起き上がる気になれない。
時間を見るとまだ8:00。いつもなら熟睡している時間である。
枕元においてある携帯の時計で時間を確認して、また浅い眠りに落ちる。

今日は珍しく、午後から人に会う約束があるのだ。

待ち合わせ時間から逆算して、何時に家をでればいいか朦朧とした頭で計算する。
うまくいかない。
何度も計算して、もう2~3時間は大丈夫だという結論に達し、またベットに潜り込む。

それにしてもだるい。なにより、この憂鬱感は久々にきたこともあって、ちょっとつらい。
できれば午後からの約束をキャンセルしたかったが、相手は東京から帰郷してきた元上司(女性)。断るわけにはいかない。

結局、ギリギリまで寝て、急いでシャワーを浴びて電車に乗った。

だるい。

待ち合わせ場所につく。
待ち合わせ時間の2分前。
携帯がなった。

「ごめん!まだ色々あって遅れているの!急いでいくからもう少しまってて。」

なんだ。もっと寝てればよかった。


数分後、ようやくその元上司(以下A氏とする)と落ち合い、挨拶もそこそこに、昼ごはんを食べに行こうという話になった。
時間はもう14時前である。
家を出る前にサンドイッチを食べてきたので、おなかはすいていない。
でも、その誘いを断ることができずに、商業施設のレストラン街に行った。

「何がいい?おごるよ。」

と言われたが、正直に言って今は何も食べたくない。

「なんでもいいですよ。」

と返すと、着いたところは蕎麦屋だった。

僕は蕎麦は嫌いである。というか、麺類はパスタ以外食べられない。
アレルギーとかではなく、たんなる好き嫌いの問題なのだが、蕎麦とうどんは温かくても冷たくても食べられない。

※ちなみに、桐原はそもそも「ご飯=米」が嫌いである。だから主食はパンと豆腐。今いる家では、僕の食事だけ、豆腐が主食として用意される。関西人がお好み焼きをおかずにご飯を食べるというが、僕の場合は、冷奴を主食に麻婆豆腐を食べているようなイメージだ。他にも食べられないものが多いのだけど、この話題は別の機会に。

席につくなりA氏が、

「天ざる2つね」

と注文をした。
僕はてんぷらは食べられなくはないけれど、何より蕎麦がきらいである。嫌いなものにてんぷらをつけられると、吐き気がするほど食べられなくなる。

しかし元上司のおごりなので、目の前で残すわけにもいかず、文字通り死ぬ気で、A氏の食事時間の2倍をかけてなんとか完食した。

その後、近くのカフェに移動しお茶をしようということになったのだが、そこでA氏が妙なことを言い出した。

「桐原君さぁ。最近、体調どうなの?」
(※このA氏は僕の病気のことを知っている。」

まぁぼちぼちですかね。薬増えましたけど。

「そっかぁ。。。。あのさ、まだ決まった話じゃないんだけど、ちょっとバイトする気ない?」

バイトですか?

このA氏は僕が20代の大半を過ごした業界最大手の会社を退職し、今は競合他社に転職している。

なんのバイトですか?っていうか東京ですか?

「大きな声じゃいえないんだけど、某大手有名団体がクライアントの案件なのよ。(中略)色々事情があって社内じゃ処理できないから、桐原君にマイニングとかやってもうえないかなぁって、話になってたんだよね。」

ちなみにこの競合会社には、以前僕が勤めていたときの先輩や上司などの人材が多数流入していて、僕のことを知っている人も少なからずいる。

「まだね、決まった話じゃないからあまりプレッシャーに感じないでね。」

僕は、以前の会社では各種マーケティングリサーチやCS調査、データマイニング、テキストマイニングを担当する部署にいた。
当然、東京のオフィスにいたので、いわゆる大企業のマーケティング担当部門やCS(顧客満足)担当部署の人間と多く接することになる。
当時の会社は(今でもそうだけれど)、僕が担当していたようなマーケティング関係のお仕事(案件)は、非主流派であり、こじんまりとしたセクションであった。上司や同僚(先輩)は某有名私立大学卒や社内研究所からの異動者、前職が某コンサル系研究所の主席研究員と、それはそれはそうそうたるメンバーであったので、高卒(大学1年で中退)の桐原にとっては、結構プレッシャーだった。
当時は一案件=一担当制をとっていたので、自分に回ってきた案件は企画から集計分析、報告書作成、クライアントへの報告会まで、営業と協力して一人でこなさなければならない。大学中退の僕がマーケティングやデータ分析についての知識やスキルをもっているわけはないのだが、同じ部署で誰かが助けてくれるわけでも、誰かに分析方法を教えてもらうような雰囲気でもないので、新しい案件が発生するたびに関連する書籍を買いあさり必死で勉強したことを思い出す。

東京での勤務を経て、いつの間にか鬱病になり、今いる地方のオフィスに転勤という形で都落ちしたわけであるが、その頃、地方拠点では、

「桐原君=データ分析ができる人」

という虚像ができあがっていた。
営業も業務運用部門も、何かにつけて「分析案件やマインニングの仕事をとってくるからよろしく頼むよ。桐原君がいればもう大丈夫だ。」みたいなことを言ってくる。

おいおい。

マイニングと一口に言ったって色々な種類があるし、そもそもデータマイニングとテキストマイニングとはアプローチの仕方が異なる。それに大前提として専用のビジネスソフトウェアが必要不可欠なのである。
エクセルしか入っていないようなパソコンで、大量のデータをもちだして、

「さぁ、桐原君。あとは結果を頼むよ。」

と言われたところで、できるのは単純集計とクロス集計くらいなものである。
しかし、案件をとってきた営業や運用管理のセクションの人々はそれでは納得しない。

「データ分析=データマイニング(あるいはテキストマイニング)」

という誤った思考が定着しており、クライアントから大量のデータをお預かりしてきて、桐原に渡せば、何かとてつもない分析結果や報告書ができてくると勘違いしている。

僕はそういう話が来るたびに、誤解をといてまわるのだが、一度できあがってしまった、

「桐原=データ分析担当者=アナリスト⇒分析結果をもとにコンサルタントができる人」

という虚像はどんどん膨らんでいく。


確かに、東京勤務時代はいくつかのマーケティングリサーチ(新商品の開発にあたっての消費者意識調査など)やCS調査(顧客満足度調査)、ES調査(従業員満足度調査)、変わったところでは新規開業クリニックの商圏ならぬ「診療圏」調査などを行い、集計⇒分析⇒報告書作成⇒結果の報告と改善策、今後の方向性の提言などを行ってきたことがあるが、それは統計解析専用の高額なビジネスソフトウェアを使用して初めてなりたつ業務である。

さらに、そもそもの前提として、各種の調査業務で使用する分析手段は、正確にはマイニングではなく、因子分析やクラスター分析などの多変量解析が中心になることが多い。最近ではテキストマイニングを調査結果の分析に使用することも増えてきてはいると思うが・・。(その会社ではマイニングという言葉と多変量解析の手法を明確に分けることなく使用されていたが、二つは全く別のアプローチをとる、別個な手法であると考える。)

マイニングという言葉には、炭鉱を掘り返す=データの山の中から有意な情報、法則を導き出すという意味があるのであるが、所詮は炭鉱堀りなので、掘り始めた山(=クライントからお預かりする膨大かつ未整備なデータ)の中に有意な鉱脈が含まれていることを保証するものではない。
なので、あまり計画性なく集まったデータの山をいくら探索してみても、鉱脈がみつからない山もあるわけである。

データ分析担当の部署のメンバー以外は、大量のデータさえ手に入れれば、その中から「必ず」有効な法則や原理が見つかると考えている傾向がある。
クライアントにサービスを売る前に社内教育を徹底すべきだと思うのだが、冒頭のA氏とその周辺の皆さんも、データマイニング(よくよく聞いてみるとテキストマイニングのことのようだったが)とデータ解析(多変量解析など)を過大評価しすぎであると思う。

さらには、鬱病で新聞もまともに読めない桐原を捕まえて、「データマイニングをお願いしたい。」なんていうのは狂気の沙汰である。

病状があまり芳しくないし、ブランクもあり、昔の自分のようにはできませんよ。
と遠まわしに断っても、

「大丈夫、大丈夫。現場に戻れば勘が戻るから!」

なんてお気楽なことを言う。
お前、データ分析なんてしたことないだろ、心のなかで叫びながらなんとなく愛想笑いをしている自分が嫌になる。

東京でマーケティング(リサーチ)がらみの担当部署にいた、というだけで、地方に行くとまるで神様扱いである。

その上、僕は東京にいた現役時代も、マイニングより、各種リサーチを主に担当していて、マイニングより多変量解析を頻繁につかっていたので、いまさら現役を退いて、鬱病で頭がまわらないなか、マイニングをやってくれと言われても、できるわけがない。

僕はやはり調査が好きだ。
調査の企画、調査目的の明確化と仮説の設定、調査票の作成・・・実査(現実に調査をすること)を終えて、あがってきたデータを集計し、必要に応じて多変量解析などの手法を用いて報告書にまとめる。調査から得られたデータは客観的事実として報告し、それとは別に、クライアントがもつ経営課題の解決策、改善の方向性を提案していく。

(マニアな話だが、僕が好きな分析手法は今ではすっかりメジャーになった共分散構造分析である。重回帰分析と因子分析を足したような分析手法だが、分析結果や検討過程を図示し、分析者の思考の過程やそこから得られる知見ををビジュアル化して検討することができる、データ分析に携わる人間の間でここ数年人気の高い分析手法である。)

東京勤務時代、その部署では一案件=一担当者制がとられていたので、営業からあがってくる案件に対して、一人の分析担当者がつき、データ分析の企画提案から(時には初報から)営業と協力して、案件の獲得をめざす。
そうこうしている間になじみの営業というのもできてきて、直接的にはデータ分析に関わらない案件についても、個人的に相談にこられたりした。時には大手IT系求人会社の企業ブランド政策について助言を求められたり、新しい市場に進出するにあたり、どんなポジションでどんな人々を対象に、どのような商品を訴求したらよいのか。競合他社との差別化の要因は?など、どちらかと経営企画に近いような内容から、新規クリニック開業に伴う診療圏調査(※この調査は苦労した。おかげで今まで全くしらない業界を垣間見ることができたが。)や、コールセンターのES調査をきっかけに、改善策の提案、施策の実施、運用業務全体のワークフローの見直しなど現場のコンサル業務のようなことも経験した。

それらの仕事はとても刺激的で興味深いものであったが、如何せん僕は経営コンサルタントではないので、なかなか思うように仕事ができない。
会社のリスクを考えると、非主流はである僕らの部署が、さらに非主流の業務に手を出すことにたいする危険もあった。

でも、なじみの営業さんや新人君たちが、提案書作成に困って訪ねてくれることは嬉しかったし、クライアント先の初報から営業動向することも全く苦ではなく、むしろ楽しかった。



だが、

それらはすべて鬱病にかかる前の話である。
鬱病患者の多くが経験する過程において、「比較による嫌悪と焦燥」(桐原の造語)があるように思う。
何を比較するかというと、自分と周囲の人間(同僚など)の仕事の量と質、職位を比べて焦りを感じたり、何より苦しいのは、病気にかかる前の「過去の自分」と「鬱病を抱えた今の自分」を比較してしまうことである。

昔できていたことができない。

これほどつらいことはない。


今僕は、過去の自分を下敷きに形成された「分析力・コンサル力のある桐原君」という虚像と、「ベットの中で半日を過ごし、理論的思考が難しくなった自分」という実像のあいだで苦悩している。


過去の自分とは比較しない。
比較しても焦りや憂鬱感にさいなまれるだけだから。

やっとそう考えられるようになったところで、今回の「分析案件のアルバイト」。

昔の仕事に対する未練はあるけれど、中途半端に関わって病状を悪化させたくもない。

当面は先方から連絡がくるまで待つことにしようと思う。



虚像と実像のはざまで、僕は迷子になりそうだ。




ロシアのストリートチルドレン

2007-01-21 00:09:16 | 鬱病日記
1月20日


今日は9:30から講義がある日。
基礎コースで最後の講義。
ここのところずっと学校にいけず、そのコースを受講できていなかったので今日は必ず行かねば、と思っていた。
ギリギリまで寝ていても大丈夫なように、前の夜から準備をして、あとは朝起きてコンタクトレンズをいれればいいだけという状態で就寝。

だがしかし、

結局、今朝もベットから起き上がることができずに講義を受けられなかった。
試験日は迫る、講義はうけられない、勉強はすすまない、科目は増えていく、やる気が落ちていく・・・・。

最悪だぁ。

日程的に言うと、来週の月曜日が新しいコース(2級)の2回目になるので、前回さっぱりわからなかった1回目の復習と、2回目の予習をしておかなければならず、その上、今までやっていた旧コース(3級)も総復習しておかないといけないのでやることはたくさんあるのに。

身体がうごかない。

切羽詰って追い込まれると人間は現実から逃避しようとするみたいで、今日は一日中寝てました。

いつもより少し早く、正午前に起きて朝の分の薬を飲む。

ベットに戻る。

15:00頃、再び起きて昼の分の薬を飲む。

ベットに戻る。

19時頃起きて簡単な食事をすませ、三度ベットへ。


そして今、夜の分と就寝前の薬を飲みながらブログを書いている。
まるで今日は冬眠をしていたみたい。


なんだか気分も落ちてきた。
何もかもが嫌になってきた。

「あの言葉」は禁句だから言わないけれど、この命を誰かに譲ることができるなら、喜んで差し出そう。

生きることに真正面から向き合えない自分は、生きたくても生きられない人に、障害を持ちながらも生きている人に、思いがけなく命を絶った人に、そしてその遺族の方にたいする冒涜だ。

そう思う。

でも一方で、明日命が尽きるならそれでも良いと思う。


以前、テレビのドキュメンタリー番組でロシア(東欧?)の雪積もる街で生きる、ストリートチルドレンの姿をみた。

彼はHIVに感染している。無論、治療は受けていない。

昼は当局による取締りを逃れながら、行きかう人々から施しをねだり、夜は配水管の隙間に入って朝がくるのを待つ。

彼には妹がいる。施設に入っているという。警察に捕まれば同じ施設に入れられるが、彼はそこで年長者からのいじめにあい、脱走してきたのだ。

妹のことを思い、施設の近くまでは行くが、途中で引き返してしまう。
数日おきにそれを繰り返す。

悲しい瞳をした、優しい、きれいな少年だった。


もし変わることができるなら、僕は彼に命をささげたい。


どんどん沈む

2007-01-20 00:01:14 | 鬱病日記
1月19日


今日は、早く起きて朝から勉強をするつもりだった。
昨日の夜までは。

今日起きたのは、いつもどおり昼過ぎ。
身体がダルい。

朝昼二回分の薬を飲んで、とりあえず冷蔵庫を開けてみる。
食べられそうなものは何もない。
買い物をする為に外出するのも億劫なので、カップ1杯の牛乳を食事がわりにすることにした。

今日一日かけて「3級」の復習をする予定だったけれど、なんだかやる気がでない。
テーブルの上に教材を広げてみる。
どこから手をつけていいのかわからない。

わからない。

わからない。

わからない。

そうこうしているウチに本気で身体がダルくなってきた。
久々にきたこの感覚。
決して「けだるい」などという言葉で表現することはできない、重みのある「ダルさ」。強いて言えば身体の中心、芯みたいなものを抜かれ、身体中が地面にうまってしまいそうなダルさ。

こうなってしまってはどうしようもない。
立っていることも、座っていることもままならない。
文字を読むなんて不可能。

昨日の夜の講座で疲れがたまったのかなぁ、なんて思いつつ、どうしようもないので少しベットで休むことにした。

ベットのマットレスに身体が沈む。

どんどん沈む。

どんどん。

どんどん。

このまま、地球の底まで沈んでしまえたらどんなに楽だろう。

そんなことを考えていたら、いつの間にか眠ってしまっていた。
周囲が暗い。
もう夕方のようだ。

何をやっているのだろうと、自分で嫌になってくる。

テーブルの上に広げたテキスト、問題集をしばらく眺める。

眺める。

眺める。

やっぱり手をだせなくて、今日の勉強はあきらめた。

もうすぐ母親が仕事から帰ってくる時間だから。

僕は今、母親の家に居候しているので、自分の部屋がない。
一人暮らしをしていたときの家具類や大量の本、衣類、ベットの類は物置がわりに使われている6畳間に押し込んでいるのだ。

文字通り足の踏み場もないので、机やテーブルをおくスペースがない。
否、正確にいうと、唯一部屋の隅におしやられるようにおいてあるテーブルの上には、大量の薬がばらまかれている。処方されている薬の量が結構多いので、机の上に自分なりに並べておいていないと、何をどのタイミングで飲んだら良いのかわからなくなるからだ。

だから、家で勉強するときは居間にあるテーブルを借用する。
でも母親が帰ってくればテレビも見るしテーブルも使う。

したがって僕の自宅での勉強時間は母親が仕事にでかけてから帰宅するまでに限られる。
母親の仕事が休みな週末は、家で勉強ができないので、学校のロビーの机を利用するようにしている。
めっちゃ寒いけど。



そうこうしているうちに、今日が終わる。


世の中には「明けない夜はない」とか、「降り止まない雨はない」とかいう人がいるけど、僕は毎晩、ベットに入るとき、このまま朝がこなければいいのにと思う。

ベットに身体をあずけて、眼を閉じて

沈む。

沈む。

沈む。

ずーっと底まで。

ずーっとずっと底の底まで。



はたしてそこには何があるのだろう。



安らぎか、苦痛か。


それが安らぎであるのなら、

僕は今夜、沈みたい。