見出し画像

意思による楽観のための読書日記

清須会議 渡邊大門 ****

天正十年(1582年)、本能寺の変を受けて、信長の後継者を決めるために清須(清洲)城で開かれた会議。集められたのは四宿老と呼ばれた柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興、羽柴秀吉。信長の長男信忠も討たれたため、次男信雄、三男信孝、そして信忠の子である三法師(秀信)の誰にするかを議論した。信孝を擁立しようとしたのは勝家、それを退け三法師を推したのが秀吉。主導権を握ったのは光秀を討った秀吉で、勝家を賤ヶ岳の戦いで打ち負かし、小牧・長久手の戦いで信雄・家康を屈服させた。実際にはドラマのようにスムーズではなかったという。

宿老筆頭は勝家、恒興は信長の乳兄弟、軍事・政務の要が長秀、その他関東を任されていたのが滝川一益、信長の同盟者であった家康が有力者として存在した。さらに彼らを取り囲んでいたのは、武田氏、北条氏、上杉氏、毛利氏、大友氏、島津氏などであり、誰が誰と組むのか組んだ相手の敵は誰か、敵の敵とどのようにして同盟関係となるか、こうした綱引きが清須会議のあとも続いたという。

清須会議の主導権を秀吉が握れたのは、なんと言っても西国大返しで光秀を討ち取った功績を皆が認めたから。もともと確執があった信雄・信孝は反目仕合い、信孝は秀吉軍に合流できたが、信雄は光秀を打ち取る戦いに参上できなかったため、発言権が薄かった。信長後の領地割りで、山城地方を押さえた秀吉がその後も主導権を握り続けるが、信長の葬儀を行うに当たり、誰が京で行われる葬儀に参列するのか、そのとき引き連れてくる軍勢は、親族による百日忌の問題もあった。信雄、信孝は領地国境をめぐる軋轢があり対立した。そして対立の結果、葬儀は秀吉が取り仕切ることとなる。安土城の普請など、各勢力間の綱引きは続く。

信長の時代に天下を治める、とはどういう意味だったのか。それは京を中核とする近畿を支配することだった。室町幕府は弱体化していたが、大名が管轄する国とは別の将軍が管轄する区域である近畿。当時の世論が形成される場でもあった。秀吉が豊臣となり、四国、九州、関東の大名をも従わせ、始めて北海道を除く日本列島全体を治めることとなり、天下を取るという意味が列島全体にまで広がった。つまり、清須会議時点で信長の後継者を決める際の天下は、近畿を治める、という意味だった。

世論、つまり天下を治めるにあたって、独断専行せず、織田家の血筋を引く子孫たちを前面に押し出すこと、無茶なこと、無理を通さないこと、酷い仕打ちはしていないことなども重視された。つまり、信長の葬儀を滞りなく行い、残された子どもたちや孫を丁重に扱い筋を通しながらも、力があるものが実権を握っていくことを周囲が認めることである。

信長に滅ぼされた武田氏の領地を管轄、関東を任されていたのが滝川一益。しかし本能寺の変を知って北条氏は滝川一益を打ち負かしたため、家康と北条氏は対立を深める。その後、家康は三河、遠江、駿河、甲斐、信濃を領有、北条氏は上野、武蔵、相模を抑えるが、真田氏も西上野の沼田城、岩櫃城を領有し存在感を示した。

勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、信孝も戦いの末亡くなったあと、信雄は家康と組んだ。小牧・長久手の戦いでは秀吉が家康に一度は打ち負かされるが、その後は盛り返す。最後は和睦交渉に持ち込まれるが、明確な敗北はどちらも認めていない。そこで、秀吉は、時間をかけて朝廷工作を行う。朝廷に働きかけて家康、信雄に官位をさずけ、自分はそれより上位の官位を授けてもらう作戦。関白には五摂家しかなれないのが慣例であったが、二条家と近衛家の対立に乗じて自らが関白になるという力技。公家たちが秀吉のゴリ押しに屈した理由は、新御所の建設などによる朝廷への貢献が今後も必要不可欠だったため。正親町天皇の新御所移転に伴い、令外の官であった関白から太政大臣となり、豊臣の姓を賜る。さらに、近衛前久の娘前子を猶子として後陽成天皇に入内させることで秀吉は形式上、天皇の外戚にもなる。その後、本来は関白が空席となるので五摂家に戻されるところだが、秀次を関白とし、自らは太閤となり、公家と武家、両者の頂点を極めたことになる。

家康には秀吉の妹、朝日姫を離婚させてまで、正式な妻とすることを認めさせることで親戚となる。家康は正三位権中納言となり、正親町天皇の譲位式典で秀吉より下座に座ることで、秀吉に従属することを公に認めることになる。その後は長宗我部氏、大友氏、島津氏を打ち破り、全国制覇を達成する。その過程で、小田原合戦があった。信雄はそこでの活躍を認められるが、関東国替えの家康の跡地三河・遠江への国替えを拒否したため下野烏山に流罪となる。家康のとりなしで大和の国を与えられるが、関ケ原の戦いでは西軍に与し、大阪冬の陣では家康に与して五万石を与えられた後亡くなる。三法師は岐阜城主となり秀信と名乗る。関ケ原の戦いでは西軍となり改易されて高野山送りとなる。亡くなったのは慶長10年。織田家の血筋は残ったが、再び天下の表舞台には登場しなかった。本書内容は以上。

秀吉の周到さには舌を巻く。ひょうきんで明るく陽気な知恵者、という大河ドラマのイメージとは異なり、準備に時間をかけて、必要であれば虚偽の手紙を書き、恫喝し相手を屈服させ、天下を手にしたのである。それでも自分の子には天下を譲れていない。家康の手堅さは秀吉の悪知恵を上回った。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「読書」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事