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意思による楽観のための読書日記

八幡さんの正体 八幡信仰と日本人 鍛代敏雄 ***

神社本庁調査によれば、祭神をおなじくする神社の分布表によると八幡さんが7817あり第一位、続いてお伊勢さんで4451、第三位は3953ある天神さん、第四位は2924あるお稲荷さん、2693ある熊野神社となり、八幡さんがダントツ一位である。八幡大菩薩が源氏の軍神となり氏神として勧請され、鎌倉に鶴岡八幡宮が創建されると鎌倉御家人らの武家が鎮守神として分霊を繰り返したとのこと。後三条天皇による荘園整理令により、石清水八幡宮に属していた山城、河内、和泉、紀伊、美濃、丹波にあった34箇所の荘園のうち、13箇所が没収され、その後、八幡大菩薩が遷座した地が宮司領として石清水八幡宮に寄進され逆に100を超える荘園を持つに至ったとある。鎌倉幕府による八幡宮保護と国役免除などが関係しているらしい。別宮や別院と呼ばれた神社でも幕府や六波羅政権の保護が得られたため11世紀から14世紀にかけて別院、別宮が74箇所も存在した。

八幡宮は神仏習合の舞台であり、日本を代表する神仏習合の霊場だった。御神体に合わせて本地仏を奉じ供僧により神前読経が行われた。明治の神仏分離令によりその多くが焼却、廃棄されたと言うが、宇佐、岩清水、鎌倉の三大八幡宮には、堂舎、仏像、典籍、什物など多くの国宝、重文クラスの宝物が奉じられていた。

特に、岩清水が天下の宗廟となった理由と時期をまとめると次の3つ。
1.後三条天皇から白河院政時代に軍神と喧伝され朝廷の宗廟となった。
2.室町幕府創設時に尊氏、直義が岩清水安居会を武家の祭礼とした。義満は放生会の勅使も務めた。
3.家康は、安吾神事を継承し、石清水八幡宮前の境内町を検地免除とした。

破魔矢の発祥は石清水八幡宮で、八幡信仰の象徴となっている。「弓八幡」は将軍義持就任祝いのための演目とされ、桑の弓、蓬の矢は桑弧蓬矢と呼ばれ、まっすぐに当たる弓矢として男子生誕の祝い事に使われた。弓八幡は、夷狄を射た梓弓の神話、住吉の神、神託を携えた高良明神の題材ともなった。日本人は現世ご利益を神に求め、救霊を佛に祈る、と評したのはルイス・フロイス。神社と仏の棲み分けをつなぐ存在が八幡信仰だった。本書内容は以上。

ヤと読まれる八は数が多いことを表し、ハチマンといえば8つの幡、つまり旗、幟が男子の健やかな成長を祈ってはためく鯉のぼり、端午の節句とつながって思い起こされる。地名なら「ヤハタ」、神社は「ハチマン」、いずれも日本人の暮らしに深く根ざしていると感じてしまう。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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