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意思による楽観のための読書日記

天正伊賀の乱 和田裕弘 ***

天正年間とは1573-1592年、信長、秀吉が天下人となる時代で、天下の動向は京を中心として近江、大坂、大和、そして三河、尾張、美濃、越前などがその領主たる戦国大名たちとともに天下取り物語の舞台となる。乱とは世の中の安寧が失われるほどの内乱や中央政府に対する反乱というほどの戦いがあるときに使われる。しかし、天正伊賀の乱は、信長、信雄による伊賀攻めが実態で、日本史の中でもその扱いは地味。北から阿拝郡、山田郡、伊賀郡、名張郡の伊賀4郡では室町幕府からは伊賀国守護とされていた仁木氏を実質的には飾り物とし、惣国一揆という体制をとる。国衆と呼ばれる地侍や有力百姓などが複数人集まり、伊賀一国の4郡を治める、それを惣国一揆と呼ぶ。

天正伊賀の乱は、隣国伊勢国を治めていた織田信長の次男で北畠氏の養子となっていた信雄による天正7年(1579年)侵攻を第一次とし、伊賀の「忍びの者」の活躍もあり信雄の大敗となる。信雄は信長には無断で侵攻を指揮したため、信長からはきつく叱責された。その二年後、信長は信雄に汚名返上の機会を与えた。この信雄を大将とした信長連合軍による侵攻を第二次とし、このときには伊賀の大敗となり、領内の城郭、神社仏閣は破壊され、多くの国衆は殺害された。信長が殺害された本能寺の変の知らせが伊賀にもたらされると、惣国一揆残党による小規模な反乱があったが、これを第三次天正伊賀の乱と呼び、この鎮圧を持って惣国一揆は終焉を迎えた。

伊賀は現在の自治体で言えば伊賀市、名張市で合わせて17万人ほどの人口である。関西圏と中部圏の中間に位置して、戦国時代当時も畿内ではないが大和、京と伊勢を結ぶ奈良街道、伊賀街道、初瀬街道が通る交通の要衝だった。早くから荘園として東大寺領、興福寺領、春日社領、伊勢神宮領、石清水八幡宮領、皇室領、摂関家領などがあった。室町期から戦国期には、前述の通り、守護の領国とはならず、在地領主が割拠、砦を築き国集として連合し国を治めた。国衆の数は48とも66ともいわれ、その他国や幕府からの独立から「桃源郷」とも言われ、500年戦いがなかった、と噂された。地理的な関係から隣国伊勢を治めていた畠山氏に属し、領地を安堵された時期もあったが、信雄がその領地を取り上げたことが第一次天正伊賀の乱の原因となった。

伊賀の北には六角氏、西の大和には筒井順慶、尾張には信長、美濃には土岐氏、斎藤氏、三河に家康が位置していたため、応仁・文明の乱、信長上洛や、本能寺の変後の家康の伊賀越えなどではその通り道となり、小国ながら大国の強者による動きのとばっちりを受けた。小国伊賀国にとっての天正伊賀の乱は、荘園制度から戦国期を経て、江戸時代の領国支配制への移行期に起きた伊賀国を大きく変えてしまう戦いとなった。本書内容は以上。

本書では、惣国一揆の実態、忍びの者の出身地でもあった伊賀の置かれた環境と天正伊賀の乱時代の背景を解説することで、同時代の信長上洛や本能寺の変などを立体的に知ることができる。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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