ゲティスバーグ演説とキリスト教

トラクト(小冊子)シリーズ。記事を短めにまとめ、一息で読めるよう、小冊子形式にしました。画像をクリックして実物大を表示、保存して両面印刷すればA4三つ折りになります。




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桁違いの規模。巨大な屋根を支える5層の梁、旧吉田家住宅

旧吉田家住宅歴史公園へまでは自転車で30分。

敷地面積6,518坪(21,511㎡)という広大な土地に、建築面積330坪(1,178㎡)の邸宅が建ちます。平成16年までおばあちゃんが住んでいたそうですが、おばあちゃんの没後市に寄贈。維持費が大変なことは目に見えていましたが、流山市の二の舞は踏みたくない(旧花野井家住宅参照)とありがたく寄贈を受けたそうです。その後数年がかりの大規模な補修を経て、平成22年に母屋や長屋門など多くの建築物が国の重要文化財に指定されました。平成27年に一般財団法人柏市みどりの基金(市の外郭団体)が指定管理者になってからおおいに宣伝し始めたみたいです、駅のポスターで初めて知りました。

吉田家は室町時代からの旧家、豪農、江戸幕府のもとでは名主を務め、また牧士(まきし)といって幕府の牧場の牛馬の管理をする職にも従事していたそうです。建物は幕末から明治にかけての建築で、旧花野井家住宅と比べかなり新しいですね。明治27年の銅版画にも当時の隆盛がしのばれます。


とても全景は撮りきれません。


パンフレットより。クリックで拡大します。


母屋は20メートルを超す巨大さ、左側に通常の土間(入口)がありますが、真中に帳場座敷(醤油造りも営んでいました)、牧士(まきし)は士分扱いのため、右手には武家風の玄関、式台が見えます。衝立の間の衝立も見えていますよね。

巨大な茅葺屋根の内部構造。これだけの建物を支えるのでなんと梁が五層になっています。こういう構造は初めて見ました。曲がった巨木をそのまま使っているのは旧花野井家住宅と同じです。

よく見ると一番下、その上の梁が不自然に丸い。これは防火のため、竹で巻いて、しかもその上に漆喰を塗っているからだそうです。一部分剥げているのもわかりますし、おそらく日本でここだけ。ということは世界でもここだけ、ギネスブック級。(下の写真はクリックで拡大します)

バスケットボールのコートがすっぽり収まりそうなだだっ広い土間。

屋根のてっぺんの排煙口。

客間。向こうにのぞくのが衝立の間。障子の奥に書院への通路が見えます。

衝立の間。

客間の隣が居間。土間からはここに上がります。居間の向こうに納戸が見えます。

納戸の入り口。厚い引き戸があり、鍵がかかるようになっています。商売もしていたので重要書類などを保管していたみたいです。

納戸の内部。

書院への通路。

書院の一部屋。組み木細工の凝った欄間が見えます。

客間と衝立の間の間の帳場座敷の内部。結構凝ったつくりです。
玄関の石畳。コンクリートかと思ったら、石を削って作ったもの。幅1メートルを超します。


長さ25メートルを超す長屋門。米蔵などに使われていました。


長屋門の梁もやはり5重構造。
倉庫のため、大黒柱がありません。壁に斜めの板を張ることにより巨大な屋根の重量を分散しています。


吉田邸には書院と間に庭をはさんで並行するように新座敷の部屋群があります。最近まで使われていたのはこの新座敷群、書院と比べやや質素なたたずまいです。どこが質素だと言いたくもなりますが。



旧花野井家住宅も結構立派ですし、房総のむらにも名主クラスの農家が2軒あります(江戸時代後期の農家参照)。しかし吉田家住宅の規模は桁違いとしか言いようがありません。

(この記事は2016年7月に投降したものを、一部を除き写真を高画質のものに置き換え、加筆したものです。)
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ザ・ビートルズのレット・イット・ビー

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江戸後期の武家屋敷

「徹底図解:江戸後期の庶民の暮らし」はこちら

子規庵の記事で下級武士の長屋をご紹介しました。

今回は、房総のむらにある武家屋敷の徹底図解です。江戸時代後期、慶応の時代の佐倉藩の武士であり、90石取りの田島伝左衛門の屋敷を再現したものです。母屋は建坪24坪、4部屋ののこじんまりとしたもの、母屋以外に2,3部屋ある離れ、使用人のたまり場の付属棟があります。

多分数人使用人がいたと思われますが、彼らの部屋はなく、通いで、たまり場のみがあります。離れはたぶん隠居部屋だったのでしょう。

敷地はおおよそ220坪、母屋、離れ、付属棟のほかに井戸小屋、稲荷を祭る鞘堂、菜園があります。敷地は道から一段高くなっています。


玄関です。

近づくとこんな感じです。衝立の間があり、奥が来客用の座敷です。

屋敷は玄関が東に向くように建てられています。居間の縁側が南、トイレや押し入れといったものが西に向くよう正確に配置されています。この平面図はクリックすると少しだけ拡大します。

ちょっと時計回りに屋敷を回ってみましょう。東南東の方角からの写真です。右奥が玄関、手前が土間への入り口です。

土間を覗いてみると大きなたらいが見えます。手前が水瓶。外にある井戸から水をくみ上げ、水瓶に貯めて使いました。この武家屋敷には風呂はありません。

中に入って見ましょう。台所です。畳と同じ高さですので、座って調理したみたいです。左が配膳とか、食事に用いたと思われる3畳の小部屋、奥に衝立の間がのぞいています。

少し時計回りに回ってみました。正面が小部屋、奥が衝立の間、左が居間となります。

居間です。文机と見台、箪笥、仏壇、神棚、刀箪笥が見えます。

南側遠景、居間は日当たりがいいです。

ぐるりと回り、北東の方向からです。奥が便所、座敷の縁側と、手水鉢が見えます。

座敷です。接客用の空間です。

小部屋からのぞきました。向こうに見えるのが玄関の衝立、右が台所です。

ずっと中に入って玄関の衝立です。



母屋には4~5人住んでいたと思われます。確かに30石程度の下級武士の長屋と比べると縁側も北と南両方に広くとってあり、ゆとりのある作りですが、体面というか、武士の格式のため、玄関、衝立の間、座敷と、建物の半分を来客空間が占めており、居住空間はわずか二部屋、うなぎの寝床常態か、実際は座敷も普段は使っていたんでしょう。

以上、武家屋敷図解でした。

(本記事は2014年4月に投降した記事を、一部を除き、最近撮影した高画質の写真と入れ替えるなど、改定したものです。)
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私には夢がある

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クリスマスツリーの誕生

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お知らせ

つい数日前ですが、聞くに耐えない、と申しますか、関西弁ネィティブの管理人なら絶対使わない、話し言葉をそのまま書いたような、下品な、サンマのような書き言葉、しかも何を言ってるのかよくわからないコメントがありました。

反論するにもしようがなくて、削除しました。ご報告まで。

コメントくれた方、どこがどう悪いのか、どう事実と違うのか、自分はこう考えるなど、誹謗じゃなく、ちゃんとしたコメント投稿をお願いします。

あと、よくわからないタイトルだけのコメント多数。これも削除させていただきました。

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竪穴式住居が何故ノスタルジア(江戸〜昭和の足跡探訪)カテゴリなのか?

「房総のむら」にあった再現された竪穴式住居。燻蒸作業中でしたが、中に入ることが出来ました。

茅葺きで、天井には通風孔があり、カマドもあれば床下収納庫(カマドの右、板の下)もあり、カマドの上には跳ね上げ式の窓(煙や炎を逃がすため)、結構しっかりとした造りです。地域によっては鎌倉時代くらいまで使われていたそうです。再現されたこの住居は縄を用いていますが、もともとは蔦(ツタ)でくみ上げていたそうです。約12畳くらいの広さです。

屋根裏をよく見てみると……


確かに作り方は雑ですが、基本350年前に建てられた国の重要文化財、「旧花野井家住宅」(野田市清水公園)と同じですね。


日本式住宅の典型である寄棟屋根(よせむねやね。4方向に勾配を持つ屋根)は縄文時代にすでにその原型ができていた、ということではないでしょうか。これをそのままぐっと持ち上げ、土壁や板壁でくるんだら後世の農家になります。竪穴式住居が1000年を超す越え、江戸時代と繋がっているという気がしました。
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於し津さんと政助

於し津さんは三味線や手習いの師匠、大店の後家らしい。多分子供がいないまま旦那が早死に。この場合後家さんは当然(当時)家を出ます。実家に帰る人もいれば、なんらかの援助、あるいは手切れ金を貰って彼女のように独立する人も。

九尺二軒半の長屋で、間口2.7メートル、奥行き4.5メートル。一畳半の土間と六畳の部屋と、政助さんの九尺二軒より畳一畳半分広いし、家具も揃っています。十五夜のお供えも。行燈の向こうにある衝立は「枕屏風」というもので、夜具を隠すもの。長屋には押入れというものがないための工夫です。


一方政助は独り身の、いわゆる「棒手振り」。九尺二軒の長屋、つまり間口2.7メートル、奥行き3.6メートル。一畳半の土間と四畳半で畳もひかず、夜具も積んだだけ。江戸時代、畳は自己負担、買うかレンタルするか。若くて貧乏な彼はその金も無く、一汁一菜の暮らし。布団だってもしかしたら損料屋(レンタルショップ)から借りているものかも。


でもまだましな方で、ひどいのは棟割り長屋といって、棟のところに壁を作り、左右に仕切ったもの、開口部は玄関兼土間のみ。風通しも悪く、薄暗く、生活環境は劣悪。棟割り長屋の見本は江戸東京博物館にあります。

深川江戸資料館にて。
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どーでも英和語彙追加 Hikki

Hikki [ヒッキー] 1)宇多田ヒカルの愛称。2)引きこもりのこと。正しくはsocial withdrawal。ある通信制サポート校の先生が、「登校拒否(school refusal)は救いようがある、まだ社会との接点はある。でもヒッキーは救いようがない」と嘆かれていたのが今でも忘れません。さて、skeleton in the closet (cupboard)という諺があります(イディオムのロマンス参照)。誰にも知られたくない秘密という意味ですが、心の闇という意味でもあります。最近の一連の無差別殺人事件の報道に触れるたび、犯人はどのような心の闇を隠してきたのだろうと考えてしまいます。
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利根運河(文字通り)古今東西

(注:かなりの部分が利根運河分岐点の旅(増補版)と重複します。増補改訂版です。)

江戸時代というのは大規模な土木工事の時代で、従来東京湾に注いでいた旧利根川をぐいと東に折り曲げて、太平洋にそそぐ利根川と、東京湾にそそぐ江戸川(旧江戸川放水路)に分けちゃったりして。おかげで銚子面からの物産は従来の房総半島をぐるりと回って太平洋経由、に比べ、利根川を遡行、関宿で折り返し、江戸川経由と、安全に、距離も短縮されました。

明治に入り、それでも遠いと、ショートカットとして作られたのが利根運河。全盛期には高瀬舟や外輪船など年間4万隻の舟が利用したようです。その後鉄道の発達により水路としての役目はたった20年で終わり、利根川から江戸川への導水路(首都圏の水不足を補うため)へと役目は変わりますが、それも北千葉導水路の完成により現在はほとんど使われていません。大雨の時に利根川の水を一部江戸川に流す程度ですね。

現在の利根運河。ちょうど中間点の東武野田線運河駅すぐの運河水辺公園あたり。向こうに見えるのは東武野田線の鉄橋。


こちらはちょうど百年目のほぼ同じアングルからの写真。向こうに見えるのは千葉県営鉄道の陸橋、現在の東武野田線と全く同じ位置。


映っている舟はたぶん通運丸。模型が関宿城博物館にありました


高瀬舟も通っていたそうです。梶を操っている人の縮尺(3分の1くらい?)からして、結構大きな帆船です(同関宿城博物館)。


では、最初の写真をもう一度ご覧下さい。写真の真中のとんがり帽子の塔は水位計。目盛りが4メートルまであります。2007年の台風9号がもたらした増水の時はほぼ水没。実際目撃し、ほとんど土手の上まで水が来ていたのを覚えています。写真は流山市ホームページより。


こちらは数年前に自分で撮った写真。2007年ほどではありませんが、かなり水位が上がっています。



ここまでが古今版、これからが東西版。


さて、利根運河の左端、利根川側にたどり着くのは容易ではありません。後で出てくる水門からは車立ち入り禁止の未舗装工事、管理用道路。歩いて入ってはいけませんとはないので、車止めゲートをくぐり、炎天下約10分。工事用道路の橋の上から覗きおろした利根川と利根運河の分岐点ですが、暗渠になっているのか水流は見当たりません。




ところが橋の反対側はこんな感じ、なんとなく流れているのですね。手前が橋、向こうが中間地点の運河水辺公園方面。


途中、このような堰で水量を調節しているみたいです。江戸川の水位は利根川より2メートル低いですので。


水門まで戻りました。


運河水辺公園に近づくと、運河は一度大きく曲がります。「眺望の丘}よりの一枚。手前が運河水辺公園方面。


東武野田線の陸橋を通り過ぎたあたり。運河水辺公園の中。このあたりは川幅が広いです。手前が江戸川方面。


水辺公園を通り越し、かなり江戸川に近くなってきたあたりですが、川幅を狭め、両岸を高くし、増水対策が施されています。手前が江戸川方面。



利根川からおおよそ8キロ、今度は江戸川側の端っこ。


こちらは水位差がないので、すぐそばまで近づけます。


釣り人まで。増水の時は川岸のゴルフ場や野球場が完全に水没するほど荒れ狂う江戸川の、のどかな一面です。
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公開講座「カタカナで発音しよう、通じる発音」

…説明を改訂しました。

「英語は通じればいい」「なにも欧米人並みに発音する必要はない」「うまく発音しようとして緊張してしまったら、言いたいことも言えない」。カタカナで学ぶ英語発音のコツ。

1.Redはレッドではなく、ゥレッド。Campはキャンプではなくキャムプ、singleははシングルではなくスィングル。Victioryはヴィクトゥリイと発音すればかなり元の音に近いし、無理なく発音できます。
2.日本語は子音+母音+子音+母音。英語は子音+母音+子音、基本子音で終わります。
3.講座では子音の発音を中心にカタカナで発音するコツを学びます。 

・講師:ブログ「英語生活ノおト+α」主筆 上田哲二
・8月24日(金)午後6時半~8時 

・会場:銀座教会 東京福音会センター
 〒104-0001東京都中央区銀座4-2-1
 日本基督教団 銀座教会 1階
 ☏ 03-3561-2910
 地下鉄 銀座駅(丸の内線、銀座線)C8出口すぐ横。
 地下鉄有楽町線 銀座1丁目駅4番出口直進3分。
 JR有楽町駅中央出口徒歩5分。外堀通りと松屋通りの角。

・無料
・テキストの準備があります、要メール予約(20日まで)
ginza-eigogakkou@kme.biglobe.ne.jp
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利根運河分岐点の旅(増補版)

ファイスブックの記事の増補版です。どうしてもフェイスブックでは写真の時系列説明が難しいので。

利根運河は明治中期、銚子から東京への通常ルート、利根川を遡行、関宿で折り返し、江戸川へ、のショートカットとして作られ、全盛期には年間4万隻の船が、外輪の蒸気船を含め、利用したみたいです。

ちょうど100年真野利根運河。写真はウィキペディアより。映っている千葉県営鉄道は現在そのまま東武野田線に。


ほぼ同じアングル、現在の様子。

その後鉄道の発達により水路としての役目から利根川から江戸川への導水路(首都圏の水不足を補うため)へと役目は変わりますが、それも北千葉導水路の完成により、今は運河水辺公園(アーバンパークライン運河駅すぐ)あたりは歩いて渡れるほどの水量ですが、川幅は結構広く、当時の隆盛を忍ばせますし、大雨の時はあわや両岸の歩道が水没するかと思われるほど増水します。

話しは横道にそれますが、手賀沼湖畔にある北千葉導水路第2機場と巨大な揚水ポンプ。ビジターセンターが併設されており、実は手賀沼花火大会の絶景ポイントの一つ。向こうに見えるのは手賀沼で、地下水路から一度組み上げられた水の一部は手賀沼に注ぎ、浄化に役立て、残り(大半)は再び地下水路に戻り、最終的に江戸川に注ぎ込まれます。




話しは元に戻ります。かなり前の写真ですが、増水した利根運河。少し水が引いた後でこのありさまです。


最近撮った平常時の写真がこれ。


さて、利根運河の利根川川の端にたどり着くのは容易ではありません。後で出てくる水門からは車立ち入り禁止の未舗装工事、管理用道路。歩いて入ってはいけませんとはないので、車止めゲートをくぐり、炎天下約10分。工事用道路の橋の上から覗きおろした利根川と利根運河の分岐点ですが、暗渠になっているのか水流は見当たりません。




ところが橋の反対側はこんな感じ、なんとなく流れているのですね。手前が橋、向こうが江戸川方面。


途中、このような堰で水量を調節しているみたいです。江戸川の水位は利根川より2メートル低いですので。


水門まで戻りました、


水辺公園を通り越し、かなり江戸川に近くなってきたあたりですが、川幅を狭め、両岸を高くし、増水対策が施されています。


おおよそ8キロ、今度は江戸川側の端っこ。


こちらは水位差がないので、すぐそばまで近づけます。


釣り人まで。増水の時は川岸のゴルフ場や野球場が完全に水没するほど荒れ狂う江戸川の、のどかな一面です。

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「カタカナ発音で「英語」は驚くほど通じる!」書評




当ブログで力説している、「出来るだけ元の発音に近い表記法」(遠藤実氏、「英語は独学に限る」より)とは真逆のアプローチ、聞こえるとおりに発音しよう、ですね。

笑い話に"West Kensibgton"を一生懸命発音しても通じない、「ウエスギケンシン」と言ったら通じたというのがありますが、その流れですね。あるいは"This is an apple"を「ジスイズアナプル」の類。

"Shall I draw you a map?"は「シャライ ジュロウ ユーアマップ?」……

このアプローチがいいの、悪いの批評する気はありませんが、このやり方を重ねていくと、どんどん元の発音から乖離していく危険性はあると思います。コピーにコピーを重ねるようなものです。


発音どころか、意味まで乖離(というか勘違い)した例。

ブリキ = 煉瓦(block)を包んでいた鉄板を勘違いしたまま定着したもの。

明治の旅館に「亀屋」が多い理由 = 外国人が犬を"come here"と呼んだいたのを固有名詞と勘違いした。

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表音文字(phonogram)と表意文字(ideogram)

英語生活ノおト 第3巻> 英語の発音> 表音文字(phonogram)と表意文字(ideogram)


表音文字(phonogram)と表意文字(ideogram)という言葉があります。文字通り表音文字は一つ一つの文字が特定の音をあらわす、表意文字は特定の意味をあらわす、ということ、日本語は表意文字の代表、英語は表音文字の代表、ですね、一応。ひらがなカタカナは漢字の一部を使って作られた表音文字です。

で、実際のはなし。表音文字である英語は発音と表記の乖離が著しいし、また、これは表音文字一般に言えることですが、実際一文字一文字ずつ発音しているわけではない、単語ひとまとまりとして視覚的、ある意味では「表意的」に認識しています。つまりbibliographyをビブリオグゥラフイと音として認識しているわけではなく、視覚的に認識しています。

最初に渡米したころ、すごく困ったことがあります。駅の案内表示板がなかなか読めない。outbound(下り)、inbound(上り)という言葉は知っていましたが、それが大きな文字でOUTBOUND、INBOUNDと描かれているとなかなか同じものとして「視覚的」に認識できない。一生懸命発音を辿ろうとしている自分がいました。

今は脳がinboundとINBOUNDは同じだよ、と教えてくれますが、最初はそうでなかった。まさかの驚きの体験でした。

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