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歌人・辰巳泰子の公式ブログ(旧居)

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『新古今和歌集』――恋の正体 四

2022-01-07 01:54:46 | 月鞠の会
四 恋の正体――叙景に隠されたもう一つの主題

これまでに、『新古今和歌集』における「恋歌一」のエンディングが海辺の叙景であったこと、「恋歌二」でも海辺の叙景歌が続けられていること、これらの叙景歌が、有意に強い印象を与えること、「恋歌五」のエンディングも海辺の叙景であったことなどを述べました。
ここでは、叙景の伝統的手法と比較しながら、歌枕となった『源氏物語』「須磨」での海人の描写にも注目しながら、そうした印象深い海辺の叙景について取り上げたく思います。また俊成自賛歌における実景描写にも触れてまいります。

(1) 叙景の伝統的手法

まず、叙景について、和歌文学の伝統的な叙景の手法を見るために、『古今集』「哀傷歌」から、次のような歌を挙げておきましょう。

832上野岑雄
深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け
深草の野辺の桜よ、もし心があるならば、今年だけは墨の色にお咲きなさい。あの人の喪に服してほしいのです。

853御春有助
きみが植ゑしひとむら薄(すすき)虫の音のしげき野辺ともなりにけるかな
 あなたがご生前に植えたひとむらの薄にたくさん虫が棲みついて、今では虫の音の盛んに聴かれる野辺となってしまいましたよ。

哀傷歌とは、亡くなった人を悼む歌です。832番は、満開に咲き誇る花霞のなかにくっきりと、一本のモノクロームの桜が見えるようです。これは、実景のなかの幻視の桜です。853番は、虫たちが亡くなった人を悼んで、音楽会を開いているようだというのです。ともに擬人化に徹しています。
『古今集』の叙景歌は、このように、自然にもこころがあるとして、自然のこころと人間のこころが一つになるさまを描いたものが中心です。大岡信氏が『日本の詩歌』(岩波文庫)において、「叙景と抒情の一体化時代は、古くは七世紀ごろの和歌以来大いにさかえ、十二世紀末までの平安時代を通じて、衰えることがありませんでした」と述べ、このことは、第二章で挙げた、奥村恆哉氏『古今和歌集』(新潮日本古典集成)解説中の、貫之による「ほとんど自覚的な日本化操作」「神話的な古い日本の、日本人が元来持っていた人間主義」と一致します。

(2) 定家の実景描写の特徴

定家は、叙景について、どのようなことを意識していたでしょうか。大岡氏が述べるように、『新古今集』の時代は十二世紀後半。客観的な叙景が成立する境目の時代でした。そこでの自然物の描写が、「恋歌」の部においても優れていたことは前述しました。定家の自然物への着眼のするどさについては、石田吉貞氏が『妖艶 定家の美』(塙書房)の冒頭に「梅の花にほひをうつすそでの上にのきもる月のかげぞあらそふ」(「正治御百首」)をひき、次のように述べます。

「藤原定家が十九歳の春、妖艶の美をはじめて把握したと思われる夜の情景は……まさにこの歌そのままであった」
「定家はどうしてこのような、新鮮な、いまのわれわれの心にもしみる写実の歌が詠めるか」

堀田善衛氏も、『定家明月記私抄』(ちくま学芸文庫)において、『明月記』の叙景について次のように記します。

「繰りかえす。この退屈な日記を彩っている色彩に目を開いてほしいのである」

『明月記』は、先に述べたように後に家の故実書、公式文書となる性格を持っており、和歌と違って、抒情が目的ではありません。しかしながら、定家の叙景が五感に訴えるものであることに、堀田氏は驚嘆しています。
定家は、実景の切り取り方について、非常に自覚的であったと私は見ています。堀田氏は、同著において貴族の装束の色彩感が際立つことを指摘しますが、装束の色彩は、身分やTPOなどを示す属性があり、同時代の『平家物語』でも同様に、装束の色彩が描写されます。つまり、装束の色彩を取り上げることはお決まりの流れであって、定家の工夫ではないはずなのです。それなのになぜ、『明月記』の色彩感が、かくも鮮烈に感じられるのでしょうか。このことを、私は次のように考えました。
『明月記』に特徴的なのは、天文の描写です。天文は、具注歴を反映して日記に記されますが、定家が、『明月記』において彗星を観測していたらしいことは著名なエピソードです。定家は、自身の興味としてもその日の天文に気づきがあって、その気づきを効果的な文脈で描写することで、対象に光線を当て、陰影を持たせました。定家は歌人であり、三十一文字で実景を鮮烈に再現することができるのですから、散文においても自然に、そのように言葉が繰り出されていたと考えられます。

(3)『源氏物語』「須磨」における海人の描写

『新古今集』における海辺の叙景歌に、『源氏物語』「須磨」が意識されていることを、押さえておかねばなりません。そこで、光源氏と海人との次のような交流の描写に注目します。

海人ども漁りして、貝つ物持て参れるを召し出でて御覧ず。浦に年経るさまなど問はせたまふに、さまざま安げなき身の愁へを申す。そこはかとなくさへづるも、心の行く方は同じこと。何かことなるとあはれに見たまふ。御衣どもなどかづけさせたまふを、生けるかひありと思へり。
(『源氏物語』「須磨」)

〈大意〉漁師たちが漁をして、貝などを届けに源氏の在所へ寄ったので、源氏は、漁師たちを近くへ呼んでその姿をご覧になった。漁師たちは、さまざまに生活の不安などをとりとめもなくしゃべる。源氏は、「心で思うことは、同じなのだな。生きるのはやはり、誰にとっても大変なことだ」としみじみと哀切にお感じになる。漁師たちに衣服などを取らせると、漁師たちは、生きていてよかったと感じ入った。

中古の時代、上流貴族と庶民との接点を、このように直接に描写したものは多くありません。ほぼ同時代の『枕草子』第83段にも、「尼なる乞食」が内裏に入り込んでき、清少納言が衣服を与える様子などが描かれていますが、やはり珍しいことです。
中古から中世にかけて、海浜の採集生活に、貴族階級の人々はどのようなことを感じていたのでしょうか。見るべきところは、「心の行方は同じこと。何かことなる」のくだりでしょう。「須磨」のこのような記述を踏まえて、いま一度、海辺における叙景歌という観点から、『新古今集』の「恋歌」を見ていきます。

1080在原業平朝臣(再掲)
みるめ刈るかたやいづくぞ竿さしてわれにをしへよ海人の釣舟

純粋に叙景歌として秀逸です。「竿」を操る漁師の腕は太々として、たくましい体つきが見えるようです。この歌が詠まれたのは『新古今集』よりもっと前、むしろ『古今集』の時代ですが、とても写実的です。『古今集』もその以降も採らなかった歌として発掘されたのは、この写実性にスポットライトが当たったのでしょうか。

1082藤原定家朝臣(再掲)
なびかじな海人の藻塩火たきそめて煙は空にくゆりわぶとも

海水を炊いて塩を採集するときは、まず火起こしをしなければなりません。湿った風の強く吹く海辺で、そうやすやすと火が起こるとは思われません。思うようにならない恋心が託されていますが、この歌も、採集生活の苦渋、暮らし向きの不安をそのまま描いた歌としても受け取れます。

1117藤原定家朝臣(再掲)
須磨の海人の袖に吹きこす潮風のなるとはすれど手にもたまらず

なれない者が、ましてや雅の世界にいた者が、ふいに海辺で閑居を始めると、塩気を含んだ風にやられてしまいます。虚構の人物、光源氏がそうであったように、須磨の秋風と夜通し聴こえる波音に、心がまいってしまうのです。あの風は、手にたまりもしないのに、袖をべたつかせごわごわとさせるのです。ここでは恋の憔悴として描かれていますが、「潮風」を事物として描いた歌としても、そのものの本質を表しています。

1332藤原定家朝臣
尋ね見るつらき心の奥の海よしほひの潟のいふかひもなし
どんなに探してみても、あの人の心は、どこにもない。私のほうなど向いていない。海人が貝を探してどこにも見つからないように、何をいう甲斐もない。

この歌は、恋歌として見た場合、このような意味となりますが、「伊勢島や潮干の潟にあさりてもいふかひなきはわが身なりけり」(『源氏物語』「須磨」)からの本歌取りであることがはっきりしています。だとすると、やはり、「心の行方は同じこと。何か異なる」が重なってきます。じつはこの歌は、しらべがあまりよくありません。響きがくぐもり訥々として、優雅さがないのです。しらべについては、この歌のもう一つの本歌、『新古今集』「雑歌下」にある次の歌と比べると、よくわかるでしょう。

1714和泉式部
潮のまによもの浦々尋ぬれどいまはわが身のいふかひもなし
 引き潮のあいだにあちこちの浦を探し回るのですが、これといった貝は見当たりません。同じように、私も、今となっては何を言っても仕方のない身です。

1714番は、口に出したときに滑らかで、どこか明るい感じに整っています。1332番は、まだしらべということが意識されない時代の民謡のようで、あたかも海人そのものの歌であるかのようです。ここに取り上げた1714番以外の歌の、「海人」と作者のあいだには、あくまでも比喩であるなどして、距離感がありますが、1332番では、「海人」と作者がまったく同一であるかのようなのです。
そこで私は、はっとしました。『源氏物語』に「心の行方は同じこと。何か異なる」とあるように、定家が「海人」そのひととなって、あたかも近現代の手法でもって、「海人」に「実相観入」(対象に深く没入することを示した斎藤茂吉の造語)することで、このような歌が得られたのかもしれないと。定家が、恋の歌の究極を求めるあまりに、生活に手いっぱいで、生活の糧を得ることしか考えられなくなっている海人の心に近づき、ついには思わずなりきってこのように詠んだとしたら、この歌は、有心の体といえるように思いました。

1433読人しらず(再掲)
白波は立ちさわぐともこりずまの浦のみるめは刈らむとぞ思ふ
1434読人しらず(再掲)
さしてゆくかたは湊の波高みうらみてかへる海人の釣舟

「恋歌」の部の最後を飾る二首を再掲しました。「恋歌五」の鑑賞文に書いたように、湊に漕ぎつけることができなくなった平氏の軍が、私には、想起されてなりません。
なぜ、そのようなものが想起されるのか。
1433番は、「こりずまの浦」は、須磨の浦。そして須磨の浦は、一の谷の合戦場でもあるからです。
まず、「須磨」の地は、『源氏物語』が書かれてからの二百年、『源氏物語』ゆかりの地でありつづけてきました。しかし1184年、この須磨の地は、源平の争乱のなかでも凄惨を極めた合戦場となりました。一の谷の戦いです。平氏の陣営は、このときまで、陸に構えることが可能でした。しかし、源義経の軍は、海浜に山の差し迫った須磨の地形を利用して、その平氏の陣営をめがけ、山側から奇襲攻撃を仕掛けたのです。背後は山なので、平氏は安心しきっていました。実際、義経の軍にとっても、山越え中に命を落とす人馬があるほど、危険を伴うゲリラ戦法でした。
一の谷のうわさは、宮廷の人々に生々しく伝わったでしょう。架空の物語である『源氏物語』の、大きな見せ場である地が、現実の争乱により、血塗られた合戦場として上書きされてしまったのです。
新古今の時代の人々にとって、「須磨」は、時代というものに、ひいては戦争というものに、人々の記憶が容赦なく上書きされてゆく、象徴の地となっていたのではないでしょうか。定家は、このことに自覚的だったでしょう。
「須磨」とは「一の谷」なのです。
「須磨」を想起するとき、当時の人々は、同時に「一の谷」を想起しています。海辺の叙景が、「恋歌」の全体を通して、サブリミナル的に差し挟まれることによって、源平の争乱による荒廃がひそかに偲ばれるのです。
これをもって、なぜに海辺の叙景が「恋歌」の随所に盛り込まれているのかという問いの、答えとしたく思います。
「余情妖艶」を求めるだけでは、本当に新しいとはいえないのです。定家は、『古今和歌集』の時代にも、『源氏物語』の時代にも、これまでのどの勅撰集の時代にも存在しなかった、源平の争乱という荒廃、貴族による政権が終焉する歴史的転換点、これらの最も新しい記憶を、叙景にこめて、刻印しようとしたのではないでしょうか。

(4)俊成自賛歌の実景描写

さて、定家の父親であり、和歌の指導者でもあった俊成は、実景をどのように描いたでしょうか。俊成には、これがみずからの代表作であると、自賛した歌があります。

夕されば野辺の秋風身にしみてうづら鳴くなり深草の里
夕暮れになり、野辺の秋風が身にしみて寒く感じられると、あの伊勢物語のウズラが本当に鳴いていますよ、深草の里に。

俊恵が俊成を訪問した折、「ご自身ではどの御作が代表作と思っておいでですか。」と尋ねると、俊成は、『千載和歌集』に所収のこの歌を代表作に挙げました。俊恵はこれが意外でした。そして鴨長明につらつらと打ち明けて、この俊成自賛歌を、こっそり批難したのです。その批難はこうです。

「かの歌は、『身にしみて』と言ふ腰の句のいみじう無念に覚ゆるなり。これほどになりぬる歌は、景気をいひ流して、ただ空に身に染みけむかしと思はせたるこそ、心にくくも優にも侍れ。いみじくいひもてゆきて、歌の詮とすべき節をさはさはと言い表したれば、むげにこと浅くなりぬるなり」とぞ。
(鴨長明「無名抄」)

〈大意〉俊恵が言うには、「俊成殿が自分の代表作だとして挙げた、あの歌は、「身にしみて」という第三句がとても残念に思われます。このようになった歌は、叙景だけを言い流して、身に染みる寒さを想像させるのが、さまになって優美でもございましょう。そこまで言葉に出してしまって、歌の肝心なところをはっきりと言い表してしまっては、むやみに浅い歌になってしまいます」と。

俊恵の、俊成自賛歌批判は、「『身にしみて』まで言い切ってしまったら、余情がないという批判です。そして、俊恵がこのように批判するのは、余情の美学を、「はっきり言葉に出さないで相手にそうと思わせる」ことだと、テクニックを要件化しているからです。これを教条主義といいます。俊恵は、先行作品の存在を、蔑ろにしています。
俊成の、深草の里の歌は、『伊勢物語』を踏まえて詠まれた歌でした。ここで、本歌のある第123段を見ていきましょう。『伊勢物語』、第123段では、男が長年連れ添った妻に飽きてしまい、別れを匂わせて次のように詠みました。

年を経てすみこし里を出でていなばいとど深草野とやなりなむ
私がここを出て行ってしまったら、そうでなくともこの辺りは深草というのに、本当に草ぼうぼうになってしまうのだろうね。

女の返歌は、こうでした。

野とならばうづらとなりて鳴きをらむかりにだにやは君は来ざらむ
あなたがいなくなったら、私、草のなかで、うずらに生まれ変わって鳴いているわ。あなたは決して戻っては来ないでしょうけれど。

男は、この返しを受けて、女のもとを出ていくのをやめました。女のいじらしさに、胸を打たれたのでしょう。
本歌「野とならば」で登場する「うづら」は、『伊勢物語』という架空の物語中の贈答歌、夢の中の夢です。しかし、俊成の歌の「うづら」は実景です。この歌は、あくまでも実景として描いたことが眼目なのです。「身にしみて」は、架空の物語の男と女の世界を、俊成が我が身を通して実感したことを示すために、なくてはならない措辞です。実際に聴いた「うづら」の鳴き声は、哀切で、『伊勢物語』の女の歌が、心をよぎったのでしょう。そして、まさにいま鳴いている実景の「うづら」が、時代を隔てて、誰かに打ち捨てられた女の化身なのではないかと夢想したでしょう。虚構の先行作品があってこそ、実景の「うづら」から哀切なファンタジーが、また新しく立ち上がるという仕掛けです。
優れた先行作品があり、そこに感じ入る、その折々に実在する人々の目線が加わり、先人の築き上げた世界を本(もと)に、その時代の実感をもってして、最先端となるあらたな美が紡ぎだされる。そして、現代人の紡いだ美も、やがて後世に受け継がれ、またあらたな美の生まれる場面が出てきます。連綿と紡がれ、どれ一つとっても、書き割りにはできないでしょう。美を紡ぎだすのは、まぎれもなき実在の生命。そして生命は、はかなく滅びながらも、美は受け継がれていくのです。
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