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コンピュータの発展期を駆け抜けてみて(40年の歩み)

2020年04月10日 | よしなしごと
(2016年の記事にスーパーコンピュータのシステムボードの写真を加えました。また内容も一部修正しました。)

早いものでコンピュータというものと付き合い始めてから、もう40年近く経ちました。最近後輩と話したところでは、私より古い世代は最近のコンピュータはほとんどわからない、また私より若い世代はDOS注1さえ知らない、私は両方をまたがっている珍しい生き物だそうです。

というわけで、自分なりに1980年以降のコンピュータの歩みをまとめてみました。もともとコンピュタ25年の歩み(1番外編名機)で発表したものを加筆修正、一つの記事にまとめ上げました。

お断りしておきますが、このシリーズに登場するイメージ、ウェブ上より著作権に余り問題なさそうなものを探して掲載しておりますが、どれも私が使ったことがある、もしくは少なくとも触れたことがあるコンピュータ(モデルの違いはご容赦ください)のみです。

オフコン注2との出会い


写っているのはシステム3本体と活字ベルトライン・プリンター、
コンソールのIBMセレクトリック・タイプライター

最初のコンピュータとの出会いは今から35年ほど前、1980年代初頭、若造の時です。コンピュータ導入準備の一環として川崎にある日本鋼管のコンピュータ室をなんどか訪問しましたが、そのときの印象は強烈です。多分当時としては最新とは言いがたいが、普及しているIBMシステム3というオフコンだったと思いますが、幅1メートル、奥行き1・5メートル、高さ1.5メートルほどの本体に入力装置として穿孔カード読取装置があり、いまなら当たり前のように使っているディスプレイなど、どこにも見当たりません。

当時のオフコンの制御は何と、IBMのセレクトリック・タイプライター(ゴルフボール上の活字エレメントを用いるもの。活字の交換が出来る、ということで一世を風靡。後デイジー・ホイールに取って代わられる)を用いていました。どういうことかというと、タイプライターでコマンドを打ち込むと、当然ながらタイプ用紙に印字される。そこでキャリッジ・リターンキー(つまり改行キー)を押すと、印字された内容がコンピュータのCPU(中央演算処理装置)に送られる、コンピュータからの応答は自動的にタイプライターで印字されるというもの。つまりディスプレイの代わりにタイプ用紙ですね。

では、プログラムはどういう風にコンピュータに入力するかというと、いまではほとんど見られない穿孔カード(1枚で多分1ステートメント)を束ねてざっと読取装置で読み取る、読み取った内容がメモリーに蓄積され、コンピュータはそれを処理する、と言った具合。この時代を経験しているコンピュータ技術者が言うに、穿孔カードのよいところは並べ替えるだけで簡単に別のプログラムが出来る、というところだそうです。ちなみに私は穿孔カード、残念ながら使ったことはありません。

活字トレイン

続いて、ライン・プリンターはどういうものかというと、これも馬鹿でかい。多分幅、奥行は1メートル、高さも1.5メートルは優に超すしろもので、カバーなんか油圧で開きます!当時の高速プリンターは活字トレインというものを用いており、要するに両脇のスプールの周りを1週する、活字と活字を蝶番でつなげたもの(これをトレインと呼ぶ)が高速で回転、印字位置に着いたらハンマーでぶったたいて印字する、という豪快なもの。轟音を立てます。それでも多分今のインクジェットプリンターくらいの早さでしょうか。印字出来るのは英語の大文字小文字、数字、そしてカタカナの大文字。この時代から連綿と続いている銀行のシステムは、いまだにカタカナの小文字を受け付けませんものね。当時はオフコンはまだ、英数字とカタカナの時代でした。


オフコンの導入


さて私が最初に使ったオフコンはシステム3の後継機種システム34。1980年代半ばのことでした。ハードディスクはLPレコードみたいのが1枚内蔵されており、多分30メガバイト(30ギガバイトの間違いではありません!)だったと思います。プリンターは活字トレインの代わりに活字ベルト(スチールベルトに刻字したもの)を使う、小型のライン・プリンターで、やはり数年間、次の機種に入れ替わるまでは英数字、カナでのシステム構築でした。本体正面に見えるスロットは8インチ(!)フロッピーのスロットです。フロッピーは8インチ、5インチの時代はスリーブ(封筒)に入った剥き出し、3.5インチになってプラスチックケースに入りました。



NECの牙城の崩壊とシステムの漢字化


一方当時パソコンの世界を席巻していたのはNECのPC98××注3シリーズ。この機種に初めてハードディスクが内蔵されたときは、すげえーと驚いたものでした。たかが10メガバイトですが。またワードプロセッサーも高価、東芝の2代目ワードプロセッサーはTOSWORD JW-7というシリーズでしたが、購入したフロッピーモデルでも1台200万円ほどしたと思います

NEC、PC98××の牙城は1984年にIBMがパーソナルコンピュータPC/ATを発表するに当たって、崩落を始めます。当時の大型から中型コンピュータ業界におけるIBMの圧倒的シェアを背景に、またIBMがPC/ATの基本アーキテクチャを無償公開したことから、世界中のコンピュータメーカーが互換機製造に右にならえ、現在でもほとんどのコンピュータ(アップル社を除く)はIBM PC/ATのエミュレートモードで作動しています。つまり今のパソコンの基本スペックは30年前に完成されていたことになります。





ハードディスク400メガバイトに感激したものでした

PC/AT登場と時を同じくし、勤務先ではシステム34から後継の36に切り替え、コンピュータシステムの漢字化に取り掛かっていましたが、







当時の漢字キーボードはキーが300程ついた大きなキーボード、キー一つ当たりに漢字が9つ割り振られており、テンキーの1から9に対応、テンキーを押したまま、一つのキーを押すと、対応した漢字が入力される、という大変な代物。導入されたのが遅く、導入後いくらも経たないうちに後述のIBMマルチステーション5550が発表になったので、極めて短命でした。



時を前後してIBMはIBMマルチステーション5550を発表、これはオフコンのワークステーション・モードとスタンド・アローンのパソコンモードがキー一つで切り替わる優れもの。漢字対応。多分ATOKだったと思います。そこで早速マルチステーションに飛びつきました。ただ当時漢字はROMに内臓でフォントなど、選択肢は限られておりました。この状態は1990年のDOS/V発表まで続くことになります。DOS/Vの発表とウィンドウズ3.1の登場ででPC98××の牙城は完全に崩落。


また、例の活字ベルトを使ったライン・プリンターを漢字対応のシャトル・プリンターに入れ替え。これはどういうものかというと、そうですねドット・マトリクスプリンターの印字ヘッドを横に長くし、斜めに何本もピンを植えたもの。ヘッドの幅がほぼ15インチありますので、横にすこし往復運動(これをシャトルという)するだけで、一度に1行分漢字を印字することになります。これは結構早かったですね。シャトル・プリンターはレーザー・プリンターと違い、複写が取れますので、現在でも結構使われていますね。

システム開発はIBM社が開発した報告書作成向けのプログラミング言語、RPG
Report Program Generator)で行いました。データの入力、演算、印刷など、必要な処理の種類に応じて仕様書が用意されており、仕様書に適切なパラメータを記述してアプリケーションソフトを作成するものですが、通常は画面より直接ソースを入力しました。1500行も書けば結構複雑なアプリケーションも作れます。写真はその仕様書の一部。RPGは次に触れるAS400などで現在も使われています。報告書作成向けの言語ですので、初期は画面周りに弱かったのですが、RPGⅡ、RPGⅢ、RPG400と、かなり改善されました。


システム34、36はメンテナンスのしやすい機種で、34も36も正面、側面のパネルは簡単にあけることができます。36の場合前面パネルを開くとメモリーなどのモジュールを納める、棚になっていまして、我々は1つずつ取り外し、掃除機でホコリを吸い取る、てな荒っぽい掃除をよくやっていました。筐体の中も結構スペースがあるので、掃除機の先をつっこんだりして……

次の世代へ


90年代初頭のAS400 重ねてある
ハードディスク、一つで1ギガくらい
さて、システム36は後任者の手によって、1990年代初頭AS400(旧システム38)へ移行。AS400はものすごい技術革新、コンピュータの小型化の波の中でも生き残ってきたIBMの中型機の主力で、名前をi Series, System i, Power Systemと変えながら現在も主力製品であり続けています。後述のシステム38からの伝統、単一レベル記憶を受け継いでおります。

IBMシステム38について触れておきましょう。システム36の後継機ということになっていますが、実際は36が登場する以前からありました。AS400はこれの後継機。単一レベル記憶 (SLS; single-level store) を採用しており、一つのコンピュータが使っている記憶装置全てを、アプリケーションソフトウェアに対して主記憶装置と補助記憶装置の区別を意識させずに、ただ一つの巨大なアドレス空間で管理するという、仮想メモリとかバーチャルメモリを飛び越えた技術です。

それから、これは概念としてやや難しいですが、リレーショナル・データベースという概念。つまりまったく違うデータであっても、例えば顧客番号とか、共通の項目がある限り、あたかもひとつのデータのように扱える機能。いままでのプログラムの考え方からしたら、一つのデータから別のデータを参照するには共通項目(キー)を使って、演算で読み込んでくる必要があった。ところがシステム38の場合、最初に、このデータからはこの項目、このデータからはこの項目を使うよ、と指定するだけでシステムが自動的に読み込む。これはアプリケーション作成の手間、データメンテナンスの手間を大幅に削減した、画期的な概念でした。これもいまでは当たり前のこととなってしまった感がありますが、当時は大いに感激したものでした。プロセッサーにコンソールとキーボードを組み込んだユニークなスタイルでした。

システム36も38もそうですが、IBMのマシンの背の高さは決まっておりまして、ちょうど1メートル。立ったまま、連続用紙を広げて作業するのにはちょうどいい高さでした。システム3や38のIBMブルー、懐かしい色でもあります。

マイコンの登場


さてパソコンの世界ですがアップルが1970年代末にアップルⅡのプロトタイプを完成させ、80年代後半までの、僅か10年足らずの間に世界で500万台を売っております。おそらく一般家庭で始めて使われたマイコン(マイクロコンピュータ、当時はPCという言葉はなかった)。6ビットだったらしい。数キロバイトのメモリーに、キーボードとパワーユニットをつけた単純なもので、最初は専用ディスプレイなどなく、テレビにつないで使った。さすがに私も稼動しているのを見たことはありません。ある事務所の片隅にあったのを、へえ、これが有名なアップルⅡか、と感動して手にしたのを覚えています。当時のアップルのマイコンはアップルDOSというOSで動いていました。

史上最初のデスクトップ


さて、デスクトップの概念はどこから始まる?多くの方がマッキントッシュ、もしくはウィンドウズだと思われていると思います。ところが、ディスプレイを机上に見立てる、という発想を最初に世に問うたのは、あの、コピーで有名なZEROXなのです。名前はXEROX STAR(日本語版はJSTAR注4)。

記録によると英語版の発表が1981年、日本語版が1982年とありますから、アップル社が歴史的なマック(Apple Macintosh)を世に出したのより数年早いですね。ですから正式には、STARが元祖じゃあないでしょうか。

当時のコンピュータのディスプレイは起動時は左のように真っ黒で、画面の上(DOSの場合)、もしくは画面の下(オフコンの場合)にコマンド・ライン(カーソルが点滅している場所、ここにコマンドを打ち込んでプログラムを起動する)があるだけの、味も素っ気もないものでした。ウィンドウズのアクセサリーの中に、コマンド・プロンプトという画面がありますが、DOSの時代はこれが初期画面。今でもソースを修正したりする場合、DOSコマンドのEditなど、使うことがありますね。DOSの場合はAUTOEXEC.BATというファイルに記述することで初期メニューを作ることくらいは出来ましたし、オフコンの場合ログ・オン画面というのもありました。まあ、それくらい。

XEROXの営業の方に連れられてショウルームで見たのが事実上私GUIの初体験。初めてデスクトップという概念の説明を受けたのもこの時でした。80キャラ×24行‥文字ディスプレーしか見たことのない私にとって、それはまさに次元の異なる話でした。


日本語版の画像が手に入らなかったので英語版で我慢していただきますが、30数年前にすでにディスプレイにゴミ箱、計算機、IN、OUTのボックス、プリンターなどのアイコンが登場、基本的に後のマッキントッシュ、ウィンドウズのディスプレイとなんら変わるところがありません。またすでにマウスや、LANを組んでサーバ、プリンターを共用するという基本的な技術も搭載していました。

STARと数年後に登場したApple Macintoshは、当初からお互いにフィードバックを受けながら発展していったと思われますが(マックのデスクトップ、初期のSTARに極似)、マックが他社のアプリケーションを受け入れる、パソコンであるのに対し、STARの方は、どちらかというとXEROX社の専用ソフトでしか動かないDTP機としての側面が強く、値段もオフコン並み(つまり1000万~)と極めて高価、爆発的にヒットするにはいたりませんでした。

実用的グラフィカル・ユーザー・インターフェイスの登場


マッキントッシュ初期モデル
マッキントッシュはこのシリーズにつけられた名前

そういうわけで、事実上世界最初の実用的GUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェイス)機はアップルが1984年に発売したApple Macintoshだと言えましょう。その描画速度は人々をあっといわせたものでした。初期のモデルはハード・ディスクがついておらず、すぐに後継機種、ハード・ディスク付きのMacintosh SEが誕生。DOSの世界は1986年にやっとWindows 1.0がリリース、マックと比べると使用に耐えるものではありませんでした。Windows 3.1が1990年、この段階でNECは独自規格をあきらめ、PC/AT軍門に下ります。そして95年のWindows 95でやっとApple Macintoshに追いついた感があります。

マッキントッシュSE
私は1990年代初頭からアメリカに居住。オフィスではDOSとWindows 3.1、自宅では前述のMacintosh SEを使用するようになりました。当時すでにDOS/Vは出回っていたものの、日本語のフォントを手に入れるのが困難、またやたらメモリーとディスクを消費するため、アメリカで出回っているPC/AT互換機にはインストールできない。一方アップルの場合もともと多言語対応に作られていることから、日本語フォントや漢字変換システムを搭載するのが容易、標準仕様のMacintosh SE(多分メモリー512K)に充分搭載できたことによります。当時使っていたワープロソフトのEG WORD、変換システムのEG Bridge、すでに販売は終了していますが、「かわせみ」などの後継ソフトはあるようです。


と、いうわけでアップル社のシステム7以降とWindows 3.1を並行して使用することになりました。この時点では完璧にアップル社に軍配。まだ3.1は見せかけのグラフィカル・ユーザー・インターフェイスでしかありませんでした。ペンティアム286プロセッサーでは不足、最低386プロセッサーでないと遅くて使い物になりませんでした。またDOS環境下で稼働するインターフェイスのため、DOSが管理できるメモリ(多分最大640キロバイト)の制限を受け、それ以上のメモリーを搭載するのはなかなか面倒でした。

ハードウェアの面ではPC/ATの後継機、IBMのPS2が登場。私はPC/ATを使ったことはないのですが、経験者によるとこのPS2も画期的なアーキテクチャー。PC/ATの時代にはメモリー付け足すだけでも大変なシステム設定が必要だったそうですが、PS2の場合、スロットに差し込むだけで認識する。拡張カード類も同様。デバイスマネージャーとハードウェアの進歩。

当時、つまりウインドウズ3.1(使ったのは英語版)の時代、表計算はLOTUS1-2-3を使っていましたが、DOSのアプリケーションで、いまでもすごい!と思うのはDOSバージョンの1-2-3のデータに、罫線や多種のフォント、字の大きさなどをフォーム・オーバーレイの感覚で付け加えて印刷する、Alwaysというソフト。擬似WYSIWYG (What You See Is What You Get)スクリーン(印刷どおりに表示され、フォントなど体裁は修正できる。数値入力などはホットキーで通常画面に切り替えて行う)をサポート、DOS上で快適に作動するので、遅い3.1より重宝しましたね。

ウィンドウズ95の登場


帰国後もしばらくはMacintosh Perfoma 5260などを使っていましたが、ウィンドウズ95が登場し、「やっと」マッキントッシュに追いついてから、事務所との互換性もあり、ウィンドウズ機に以降、現在に至っています。どこが追い付いたかというとウィンドウズ3.1はDOS環境下のアプリケーションでしかありませんでしたが、やっと95で自身がOSとなり、DOSのメモリ制限の束縛もうけなくなりました。アップルのOSはそもそもネィティブのグラフィカル・ユーザー・インターフェイスで、メモリの制限ももとからありませんでした。

パソコン発達の歴史で忘れてはならないのがIBMの存在。現在のパソコンのスタンダードを作ったPC/AT、そしてPC/AT互換機での日本語処理を容易にしたDOSV。すでにパソコン業界から撤退したIBMですが、その功績は計り知れないものがあります。自分が作ったものでないDOSの、ハードとの抱合せ販売(何時からか忘れましたがハードウェアはOSと込みで販売することが法律で定められました)でのし上がったマイクロソフトとは違いますね。

振り返れば、今、机上のパソコンをLANでつないでの業務、ほんの一昔前は大きなオフコン、しかも重くて太い同軸ケーブルを、ヨイショ、ヨイショと張り巡らしてやっていました。片手に持った8インチのフロッピー・ディスクを団扇代わりに使いながら。たまらんですねえ。

ウィンドウズ95以降、現在まで


東京大学柏キャンパス情報基盤センターの
Oakleaf-FXスーパーコンピュータ(実写)

最近10年でコンピュータハードウェアの進歩にはすさまじいものがあります。今やキロバイト、メガバイトはほぼ死語となり、ギガバイト、テラバイトの時代です。スーパーコンピュータなんてペタバイトの世界です。一昔前のオフコンの処理能力よりスマートフォンの処理能力の方が上回ります。光回線の運用により通信スピードはけた外れに早くなりました。



写真はスーパーコンピュータのシステムボード。厖大な熱量を発するため、張り巡らされた銅の配管で冷却水を循環させます。スーパーコンピュータは膨大な数のこのようなシステムボードの集合体ですので、張り巡らされた銅管も厖大、しかも冷却水を送り出すコンプレッサーも必要です。大きな図体になるわけです。

ウィンドウズも95、98、ミレニアム、2000、ビスタ、XP、7、8、10とたびたびバージョンアップを重ねてまいりました。一方実用的には95、98時代のソフトで十分という面もありますし、なんだ、バージョンアップの度にメモリだけ喰うようになって、という感じがしないでもありません。はっきり言ってワード2003とか2007は現在も十分通用します。

考えてみると、デスクトップ、LAN、サーバなど、今のコンピュータの核となる技術はすでに30数年前に確立されていた、という驚くべき事実。当時すでに誕生していた、パスカルとかRPGとか、コボルとか、プログラム言語もいまもずっと使われている。この10数年の進歩はハードの面では著しいものがありますが、革新的アイデアという点では、80年代初頭には、頭が上がりませんね。ウィンドウズがXEROX、アップルが開発した技術に追いつくのに10年以上かかりました。

ある意味ではデジタルコンピュータの限界が近づいているのかもしれません。もともと10×10を計算するのに10を10回足す効率の悪い世界、効率の悪さをスピードで補ってきた側面があります。

鷹が獲物を追いかけて林の中を飛翔する動画を見たことがあります。乱立する木々の間を、狭い所はさっと翼を畳んで弾丸のように潜り抜け、潜り抜けると羽ばたいて加速、ばっと羽根を広げ急減速、ものすごい3次元の空間把握能力です。鷹の小さな頭脳で一瞬に計算できること、巨大なスーパーコンピュータではたして出来るのかな?いや、出来るとは思うが実用的じゃないよな。


注1ディスク・オペレーティング・システムの略。コンピュータが磁気記憶媒体やメモリを操作するための基本ソフト。MS-DOSが有名ですが、アップルだって初期のOSはDOSと呼んでいました。現在もMS-DOSはウィンドウズの一部(アクササリの一つ、コマンドプロンプトなど)として存在しており、DOSの命令コマンド、DOSコマンドは現在でも有効、有用です。

注2オフィスコンピュータの略。ミニコンピュータ、ミニコンとも言います。何がミニだという気もしますが、部屋いっぱいの大きさの大型コンピュータと比較してです。

注3後発のPC/AT系はドライブレターの割り当てが固定的で、AとBをフロッピードライブに、Cをハードディスクに割り振っていますが、PC98××系の場合多分ブートドライブ(OSを立ち上げるドライブ)にAを割り振りますので、ハードドライブがA、BとCがフロッピードライブということが多く、両機種併用しているとちょっとややこしいことになりました。またフロッピーディスクのフォーマットも異なっており、共用できませんでした。同じフロッピーをPC/AT系でフォーマットすると1.4メガバイト、PC98××系でフォーマットすると1.2メガバイトだったように記憶します。

注4JSTARに関する情報はこちらを参考にさせていただきました。

第1版:2016年3月
第2版:2020年4月