「幕末に京都の志士たちは京都の町中をさけて伏見に集まったように、横浜に見えたと思うのです。それにできたばかりの汽車に乗りたかったのですよ。明治5年に開設された新橋ー横浜の鉄道は近代日本の象徴だった。しかし10年前までは江戸の時代、開国と攘夷がまだ戦っていた、そうした時代に新しい日本をどうするのか、前例もない中での政治だった。そうした中で、鉄道に乗って自信を付けたかったと思うのです。」
歴史で習うこうした面々は自信満々だったように思えるがそうではなかった、というお倉さんの証言である。お倉は三菱の岩崎弥太郎や後藤象二郎とも家族ぐるみのつきあいがあった。そしてこの富貴楼の座敷では様々なことが相談され語られた。その詳細は伝えられてはいないが、明治4年に店を開き、明治29年に大磯に別邸を建てて移転、明治39年に引退するまでの間、お倉が経営する料亭で数多くの政治家や経済人たちが語った中から、いくつかが紹介されている。戊辰戦争で西軍が東軍を追いつめる中、上野の戦いに負けて会津に下がり、その後どうするのか、蝦夷か桑名か、という土方歳三の決断もあったという。伊藤博文は上海からロンドンまでペガサス号に乗り込んで密航のような形でいった話も聞かされたという。
大久保利通の息子牧野伸顕、小泉信三もお倉の客だった。福沢諭吉の門下生だった竹越与三郎はお倉の働きを次のように紹介する。
「西郷隆盛が九州で反乱を起こしたときに、私兵を募って京都で政府に反乱しようとした陸奥宗光を大隈、井上、大久保は捕縛しようとした。これを知ったお倉は陸奥に腹を切ることを勧めている。おめおめと捕まるよりは名誉ある死を、というわけである。大隈と伊藤が明治14年の政変以降仲違いしていた仲を取り持ったのもお倉だ。岩崎弥太郎と井上馨の諍いの仲裁も行って、三菱と共同運輸の合併を裏で取り持った。」
鉄道が横浜から国府津まで延伸したのをみたお倉は明治29年に大磯に別荘を建て移転、そこで料亭を開設したのだが、伊藤博文、山県などそうそうたるメンバーも大磯に別荘を建てたり引っ越したりしている。先見の明があったのか、人望が厚かったのか、とにかく明治初期の女傑であった。
横浜富貴楼 お倉―明治の政治を動かした女
昭和二十年 第一部 (1) 重臣たちの動き 【1月1日~2月10日】
昭和二十年 第一部 (2) 崩壊の兆し 【2月13日~3月19日】
昭和二十年 第一部 (3) 小磯内閣の倒壊 【3月20日~4月4日】
昭和二十年 第一部 (4) 鈴木内閣の成立 【4月5日~4月7日】
昭和二十年 第一部 (5) 女学生の勤労動員と学童疎開 【4月15日】
昭和二十年 第一部 (6) 首都防空戦と新兵器の開発 【4月19日~5月1日】
昭和二十年 第一部 (7) 東京の焼尽 【5月10日~5月24日】
昭和二十年 第一部 (8) 横浜の壊滅 【5月26日~5月30日】
昭和二十年 第一部 (9) 国力の現状と民心の動向 【5月31日~6月8日】
昭和二十年 第一部 (10) 天皇は決意する 【6月9日】
昭和二十年 第一部 (11) 本土決戦への特攻戦備 【6月9日~6月13日】
昭和二十年〈第1部 12〉木戸幸一の選択
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