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意思による楽観のための読書日記

斎宮―伊勢斎王たちの生きた古代史 榎村 寛之 ****

式子内親王の生涯を描いた「玉の緒よ」を読んだときに、内親王が10歳からの10年間、賀茂神社の斎院を務めた、という話があって、物語は内親王20歳の頃から始まった。伊勢に行きっぱなしで寂しい伊勢斎王よりはずいぶん楽なはず、という感想がでてきて「斎王ってなに」と疑問に思った。天皇の代替わりごとに占いで未婚の皇族女性が選ばれ、伊勢神宮に仕える―これが斎王。壬申の乱で伊勢神宮にお詣りすることで勝利したと信じた天武、持統は、その後、斎王を伊勢神宮に送り天照大神にお仕えすることを決める。その時代から後醍醐の建武新政で、天皇が南北に分かれてしまうまでの六百年間、六十人以上の皇女が斎王となったという。

日本書紀には崇神・垂仁の時代から斎王があったかのように記述されているが、それは天皇の存在の裏付けのようなもので神話・伝承の一部でしかないと思われる。実質的な初代は天武と大田皇女の娘、大来皇女より。女帝の元明、元正天皇時代の多紀、円方、智努の三斎王は実在が確認できないが、長屋王の娘との記述もある。元正から聖武天皇時代は聖武の娘として生まれた井上(いのえ)内親王は、聖武天皇即位前から斎王となる。平安時代になると斎王の選定は亀卜により決められたとされるが、井上内親王は最初から斎王と定められていた。聖武天皇の名代として伊勢神宮の天照大神にお仕えすることで、大変な権威を身にまとうことになるが、その後、井上内親王は数奇な運命をたどる。

時期は不明だが帰京後には天智天皇系の白壁王と結婚、白壁王は770年に称徳天皇の急死で光仁天皇として即位、井上内親王は皇后となる。白壁王は天智天皇の孫で持統天皇の甥、井上内親王は持統天皇の孫の文武天皇の孫なので、持統天皇が取り持つ夫婦。白壁王は持統天皇の力を背景に持つ井上内親王の力で即位したとも考えられる。そして井上内親王は聖武天皇の娘であり元斎王。この動きには右大臣吉備真備と藤原家の勢力争いが背景にあった。しかし772年には、皇后である井上内親王が天皇を呪詛したとされ幽閉されて、その2年後、息子の他戸親王とともに死亡してしまう。さらにその後災害が続いて井上内親王の名誉が回復され、その権勢と非業の死は悲劇として語り継がれることになる。

天皇の政治力、行政力が最も強かったのは桓武の時代、その後は藤原氏が権勢を獲得、天皇の権威とともに斎王の位置づけも形式化していく。平安末期の式子内親王の時代には、内親王や皇女、王族女性にとっての伊勢送りは、名誉ある地位ではあるものの、若い女性が寂しい生活を強いられる孤独な立場だと認識されるまでになるのも頷ける。源平合戦が繰り広がられた治承・寿永の乱の15年間は、斎王は凍結されたが後鳥羽天皇の践祚から2年、故高倉上皇の7歳の娘で、天皇も6歳。京の都には内乱後の大火である太郎焼亡、次郎焼亡、養和の大飢饉、元暦の大地震が発生、鴨長明が方丈記で地獄さながらの光景を描いた時代。斎王復活のスポンサーになったのは源頼朝。関東の行政支配権と国司人事権を握った頼朝は斎宮復活に力を注ぐ。関東の力を伊勢に及ぼし、この地の伊勢平氏の力を削ぐ意図があった。しかし京の賀茂斎院は鎌倉前期には衰退する。

斎王が日本史の表舞台に登場することは少ない。伊勢に存在した斎宮でなにか政治的な事件が起こったり、裏切りにより政権転覆がある、などということが起きにくい環境だからである。斎王の恋を取り上げたのが「伊勢物語」。「源氏物語」では秋好中宮が斎王だが、源氏の養女格として冷泉院の妃となるが、源氏の恋愛対象ではないためあまり目立った存在ではない。一方その母は六条御息所で、こちらは源氏の恋愛対象なので、超有名である。斎王は権威こそ高いけれども、歴史上の働きも少なく面白くない地位、と言えるかもしれない。しかし本書では、歴代斎王の記述や調査など、大変事細かで、勉強になる部分が多かった。筆者の斎王愛は、少し感動的である。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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