花押は大河ドラマや時代劇に時々登場するが、それは何を象徴するのか。信長は生涯で多くの種類の花押を使ってきたと言われるが、麒麟の「麟」のいち字を花押としたことがある。麒麟とは「至治の世に出現する想像上の動物」であり、平和の時代への願望を意図したことが明らか、とするのが本書。これを用い始めたのは、松永久秀が将軍足利義輝を弑殺した事件がきっかけであり、信長の確固とした政治意志の現れだとした。勝海舟もその名「麟太郎」の一字「麟」を取ったため、信長の花押と類似している。
花押の伝統からすれば、親子、一族、主従の花押は相互によく似ていながら多少とも違い、同時に明確に区別できるものである必要がある。署判者が紛れもなく本人であることを証明し、保証することが花押の第一義的な機能であるからである。しかし、名前とは一切関係のない願望や好字などを象徴させて、「天下布武」印とともに使用して、本人の地位、権力の象徴という機能も加えたのが信長であり、その後は印章が果たす機能をも付加されてきたのが花押の歴史。
最古の使用事例は中国では唐時代、日本では933年の右大史坂上經行、950年仁和寺別当大法師、951年加賀権守の花押など。最初の頃の花押は名字の一部の草書体を進めたものが多く、分類すれば、草書体に加えて二文字の部分を2つ組み合わせた二合体、一文字の一字体、別用体、天地二線が特徴の明朝体の5類系があるという。
鎌倉時代に入ると、将軍、執権、連署、探題、頭人、奉行などが花押を署するに加え、一般武士も幕府あての申し状、請け文、家務文書、私的契約書に花押を署するようになる。武家花押は同族、主従などの集団で類似した形となる。頼朝は名前の一部「束」と「月」の合成、実朝は「實」と「月」の合成、義経は「氵」と「經」の合成など。
北条時政は時の「日」と政の合成など。足利高氏も細部に高の一部を繰り込んで一族、子族はこれに追随。
明朝体は家康がこの型を用いてより江戸時代前期の大半がこれに類したタイプを用いるようになった。
変わったところでは、鳥の絵柄を模した三好政康、伊達政宗、徳川光圀の花押、明治時代の文部大臣菊池大麓の「DK」、外交官石井菊次郎の「KI」、昭和の大蔵大臣井上準之助の「JI」などローマ字の花押もある。
筆者が戦後総理の中でも秀逸だとするのが池田勇人「勇」の草書体を形象化したという。50年代議士を務めた三木武夫は「m」の字に底線を加えたもので、三木退陣後に首相の座を手に入れた福田赳夫は「田」の下に底線を入れたもの。昭和以降も、閣議決定の署名に使われるなど印章とは別に使われる事例も時々見られるので、知っていて損はない。
本書内容は以上。