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意思による楽観のための読書日記

日本人の気風 増岡道二郎 ***

「小粋な江戸っ子の心意気」が江戸の町から東京下町に広がり残ってきた歴史的背景とその意味を紹介した一冊。筆者は昭和13年神田に生まれ江戸時代から続く町火消組頭を務める。

町火消しが鳶により組織されたのは、1657年の明暦の大火、俗に振袖火事と呼ばれた大火事で江戸の下町の多くが灰燼に帰したのがきっかけだった。元吉原は日本橋から浅草田圃に移転、日除け地が設けられ、幕府直轄の定火消しも組織された。「鳶」とは、職人が使った木材を引っ掛ける道具の先の形が鳶口と呼ばれたから。揚水技術が貧弱だったため、火消しはもっぱら類焼可能性がある家屋の破壊によったため、家屋の仕組みを知り、身軽に動ける鳶職が火消しに最適だった。江戸城建設、大名屋敷建設のために全国から集められた鳶職、大工、左官職人は江戸城下の神田に集められた。江戸の人口が増加するに従い、こうした家屋建築職人にはいくらでも仕事があったため、日銭が稼げた。「宵越しの金は持たぬ」は、明日になればまた稼げるんだから、ケチケチして田舎者と見られたくはない、という見栄っ張りに由来する。京、大坂に対抗して、今や天下様は江戸にいらっしゃる、というプライドも強かった。

いろは48組が組織され整備されたのは享保の改革で有名な吉宗将軍、大岡越前守の時代、各町は町入用として予算を確保して鳶職人を雇い、町火消は町屋の消火作業に責任を持った。それでも火事は防げるものではなく、火事になってもすぐに建て直せるよう町家は簡素な木造が好まれた。火事の時に命がけで奮闘してくれる火消しは町では尊敬されたため、鳶職、火消しの心意気が好まれた。揉め事があれば火消しの頭に持ち込まれて、組頭は町内のことを何でも知るようになる。日常生活では人にやさしく、火事場では鬼のように活躍、体を張って生死は紙一重、仕事はきついがやせ我慢、男は火事場でこそ磨かれるとされた。これが江戸っ子の心意気になっていく。

江戸っ子が好むもの、初物、立ち食いできるそば、鰻、鮨、天ぷら、熱い湯でも我慢するのは、一度冷ましたら沸かし直しが大変だから。長屋の共同便所は総後架(そうこうか)とよばれ、そこに溜められた排泄物は、江戸近郊のお百姓たちに引き取られ下肥として珍重された。神田明神と山王神社のお祭りが大好きで、富士信仰、お稲荷さん信仰が盛ん。特に火消しが信仰したのが勇ましい毘沙門天とお不動様。お不動様を本尊とした成田山新勝寺が人気になり、初代市川團十郎が成田山を信奉、派手な衣装に身を包み見得を切る助六が好まれ、團十郎は「成田屋」と呼ばれるようになる。

粋でイナセな江戸っ子の美学は、イキイキと生きて、人のために働く気風の男とその価値観を理解するいい女を好んだ。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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