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意思による楽観のための読書日記

私の日本古代史(下) 上田正昭 ***

古代とされる時代の継体朝から記紀編さんの時代までを概括的に述べた一冊。上巻では列島文化の始まりから出雲や吉備、大和盆地に豪族勢力が集まり、政権の母体が櫻井近辺に集約されてくるまでを記述。依拠するのはもちろん古事記と日本書紀となるが、その成り立ちと目的はそれぞれで、古事記が「邦家の経緯、王化の鴻基」を定めんとするのに対し、日本書紀は「日本国の紀としての面目」があり、作為や潤色が見られるとする。書紀には編纂されたとされる720年にこの世を去った藤原不比等が深く関わっていたとする。

大王家の系譜によれば仁徳のあと葛城の磐之媛を母とする履中、反正、允恭が大王に即位、こうした王位継承の争いが王族内部に抗争を広げた。雄略の後も、清寧、顕宗、仁賢、武烈の大王を経て、応神の五代孫とされた継体が即位。清寧から武烈の間は20年ほど、この間ヤマト王権は動揺した。古事記では清寧没後に履中の王子、市辺忍歯別王の妹の飯豊姫が葛城の忍海高木角刺宮で即位したとあるが、書紀ではその説話はない。

書紀では、賛辞を惜しまない徳の高い仁徳のような大王がいるかと思えば、暴虐の限りを尽くした雄略、武烈のような大王もいる。いずれも王位継承に混乱があった、王統継承の危機があったと思われる時期に見られることから、こんなに徳の高い大王はその位にふさわしい、またはその逆であり、混乱があっても早く次の大王が必要、ということになる。

6世紀はじめの朝鮮半島では百済、新羅、高句麗の抗争が激化、百済が伽耶における優位を保持し、伽耶の勢力は532年、最終的に滅ぶ。百済の南進は倭国勢力には脅威となり、倭国と百済の領地のやり取りの代償として、儒教の専門学者五経博士の段楊爾、つづいて漢高安茂が百済から派遣された。百済と新羅、高句麗との抗争も複雑化し、国運を高めるため中国よりの文化導入を進める一環としての4世紀から6世紀にかけて朝鮮半島への仏教導入が図られた。そして、倭国へも、諸説あるが538年から548年、552年にかけて仏教がもたらされたとされる。倭国内でも崇仏論争はあったが、物部氏や中臣氏もその後氏寺を建立、神仏習合が進んだ。仏教は百済からだけではなく、高句麗、新羅からも伝来し、遣隋使、遣唐使を伴い中国仏教も導入された。儒教、道教も土木、建築、技術、芸能など多方面の文化受容とともにもたらされているが、のちの日本文化の礎を築いたもの、それは朝鮮三国経由による渡来文化であった。

欽明朝時代に蘇我氏の本拠は大和飛鳥の地域、稲目が仏像を小墾田(おはりだ)の家に安置、橿原市大軽町を中心とする地域である。稲目の子馬子は飛鳥川のほとりに居を構え、その子蝦夷は畝傍に、その子入鹿は飛鳥の甘樫丘の構えていた。蘇我氏はその後、葛城氏の地域にも勢力を伸ばし、ヤマト王権の財政にも携わる。蝦夷の甥にあたる石川麻呂の父は倉麻呂、倉の管理を示唆する。石川麻呂の兄弟である赤兄も蔵大臣、葛城氏を傘下に収めて、国家財政に介入。その後も高麗や百済系の統率者である漢氏とむすび、官僚体制を整備、こうした外朝拡充は内廷の権限を制約することとなり、朝廷組織内部の矛盾が深刻化する。そうした中で起きたのが蘇我氏の刺客により殺害された崇峻、そして蘇我氏の血筋を受け継ぐ推古女帝が誕生する。

書紀における厩戸皇子に関する記述には疑義が多いが、厩戸皇子にゆかりの深い秦河勝は葛野(かどの)から伏見にかけての地に勢力を張った。秦は「波陀」とも書かれ、朝鮮語では海。慶尚北道の蔚珍郡の古名に「波旦」があり、新羅系の秦氏の由来の地であるとする。秦氏は山城、大和、近江、越前、播磨、豊前などの各地に展開。酒造り、養蚕、大堰建設などで経済発展に貢献した。秦氏と厩戸皇子との関係は、この時代のヤマト政権と新羅とのつながりを示唆するという。厩戸皇子死後、馬子、推古帝もこの世を去り内外の政局は目まぐるしく展開する。624年には唐が国内を平定し、朝鮮三国に冊封関係を求め、三国の争いも複雑化、倭国への働きかけも増えてくる。倭国では蝦夷に押された舒明亡き後、最有力の山背大兄王ではなく蝦夷が押す宝王女を皇極女帝とする。こうして入鹿が山背大兄王を急襲、一族が自刃することとなり、厩戸皇子から始まる上宮王家は滅亡。蝦夷は舒明と蝦夷の妹の間に生まれた古人大兄皇子を次の大王にしようと企む。この悲劇的結末は厩戸皇子を神格化しようとする書紀における太子信仰につながる。

そして起きたのが乙巳の変、蘇我蝦夷、入鹿親子は謀殺され軽皇子が即位、孝徳朝となる。新政府は中大兄皇子が皇太子、阿部内麻呂が左大臣、蘇我倉山田石川麻呂が右大臣、中臣鎌足が内臣となり政権の参謀の位置を占める。新政府は難波京に遷都、改新の詔を発出。部民と屯倉の廃止、京師の制度、国司・郡司など政府組織、戸籍と計帳と班田収授法、税制などを新設した。この詔は書紀編者による修飾があると考えられ、後の近江令、飛鳥浄御原令、大宝律令などに準拠して記録されたとする説がある。

その後は百済の滅亡、白村江の大敗などを経て、庚午年籍作成などにより律令国家樹立の準備を整えた。日本という国号、天皇という呼称が誕生するのは、この天智から持統朝、天武朝の間とされ、この時期に律令制の確立と合わせて、日本国と天皇制の確立が図られたとする。初めての貨幣は和銅年間(708年)に作られた和銅開珎とされていた時期があった。今ではこの天武朝の富本銭が最初の貨幣とされるが、出土例が長野県下伊那郡や飯田市、群馬県藤岡市など僅かであり、どのくらい流通したのかは不明。しかし日本国、日本文化の成立を促した天武・持統朝を高く評価すべきである、という主張。本書内容は以上。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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