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意思による楽観のための読書日記

日本源流の古代史 神浩二 ***

学術研究ではなく、古代史が大好きな一般人が想像してみた日本列島に住み着いた先祖たちの物語、という一冊。学者ではないので、想像の翼の広がりは果てしない。二千数百年前、日本列島が弥生時代の中期と呼ばれる時期に、中国大陸では秦の時代、始皇帝治世の末期頃に、長江の南、江南と呼ばれる地方から、北方の黄河文明との軋轢を逃れて、長江文明の担い手の後裔と考えられる人々の一部が、亡命の地を求めて海上を移動、日本列島に次々とたどり着いた。稲作技術や養蚕、陶器作成、製鉄等とともに、祖先の神話ももたらしたかもしれない。日本列島にはすでに北方サハリンなどからの移住者や南方、琉球諸島沿いに渡ってきた人たちが住んでいた。大陸から来た人たちは用意周到に準備し、測量や土木工事、男女、若い働き手なども集団には含まれていたことだろう。

そうした人々にはいくつかの部族、種類がいたと分けて考えたほうが現実的である。烏兎(utu)族は長江下流域からの人々で鋳鉄製鉄技術を持った太陽信仰の人たち。伊(i)族は朝鮮半島南部から北九州にすでに居住していた人たちで列島の西に拡散して住んでいた。高(ko)族は半島南部の騎馬系民族で山岳信仰、鉱石探索、石造技術に長けていた。素兎(sutu)族は済州島から列島沿岸に生活していた漁労民族で、烏兎族とともにヤマト政権の初期に中心となる人たち。牟婁(muro)族は南方系で神武東征に関わった可能性がある人たち。こうした人達がそれぞれの事情を抱えながら、海洋経由、半島経由、沿岸沿い経由などの様々な経路により、数百年の時間的幅を持ちながら重層的に移り住むできたのが、移住した時代によっては渡来系と呼ばれた人たち。

北九州、鞆の浦、屋島、淡路島など瀬戸内経由で難波の地、今の神戸あたりに上陸した人たちがいた。もちろん移住の経路は様々であり、出雲、若狭湾、能登半島、伊勢湾など数多くの上陸地点があったと思われるが、稲作に適していた場所、漁労に便利な地、鉄器制作のための原料調達に便利な地などが選ばれたと考えられる。烏兎族は後に近江に勢力を張る息長氏を形成、北九州には伊族が勢力を張っていて、ヤマト政権を形成するときの各種族主導権争いを反映した神話や歴史が記録に残されたと考えられる。また地名は時間経過とともに長く残されるものであり、現在の地名を考察することで、古代史の一端を知りうるヒントとなる。

本書では、倭人伝に記述された「倭国大乱」期、「上之宮王家滅亡」と「蘇我氏滅亡」期、「壬申の乱」期、その時期に出来事の伝承や技術途絶があり、権力の移動が起きたと考えた。現在残された記紀は最後の壬申の乱期に権力を奪取した人々によるものであるが、その前の歴史の多くが、都合よく粉飾記述されていると考えたほうが合理的とする。筆者によれば、素兎族系が権力奪取したのであり、過去の勢力は烏兎族。古代史を各種族による文明混合と勢力争いの歴史であると考えたほうが、古代史発掘は現実味を帯びてくる、というのが筆者の主張。本書内容は以上。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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