『竜馬がゆく』『翔ぶが如く』など数多くの歴史小説を書いてきた司馬遼太郎は、執筆にあたっては「軽トラで神保町に買い出しに行った」という少々大げさなエピソードが語られるほどの下調べをしたという。
幕末、会津松平藩の支藩の飯野藩の剣術指南役だった森要蔵の血をひく野間寅雄を書いた「アメリカの剣客」。森要蔵は千葉道場で坂本龍馬と分家道場同士だった関係で調べてみたという話。寅雄は昭和9年にアメリカに渡り、フェンシングをならって「タイガー・モリ」と呼ばれるほどのフェンシング選手となった。寅雄の言葉「フェンシングは勝つための技術。剣術は己を鍛えるための道」、そしてアメリカで剣術連盟を組織して会長となり、アメリカで日本の剣の道を教える。1969年に亡くなったという。
日本の暗号は欧米各国にはバレバレだったという「策士と暗号」。日露戦争の開戦も欧米外交筋では、事前に知らないものはいなかった。真珠湾攻撃などはまして言わずもがな。「日本の暗号は、日本人だけが暗号と思っているだけで他国にとっては誰でも読める平文なみのもの」というのが日露戦争時のロシアの認識だったという。
象徴的な権力を祭り上げて実質的に権勢を振るう「日本的権力について」。徳川政権では、老中、若年寄、町奉行も南北に分けて、とにかく複数の力に分散させることを考えていた。薩摩と長州という二大野党的外様に対しては、外様の中でも半与党的な細川藩に熊本城を造らせて守りの最前線とし、黒田藩に福岡を、因州池田藩と備前岡山の池田藩が西の毛利家に対応した。しかし純粋与党の譜代である小倉小笠原家に九州探題の役職を与え、ここでもバランスをとる。大藩、准譜代とは言え外様には老中や若年寄の役目は与えない。家康は絶対的な権力は長続きしない、という歴史上の原理原則を江戸幕府では守った。これは、乙巳の変から中央集権国家の道を目指した大化の改新政府における天皇家と藤原家から始まる。平安時代には天皇と上皇による院政、鎌倉政権と天皇家、そして執権北条家、室町幕府と南北朝、徳川幕府における親藩と譜代。現代でも力のない首相と黒幕実力者。中国の皇帝、朝鮮の政権ではこうした二重権力は見られず、どうも日本独特らしい。
その他「武士と言葉」、「幻術」、「ある会津人のこと」、「『太平記』とその影響」、など、日本人の顔・名前―歴史小説の大家が折にふれて披露した、歴史のこぼれ話。