まずは、会津戊辰戦争における薩長連合軍の暴虐を描く。会津側は油断していたようだ。城の外に出ていた主力群がいない鶴ヶ城に攻め込んだ薩長軍に年寄りや女性たちは抵抗したが破れた。城の外でも薩長連合軍は略奪や陵辱を繰り返したという。破れて城を明け渡したときの会津側の人数は約5000人、そのうち病人が284人、老人と子供が575人、女性が1200人近くいたという。
この会津戊辰戦争の原因は元をたどれば、幕府からの京都守護職という依頼を松平容保が受諾してしまったことから来ている。新撰組や京都見回り組が活躍した激動の時代であるが、敵対していた薩長が手を組んだ。このとき京都守護職である松平容保に敵対していたのは西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、高杉晋作、坂本龍馬、そして岩倉具視という錚々たるメンバーである。そこに徳川慶喜の弱腰対応が決定的な敗因を作った。孝明天皇が痘瘡の結果急死してしまったことから、薩長軍の反撃が始まった。明治なって「京都守護職始末」を編纂した元会津藩士山川類右衛門によると、孝明天皇が松平容保を最も信頼していたことを示す文書はあるという。さらに孝明天皇は岩倉具視にヒ素を盛られて毒殺されたという説もあるが立証はされていない。そして薩長軍は錦の御旗を掲げて進軍してきたことが大きかったとも言う。しかし、なによりの敗因は徳川慶喜の江戸への撤退であろう。勝海舟と西郷隆盛の話し合いで江戸城は無血開城されたが、会津に京都でいたい目にあった薩長は会津を徹底的に打つことにした。これが会津戊辰戦争である。
この結果、17000人の人々が今の青森県三戸、五戸、野辺地、大畑、下北の地に強制転居させられたのだ。その中に先ほどの山川類右衛門や後に陸軍大将にまでになる柴五郎も含まれていた。山川はその後貴族院議員にまでなるのだが、下北での数年はまさに塗炭の苦しみだった。こうして会津の人々は今でも鹿児島県、山口県への恨みを持っているという。大久保憎し、木戸孝允憎しである。安倍晋三が総理になったときに会津での演説で戊辰戦争にふれ、申し訳ないことをした、と言ったそうだが、それを聴いた会津若松人たちはかえって憤慨したという。「軽すぎる、言葉でなくて墓参りでもしてほしいものだ」と。それほどにこのときの憎悪は代々語り継がれてきているということ。会津戊辰戦争に先立って東北の各藩は連合を組んだというが、会津の人たちの憎しみが際だって深いということ、歴史には表裏があるということだ。
偽りの明治維新―会津戊辰戦争の真実 (だいわ文庫)
