意思による楽観のための読書日記

平成今昔物語 村林悟 ***

特別すごい、と思う本ではなかったが、まさに自分の人生と重なる昭和史がかいつまんで紹介され、実に懐かしかった。昭和23年に三重県に生まれ育った筆者が自分の子供たちに伝える昭和の歴史、という形で語られる。昭和史を平成の今から眺めているのでこういうタイトルになっている。僕は昭和29年(1954年)生まれ、自分史に重ねてそれぞれのエピソードを読んだ。

南極観測船「宗谷」、初めて南極に出かけたのは1956年、僕も小学生の頃にプラ模型で「宗谷」を作った記憶がある。太郎次郎を置き去りにして逃げ帰ったのが第二次南極観測だった。氷に閉じこめられた宗谷号はソ連の砕氷船にロープで引っ張ってもらったがダメだったという。結局ヘリで脱出、アラスカ犬16頭は置き去りにされた。いや、思い出した、作ったプラモデルは次の「富士」だったはずだ。南極砕氷のための船翼のメカニズムがついていたからだ。その次の「しらせ」も老朽化している、というのは平成の今の話だ。

伊勢湾台風では5000人以上の人が死んだ。1959年というから、僕は京都に住んでいた。潮岬から伊勢湾に向かったため、京都でも停電があったと思う。当時台風でなくても停電は普段でもあった記憶がある。電力供給はまだ不十分だったのだ。家に電圧を上げる道具があった。それがないと電圧が下がってテレビの映像が半分くらいに縮むのだ、今の人たちには信じられるだろうか。しかしである、停電になっても蝋燭をともして結構生活できるのだ。電気冷蔵庫もテレビも炊飯器もなかったからだ。うちに炊飯器がきたのは1961年頃、冷蔵庫は62年やテレビははやくて浅沼委員長が殺されたニュースを何度も何度も見た記憶がある。64年東京オリンピックの時にはカラーテレビ導入が検討されたが、当時天然色といわれていたカラー放送はまだあまりなく我が家では見送られた。62年の冬には大雪が降り、京都でも30センチ積もった、第二室戸台風では京都は伊勢湾台風より大きな被害があった。同じくらいの台風はもう来なくなった。停電もないし、あのころの台風前のなぜか「ワクワクする」子供の思いを感じている現代の子供たちはいるのだろうか。

60年安保と岸伸介。近所の子たちと「安保反対あそび」をしていた。「あんぽはんたい」と叫びながら歩き回る、という単純な遊び、近所に警官の息子がいてそいつが僕の子分だったので、いつもその母親が出てきて「こら、やめなさい」怒るのだから楽しいことこの上なかった。「ハガチー帰れ!」遊びもあった。子供はなんでも遊びにしていた。岸伸介も暴漢に刺されたが命を取り留めた。祖母は岸が死んで浅沼さんは生きていてほしかった、と言っていた。

ケネディ大統領が死んだのは祖母に教えてもらった。暗殺って何、と聞いたら、悪いやつに殺されることだと答えた。誰?と聞いたらわからない、と祖母は答えた、その通りだったのだ。少し前の1960年だったと思うが、ソ連のスプートニクが月の裏側の写真を撮り、日本の新聞にもその写真がある面一面を使って掲載され、我が家では玄関、といっても狭いアパートだったのでそのドアの内側に貼ってあった。ただの月の表面じゃないか、と思ったが大人たちは「ソ連はすごい、アメリカなんかそのうちソ連にやられてしまうぞ」と言っていた。ガガーリンが初めて地球外飛行をしたのもこのころ62年だ。翌年、ガガーリンは日本にもきた。僕はガガーリンバッチを買ってもらい長いこと宝物にしていた。65年には女性初の宇宙飛行士テレシコワが「私はカモメ」と言った。ソ連の方がアメリカより進んでいると思っていたので、僕は大きくなったらモスクワ大学に行きたいと思っていたのだ。

東京オリンピックの前は、五輪音頭や「オリンピックへの道」というクイズ番組があって盛り上がっていた。これはすごい盛り上がりであり、今の東京招致どころではなかった。国民をあげて東京オリンピックをみたい、成功させたい、日本をいい国にしたい、という雰囲気で国中があふれていた。僕の叔母は当時中学生、僕は小学4年、叔母は中学代表として東京オリンピックの開会式に行った。これはうらやましかった。何しろ、夢の超特急にも乗れるのだ。帰ってきたら話を聞こうと思っていたが、テレビですべてを見ることができたので、なんでも知っていたので聞くことはなかった。五輪期間中でテレビ中継が目白押しなのに、同級生たちが放課後
ドッチボールをして遊んでいるので、「こんな世紀の瞬間を見なくてどうする」と思いながら毎日学校から飛んでかえってテレビにかじりついていた。印象に残ったのは東洋の魔女バレーボール、重量挙げの三宅、マラソンの円谷、競技場でイギリスのヒートリーに抜かれたのだ、これは「なにしてる!!」と叫んだものだ。

ベトナム戦争は知らない間に始まっていた。東京オリンピックが終わってすぐ、トンキン湾事件と報じられたと思ったら「北爆」という聞き慣れない言葉がテレビで毎日伝えられるようになった。ベ平連や学生の反米デモが繰り返され、テレビドラマですばらしい国だと思っていたアメリカがベトナムの人をいじめている、という印象だった。ゴジンジェム政権、グエンカオキ、ホーチミン、テト休戦、17度線などという言葉が耳にタコができるほど報じられた。ジョンソン大統領は戦争をやめられず、ニクソンが戦争を止めると公約して大統領になったのだが、なかなかやめられず、パリ合意にはずいぶん時間がかかった。73年に休戦合意してからもしばらくは戦争は続いていた。僧侶が焼身自殺する映像が何回もニュースで流されて、反戦疲れもあった。僕が小学生から高校生までの間続いたベトナム戦争、その間反戦歌としてフォークソングははやり続けた。高校3年間はずっとフォークソングを歌っていた気がする。「戦争を知らない子供たち」「イムジン河」フランシーヌの場合は、で始まる歌もあった。

佐藤栄作は非核三原則と沖縄返還でノーベル賞をもらった。ちょうど今、沖縄への核持ち込み密約の契約書が見つかった。ノーベル賞はどうなるのだろう。「私は嘘はもうしません」で有名になったのは池田勇人だが、佐藤栄作は今の今まで嘘を突き通してきたということになる。

中国の文化大革命とはなんだろう、実に訳がわからない革命だ。毛沢東が腹心だった林彪を殺害した(報道では飛行機でソ連に逃げる途中で墜落したとされたが、誰も信じなかった)。若者が自分の親や大学の先生たちをつるし上げて、毛沢東語録を手に持って行進しているすがたが報じられた。それまで1949年に独立した中国には何も印象を持っていなかったが、なにか得体が知れないと感じたのだった。造反有理、革命無罪というスローガンだったが、高校一年生の時に教室の掲示板に貼ってあった「造反有理、紙は醒めているか」意味がわからなかった。

成田空港反対運動はいったい誰が反対していたのだろう。国際化する中、羽田は手狭だから千葉の不便な成田に空港を作る、それに反対するのだったら少しはわかるが、建設そのものに、そしてその手続き、手順に反対したのだ。当時社会党や共産党も反対していたが、今ではどの党の議員も海外に行くときには成田から飛行機に乗っている。土地を手放さなければならなかった人たちには同情が集まったが、それは成田に限らない。どうして成田闘争、などという長期間にわたる騒ぎになったのか、誰かの政治的判断ミスだ。

ソ連のチェコ侵攻は1968年、中学2年の時だった。当時はチェコスロバキア、プラハでドプチェクという大統領が国の民主化を図ったが、ソ連がそれを戦車でつぶしたのだ。ソ連のそれまでの良いイメージがつぶれた事件だった。北朝鮮だって東京オリンピックの時には手を横に振る入場行進を見て,いい国だと思った。ソ連も中国もいい国という印象だったのが、このころにみんなつぶされた。それはアメリカも同じ、世界に良い国はないのかという気がした。

大阪万博は1970年3月に開幕、当時僕は中3の春休みが始まったばかり、暇な春休みの3月17日に万博に行った。まだまだ開幕直後で入場者数が一日15万人くらい(当時入場者数が毎日新聞に出ていた)、大人気のアメリカ館、三菱未来館にもノータイムで入れた。5月には友人と買ってもらったばかりのカメラを手に、英語の実践に万博に行った。外人がうじゃうじゃいるのは勉強のチャンス、というわけだ。準備していったフレーズは次の通り。「Excuse me, Would you please take a picture with us?」 これを外人とみれば言い寄るのだ。最初の外人は高校生が二人急に近づいてきたので、びっくりしたようだったが、「picture?」とかいいながらカメラを取り上げようとするので、「with us」と連呼しながらカメラを取り返した。しかし、とにかく通じたのに気をよくして10人以上の外人と写真を撮った。結局通じた単語はpictureだけだったようだったが満足だった。

三島由紀夫が割腹自殺したのもこの年だった。森田必勝という若者が介錯したと報じられ、そっちの方に反応した。介錯って侍でもないのにできるのか、と思ったのだ。よど号ハイジャック事件もこのころだ。ハイジャック、というおしゃれな言葉も初めて知った。このころ英会話学校に行き始めて、この話題になり、ハイジャックがちゃんとした英語だということも知った。船ならseajack、Jackというのは悪いやつなのだ。70年安保は10年前のようなデモにはならなかったが、大学紛争では多くの死人がでた。10年前は樺美智子さん一人が死んで大騒ぎだった。高校に入って驚いたのは、5月1日メーデーの日には学校が2時間目で終わり、先生たちはバスを借りてメーデーに出かけてしまったことだ。生徒は自習、当然みんなさぼって帰ったが、僕たちは先生が出かけていったというメーデー会場に行ってみることにした。宇治川の塔の島が会場、大勢の人たちがいた。先生に見つかるにはいやだったが、先生たちがさぼっているのだ、と思い、先生を探しに行ったのを思い出した。その後どうなったのか記憶にない。

田中角栄による日中国交回復は1972年、ニクソンの頭越し外交に遅れること一年、日本も中国と国交を回復したというニュース、ぴんとこなかった。なぜなら国交などなくても商売はやっていたし、人は行き来していたのを知っていたから。パンダがきたので良かった、というのが印象だ。田中角栄は列島改造論で建築ブームが起きた。僕は大学志望を建築学部にしようと思っていた、短絡的だった。大学入学は1973年4月、次の年にはロッキード疑獄で田中角栄は逮捕、ブームは終わった。

オイルショックは突然やってきた。中東戦争が起きて、石油から作られる製品がなくなるという噂からトイレットペーパーや洗剤の買い占めが起きたのだ。実はこのころ我が家ではトイレットペーパーを使っておらず、落としがみだった。トイレットペーパーなどなくなっても平気だと思っていた。実際すぐに店先にペーパーは復活、実際にはいくらでもあったのだ。しかしガソリン代はそれまで50円だったのが100円になった。これは元には戻らなかった。

浅間山荘事件は、高校2年生の冬だった。テレビで浅間山荘に警官が突入する様を実況中継しているので、授業を抜け出して食堂でテレビを見ていた。「どうしてほかの生徒たちや先生はこれを見ないのだ」と世紀の瞬間を見逃しているみんなを不思議に思ったものだ。すごいのは、鉄の玉で浅間山荘をたたきつぶす作業、大迫力だった。内部リンチがあったこともわかり、これ以降もうだれも過激派に肩入れすることはなくなったと思う。

うーん、こうして書いてみると、1960年から1977年3月僕が大学を卒業するまでの日本の出来事は興味を引かれる面白いことがいっぱい起きている。それに引き替え1980年以降の日本国内は平穏なのだ。民衆の怒り、国外からの脅威、戦争の恐怖、国家への不信などが大きな渦となっていたのがその期間。2010年海外は大変なことが沢山起きるのだろうが、日本の国内は引き続き平穏な年になるのだろうか。
平成今昔物語

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