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意思による楽観のための読書日記

日本書紀だけが教える「ヤマト王権のはじまり」 伊藤雅文 ***

遣隋使を初めて送った推古朝、当時の隋では、ヤマト王権に、暦、貨幣、歴史書、政治制度、徴税、法律などあらゆる国家としての仕組みがないことを指摘された。その後、60年を経た白村江の戦いを受けて唐と新羅による脅威を感じながら、大海人皇子が政権を取り天武となり実施したのが、徴税・律令制度確立と歴史書編纂だった。国内向けには大和言葉を漢字化して書かれた古事記、唐へのアピールとしても編纂されたのが全文漢字文で書かれた日本書紀だった。ヤマト王権にも長い歴史があるかのように見せるため、初代天皇として描かれた神武天皇は紀元前660年に即位、と記述したが、年代延長されているのは明白。本書は、書紀から具体的事績記述がある年代のみを取り出す方法で、書紀の元となったはずの「原日本紀」の年代を復元、中国書籍や金石文、前後関係の矛盾などを整理し、古代史の年代の疑問を解き明かそうという一冊である。天武天皇以前は天皇称号は一般化していないが、本書では分かりやすさのためにそれ以前の大王も「天皇」と称する。

まず、記紀編纂を命じた大海人皇子時代にも記憶している人が多かったと思われる推古朝の年代から遡るように解き明かす。推古天皇は593年に即位、628年の崩御とした。それ以前の書紀における「無事績年」を確認するため、金石文の一つである隅田八幡神社所蔵の人物画像鏡の銘文を解析する。すると、鏡に記されているのは、のちの顕宗天皇と姉の飯豊青皇女、さらに後の仁賢天皇となり、筆者の考える原日本紀の年代推定に合致する。ここまでで確認できたのは以下の天皇即位年で清寧499年、顕宗504年、仁賢507年、武烈516年、継体524年、安閑542年、宣化544年、欽明547年、敏達572年、用明586年、崇峻588年、推古593年である。

このなかで、継体天皇については謎が多い。筆者の推定は、王権両立である。清寧には子がおらず、王権内に対立が生じ、一つは飯豊皇女から顕宗、仁賢につながる勢力。そしてヤマト王権を支えていたもう一つの勢力が継体を即位させたと考える。そのため、継体は当初大和盆地には入れず、樟葉宮、筒城宮、弟国宮と山城盆地に留まる。当時大連が二人いて、その物部麁鹿火と大伴金村は対立していた。武烈で途絶えた皇統をつないだのが継体。つまり507年から524年までは仁賢と継体と、王権が2つあったとする。

倭の五王についても通説は仁徳、反正、允恭、安康、雄略であるが、書紀編纂者は一切記述していない。編者による神功皇后伝説挿入のため、応神天皇と仁徳天皇の関係を創作し、倭の五王についての記述をしないことで、倭国が唐の冊封体制に入ろうとしていたことを否定し、全体の整合性を取ろうとしていると推理。応神天皇と仁徳天皇は兄弟であると考え、応神の子である菟道稚郎子命が実は即位しており「讃」、その弟隼別皇子が珍、仁徳が斉、允恭が興、雄略が武と比定。即位年は応神396年、菟道稚郎子419年、隼別皇子437年、仁徳440年、履中451年、反正457年、允恭459年、安康473年、雄略476年と推定した。

次に神功皇后伝説は卑弥呼をモデルにした創作神話であると推定。仲哀天皇から仁徳天皇にいたる紀年を大きく歪めていると考えた。唐に対して、卑弥呼とは直接的に説明せず、ヤマト王権の歴史は長いのだと想像させるように、暗示的に神功皇后伝説を挿入し、神武天皇まで遡る天皇系統の実在性を後押ししようとしたとする。仲哀天皇の在位とその後の応神、仁徳の在位年数のつじつまを合わせるため、仁徳を応神の関係を親子だとせざるを得なかった。この仮定で即位年を推定すると、仲哀375年、応神396年、菟道稚郎子419年、隼別皇子437年、仁徳440年となる。

伝説上の人物とされる武内宿禰、書紀による年代を信じるなら生存年数が300年を超えているからだが、筆者の推定する原日本紀からすれば、70歳程度までと考えられ辻褄は合う。この期間に即位したのが、景行343年、成務367年である。ここより前は、かなりの推測が交じる。崇神天皇以前は実在が疑われているため、ヤマトタケルノミコト伝説、山幸彦と海幸彦伝説などとの整合性を検証していくと、崇神、神武、山幸彦は同一人物だったと考えられる。欠史八代とされる天皇を即位はしなかったが実在はしていたと考えられる、神武東征時の天皇の兄弟と推定できる登場人物、氏族がいる。以上より、崇神と神武を同一人物と考え、即位を301年、垂仁即位が321年とすれば、301年以降の年表は完成する。つまり神武東征、ヤマト王権の始まりとされるのは301年となる。崇神天皇は天照大神の孫である瓊瓊杵命の子。45歳の時が294年で、日向から東征に出発、295年に吉備の国に入り、3年間で畿内制圧の準備を実施、298年畿内に先に入っていた饒速日命を帰順させ、301年に橿原宮で初代天皇として即位した。本書内容は以上。

書紀は「帝紀」、「旧辞」が原資料とされるが失われたものは復元できない。そこで紀年延長のロジックを推定し、中国大陸と朝鮮半島に残る文書、日本で発見された金石文である隅田八幡神社の人物画像鏡、七支刀、稲荷山古墳出土鉄剣をベースに、ヤマト王権の初代を推定していて、知的好奇心が刺激される内容。筆者によれば卑弥呼がいた王国は日向、その邪馬台国がヤマト王権の始まりとなっているように読める。想像の翼は広がる。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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