goo

故郷のお菓子とか

2024年05月17日 | よしなしごと


包み紙は五條市出身の画家花野五条画伯がデザインされたものです。この紫色が大好き、手にはいったらブックカバーに利用しています。

私どもは単に鮎菓子と言っていますが、今は作っているのは指月堂のみ。もう一軒西尾という店がありましたが、かなり前に閉店。過疎の町で空き家もいっぱい、住んでくれるならタダで上げる、という噂もあります。

また、市を貫く国道24号には柿の葉寿司本舗(?)田中の本店があります。東京のデパートにも出していますので、お見かけの方もあるのでは?本舗なんてとんでもない。海のない奈良県の保存食として昔からあるもの。友人の知り合いの方がもと駅前の肉屋だった田中の奥さんに作り方教えたらしいですよ。地元の人は田中より歴史は浅いですヤマトの方がおいしいと言っていますし、私もそう思いますが、多分まだ関東には出店していませんね。

亡くなった母もよく作ってました。押しずし用の型はまだ残っています。


こちらの画像はヤマトよりお借りもの。

薩摩の人は巨像がお好き

2024年04月25日 | よしなしごと
桂浜に坂本龍馬像を訪れました。台座を含め13.5メートル、像そのものの髙さは5.3メートル。年二回春と秋に特別展望台が真横に建てられるので竜馬の目線で浜を見下ろすことが出来ます。





で、これだけなら、「さすが竜馬」で済むところですが、はりまや橋から高知駅までは歩いて10分ほど、ついでに行ってみました。そこで発見したのが坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太の巨象。台座を含め8.3メートルの高さですので像そのものは4メートル、といったところでしょう。何かのイベントで10年前に設置されました。



もともと恒久的なものとは考えていなかったので、発泡スチロールに特殊加工したものだそうですが、あまりにもの人気に、いまのところ撤去予定はないそうです。

参考までにガンダムと鉄人28号はどちらも身長20メートルです。ガンダムは人が乗り込むためにはそれほどのサイズが必要でしょうが、鉄人とサイズ一致とはね。

実写版鉄人28号で池松壮亮扮する金田正太郎が鉄人の視線で操縦するシーンがありますが、ビル7階ほど。見てても目がくらみます。

第46回キリスト教美術展

2023年06月24日 | よしなしごと
プロテスタント、カトリック、聖公会、バプテストなどキリスト教諸会派が一堂に会するまたとない機会です。プロの画家たちの展ですので、見ごたえあり。水曜日を除く7月4日まで、無料です。ほぼ畳一畳サイズ(≒100号)の力作がいっぱいです。どうぞお越しください。会場の銀座教会は外堀通りと松屋通りの角、地下鉄C4出口を上がったところです。



















銀座の丁目、番地がよくわかる地図(最新版)

2023年03月06日 | よしなしごと
銀座というところは大変区画がはっきりしており、おおよそ東京高速道路(首都高ではありません)を西端に北から南に一丁目から八丁目まで、西から東に二番地から十〇番地~二十〇番地と、ブロックごとに番地が設定されています。各丁は東西に長~い矩形となっています。四丁目を例にとると西端は西銀座デパート。銀座通り、昭和通りを横切り東端は歌舞伎座の少し先まで。ですから丁目番地さえわかれば大体目的地にたどり着きます。

東京マラソン2020以降しばらく改定されず、今回東京マラソン2023を機に改定されました。銀座通連合会が発行。GINZA OFFICIALというサイトも運営しています。

https://www.ginza.jp/wp-content/uploads/ginza_MetroMap2023.pdf


地図をクリックする鮮明なPDF版が入手できます。

この地図は町名、番地は大変わかりやすいのですが、どの出口がどの路線の出口なのかまではわかりません。大まかに言えば西銀座通り(外堀通り)に沿って走っているのが丸ノ内線、晴海通りに沿って走っているのが日比谷線、銀座柳通りに沿って走っているのが有楽町線、中央通り(銀座通り)に沿って走っているのが銀座線です。A番台が銀座線関係の出口、B番台が日比谷線関係の出口、C番台が丸ノ内線関係の出口、そして数字だけなのが有楽町線関係の出口です。また丸ノ内線、日比谷線、銀座線はお互い連絡通路でつながっていますが、有楽町線はちょっと仲間はずれです(行けないこともない)。

いずれにせよ、地下連絡通路は継ぎ足し、継ぎ足しで造られたため曲がりくねっているどころか、クランクや段差さえあります。例えばJR有楽町駅から三越まで、多分地下を通ると地上のほぼ1.5倍は時間がかかります。やはり地上が最短です。

車いすご利用の方、ともかくエレベーターを見つけたら、早く地上に出ること。銀座の地下街は車いすが利用できる環境からはほど遠いです。また、オストメイト対応トイレ、地下鉄銀座駅にはいくつかありますが、段差があったり、改装中だったり…。銀座三越はほとんどのトイレが対応しています。松屋銀座、東急プラザ銀座も対応のようです。車いすでストーマ装着の方、早めに地上に出てこれらのいずれかに向かうのが、結局一番早いと思います。この地図の車いすマークは高低がわからないため、あまり、あてになりません。

こちらは中央区のバリアフリーマップ。中央区の関連サイトです。

https://www.lwd.tokyo/wordpress/wp-content/uploads/area-chuo-ginza-nihonbashi-j_2022-08-03.pdf


地図をクリックする鮮明なPDF版が入手できます。



第3版:2020年2月26日
第4版:2023年3月6日

四丁目、五丁目を除き一番地はありません。東京高速道路の下ですが、なんとなく曖昧のままだそうです。 

ルワンダの虐殺(1994)は身近なことだった

2023年03月01日 | よしなしごと
ルワンダの多分ツチ族だと思うが、政府によりボストンに留学していたサムエル。フツ族、ツチ族とも大げさではなく墨のように真っ黒。下手に写真撮ろうものなら、背景と溶け込んで顔の輪郭がはっきりせず、目だけが光るという羽目になる。目を光らせないため、ストロボは天井に反射させなければならない。対面していても顔と髪の生え際の境目がわからない。頭のてっぺんがハゲていてもわからない。私たち夫婦と仲が良く、しょっちゅうご飯に招待した。

一度奥さんのメアリーがボストンに来たことがあり、夫婦を食事に招待したが、彼女、エビなんて見たことがない。サムエルはしきりに彼女にエビフライ勧めていた。

サムエルが帰国した後にルワンダの紛争が始まり、彼女から一度国際電話があった。すごい雑音の中、彼女の緊迫した声で、やっとサムエルが死んだ、と聞き取れ、電話は切れた。自分の生命さえ危ない中、彼女は世話になったアジア人に必死の思いで電話をくれたんだろう。サムエルはほんわかとした、いかにも上流階級という感じの青年、サバイバル能力なんかどこにもありそうもなく、あっという間に殺されたんだろうなあ、と彼の死を悼みました。

「ルワンダの涙」という映画がある。2005年の作品だが、俳優だけではなく、虐殺を生き延びた人々がエキストラで出演している。ネットで見つけたこの写真もどこか不自然。血があまり流れていない。おそらくエキストラたちによるものと思われる。撮影当時まだ虐殺当時の血まみれの壁とかが現状保存されており、ものすごく生々しい。生き残った人が死体の役なんて、彼らのどうしても世界に知ってほしいという気持ちがあふれている。血なまぐさいのが苦手な人はともかく、一度は見てほしい。

ちょっと毛色は違うが、ドン・チードル主演の「ホテル・ルワンダ」という作品も見ておきたい。こちらはホテル支配人が逃げてきたフツ族、ツチ族の人々を自分のホテルにかくまうという話。

つなぐ☘ウィッグ

2023年02月27日 | よしなしごと
たいへんいい活動だと思いますので、紹介します。例によってクリックすると拡大します。保存する場合、WEBPファイルとか認識される場合、ファイル名に半角で.jpgをつけ種類を「すべてのファイル」にしてください。

Living While Black, In Japan (アフロアメリカンが日本に住んで)

2023年02月26日 | よしなしごと
日本では警官を見ても怖がることは無い、人の視線に敵意を感じることも無い。

変態的SOHOの文具たち。

2022年12月12日 | よしなしごと


下敷きはA2サイズカッターマットとかなり大きめ、真ん中は60センチカッティング定規、上段右から大型カッターナイフ、普通のカッターナイフ、ミシン目カッター、一枚切りカッター、円刄カッター、切り出しナイフ、段ボールカッター、

下段右からデジタルノギス、金尺、BOSHレーザ距離計、BOSHレーザー水平器。BOSHレザー距離計はこれが2代目、超、超便利。

円刄カッターは布など切るのに最適、50センチ超えのカッテイング定規は文具店で見つけるのは困難ですが、A1サイズの紙を扱うのには60センチ以上は必須です。

心のバリアフリー

2022年10月12日 | よしなしごと
アマゾンで予約して買いました。車いすユーチューバー髙橋尚子(しょうこちゃんねる)さんの本。カバーデザイン(題字とも本人)や本文デザイン、センスの良さが際立ちます。



以前紹介した渋谷真子さんより障害が重い、事故の後遺症としての四肢麻痺。下半身の自由や体幹が不自由なのに加え、腕の力も弱く、握力はゼロ。髙橋尚子さんの受傷後の十年間は確かに渋谷さんが言う、テンプレート、「「障がい者は暗いところからスタートして、最後明るくなりました」その通りだとは思います。その彼女ですが、優しさや、ちょっとした気配りという「心のバリアフリー」に支えられ、今があると語ります。以下本文より。

「すみません。私歩けなくて、階段を上がることは難しいんです。エレベーターがないとは知らず… 今日はひとまず帰ります」
多分、そんなことを伝えた。
「うん。お姉ちゃんから聞いとるよ。うちエレベーターが2階からしかなくて、 ごめんね。男手はいっぱいおるけん。運んでもいいかな?」
と、なんと男性3人で車いすごと担ぎ上げてくれたのだ。
「え、そんなこと、してくれるの?」
感動した!いや、「感動」という言葉では表しきれない気持ち。
階段というバリアがあっても、やさしさでそのバリアを取り払うことができた。
「これが“心のバリアフリー”というもの?」
いつかネットで見た言葉を肌で感じた。

これで彼女は変わり、いろんな分野の仲間と共に「熊バリ」というバリアフリー活動を立ち上げ、ついに会社まで作ってしまいます。渋谷さんの場合もそうですが、高橋さんの場合も仲間たちがあってからこそだと思います。「しょうこちゃんねる」は仲間のクリエイターも手伝っており、映像的にもなかなか質の高いものとなっています。

彼女自身、儚(はかな)系の美人で「髪型命」だそうです。



テープ起こしという作業

2022年07月28日 | よしなしごと
実際は動画をもとに行う作業が多く、実質動画起こしですね。

講演などお願いするときに、講演内容の完全原稿をお願いすることは多いです。ただ、講演はライブですので、内容が原稿どおりとは限りません、いや原稿どおりでないいことの方が多いと思います。講演者がアドリブで話し出したり、時間の制限で話の一部をカットしたり、甚だしいときには主題からも脱線したり。

したがってテープ起こしという作業はやはり必要となります。まず、一語一句正確に聞き取り、原稿を手直しします。記録としての作業はここまでですが、これを翻訳し、動画のテロップとして流すには様々な加工が必要です。

翻訳者が翻訳しやすいように主語を補ったり、文を短くしたり。テロップですので、そんなに長くはできません、話者が早口だったりしたら、内容を損なえない程度に大幅にカットしたりもします。誤解がない様に平易な表現に書き換えたりさえします。

筆記者ができるのはここまで、あとは翻訳者に渡します。翻訳者は必ずしもとは言えませんが、バイリンガルなことが多いです。動画を見ながら、またテープ起こししたものを参考に、「要するに」字幕を組み立てていきます。

最終的に動画編集者がこれを動画に加えていくことになります。結構複雑なステップですね。

レベルの高いバイリンガルな方はすごいもので、テープ起こしした内容を「ここはこういう意味ですか?ではこういう風に訳しますね」というやり取りが交わされます。この課程で自分の日本語力のなさを実感することは「たびたび」あります、正直なところ、忸怩たる思いです。



「強制集団死」から生かされて 金城重明

2022年07月24日 | よしなしごと
「自分たちを生んでくれた母親に、最初に手をかけました」…先日お亡くなりになった金城重明さんの講演要約です。2011年日本基督教団沖縄教区の年頭修養会に発表されたもので公開されています。

 私は、自らが体験した「強制集団死」の体験にもとづいて、それがどのように扱われ、考えられてきたか、また教科書問題や文科省の沖縄戦に関する対応などについて、これまで話したこと、今考えていることなどについて自由に述べさせていただきます。
 「強制集団死」かつては「集団自決」と呼ばれていました。戦後5年くらい経過してから「集団自決」という言葉が生まれました。戦時中は「自決」という言葉が使われていました。戦時中は「自決」という用語はありましたが、これは軍隊用語で非戦闘員にも適用されたのです。そして「集団自決」は「玉砕」という言葉が使われていました。「玉砕」とは、美化された用語で軍国主義で天皇や国家の為に死ぬことを意味していました。
 慶良間諸島で「強制集団死」が起こった場所は、座間味、慶留間及び渡嘉敷の3島であります。米軍は1945年3月26日に座間味、慶留間の両島に上陸し、その日に「強制集団死」が起こり、翌3月27日には渡嘉敷に上陸、翌日3月28日に「強制集団死」が起こったのです。
 今、非常に問題になっている高校歴史教科書記述についての、文部科学省の問題点は、軍隊による「強制集団死」は抑制して、自発的死すなわち、「集団自決」を前面に出そうとする傾向があります。皇軍(日本軍)による強制、命令が歴史的真実であり、この史実を改ざんすることは暴挙と言わざるを得ません。私が沖縄キリスト教短期大学に在職中、カメラをぶらさげた一人のフランス人が尋ねて来られ「強制集団死について喋ってくれ、沖縄の事なら何でも自由に語ってくれ」と頼まれ、1時間ほど話しました。私は彼を一人のカメラマンだと思ったのですが、映画監督でした。後のフランス映画「レベル5」(世界中で起きた悲惨な出来ことを集成した映画}の中で10分近く、「強制集団死」について話しています。「強制集団死」が、世界戦争史上かつて無かった悲劇として取り上げられたのです。しかし、「強制集団死」は住民が自発的に死んだ、と軍命を免責否定する反歴史的な人々もいる。文部科学省は、「軍が強制した」、「軍が命令した」の「軍」という主語を消した。軍の介入がなく、住民が自発的に名誉の死を遂げた。死を美化する。それが歴史を歪曲する人たちの論調です。
 当時の軍隊は「皇軍」と言い、「日本軍」という言い方は戦後の言葉です。皇軍とは天皇の軍隊であり、我々にとっては友軍でもありました。皇軍が身近にいて、絶対的権限と力を持ち何でもできる。中国で軍人としてさんざん残酷なことをして、そのまま沖縄で参戦している人々も少なくないようです。真珠湾攻撃によって太平洋戦争は始まり、それ以降鬼畜米英思想が生まれてくる。鬼畜米英思想は、敵をやっつける、敵への憎悪、敵を殺す、という思想です。皇民化思想によって死の教育がなされたことは歴史的事実であります。自発的に死んだとされるが、これは間違った認識です。私は皇民化教育を徹底的に受けました。自分でも「戦陣訓」の《生きて虜囚の辱しめを受けず》との思想が洗脳されました。当時、私は国民学校高等2年しか卒業しておりませんが、経済的理由で中学校には行っていません。しかし、常識的な文化的な勉強は、あまりしていませんが、とにかく天皇のために死ぬということは、徹底的に教育されました。「海ゆかば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行ば 草生(くさむ)す 大君(おおきみ)の……」と、天皇のために死ぬことは、名誉だと信じ込んでいました。しかし特攻隊に志願した大学生についての報道や「わだつみ会」等を読み、はっとさせられました。大学の特攻隊員は、自分たち仲間同士、上官から生還するなと命令されていたのですが、彼らは「何のために死ぬのか、愛する者の為、家族の為、妻や親の為ではなく、何で、このような形で死ななければいけないのか」と死に対する問題意識を持ち、議論したようです。
 慶良間は、15くらいの島々からなる海域ですが、その半数近くが無人島です。多数の「強制集団死」が起こったのは、座間味、慶留間、渡嘉敷の3島です。日本軍は、慶良間諸島は米軍にとって戦略的な価値はないと考えていた。なぜなら島々なので飛行場を造れない。戦争で重要なことは、まず飛行場を抑えること。飛行場を抑える間諸島を素通りしていくものと考えられていた。そこで日本軍は米軍に奇襲攻撃を仕掛けるために慶良間諸島に秘密兵器の海上挺身隊を配備した。300隻の挺身艇と300人の隊員です。これは陸軍の秘密の作戦でした。ベニア板で作った挺身艇に爆雷を乗せ米軍の艦船に突っ込んでいくのです。今で言うと「自爆テロ」と同じです。とても耐えがたいことです。しかし、米軍は慶良間海峡を投錨地として利用するために慶良間を3月末に占領したのです。すると日本軍の海上挺身艇は、1隻も出撃することなく、海水に沈められました。極秘事項なので秘密漏洩は重大な問題になるのです。
 米軍は1945年3月26日に座間味、慶留間に上陸し、その日に慰霊碑の前で強制集団死が起こりました。渡嘉敷には、27日に上陸し28日に強制集団死が起こりました。座間味では命令があったとか無かったとか、渡嘉敷は村長が命令した。確かに、そうです。まず海上挺身隊は渡嘉敷の北端に向かいました。島は米軍によって焼かれ、襲撃され、艦砲砲撃でしらみつぶしに攻撃されて行きました。しかし、日本軍は北山(にしやま)に陣地を作り、赤松隊長の避難壕は非常に深くて、爆弾を落としても潰れないという噂を聞きました。住民は兵事主任や警察官等、公的任務に就いている人たちを通して最初から強制的に移動させられました。およそ700名の住民は「北山(にしやま)陣地に移動しろ」という命令があった。その時、私と兄は父親のことを思った。父親は目が不自由で、昼間は自分で歩けるけど、夜間は歩けない。だから自分たちの土地に避難しようかなと思った。しかし不安もあった。もし自分たちだけ生き残ったらどうしようか。鬼畜米英に捕虜になったらどうしよう。男は股裂きにされ、女は辱めを受け殺される。結局、軍の命令に従い北山(にしやま)陣地近くの谷の横に到着しました。下には小川があった。そこにはおよそ700名の住民が結集させられました。そして住民は村長の軍命を待つという状態にあったのです。日本軍の赤松隊長の防衛隊が派遣されて、砲弾が飛び交う中、自決命令という極秘事項を一般住民にわからないように、こっそり村長の元に駆け寄って耳打ちで「村長軍命が出ました」という言葉に2,3回問い返して確かめている。「軍命が出ました」と、伝えていることをはっきり目撃し、聞いたのは、役場の職員の吉川勇助氏です。村長が軍命を聞くと、「天皇陛下万歳」を三唱したのです。我々も近くにいました。これを聞いて「ああ、これで死ぬんだな。」と。戦後、天皇陛下を象徴天皇とみている、若い人には少しわかりにくいと思いますが、戦時中の天皇陛下万歳というのは、天皇を称える万歳であるとともに、日本軍人が戦場に行って、もうこれで死ぬんだなという時に天皇陛下万歳を唱えて死んだ。そして「私共も天皇陛下万歳を三唱した。死ぬ覚悟は出来ている。」
 強制集団死の心理状態、精神状態は、「軍官民共生共死」、軍も役人も住民も共に生き、共に死ぬ」ことが重要なポイントでした。
 天皇陛下万歳三唱後、現場では手榴弾が配られました。実はその1週間前に赤松隊長は、兵器係の下士官を使い、役場の男子職員と村民20名を集め、手榴弾を一人2個づつ配り、「敵兵に遭遇したら、この1発を投げ込め、あと1発で自決しろ」と命令した。地上戦で一番重要な武器は手榴弾でした。武器というのは天皇から授かったもの、兵士にとって自分の命より大事なもの。軍官民共生共死だから、共に生き共に死ぬはずでした。しかし生きることは、第2義的、死ぬことが目的だった。武器を配るということは、軍人でも違法行為です。手榴弾を配ったということは、死ぬこと、自決命令をしたということです。強制集団死の現場は手榴弾の爆音、悲鳴、異様な泣き叫ぶ声、号泣の声が響きあう、異常な状況でした。しかし、ほとんどの手榴弾は爆発せずに不発に終わったのです。ここで更なる悲劇が起こったのです。第2の集団死です。私は死ななければならない覚悟は出来ていましたが、どのように死ぬのか、死の経験なんかないし、わからないのです。そこで小高い所に上がって、大人たちはどうするのだろうかと、大人の様子を見ていました。そこに区長さんだった人が現れた。区長さんだ。この人はどうするのだろうかと、目を皿のようにして見ていました。彼の手に木片が握られるや否や、それが凶器に変わり、自分の妻子を撲殺し始めたのです。こうやって殺すんだな。私と兄の二人で家族に手をかけました。一言も交わさずに、死ぬということは決まっていますから、自分たちを生んでくれた母親に、最初に手をかけました。私どもは号泣しました。母も泣いていました。混乱していましたから、詳しいことは覚えていません。紐も使いました。最終的には、石で頭部を叩きました。母は泣いていました。何分か後には声も途絶えました。そして妹や弟にも手をかけました。他の人からも殺してくれと頼まれ、手をかけました。みんな死ぬという、殺意のない行為でした。そして近くでみんなが心で行く。そういう状況の中で自分たちも死のうと言って、私と兄と二人で誰が先に死ぬか、死の順番を話し合っていると、一人の少年が駆け寄ってきて「ここでこんな死に方をするよりも、米軍に切り込んで死のう」と誘った。私は考えました。生き残ることはできない。だから一人でも敵兵を殺し、傷つけてから死のうと躊躇しながらもそう考えました。私たち3人が移動し始めると、2名の少女らも付いて行くと言い出し、だめだと払いのけました。しかし「どうしても行く」というので結局5人の少年少女は、米軍がいる場所も知らずに足の向くまま歩き続けました。持っているのは、棒切れだけでした。どれくらい歩いただろうか。しかし、最初に出会ったのは、日本兵で大きな衝撃を受けました。日本兵は生きていたのだ。友軍に対する信頼がことごとく崩れ去った。逆に不信感と裏切られた思いが腹の底から込み上げてきました。その日本兵に「住民はむこうに避難しているよ。」と言われた時、第2の衝撃を受けました。生き残っているという安堵感は全くなく、他の人々は死んでしまったし、戦争は長引くに違いない、死ぬチャンスは訪れるであろう。死を求め望むことは不条理ですが、生きる恐怖におびえながら、ふたたび死ぬチャンスを求めて避難を続けた。そしてついに生き残ったのです。
 忘れられないのが1945年8月15日の終戦。日本は無条件降伏し、本当に負けたんだとわかった時、負けてよかった。我々は捕虜になっていたので、もし日本軍が戦争に勝っていたら死刑になっていただろうというのが、私の偽らざる心理状態でした。
モーセの10戒による「殺すなかれ」は、殺意を持って殺すことはいけないということです。戦争で殺すこと、裁判で死刑にされること及び自殺は、モーセの「殺すなかれ」には入っていない。モーセのころには、そこまで考えが及ばなかった。いわゆる殺人のことです。しかしイエスは、新約聖書においては、もっと深められ武器を持つ者は武器によって滅びると言われている。心に憎しみを抱くことが殺意を持っている。そういう意味で、主イエスは「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」(マタイ16:26)と言われる。新約の光に照らし合わせて殺すなかれと、旧約の戒めをもっと深めて捉えているのであります。現在でも私は加害者意識もあるし、被害者意識もあり、長年苦しんできました。しかしキリストの十字架の苦しみと、自分の苦悩が重なることを深く体験するようになる。そして信仰による内的解放が与えられた。モルトマンという著名な神学者を沖縄にお招きした時、彼の「神は苦しむ」という神学に非常に感銘を受けました。神が苦しむということはキリスト教2000年の教義史の中では異端でした。苦しんでいるのは人間となったキリストだけだと解釈されてきました。しかし、モルトマンは、神はキリストを十字架につけることによって苦しみ、キリストは十字架にかかることによって苦しまれたと。神が苦しむことを神学の中に、はっきりと打ち出したのはモルトマンです。沖縄に来られ神が苦しむことを語られ、非常に感銘を受けて、私は強制集団死の苦しみを、忘れたいと思っていたが、それをどう受け止めるかという前向きの信仰が生まれました。森有正という方が、「体験と経験を区別して、体験は忘れ去られるけれども、経験には現在およびさらに将来に向けてどう生かすかという課題がある」と語っております。そういう意味で、私は強制集団死の問題を、個人の問題、過去の事柄として受け止めがちでした。しかし、今は自分がどう生きるかという課題として考えるようになりました。研修生、高校生、国際学会等でも話をしました。ヴァイゼッカー西ドイツ元大統領は、「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目になります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。」と語っております。日本の国家は、天皇の軍隊が追い込んだということを忘れたい。だんだん過去の歴史を忘れる。過去の戦争の惨劇に対して、国家は責任を取ろうとしない。本当に戦争に対する反省、告白をしてない。私はそういうところに問題を感じているのです。主イエスは、マタイ福音書5:9「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは、神の子と呼ばれる。」と平和創造への祝福と課題を語られました。
 強制集団死から生かされた私にとって、平和を実現することは、残る生涯の最大の課題です。
私の強制集団死体験の思いを皆様と信仰において共有できれば大変幸いです。

一茶双樹記念館を訪ねました

2022年06月22日 | よしなしごと
千葉都民を卒業、千葉県民として余生を過ごそうと、流山の一茶双樹記念館に行ってきました。流鉄流山駅よりすこし歩きます。文は案内板を読み取ったものです。

春風がならして行ぞ田にし殻
刀禰川は寝ても見ゆるぞ夏木立
夕月や流残りのきりぎりす
(句碑は一茶のふるさとである長野県信濃町の黒姫山の石)
炭くだく手の寂しさよかぼそさよ



江戸時代の俳人小林一茶(一七六三年~一八二七年)は、人生の多くを旅に過ごした。中でも流山を含む下総地方は、最もよく訪れており、その地の俳友達に俳句を指導したり、情報を交換したりして、生活の糧を得ていた。
流山で一茶と親交が篤かったのは、醸造業を営み、味醂の開発者のひとりと言われる、五代目秋元三左衛門である。三左衛門(一七五七年~一八一二年)は、双樹(そうじゅ)と号し、家業の一方俳句をたしなみ、経済的にも一茶を援助していた。一茶は、享和三年(一八〇三)から文化十四年(一八一七)の十五年間に、五十回以上も流山に来たことが、句帖や日記からわかっている。 一茶と双樹の関係は、俳人と商家の大旦那というだけでなく、真の友人であったことがしのばれる。
流山市教育委員会では、この地を一茶と双樹が親交を深めた、流山市にとって由緒ある土地として、平成二年十二月四日付で、流山市指定記念物(史跡) 第一号に指定し、一茶双樹記念館として整備した。安政期の建物を解体修理した双樹亭、枯山水の庭園、流山で味醂の生産が最も盛んであった時代を再現し、展示を行う秋元本家、茶会、句会などに利用できる一茶庵がある。
流山市教育委員会

CONSULTANTという便利なことば

2022年05月23日 | よしなしごと
定職はない、でも名刺はほしい。その場合に便利なことばがこれ、CONSULTANT、コンサルタント、無理に訳せば助言者とか相談役とか。そりゃあ、だれでも相談役を名乗るのは自由ですし、嘘とも言えない、経歴詐称には当たりません。

エクセルinワード(忘備録)

2022年04月20日 | よしなしごと
これ、常識かもしれませんが、私は知りませんでした。知らない人のためも兼ねて忘備録として投稿。

今まではワードとエクセルで作られたデータを一つのドキュメントにまとめるためには、一度PDFに書き出し、Acrobatとか、いきなり〇〇とかで統合していました。統合したものにページ番号を振るには、どうしてもなんらかの形でAcrobatをサブスクリプションするとかしか方法がありません。いきなり〇〇でも出来るらしいが、こちらは失敗。ちゃんと調べてみたら単なるコピペではなく、形式を選択して貼り付ける、具体的には[ホーム]→[貼り付け]→[形式を選択して貼り付け]→[Microsoft Excelワークシートオブジェクト]がすごく便利なことがわかりました。

こうするとまず、貼り付けるワークシートのサイズはワードの設定に合うよう自動調整されますし、ワード上でエクセルの諸機能のほとんどが使えます。



図の上は張り付けたままの状態。ワークシート部分をダブルクリックすると、下のようにウィンドウが表示され、メニューも自動的に変更され(メニューバーの色も変わっていることに注意)、数式の変更やフォントを含め、Excelのほとんどの機能が使用できます。さらに角のハンドルで大きさの調整、上下左右のハンドルでトリミングまでできます。注意したいのはもとのエクセルシートとリンクしているわけではないので、オリジナルは変更されません。

表が混在する文章の作成が大変楽になりました。いままで知らなかったのが大変もったいない感がします。まさにエクセルinワードです。

ゴッホの楽しみ方。

2022年03月23日 | よしなしごと
ゴッホを鑑賞する場合なるべく近くに寄って彼の大胆というか、荒っぽいというか、稚拙というかその筆遣いを鑑賞するのが好きです。

これは渓斎英泉による花魁図≪雲龍打掛の花魁≫を模写したゴッホの作品。数年前実物を目にする機会がありました。この絵もクリックし、ズームしてご覧になれば結構大きめの筆遣いで埋められていますが、はなれてみればあら不思議、見事まとまって見えます。糸杉とか、ひまわりとかもそう。

様々な色に染めたジグソーパズルのピースを埋めて作ったよう。この不思議な構成力がゴッホを天才ならしめているもの、と個人的には思っています。

« 前ページ