
丸亀でやっている志賀理江子の写真展にギリギリ間に合った。御本人と飴屋法水のトークがあるので最終日に合わせて行ったという方が正しいが。
今展は写真集にもなった、2009年にタイで撮影されたバイクにニケツしたカップルの写真シリーズである「ブラインドデート」のプリント写真をベースに、様々な作品が暗がりの室内の至るところにスライドプロジェクタkodak Ektaproによって写し出されては消えるインスタレーションで構成されていた。壁との距離の違いによって様々なサイズの写真を映し出すプロジェクタの明滅とときおり光る赤い照明によって、鑑賞者たちの影も壁に映る。カップルも。今展のタイトルとしてのブラインドデートにはこの影も含まれていたのか?(本来の意味は、バンコクで車を走らせていると、あまりに多くのニケツカップルと目が合う事に驚いた志賀が「これだけバイクに乗ったカップルがいるのなら、背後から目隠しして心中した者もいたんじゃないか」という妄想からつけられたらしい)。フィリップフォレスト「さりながら」を思い出した。
プリント写真も良いし(「スタジオパーラー」も良かった)、プロジェクタの数々の写真もじっくり見た。そして展覧会の最期に展示されている志賀によるテキストも凄く良かった。自信が子を宿し、母になったことを綴ったもの、震災体験者と二次大戦体験者との交流をつづったもの、それらと写真という行為との関係も綴られており、志賀の(現時点における)写真に対するアティチュードを理解するのに最適な文章たちだった。(↓は抜粋。テキストを収録した図録が来年1月に刊行予定)
飴屋法水とのトークはこの手のトーク会場にしては小さくないサイズだったのだが、立ち見も出るほど大盛況。飴屋の著作「君は珍獣(ケダモノ)と暮らせるか?」をベースにした内容で、しかし地球に未来はない(太陽に吸い込まれて消滅するのは避けられない)こと、死、子など、志賀の作品ともリンクするような内容の話も多かった。飴屋法水の「二十三区野糞計画」の話も面白かった。
この世界において、目は欲望に過剰につながり、呪いにもなった。
死に近づくことによってしか彼を呼ぶことはできないと言い聞かせつつも、彼が私を呼び戻しているのかもしれない、と思い直す。
私のくぼみの中に彼がいる。私と彼をつなげているのは胎盤と臍の緒だけなのだ。
穴、そこに彼が芽吹いた。いつ何時も私たちは個なのだ。
あなたに直接触れぬまま、あなたの写真を撮影した人はあなたのイメージを手にする。これは写真に潜む暴力性かもしれない。けれど、なにか、だからこそ、被写体にに触れずに写真で抱擁し写真でしかできない関係を、もてたのかな
イメージの始まりとは、目に見えぬ存在となって誰かの心に宿り始めることではないだろうか
今死んだ私は必ずや亡霊となり、現れる。
死によってこの想い、意識が突然なくなるとは到底思えない。それは徐々に少しずつ、記憶のように、消えてゆくのだろう
知ってる者が知らない者へその経験を語って当然、という暗黙の了解だけでは語れません。そのお互いの覚悟が通じ合わなければ辛すぎるのです。
