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意思による楽観のための読書日記

写真で見る 日めくり日米開戦・終戦 共同通信編集委員室 ***

太平洋戦争に至った理由は何、という問いについて、新聞記事から考えてみたという一冊。満州事変から回帰不能点となった南部仏印進駐まで、真珠湾攻撃までの1ヶ月、ポツダム宣言受諾までの1ヶ月、そして敗戦後の1ヶ月と4部に分けて写真つきでまとめられている。

戦争は突然は始まらない、必ず手順を踏む、というのが保阪正康。明治維新以来、第一次大戦後までに日本国は日清・日露戦争を経て、南樺太、台湾、西太平洋、朝鮮半島などの権益を獲得してきたが、その欲望をさらに中国大陸にまで広げたのが満州事変。ここが回帰不能点だった。きっかけは1931年の柳条湖事件、比較的日本への配慮もにじませていたリットン調査団報告を受け入れようとしない日本は、国連を脱退した。1934年にはドイツでヒットラーが政権を奪取。1937年には盧溝橋事件をきっかけに全面的な日中戦争へと突入した。1939年にはドイツがポーランドへ侵攻、1940年6月にはパリも陥落した。ドイツの勢いを信じた日本は三国同盟に加盟、独ソ戦有利と見た軍部は日米戦争已む無しと戦争に向けてかじを切った。日本ではメディアも多くの国民も戦勝を信じ、その方向性を支持した。

真珠湾攻撃へ向かう7月、ドイツに協力的なフランスのビシー政権容認のもと、南部仏印に進駐、フィリピンと東南アジアに権益を持つ英米蘭を刺激した。日本では、クーデターや軍部が独断で開戦を決めたのではなく、形の上では国会、御前会議などの手順を踏んでの合法的開戦だったが、この時点に至っては軍部の独走を天皇や国会が止められる時期は過ぎていた。

1941年12月の開戦を前にした1ヶ月は、戦争回避に務める動きが日米ともに存在はしたが、アメリカ側では、日本に最初の一撃をさせて、アメリカ市民の戦争への動機づけを高めた上で戦争に持ち込むべき、との意見が大勢だった。日本では独ソ戦で優勢なドイツ戦の勢いを背景に、日米戦に持ち込みたい、という軍部の意見が強くなっていたが、12月には冬将軍の到来でドイツ軍不利の状況に一変していた。

終戦に向けた最後の1ヶ月は米国における原爆実験成功、ポツダム会議における日本への降伏文書作成、地方都市への無差別爆撃、ソ連参戦、原爆投下、ポツダム宣言と日本の黙殺とその後の受諾、へと向かう。ポツダム宣言受諾以降の1ヶ月は、スターリン指令による占領軍派遣要求とトルーマンとのせめぎあいがあり結果としてソ連による北北海道占領は実現しなかった。その後ソ連による捕虜抑留の開始があった。戦後成立したのは東久邇宮稔彦首相政権で、「一億総懺悔」を呼びかけたが、それまでは一億玉砕と言われてきた国民は、国へのご奉公から懺悔まで強制されることに抵抗を感じた。

国民が国が戦争へ向かうことを食い止める方法はあったのか、また食い止めたいという国民の意志は存在したのかが問題である。日露戦争の戦勝を信じて、賠償金獲得ができなかった日本政府への不満を日比谷焼き討ち事件を起こして非難したのは、情報と知識、国際認識の不足だけだったのか。満州事変や日米戦争に向かう直前、ワシントン軍縮条約からロンドン軍縮条約での英米圧力を不当と感じて軍事力強化を支持した国民は、敗戦を受けて何を懺悔する必要があったのかを考える必要がある。戦争は始まってしまえば、それを終わらせることは非常に困難、ということは歴史が示しているが、その開始を止める手立ては歴史は示してはくれない。日本が国家として過ちを犯した事実を、すべての日本国民は何度でも噛みしめる必要がある。本書内容は以上。

すべての記事に写真が添えられた一冊、戦争に向かった歴史を考えてみるきっかけとなる一冊になる。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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