中国の軍事力が21世紀になり格段に強化され、日米安保条約の仮想する相手がロシアに加えて中国を強く意識されるように変化してきていることは事実。自衛隊が想定する対中国戦略の基本は南西諸島の島嶼防衛だが、それは安保条約による米国軍による共同防衛期待が前提にある。本書筆者は、その期待は日本による一方的な希望的予想であるとする。尖閣諸島の施政権は日本にあり、日本が施政権を行使する地域の防衛には協力する、というのが米国政府の一貫した姿勢ではあるが、尖閣諸島領有権は中国も譲れない権利だとして国際的に主張していることも事実。本書では、もし中国軍が尖閣諸島に上陸するとしたらどうなるのか、その後、南西諸島への進出を目論んでいると考えると、現行憲法範囲内で日本防衛のためにするべき準備は何かを提言している。
本書のシミュレーションは具体的である。まず、中国は、西太平洋と日本海において陽動作戦を実施、日本自衛隊と米国軍の警備船団をひきつけておき、尖閣諸島への海上保安部隊による上陸作戦を実施、尖閣諸島は自国領土だという前提で、灯台設置、船溜まり設置を国際的に宣言する。この時点で尖閣諸島の実効的施政権は形式上中国に移る。電光石火の作戦に自衛隊は現地派遣に間に合わないため、一度は奪われた島の奪還作戦を実行、自衛隊による上陸作戦を行う。中国軍は、日本の軍隊により自国領土が侵されたとして正規軍を投入、ミサイルと圧倒的な海軍力により再奪還を行いこれに成功。
ここからのシミュレーションは中国による尖閣実効支配後の自衛隊と中国人民軍の艦船とミサイルによる攻防戦と米国政府の立ち位置。まずは同時多数のミサイルによる自衛隊基地攻撃を両軍のイージス艦や地上基地がどの程度防御できて、その上で残存兵力がどの程度あるかという想定を行う。その結果は2019年の海上戦力と基地戦力を前提にすると、日本自衛隊の大敗で、日本は中国からの降伏勧告に屈することになる。米国政府はここまでの動きに即座には対応できず、先島諸島、沖縄本島の米軍駐留基地を維持するにとどまり、尖閣諸島の実効的施政権は中国の手に渡る。日本は国連に事態を訴え国際世論と米国政府を味方につけようとするが、両国政府の主張は平行線、国連も米国政府も、両国による外交的解決を期待しながら中国が尖閣諸島を実効支配する事態を静観することになる。
島嶼防衛において、一度は奪われたものを奪還するというのは軍事戦略上の愚策であるという指摘である。そもそも、中国が太平洋への進出を想定して、沖縄、先島諸島、台湾からフィリピン、スプラトリー諸島までの第一列島線と小笠原からグアムへの第二列島線の構想を打ち出したのは1980年代。その当時は海軍力が未熟で現実的ではないと考えられていた構想だったが、2025年ころまでには第一列島線の中国側の支配権を確立する、という戦略計画は台湾の戦略的統合が実現すればいよいよ現実味を帯びてきている。現実に、スプラトリー諸島は、オバマ政権時代に海洋防衛予算が削減された機会を捉えて中国による基地建設が行われ、2010年には環礁以外に何も存在しなかった地域に、7つの人工島による軍事拠点が建設されてしまった。
東シナ海における日中軍事力を2021年の想定で比較すると、魚釣島から1000km以内の基地の数が日本は6箇所、中国は19箇所、戦闘機、爆撃機、哨戒機、潜水艦、空母、駆逐艦、イージス艦、ミサイル数いずれをみても中国人民軍に圧倒的に遅れを取っている。
冒頭シミュレーションのように島嶼防衛を考えた時に、安保条約による即時の米国軍支援は全く期待できず、米国は自国利益にかなう沖縄本島、日本列島に存在する米軍基地防衛を優先させるため、武力による島嶼防衛は日本自衛隊のミサイルと海上自衛隊の戦力に大きく依存するというのが筆者主張である。そのために最低限必要な戦闘機、潜水艦、イージス艦、ミサイルなどを中国人民軍の3分の2程度は保有しておくことが必要とし、その準備には予算確保ができたとしても10年はかかると想定している。その上で自衛隊としてできることは、嘉手納基地の米軍との共同活用、下地島の滑走路の日米共同利用、など、日米安保条約に依存しすぎない日本独自の戦略立案であるとする。本書内容は以上。
私自身は安倍政権の支持者ではなく、立憲主義をないがしろにする政権下での憲法見直しには反対の立場である。しかし、冷戦構造が大きく変化し、米ロバランスから米ロ中バランスへ移行してきたのが現在である。戦後70年平和主義を謳って戦争を放棄した平和憲法を守ってきた日本であっても、二度と戦争を引き起こさないための議論とともに、将来の戦争抑止のためには、隣国との軍事バランスの現実を直視して、米国との安全保障や自衛隊のあり方を考え直すときが来ていることを実感する。そのためには、安保条約と日本国憲法のあり方を見直す必要があり、「憲法に自衛隊の存在を書き込む」という単純な議論であるはずがない。長期的視点による国家ビジョンの議論のためには、既存の価値観や既成の政党の枠にとらわれない、国会議員の若返りが必要である。山本太郎はその嚆矢となれるだろうか。