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意思による楽観のための読書日記

相続の日本史 安藤優一郎 ***

日本史の出来事の多くは相続の諍いに関係すること。女性天皇の誕生は、跡継ぎがおらずに兄弟で揉めるといけないからと、皇后が即位した例が多い。厩戸皇子が未成年だったので敏達天皇の皇后額田部皇女が推古天皇に、舒明天皇の皇后の跡取り息子で実子ある中大兄皇子が若いので皇極、そして乙巳の変以降、重祚して斉明天皇に。乙巳の変は、中臣鎌足というよりも実際は孝徳天皇となる軽皇子と中大兄皇子が協力したという説が有力。しかしその後二人は離反、中大兄皇子が即位。自分の孫に継がせたくて皇后自らが即位した持統天皇。その文武の息子が後に聖武天皇となる首皇子だが、若年だったため、さらには元明天皇、元正天皇とが即位。聖武天皇の皇后は藤原不比等の娘光明子で、光明皇后は自分の子を天皇にしたくて阿倍内親王を女性最初の皇太子にし孝謙天皇に。ここで道鏡が登場し、孝謙天皇が重祚して称徳天皇となり大混乱。以降、女性天皇はタブーとなり江戸時代の紫衣事件の明正天皇、そして後桜町天皇まで登場しない。

嵯峨天皇と平城上皇が争った薬子の変、院政を始めた白河法皇、後白河院政と平氏政権、頼朝の後継者を巡って諍いが絶えなかった鎌倉政権と北条氏の執権、鎌倉政権が口出しした後嵯峨天皇、両統迭立の南北朝と倒幕を決意する後醍醐天皇、息子と兄弟による相続争いが大きな戦いに発展する室町時代の観応の擾乱、本来は一族だった足利氏同士が争う幕府と関東公方、守護たちの相続争い。争いを避けたくて長子相続を遺言とした家康、御三家創設、将軍継嗣問題に悩まされ、御三卿を創設した吉宗、幕末には朝廷が将軍継嗣問題に容喙。

古代には兄弟から父子相続へ相続の方法を調整していったが、鎌倉時代には資産分割を防ぐために分家相続から惣領相続へと切り替わる。守護の相続も揉めたが、江戸時代の大名相続には幕府の認可が必要だった。それでも、初期には改易が続いたため、浪人が増加し、由井正雪の乱などで社会が不安定化、幕府は末期相続を認めることとなる。大名や寺社所領相続の手続きも将軍代替わりごとに行われ、徳川家のお墨付きを得るために各大名や寺社は大変な労力を費やした。本書内容は以上。

現代社会で二代目、三代目問題があるのが会社や代議士。本来は実力がある人間が継ぐのが会社や政治のはずが、実力の評価基準が曖昧で、諍いを避けるために実子を後継者として揉め事を避ける、これが日本社会を脆弱化させる。内輪もめは決して組織体にとって良いことではないにしても、相続を巡る諍いは第三者も巻き込んで、社会の柔軟さと強靭さを増してきた経緯もある。それにしても、日本史を概覧してみると、変化が少なく形式に拘ることで社会の脆弱化や国力低下を招くことは明白。現代の失われた30年を取り戻すために、現有資産継承にこだわらず大変革を起こす勇気が必要なのが2023年かもしれない。
 

↓↓↓2008年1月から読んだ本について書いています。

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