
学級崩壊について考えました。
例えば、『ある生徒とそりが合わない。指導がやりにくいと感じるようになる。そのうちに、生徒の心が離れて、今度は反発するようになる。それに対して、教師が真っ向から向かっていった場合、生徒はその不満を親や周りの友達にぶつけるようになる。そのうちに、周りがそれに同調し始める。そして、教師の指示が全く通らない状態になる。』これは、大変にやりにくいですよね。そのうちに、学校に行くことがつらくなり、子供の前に立てない状態になったりもします。教師仲間で、通勤途中の車中で踏切を渡ろうとすると心臓がバクバクし始めたという人もいました。

新ルームを開設しました。
悩める教師のための相談室です。
ご利用ください。
http://tatzegoju.wix.com/counselingroom-eden?_ga=1.235521601.1521264621.1442286988
タイトルの通り、これはカボチャの花粉です。倍率は100倍程度です。理科の授業で、グループごとに花粉を採集してきます。各グループティッシュ1枚とピンセット1こを持って畑に出かけます。採集してきた花粉をスライドガラス上に落とし、カバーガラスをして、最高を良くした状態でピントを合わせます。すると、「おおーーっ」驚きの声が上がります。球状の一粒一粒の花粉がこんなにもよく見えます。すぐに、子ども達は、表面のいがいがに気づきました。そこで、考えさせます。
「このいがいがは何のためにあるのでしょうか。」
受粉の仕組みをヒントに考えさせると、
「わかった。蝶やはちの足にくっつきやすいようにかな。」
「それで、めしべに運んでもらいやすいようにこうなっているんだ。」
と答えが返ってきました。
ミクロの世界にふみこんだたいへん非常に理にかなった考え方です。
ちなみに、これは、顕微鏡の接眼レンズに携帯電話のレンズを合わせて撮影したものです。この携帯電話は200万画素でしたので、今ならもっと鮮明に撮影できるかもしれません。また、やってみたいと思います。
指導に当たる立場に「コーチ」という役割があります。この言葉の語源は、馬車で相手の望むところまで送り届けるという意味からきているのだそうです。昨今、よく耳にする「コーチング理論」は、子どもを育てる根本的な考え方としても生かせます。その理論の根幹に、「PATROL」(パトロール)という合言葉があるので、紹介します。
Process「結果ではなく経過を重視しましょう。」
Acknowledgement「子どもを承認しましょう。」
Together「一緒に楽しみ、一緒に考えましょう。」
Respect「尊敬しましょう、尊重しましょう。」
Observation「よく観察しましょう。」
Listening「話をよく聴きましょう。」
先日、大阪の高校のバスケットボール部員が自殺したというニュースがありました。生徒は自殺する前日の22日、顧問の男性教諭から30〜40回、平手で顔をたたかれたと話し、主将を辞めたがっているようだったといいます。
スポーツを通して人を育てる立場のものが起こした事件です。人の尊厳をないがしろにして勝利を生み出しても、それには何の意味も価値もありません。指導者の資質を問われるべきです。この指導者に、Acknowledgement、Together、Listeningなどがあったとは思えません。単にそのスポーツの元選手であったからという理由だけで、安易に指導につくとこのようなことが起こります。指導にあたるものは、スポーツ指導者の資格を取得してからにしてほしいものです。
人として尊敬できる立派な指導者もたくさんいます。私も、すばらしい指導者のおかげでこれまで空手道を続けることができました。しかし、スポーツの世界に、未だにこのような非科学的な根性主義者が幅をきかせていることを憂います。

こんなニュースを耳にしました。何があったのでしょうか。もちろん原因があろうかと思います。
こういうニュースを耳にする度に、子どもの心はちょっとしたことでとても傷つきやすいのだということを感じます。教師は、そこを感じ取るアンテナを高くしていなければいけないなとつくづく思います。
おふざけでいったことか、それとも心の叫びとして言ったことなのかはニュースからはわかりません。だけど、原因だけは、きっちりと解明して、二度とこういうことが起こらないような措置はとらなくてはなりません。
報道でも、校長がそれを責めたことが原因かのように伝えていました。何かが起きると必ず誰かの責任にして、ことを片付けようとする風潮にはとうてい納得できません。これは、もう、いじめ社会そのものです。学校のいじめを語る以前に社会全体がそのようになっていると思います。ひどい場合には、職員の私生活上の問題まで、監督不行届だと校長が責任をとらされます。そうなると、校長も責任をとらされてはたまりませんから、職員に対しての締め付けをするようになります。そして、どうでもいいことにまで口を出すようになったりします。そういう結果が、ぎくしゃくした歪んだ職場を生みだすことになっていきます。私は、これを「いじめの循環」の一つだと思っています。
やはり、個人としての問題と組織としての問題の区別をその原因において、きっちり区別をつけられる社会でありたいと思います。
その意味でも、きっちりと原因究明をして、何が問題であったのかまで明確にすべきだと思っています。