光と影のつづれ織り

写真で綴る雑記帳

玉川上水と立川断層その2

2009年01月18日 | 風景

玉川上水と立川断層は、砂川と呼ばれるこの地域と深い関係があります。
大曲りを拡大した航空写真です。 立川断層は左上から右下に走っています。

■昔、この断層沿いに残堀川が流れていたらしく、玉川上水ができる前は、五日
 市街道(写真の左下)と川の交差するこのあたりに新田開発の集落があった。
 当時は、狭山丘陵の麓の岸村あたりからの、出作百姓(通勤百姓)がほとんど
 らしい。

■玉川上水ができたのが1654年、砂川の新田開発に着手したのが1627年
 頃です。 水の確保が重要でしたから、残堀川(=砂川)の近くに最初の集落
 ができたのは当然です。 写真左下の四角い森に囲まれたところは、往時の
 砂川の名主の邸宅です。 当時の集落はこの近辺だった。
■玉川上水が引かれて3年後、砂川分水が許可され、水の問題が解決し、一挙
 に開発が進みました。 砂川1番から八番までの五日市街道沿い5kmほどの
 村落が出来上がっていきます。
■その後、享保の改革で幕府の奨励もあり、砂川九番(当時は田堀と称していた)
  十番が新田開発で、新たに東側にできていった。(1723年頃から) 
  以前、武蔵野の古民家を採り上げましたが、あの民家も砂川九番にあったもの
  です。


 説明が長くなりましたので、写真のほうにいきましょう。
これは、大曲りのすぐ後にある砂川水衛所の跡です。 上水の水質を守るため
上水沿いに7箇所ほど水番人のいる水衛所が設けられた名残です。




少し下流の金毘羅橋から見た水衛所です。 右側は上水には珍しい
竹林になっています。
そして、左側の土手上には、立川市唯一の山?である金毘羅山があ
ります。




これが金毘羅山です。 高さ約15m。




謂れは、この看板で。




頂から見る眺めは、こんなものです。




やはり、土盛りして作った塚が正解だと思います。



今日の最後は、航空写真の上部にも写っている西武拝島線と玉川上水間の
断層の様子です。
写真左端が線路の盛土。  右のこんもりとした林が、玉川上水の断層で盛り
上がった高いところです。 左側の手前の電柱から奥の電柱にかけて坂にな
っています(高低差3mぐらいか)。  この傾斜が林のところまで続いています
写真ではわかりづらいですね。

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