意思による楽観のための読書日記

逃亡 帚木蓬生 *****

帚木さんの憲兵の戦犯を取り扱った小説。物語は第二次世界大戦が終わったところ、場所は香港、主人公の守田は憲兵隊にいて、このままでは香港に駐留してくる英国軍か中国軍に捕まって死刑にされるだろうと想定、仲間と脱出を図る。憲兵時代には何人かの中国人密偵を使っていたが、その中でも信頼が置けそうな人物を頼って、香港脱出を試みる。モデルは著者の父親らしい。上巻では香港脱出のストーリーが描かれ、下巻では日本での逃亡生活が描かれるが、主人公守田が憲兵としては命じられた仕事を立派にこなし、人間としても思いやりのある優しい人物であることを、時間軸を現在と過去に遡りながら描く。過去に遡ることで、守田の生い立ちから兵隊、憲兵時代も読者に示される。また、戦争中の外地憲兵の仕事が現地の日本人の安全確保だけでなく、適性人のスパイなどを探って諜報活動をすること、当時の外地での日本兵の略奪、中国人が感じていた英国人への感情、そして日本人への感情、中国人の生活の様子なども紹介される。ドキュメンタリーではないが、実際にはこうだったのだろうという描写も多く、筆者の取材力にも感嘆する。

最初の香港脱出での問題は服装や広東語が話せるか、さらに顔見知りに出会わないか、こちらが知らなくても顔を知られてはいないか、日本人だとばれないだろうか、など心配はきりがない。中国人の知り合いを頼って、民間人宅に一時潜伏、仲間のもう一人は中国人と一緒に上海、北京を陸路目指すことにして、守田は香港で時期を見計らうことにする。しかし、陸路北上した仲間は電車内での検問で日本人であることが発覚、殺されてしまったことが分かる。守田をかくまってくれた中国人、憲兵時代に手荒なことやひどい扱いをしていたならば、危険を冒してまで日本人をかくまったり、逃がしたりはしない。守田は潜伏先の中国人女性に案内されて、民間日本人が帰国を待つ収容所に紛れ込むことに成功する。守田に世話になった中国人は最後まで裏切ることはなかった、つまり、守田は憲兵時代にも、密偵として使っていた中国人を丁寧に扱ったことが忍ばれる。

逃げ込んだ日本人収容所でのテント生活、そこでは守田の人柄が描かれる。そこには様々な事情を持つ日本人がいる。金品の持ち込みは管理している中国人に巻き上げられるが、香港ドルや金を靴の中や下着に縫い込んだりして持ち込む人間も多い。そうして、抑留テント生活が始まる。まずは配給される食事だけでは不足するため、食料を売りに来る中国人から、守田はこっそり持ち込んだ香港ドルで春巻きや魚などを買い、余る分は同じテント生活をする仲間に振る舞う。収容場所の少し離れた場所に日本人憲兵が隠れているという噂が日本人の間で立つ。昔の仲間、熊谷曹長ではないかと感じるが、危険を冒して会いに行くことは避ける。そうこうするうちに元憲兵らしき人物は姿を消す。テント生活も長くなり、娯楽のための演芸大会が催されることになり、守田は軍艦マーチの音楽で魚雷を発射して敵を沈没させる戦いを模した踊りを、同じテントの仲間と演し物に仕立て上げ、好評を得る。踊りを踊った仲間達からも「良かった」と誉められる。一方、日本人の極限時の醜さも描かれ、人間の本性と良心は人によって全く違った様相を見せることも描かれている。

こうしたテント生活の間にも、憲兵であったことがばれては困るので明坂圭二という偽名を使っている。知り合いに会ったりしないか、中国人に見破られないか、びくびくしての生活である。数ヶ月の後、日本からの帰国船に乗ることができてやっと日本にたどり着く。帰国は鹿児島、そこから切符を配給してもらい、実家がある博多に近い農村、大保に用心しながら顔を出す。そこには両親と兄夫婦、妻の瑞恵、長男の善一がいる。家族は再会を喜び、早速、近所で農家をしていて跡継ぎのいない叔父の納谷に住み込んで農業を手伝う。戦後の農家がどんな生活と農作業をしていたのか、実に詳細に描かれ、都会生活しか知らない読者に迫ってくる感じがする。農業がいやで家を飛び出した経験も持つ守田、やはり長続きはせず、博多で憲兵時代の知り合い久保曹長を頼って闇市場商売を始める。実家や近所の農家から仕入れた米やミソ、醤油その他を博多で売れば結構儲かる商売になる。こうした闇市の描写も実にイキイキとしていて、当時の苦労がよく分かる。久保は憲兵だが早くに日本での勤務になっていて戦犯扱いではない。何人かの憲兵時代の仲間が現れるが、憲兵同士の紐帯は強いことが描かれる。しかし、ある日、実家に仕入れに帰っていたところを警察に踏み込まれ、間一髪のところで逃亡、そこから逃亡生活が始まる。

逃亡は瑞恵の遠い親戚で金光教教会を営む貧しい夫婦や昔のつてを頼って大阪、東京、そして茨城と1年以上も転々とするが、ある時瑞恵が送ってくれたオーバーコートを質入れし、名前が切り取ってあったことから質屋に通報され刑事に捕まってしまう。元憲兵の戦犯、ということで警察では丁寧に扱われ、GHQからの指令により致し方なく捕まえたことが分かる。捕まったという知らせが福岡の瑞恵にもたらされ、わずかな蓄えを手に、生まれたばかりの次男竜次を背負って、長男善一を連れて、警官に引率してもらいながら警視庁に面会に行く。この列車での上京も、当時の蒸気機関車による移動であり1日半かけてくたくたになりながらの初めての東京着である。警官は元憲兵の妻に同情しており、知り合いの家に泊まるように勧める。こうした警官の好意は、元憲兵が戦犯となっている、それは犯罪ではない、旧日本国軍の命令を忠実に最先端の戦場で立派に果たしたために、国民の身代わりになってくれている、という気持ちを表している。福岡の実家の近隣住民が示した戦犯への嫌悪感とは正反対のモノであり、物事は同じことであっても立場や考え方、戦中と戦後でまるっきり変わってしまうことを示していて、そのことを自覚していた日本人、自覚していなかった日本人を描いている。

守田と逃亡生活をともにしていた熊谷は逃亡中このように言っている。「戦後国は俺たちから寝返った。俺たちを使うだけ使って、事情が変わったとたん、俺たちを告発始めた。これは天皇がしかるべき段取りを踏まなかったからだ。天皇が行幸するのは構わない。しかし戦犯について一言も述べないのは卑怯だよ。」そしてさらに「戦勝国には戦犯などいないのだろう。勝った国が腹いせに負けた国に報復するリンチのようなモノだ。見栄えを良くするために法廷という舞台は用意しているが中身は茶番劇。しかし観客は一人も首をかしげず新聞は戦犯を極悪人扱いしている。」戦犯を国が勝った側も負けた側もひどい扱いをしている、という叫びである。そして巣鴨にいる守田をこっそり面会に訪れて、熊谷はこうも言っている。「憲兵の任務は常軌を逸した占領地政策であれば住民の反感も買うし反感の矢面に立つのは憲兵、任務に邁進すればするだけ抱える爆弾は大きくなる」

巣鴨での監獄生活も数ヶ月、ある日係員に呼ばれて、いよいよ香港の法廷に移送されて死刑か、と覚悟するが、言われたのは「釈放する」理由は香港の法廷が閉鎖されたから、というもの。時間を稼ぐことは意味がある、という記述がいくつかあったので予想できた結末ではあるが、主人公に感情移入している読者は本当によかった、とけなげに福岡で待っている妻の瑞恵の顔を思い浮かべることだろう。

筆者は、外地憲兵を主人公に取り上げて、戦争そのものの悲惨さを下敷きにして、憲兵と戦犯、戦後の裁判というものの理不尽さ、そしてそれを見る国の裏切り、そして国民の無知、無関心さを描いている。情報と教育に人は騙されたり踊らされたりしている、それではダメだよ、というメッセージである。筆者には「三たびの海峡」という戦争を挟んだ朝鮮と日本の物語を書いていて、非常に感動的なストーリーであったことを思い出すが、この「逃亡」、上下巻2000枚の長い小説であるが、戦争を知らない世代に是非読んで欲しい。

逃亡〈上〉 (新潮文庫)
逃亡〈下〉 (新潮文庫)
水神(上)
水神(下)
風花病棟
白い夏の墓標 (新潮文庫)
国銅〈上〉 (新潮文庫)
国銅〈下〉 (新潮文庫)

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