典虚てん手古舞

我が為の日々の記録! 74歳

「教育再生」、現場の教師たちの声をもっと聞いて!

2007年01月28日 | <記録・雑感>教育・学校・教員
 高校の教員採用試験は中学校よりも難しいです。
 二年近く、非常勤講師・時間講師として、高校で世界史と倫理・社会を教えていました。その高校は、じつにのんびりとした雰囲気でしたが、90%の生徒はは大学へ進学する学校でした。30年以上前のことです。

 高校なら本も読めるし、大学に残らずとも「研究」が続けられます。一度採用試験を受けましたが、落ちました。社会科の免許状は、文学部、法学部、経済学部、社会学部・・・とどの大学でも取得できます。周りの講師の人たちをみると、京大や阪大でしかも大学院のマスターコース修了者ばかり・・・。
 父が他界して数年、まだ妹も弟も大学生でした。もうわたくしも働いて安定した収入を確保しなきゃいけないなと二年目、通信教育で小学校の免許を取得しました。

 中学校は、生徒指導に追われてたいへん! 
 わたしは、学校の教師なんかになりたくはなかったのです。教員志望なら、大学受験の点で、教育大学へ入っていました。全国模試でも志望校別で上位で、受ければ通っていたでしょう。自分が合格すれば、誰が一人が不合格。だから学費の安い大学に行って、親元から出よう!考えていたけれど、願書も出しませんでした。
 「教師なんて・・・」「教師なんか」は、子どもの私の目に映った小学校の先生たちの姿をみて刻まれた思いです。<この話はいずれまた!>

 高校から、小学校の講師になりました。一年あまりで三つの小学校だったでしょうか。採用試験は、一度目で受かりました。
 
 ところで、私が小学校に志願を変えたと知った、高校の仲良しの先生たちは、「小学校にするの?」と気の毒そうにおっしゃいました。どこかに「小学校なんか」という小学校を見下げたような言葉でした。
 あれっ?少し驚きました。ちょっと違うと思ったのです。
 たぶん、まだ大学に通い、研究者としてやっていくよう周囲からすすめられていた・・・からでしょう。
 高校の先生たちとは、よく食事に行ったり、飲んだり、小人数で二泊のハイキングをしたこともあります。授業は楽しくて、生徒たちにも人気がありました。まっ、新米講師というのは、高校生にとってオモロイ存在だった??

 小学校時代のことは割愛します。個人的なことも・・・。
 ただ、少し言えば、小学校正規教員の七年間の間に、出産、離婚して、借切れるだけ借金をしました。「息子を人殺しの子にはしたくない」から、夫の会社の借金を肩代わりしたのです。

 さて、小学校から中学異動するに際して、わたしが求めた条件は「生徒指導のいらない中学校にしてほしい」でした。理由は、授業の力をつけるためです。

 小学校でしみじみと感じたことは、高校には高校の難しさ、小学校には小学校の、それぞれ異なった難しさがある・・・でした。
 高校の倫理社会の授業でしたことが、即小学校で役に立ちました!算数は、哲学ですよ。(笑)国語には、論理学・・・。
 自分の子育て自体が、「幼児の発達」の学びの機会となり、専門書も少なからず、読みました。何よりも、「親の立場で子どもに」が私の身につきました。
 例えば、クラスの子がおもらししたウンコちゃんのパンツだって平気です。自分の子どもだったら、当然のこととするでしょう?

 中学校は、授業がちゃんとできる「学び」が可能なところでした。
 教師関係も、和気藹々・・・。歳の差はさほど違わない「先輩」が御自分の授業をみせてくださったり、授業のノートも見せていただきました。もちろん、自分で書籍を読んで、勉強しました。倉庫に眠っていたOHPを出して、見せる授業もしました。(これは、小学校でしていた。)
 
 三年目、中学新一年生の担任になりました。このとき、いちばん生きたのは、小学校教員としての、いわゆる「学級経営」の経験でした。
 小学校の教師は、教室に貼る物でも、子どもたちが喜んでくれるような楽しい掲示物を色画用紙を切ったり折ったり、工夫して作ります。保育園や幼稚園の部屋を想像してください。
 掃除の当番表だって、細やかに作らねば、児童は何をしていいかわかりません。ほうきや雑巾の使い方も教えます。「雑巾のたいせつさ」を教えるために、小学校低学年の子どもたちに、針をもたせて古いタオルで縫わせたことがあります。
 もちろん、針目は粗いです。しかし、自分の縫ったおぞうきんを子ども達をたいせつに使っていました。「布のいちの」を語って聞かせました。

 これは中学校でも同じです。黒板の状態だけで、そのクラスの状態が分かります。
 生徒にしろという前に、教師がやれぱ、彼らはその姿と黒板をみていますでしょう?
 「どっちがいい?」と尋ねると、「きれいなほうがいい」という答えが返ってきます。当番だから、やらされるのではなく、「みんなでしよう」と仕事を分かち合うという意味での「当番」だと気づかせなきゃいけない・・・。
 
 もちろん、嫌がる生徒もいます。しかし、そこで叱ってやれ!というよりも、当番じゃないけれど、「わたしがやるわ」という生徒が出てくるようになればいいのです。
 「○○ちゃん、黒板消し上手だね」
 「うん、小学校のせんせいに習ったの」

 中学校の教員の歳月を振り返って、小学校勤務での経験が生きたことのもう一つは、子ども「基礎学力」についてです。
 例えば、英語ですね。
 小学校低学年の国語の授業では、3つの基本文型を踏まえた文章作りを徹底的にしました。「何は何だ文」「何がどうした文」「何がどうした文」・・・。

 「水」と幼い子どもはいいます。親にしろ教師にしろ、。切羽詰まった状況でない限り、子どもが水が飲みたいと察して、コップに水を入れて渡してはいけません。子どもの年齢や発達をかんがみて、
 「水がどうしたの?」と突っぱねる。そこで子どもは、考えます。
 「水が飲みたい」。
 自分の意志表示、考える力は、幼児期の子育ての段階ではぐくまれるのです。まっ、これは我が子で<実験済み>。(笑)
 上の基本文型でいうと「何がどうした文」、つまり動詞文ですね。

 「きれいだね」と子どもが海を見たとき、
 「ほんとうに、海はきれいだね」とか「海は青くて、きれいだね」と答えます。こどもは、親や大人たち、年上のお兄ちゃん、お姉ちゃんたちとの会話の中でボキャブラリーを増やします。
 さて、これが形容詞文、「何はどんなだ文」です。

 「何はなんだ文」は、英語文型のSVC・・・。私はこのとき、主語のSと補語Cは、イコールなんだよと教えています。(現在形)

 中学校で、英語の苦手な生徒の補習をするとき、この3つの基本文型を小学校の子ども達に話したレベルで語りました。そして、英語には、日本語と違い、「何が」「何は」の主語が必ず入ると・・・。

 実は、高校の倫理社会の授業でしたことが、一つのベースになっています。いや、わたしが高校時代から好きだったソクラテスかな?
 「産婆術」というの、あれです。
 <概念崩し>をしながら、自分の頭で考える力をつけるということです。

 高校での概念崩しは、今でも記憶に残る授業でした。
 「窓のそとをみてごらん。何が見える」
 「看板」
 「看板って何?」
 そこから、生徒たちと対話を繰り返すしていく。
 「宣伝って何?」
 ここまで来たら、生徒たちは、文章で答えなければなりません。誰が、何のために・・・と。

 ★★さて、結論です。
 教員は、小学校だけの免許の人もあるでしょうけれど、複数の免許をもつ人たちは、小学校、中学校、高校、幼稚園もいいですね。<校種>異動をするといいと思います。
 府県によっては、小学校の教員が生徒たちと一緒に中学校に異動という事例もあったと聞いています。

 小学校の高学年に中学校の教師を配属して、小学校と中学校の連携をはかるというのも一つの方法です。ひょっとしたら、そうしている府県もあるかも知れません。
 これは、理科や社会科は有効だと思います。
 すでに、高学年では、一人の先生が学年全部の理科を、他の人が社会科を担当して、学級バラバラではなく、一つの学年として生徒たち全員をみていく小学校もあります。

 しかし、これに小学校に中学の教師が、またその逆、高校も含めた転勤・異動が加われば、公立中学校が抱えている<困難な問題>が一つ解決します。
 中学校の人事絡みの問題です。

 ★教科による教師の持ち時間数のアンバランスという問題がそれです。
 わたしの勤務する地方自治体では、将来の少子化を見据えて、正規採用の教員を減らして、教員数を<講師派遣>で員数調整をしているようです。いや、していると断定していいでしょう。
 でも、教科によっては、講師登録者の方たちが少なくて、学期が始まっても講師が派遣されないということがよくあります。また、登録している講師さんが少ないので、とんでもない講師が派遣されてくるという事態も生じることがあります。
 教員免許をもっているだけ・・・。一体、教育実習で何を学んだの?首をかしげる事態が私の勤務校で起こりました。やる気のない、助言を聞く耳をもたない、教材研究をしな
いなど、数たらきりがないほどでした。

 二学期は、「彼ならいらない」が現場の意向を教育委員会に伝えたところ、講師は派遣
されず、癌で休すまれていた正規教員の復帰を待ちました。
 たった一人の理科の教師は、9学級の授業をもけもちました。授業だけでなく、その人は、「教務主任」という学校でも忙しい校務分掌を抱えての全学年です。中学校では、国語数学英語理科の5教科は、定期テストと実力テストの作成が年7回あり、私の地域では、三年生は加えてプラス4回の実力テストがあります。

 一人で三つの学年を担当すると年間<25>のテスト問題作成という負担になります。
 脂ののった中堅どころでは、この負担は半端ではありません。この人は、若いときからきちんと授業が出来る力量を蓄えていたからこそ、「あんな授業をされて、子どもを荒れさせるぐらいやったら、どんなに辛くでも自分がやった方がましだ」と歯を食いしばり、毎日夜遅くまで、土曜や日曜日も出勤してしごとをこなしました。

 学校長も教育委員会任せではなく、自分のつてをたどって「理科の講師はないか」と捜し、教職員にも「どなたかいませんか」と協力を求めたほどでした。

 一方では、週3時間しか、授業をしていない教師もいました。時間割では、人並みの授業時間を受け持っていることになっています。
 「生徒指導主事」といった校務分掌にあるわけではないにもかかわらずです。
 生徒指導主事ならば、いわゆる「荒れた」中学校では、仕事は少なくありません。授業時間数の軽減は必要な処置です。

 公立中学校が抱えている困難な問題のうち、わたくしが重要ではないか?と考える一つの問題は、教科による持ち時間数を考慮した、適切な教員数の配置です。ことに、公立中学にやるよりも、ちょっと無理しても私立中学校へ進学させた方が<安心出来る>という親心が働くのも当然であり、小学校から公立中学への入学者が減っています。
 
 その結果、クラス減の予想にたって、「過剰人員」の解消のための転勤・異動が行なわれます。不本意な転勤を余儀なくされる場合もあり、この問題に晒されている私の勤務校では、教師たちの顔が暗くなっています。

 ところで、教員の配置に関しては、一つの学校の年齢構成の問題もあります。
 しかし若手の人たちの授業や学級運営を支援するには、退職まで数年の教師でも多過ぎる授業時間の上に「担任」まで・・・という現状があります。
 教師という仕事に打ち込んできた者ほど、負担が大きくて、心のゆとりが保てない。中には、「まさか、あなたが!!」というベテランで、バリバリ働き、若い教師たちの支援をしてきたせんせいが、体を壊し、心を病むようになったケースがあるのです。
 この方たちは、ほんとうに苦しんでいます。

 「あなた、死ぬよ」
 わたくしは、そんな一人の知人に申しました。医者からおりた診断書を破れば、自分は今のまま教師のしごとが続けられると悩み、苦しんだそうです。
 「尿が出ない」という身体症状が出て検査をうけたところ、体には異常なし・・・。管理職が出た言葉が「心療内科に行きなさい」です。
 その医師から「危ない!」と診断書が渡されたけれども、この方は、診断書を破ろうとしたのです。

 ★★
 「教育再生」というならば、その最前線の現場にいる教師たちの「生の声」を聞いてください。
 まあ、しかし実際には懸命に子どもたちに向かい合い、誠実に努めている人たちは語らないでしょう。<黙々と>日々、時間に追われ、心のせめぎあいを抱えて働いています。

 今わたしは、定年まで働かないと心に定めました。
 <黙々と>と同時に、子ども達と<てんてこまい>の楽しさとも、お別れです。ちょっと寂しいけれど、今のところは充実しているので、笑顔でいられるうちに「笑って、あば~よ♪」なんだデス。
 



















コメント    この記事についてブログを書く
« 兄妹の確執が殺人までに! | トップ | 西部劇、クーリエ・ジャポンと »

コメントを投稿