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カウンセリング「エデン」のふんわりエッセイ

心理カウンセラーの目で世の中を鋭くとらえながら、ものごとの真実を探ります。

いじめ問題

2015年10月25日 | 教育
「いじめ防止対策推進法」が、平成25年9月28日に施行されました。これは、国としてのいじめ抑制に対する強い姿勢の表れであり、学校・家庭・当事者である児童生徒への強い警鐘として評価できます。
 「いじめ」は、決して軽視できない非常に大きな問題です。集団の中でいじめを受けることで、人は心(場合によっては体)が傷つけられ、一生それを背負って生きていくことになるからです。
 
 身近に見たいじめの被害者の例です。現在50才に近い彼女は、小学生のころ、やや太めの体型から、「デブ」「豚」と陰口を言われるようになり、そのうちに本人の耳にも聞こえてくるようになりました。次第に周りに心を閉ざし始めた彼女は、周りの人を受け入れることができなくなりました。中学3年時には、担任教師に対しても不信感が広がり、希望の高校に進学できなかったのを担任のせいにし、それをずっと今まで持ち続けていました。こうして、疑り深い性格が形成され、職場では今でも人間関係のトラブルを抱えています。
 
 彼女に悪口を言った子供たちは、彼女の将来に対して、少しも責任を感じないでしょうが、このように人の一生を左右する問題になることがおわかりでしょうか。
 
 彼女の心には未だに「周りへの恨み」があるます。もし彼女が、人を信じ、過ちを許し、受容できたなら、人生の方向も違っていたかもしれません。
 
 
 いじめを防ぐために、私も体を張りました。
 
「先生は。いじめを絶対に許しません。たとえ、陰でやろうとも必ず見つけます。」と子どもたちによく言ったものです。
(*自分の決意や構えを見せるという点では評価できますが、今となって思うのは、これはただの脅し文句にも聞こえますね。)
 
 いじめの本質は、「異質を認めない集団心理」であり、同地域のほぼ同一生活レベルの人間が集まるために起こりやすい問題でもあるのです。
 
「みんな同じじゃない、自分と人とは違って当たり前」という基本的な構えは、個性を尊重し、周りを尊ぶ姿勢につながっていくことになります。
 
 そのために、道徳の授業はとても有効です。
 
 また、「このクラスは、全員そろって初めてクラスといえるんだ。」「たとえ一人でもそろわなかったら、次へは進まない。」という姿勢も、いじめの防止には有効です。教師が、まず一人一人を大切にしていることを強く示すことで、子供が一人一人の存在を大切にしようとするからです。。
 
 いじめは未然に防ぐのが基本ですが、もし顕在化したら、できるだけ早めに教師自身がカウンセリングを行ってあげてください。
 
「君は決して悪くないんだ」と。それが、その子が傷を早く癒せる唯一の方法です。

 


ジェンダーフリー

2015年10月19日 | 教育
ジェンダーフリーの時代になった今では、信じられない出来事。
だけど、私が子供のころは、こんな言葉がまかり通っていた。
 
泣くんじゃない、男の子でしょ。
女は勉強なんてしなくていい。
 
そして、極めつけは
 
「男は度胸、女は愛嬌。」
 
ついでに、思い出した。11歳の時に聞いた担任の女の先生の言葉。
学年スポーツ競技大会で負けたとき クラスの男子を集めて激を飛ばした。
「おまえたち、〇〇〇ついてるんでしょ。」
 
勝ちたいし勝たせたい教師の気持ちはわかるが
それ以上に この言葉がずっと頭に焼き付いている。
スポーツ大会のことなどこれっぽっちも覚えてないのに。
 
世の男はこんなところでも義務感を宿命づけられている。
 
今のジェンダーフリーの精神は、こうした過去の反省でもある。
 
程よいジェンダーフリーがいい。

暗い顔をした女の子

2015年10月19日 | 教育
初めて持ったクラス。
とても気になる子がいた。
 
暗い顔をしていつも下を向いてた太った女の子。
みんなの中に溶け込んでいけない。
 
私は、進んで声をかけた。
朝の始業前 休み時間 給食の時
 
いつも硬いこわばった表情だったが、ある日にこっと笑みを返してくれた。
 
次第に心が解け始めるのを感じた。
私が声をかけ続けると、周りの子たちも同じように声をかけ始めた。
 
そして、次第に向こうからこちらに声をかけてくるようになった。
朝や休み時間 教師の机の周りに群がる子供たちのなかにその子もいた。
 
よし、次は逆上がりだ。
朝 休み時間 放課後 毎日一緒に運動場に飛び出していった。
技術も何もない新米教師はただ、「がんばれ」「もう少し」と口にするだけ
 
秋になって、くるりと回って見せた。笑みがこぼれる。
 
私の心に刻まれたシーン。きっと、あの子の心にも。
 
*写真と実際の人物はつながりはありません。

指導力不足って?

2015年10月05日 | 教育
 お若い先生の中には「自分は指導力がない。」と感じていらっしゃる方も多いと思います。教師の指導力って、どんな力でしょう。私は、若い頃、指導という言葉に教師が生徒を自分サイドにぐいぐいと引っ張るようなイメージを持っていました。まさに、教師が上で生徒が下だというようなイメージです。
 
 でも、本来の意味は、「ある目的・方向に向かって、教え導くこと」なのです。
 
 教育に限定すれば、「対話によって相手の自己実現や目標達成を支援すること」です。それは、 コーチングの意味する「相手の話をよく聴き(傾聴)、感じたことを伝えて承認し、質問することで、自発的な行動を促すとするコミュニケーション技法である。」とよく似ています。私は、このコーチング理論を、空手道の指導者講習で学びました。スポーツの世界でも、この概念が用いられているのです。
 
反対に言い換えると、指導力不足の状態とは、
「生徒と対話ができていない。」
「自己実現や目標達成が支援できていない。」
ということになります。
 
 しかし、どうでしょう。この2つを突きつけられると、いささか苦しくはないですか。私も現職の時に、この2つが常にきちんとできていたかどうかは疑わしいものです。休み時間や給食の時間にも採点をし子どもの話をまともに聞けなかったことも多々ありますし、ましてやすべての子どもに目標達成をさせ、自己実現を図ることができたとは到底言えません。
 
 学校に出勤しない、正規の授業を行わない等の教師ならば別ですが、皆さんはできる限り、子どもたちに語り掛け、活動を支援し、日夜残業もいとわずに働いていらっしゃることでしょう。
 
 もし、それでも指導力不足と感じるのであれば、指導経験の少なさやうまくいかないことに対して、責任を感じすぎているのではないでしょうか。若い先生ならば、指導経験は浅くても、子どもの年齢に近い、若さという最大の魅力があります。それだけで、子どもは近くに寄ってくるものです。また、夜遅くまで、ノートに目を通したり、授業の準備をしたりの毎日でしょう。これらは、まさに子どもには見えないところでの支援ですよね。
 
 本当の意味で、「あの先生は指導力不足だ。」なんて、だれも断言できないのです。もしも、自分自身が指導力不足だと感じている先生方がいたら、下のお釈迦様の手をイメージするとよいと思います。肩の上の「責任感」という重しを外して、読んでみてください。
 
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お釈迦様が天上から人間の世界を見ていました。ふとみると、男の荷車が、ぬかるみにはまって動かなくなっています。周りには、誰もいません。男は、自分でやるしかないと思い、渾身の力を込めて荷車を引きました。そのとき、お釈迦様は見えない手でポンと押して助けてあげました。すると、荷車はぐわっとぬかるみを抜け、男はふうっと一息ついて、また自分一人で荷車を引いていきました。
お釈迦様は「私が押したのですよ」とは言いません。男が自分の力で成し遂げたという達成感を持てませんし、困ったときにまた助けてもらえると思うといけないからです。
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 指導も同じです。先生が教えたから子どもは伸びたと思わせるのではなく、見えない手で子どもを支え、自分の力で成長したと思わせるのが本当の指導だと思うのです。上の荷車の男のように、子どもは感謝の気持ちをもちません。自分でできたと思っているからです。でも、それでいいのです。これは、普段、皆さんが子どもたちが見えないところでやっていることなのです。 
 実は、カウンセリングもこのような考え方に基づいて行われます。皆さんの心の中のこのお釈迦様の手を再認識してみましょう。
 

学級崩壊は決して教師だけの責任ではない

2015年09月30日 | 教育

 学級崩壊について考えました。

 例えば、『ある生徒とそりが合わない。指導がやりにくいと感じるようになる。そのうちに、生徒の心が離れて、今度は反発するようになる。それに対して、教師が真っ向から向かっていった場合、生徒はその不満を親や周りの友達にぶつけるようになる。そのうちに、周りがそれに同調し始める。そして、教師の指示が全く通らない状態になる。』これは、大変にやりにくいですよね。そのうちに、学校に行くことがつらくなり、子供の前に立てない状態になったりもします。教師仲間で、通勤途中の車中で踏切を渡ろうとすると心臓がバクバクし始めたという人もいました。

 
 私の経験をお話ししますね。私も2度ほどありました。初めは、20歳代に小学校高学年を受け持った時です。高き理想に燃え、クラスとして上を目指す、ちょっと子供に強く求めすぎなところがありました。年度の後半、クラスの3分の1ほどが白けたような状態になり、指導が行き届かなくなったことを感じました。保護者の反発も肌で感じました。今にして思えば、誰かに相談ができればよかったと思うのですが、当時はどの先生方も忙しく、またお互いにライバル意識のようなものがあって、心をうまく開くことができませんでした。
 もう一つは、30歳代に持ったクラスの中に明らかな問題傾向のある児童がいた時です。授業中に離席する。テストは、やりたくないといって引きちぎる。友達に手を出してけんかになって暴れて、しまいには物を壊す。いさめると教師に向かって、タックルしてくる。問題は、その生徒に手を焼いている間にほかの生徒の心が次第に離れていってしまったこと。次第に子供の心が離れていくのを感じました。この時にも、もっと相談できる人がいればよかったのですが、この時には学年内の先生方と方針の違いからうまくやって行けず、孤立していたのです。あとは、終わりが来るのを待つだけという苦しい状態が長く続きました。
 今にして思えば、よく乗り越えられたものだなと思います。私の指導に至らなさはあったものの、決して私だけの問題でないことも読み取れるのではないでしょうか。
 こういう状態の時には、まずは教師本人の心のリハビリが必要な時です。まずは自分をさらけ出す勇気をもって、気のおける人にじっくり話を聞いてもらいましょう。きっと、現在の自分の心が見えてくるものです。

カボチャの花粉

2013年01月16日 | 教育

タイトルの通り、これはカボチャの花粉です。倍率は100倍程度です。理科の授業で、グループごとに花粉を採集してきます。各グループティッシュ1枚とピンセット1こを持って畑に出かけます。採集してきた花粉をスライドガラス上に落とし、カバーガラスをして、最高を良くした状態でピントを合わせます。すると、「おおーーっ」驚きの声が上がります。球状の一粒一粒の花粉がこんなにもよく見えます。すぐに、子ども達は、表面のいがいがに気づきました。そこで、考えさせます。

「このいがいがは何のためにあるのでしょうか。」

受粉の仕組みをヒントに考えさせると、

「わかった。蝶やはちの足にくっつきやすいようにかな。」

「それで、めしべに運んでもらいやすいようにこうなっているんだ。」

と答えが返ってきました。

ミクロの世界にふみこんだたいへん非常に理にかなった考え方です。

ちなみに、これは、顕微鏡の接眼レンズに携帯電話のレンズを合わせて撮影したものです。この携帯電話は200万画素でしたので、今ならもっと鮮明に撮影できるかもしれません。また、やってみたいと思います。

 


コーチング理論「PATROL」

2013年01月10日 | 教育

  指導に当たる立場に「コーチ」という役割があります。この言葉の語源は、馬車で相手の望むところまで送り届けるという意味からきているのだそうです。昨今、よく耳にする「コーチング理論」は、子どもを育てる根本的な考え方としても生かせます。その理論の根幹に、「PATROL」(パトロール)という合言葉があるので、紹介します。

Process「結果ではなく経過を重視しましょう。」

Acknowledgement「子どもを承認しましょう。」

Together「一緒に楽しみ、一緒に考えましょう。」

Respect「尊敬しましょう、尊重しましょう。」

Observation「よく観察しましょう。」

Listening「話をよく聴きましょう。」

 先日、大阪の高校のバスケットボール部員が自殺したというニュースがありました。生徒は自殺する前日の22日、顧問の男性教諭から30〜40回、平手で顔をたたかれたと話し、主将を辞めたがっているようだったといいます。

 スポーツを通して人を育てる立場のものが起こした事件です。人の尊厳をないがしろにして勝利を生み出しても、それには何の意味も価値もありません。指導者の資質を問われるべきです。この指導者に、Acknowledgement、Together、Listeningなどがあったとは思えません。単にそのスポーツの元選手であったからという理由だけで、安易に指導につくとこのようなことが起こります。指導にあたるものは、スポーツ指導者の資格を取得してからにしてほしいものです。

人として尊敬できる立派な指導者もたくさんいます。私も、すばらしい指導者のおかげでこれまで空手道を続けることができました。しかし、スポーツの世界に、未だにこのような非科学的な根性主義者が幅をきかせていることを憂います。


自戒

2008年04月05日 | 教育


つらいことが多いのは感謝をしないからだ
苦しいことが多いのは自分に甘えがあるからだ
悲しいことが多いのは自分のことしかわからないからだ
心配することが多いのは今を懸命に生きていないからだ
行きづまりが多いのは自分が裸になれないからだ

新年度にあたり、自分を見つめ直しています。


卒業式で何があったか

2008年03月26日 | 教育
25日午後1時半ごろ、東京都板橋区中台3丁目のマンションの管理人から、男児が飛び降りたとの119番通報があった。マンションに住む会社員(50)の長男で、同区立小学校に通う6年生の男子児童(12)が病院に搬送されたが、全身を強く打っており、約2時間後に死亡が確認された。鉛筆で書かれた遺書のようなものがあることから志村署は自殺と見て調べている。

 こんなニュースを耳にしました。何があったのでしょうか。もちろん原因があろうかと思います。
 こういうニュースを耳にする度に、子どもの心はちょっとしたことでとても傷つきやすいのだということを感じます。教師は、そこを感じ取るアンテナを高くしていなければいけないなとつくづく思います。

 おふざけでいったことか、それとも心の叫びとして言ったことなのかはニュースからはわかりません。だけど、原因だけは、きっちりと解明して、二度とこういうことが起こらないような措置はとらなくてはなりません。

 報道でも、校長がそれを責めたことが原因かのように伝えていました。何かが起きると必ず誰かの責任にして、ことを片付けようとする風潮にはとうてい納得できません。これは、もう、いじめ社会そのものです。学校のいじめを語る以前に社会全体がそのようになっていると思います。ひどい場合には、職員の私生活上の問題まで、監督不行届だと校長が責任をとらされます。そうなると、校長も責任をとらされてはたまりませんから、職員に対しての締め付けをするようになります。そして、どうでもいいことにまで口を出すようになったりします。そういう結果が、ぎくしゃくした歪んだ職場を生みだすことになっていきます。私は、これを「いじめの循環」の一つだと思っています。
 やはり、個人としての問題と組織としての問題の区別をその原因において、きっちり区別をつけられる社会でありたいと思います。
 
 その意味でも、きっちりと原因究明をして、何が問題であったのかまで明確にすべきだと思っています。



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