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(編集中)鬼さん考 7

2024-07-16 22:35:49 | 月鞠の会

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三 超自然の鬼から実体を持つ鬼へ(仮題)

⑵ 『今昔物語集』の鬼説話を分析する

『今昔物語集』(新日本古典文学大系『今昔物語集』校注:小峯和明)を読んでいて、興味深い言葉に出くわしました。平安時代末期に成立したとされる『今昔物語集』全31 巻は1000 話以上の短編を収録しますが、説話自体の収録数だけではなく、『日本説話索引』(清文堂 説話と説話文学の会編)の見出し語「鬼(おに)」に示される出典の件数においても、突出しています。
鬼説話が多いのは、分母の大きなことが第一の理由でしょうが、解説に〈中国では道教がひろまり、仏法と拮抗しあい、融合しあう長い歴史があった。日本の神仏習合と隔離の動向にも近い。道教独自の冥界や他界があった。〉〈道仏混交の要素がきわめてはっきり現れている。〉などと述べられるように、道教と混交した内容が多いことも、理由の一つでしょう。
第三の理由としては、時代がくだって、鬼がいっそう身近な存在となっていき、必ずしも異界の属でなくなってきたことが、挙げられるのではないでしょうか。
本朝部の鬼説話は、総じて43話。
本朝部に記載される鬼は、冥途や異界にとどまらず、私たちの日常生活にも、突如として出現します。
そこで、この43話が、どういった場所、どういった具体物に関係しているかを、次のように分類しました。私たちが、日常生活のどのような場所で、どのようなことをきっかけに鬼出現に遭遇するかを見ていくためです。
この分類を、予備調査とします。「20-15」とあるとき、「巻20第15語」であることを意味します。①~⑨の項目は重複できるものとしました。


【予備調査】
①死、葬式、冥途に関係する鬼…13件/②疫病に関係する鬼…2件/③廃屋、古寺、橋などの境界に関係する鬼…10件/④発光をともなう鬼…2件/⑤雷、蛇など水系に関係する鬼…1件/⑥百鬼夜行など集団の鬼…3件/⑦実在の人間に由来すると考えられる鬼…9件/⑧魂魄。…1件/⑨/火、火花、鍛冶に関係する鬼…3件

この予備調査は、鬼説話43例のすべてが、神仏による霊験譚や超自然現象というわけではないことから、執り行ったものです。
たとえば『日本霊異記』では、ごく現実的にとらえられるできごとでも、あくまでも神仏による霊異として事物を解釈してありました。しかし、『今昔物語集』では、神仏や鬼神によるとしか考えられない不可思議なできごとのほかに、超自然的現象が必ずしも介在しない怪異や、鬼だと思いこんだものの正体が犬や猪や人であったりといった話が、全体の3割ほどにも及ぶとの見当をつけられたからです。そのうえ、神仏による霊験譚や超自然現象のように印象づけをしてあるもののなかにも、鬼ではなく人間による凶悪事件としても説明がつくようなストーリーが、目についたためでした。ですので、この調査は、具体的にどういったことが超自然と結びつくのか、その手がかりを得るために、おこなった調査です。

そして、予備調査をおこないつつ、神仏による霊験譚や超自然現象に由来しない鬼説話、もしくは由来しない可能性のある鬼説話、すなわち、鬼としわざとされているものが、実在の人間に由来する鬼説話を分析するために、43例について、次のような、思想性の分類をおこないました。●○△×は、重複できないものとしました。


【思想性の分類】
●…仏教的な意味合いが強い鬼説話。
まず、鬼出現に際して、超自然的な現象を持つものも、無いものも含めて、仏教的な意味合いであるかどうかを見ました。
同時に、説話自体の、規範意識の強さを見ました。仏教の教義は、戒があるなどして規範意識が強く、国教として、政治に活用されています。ですので、仏教色が強いということは、規範意識を促す意味合いもまた強く、その教訓は、規範意識の強さと比例して、形而上事物への畏怖を前提とするでしょう。
そしてこのとき、道教、修験道、陰陽道など、民間信仰の度合いの強い話であっても、仏教との習合が意図されている話の鬼は、仏教の鬼としてカウントしています。たとえば、31-27「兄弟二人、殖萱草紫菀語」の鬼は、『俊頼髄脳』(前出)を出典とし、道教の魂魄思想を体現する「魄」そのものですが、『俊頼髄脳』では鬼の持てる感情を「あはれび」と表記したのに対し、今昔では、仏教語「慈悲」に置き換えています。このような場合、仏教との習合があると見なしました。
これらは17例(●印)。

○…超自然現象の描出がある鬼説話。
次いで、鬼出現に際して、仏教色の薄いものでも、超自然的な現象を持つものについて調べました。
規範意識に裏打ちされた宗教的な畏怖を前提としなくとも、超自然現象の発生が、何らかの霊的畏怖を生ぜしめると考えたからです。そして、道教、修験道、陰陽道など、民間信仰をバックヤードに持つ話であっても、超自然現象の発生のないときには、出現した鬼に、何らかの実体が持たれる可能性があると考えました。ですので、この点を調べることで、示されている感情が霊的存在への畏怖なのか、現実の事物への恐怖や対抗感情なのかが区別できますし、実体を持つ可能性のある鬼、すなわち人間そのものである可能性の高い鬼を剔出するための、ふるいになると見ました。
これらは13例(○印)。

△…鬼出現について、人為的な事件として説明ができる。超自然現象については「認識の相違」などとして排除しうる鬼説話。
これらは6例(△印)。

×…鬼のいない説話。言葉として「鬼」が出てくるだけで、鬼が出現していないことが明示されている鬼説話。もしくは他出典の同一説話において、鬼のいない鬼説話であることがすでにわかっている鬼説話。
これらは6例(×印)。

ただし、27-14「従東国人、値鬼語」については、③には該当するものの、途中から欠分につき、上記●○△×の観点での詳細を不明としました。また、いずれの観点でも、「←」以下は、新日本古典文学大系『今昔物語集』(校注:小峯和明)の脚注から出典ないし源泉を示すものとして一部を転記しました。


そのうえで、43例のうち、●○△×●印をつけたものと予備調査とを突き合わせた結果は、以下のとおり。

以下は、●もしくは○印のついた説話であり、鬼が出現することで形而上事物への畏怖を表現している説話です。
●12-28「肥後国書生、免羅刹難語」③④⑨……女・巨人・目が光る。口から雷のような光を出す。まず馬を食らう。
●14-35「極楽寺僧、誦仁王経施霊験語」②……誰の目にも留まらなかった僧の仁王経が熱病の悪鬼を払った。人の祈りは清い汚いに依らない。
●14-42「依尊勝陀羅尼験力、遁鬼難語」⑥⑨……大臣の子でいつまでも童子姿で女性のもとに通う男が、百鬼夜行にあたったが、阿闍梨が尊勝陀羅尼を書いてくれたのを衣の頸にかけていたので助かった。
●14-43「依千手陀羅尼験力、遁蛇難語」⑤……日蔵上人が、谷から上がれなくなったところを鳩槃荼鬼(くはんだき)と名乗る鬼神に助けられた。それから行くと、滝つぼに三熱の苦のある蛇が水に打たれて出たり入ったりしている。どんなに苦しいことがあるのだろうと悲しくなって蛇たちのために千手陀羅尼を誦んだ。
●15-4「薬師寺済源僧都、往生語」①……よく仏に仕えたが寺に借りた米を返していなかったので、死ぬときに地獄の使いの鬼が来た。
●15-46「長門国阿武大夫、往生兜率語」①……殺生を業としていたが持経者のおかげで蘇生し、その後善行を重ねて兜率天に往生した。
○16-32「隠形男、依六角堂観音助顕身語」⑥⑨(文中に「槌で打つ」も出てくる)……男は鬼どもの集団からつばをかけられ姿が見えなくなった。牛飼いの姿をした童が男を憑き物に苦しむ姫のところへ連れていき、姫を槌で打つ。その後、男も姫君も病気にならなかった。
●16-36「醍醐僧蓮秀、仕観音得活語」①……三途の川の奪衣婆。←法華験記・中・70
●17-6「地蔵菩薩、値火難自堂語」⑦……毘沙門天に踏まれた天邪鬼。←散逸地蔵菩薩霊験記
●17-25「養造地蔵仏師得活人語」①……病気になって死んだが仏師を養ったことが善根となり蘇生する。
●17-26「買亀放男、依地蔵助得活[語]」①……売り物の布を代価に亀を買って放生した男が、地蔵菩薩の導きにより、蘇生する。冥界で慈悲をかけた女と現世で再会を果たす。←散逸地蔵菩薩霊験記
●17-42「於但馬国古寺毘沙門、伏牛頭鬼助僧語」③←法華験記・中・57
●17-43「籠鞍馬寺遁羅刹鬼難僧語」⑦……女の形をした羅刹鬼に鞍馬寺に籠る修行僧が襲われる。毘沙門天を念じると木が倒れてきて鬼は死ぬ。翌朝、死体を確認する。←散逸鞍馬寺縁起
●17-47「生江世経、仕吉祥天女得富貴語」……吉祥天女の使いの鬼。恐ろしい姿をしているが、しゅだしゅだと呼べば答えて無限に米の湧き出る袋をくれる。
●19-28「僧蓮円、修不軽行救死母苦語①……悪行が積もって死んだ母の後生を、常不軽菩薩の行をもって弔う。母の首を袖に受けて泣く。母もまた泣く…
○20-7「染殿后、為天宮被嬈乱語」⑦……后についた物の怪を祈祷で落とすも后に愛欲の心をおこし、自ら命を絶ち、鬼となることで后との愛欲生活をほしいままにする。●20-15、摂津国殺牛人依放生力従冥途還語」①……鬼神を祀るために牛を供物にしていた人が、死後の世界で牛たちによって膾にされるところ、生前に放生供養をしていたため蘇生が決まる。
○20-18「讃岐国女行冥途、其魂還付他身語」①……死神の鬼が疫病神への供物を食べる。対象者に身代わりを差し出させたが閻魔王を騙すことはできず、。身代わりはもう荼毘に付されてしまったため、対象者の体に身代わりの魂を入れての蘇生となる。←日本霊異記・中・25
●20-19「橘ノ磐島、賂使不至冥途語」①②……大安寺の寺の金を元手に交易中、死神に狙われる。寺を利する途中であることから猶予を受け、鬼を饗応する。牛食、誦経、身代わりの供出を所望され、身代わりが殺されてついに死を免れる。←日本霊異記・中・24
○24-16「安倍晴明、随忠行習道語」⑥
○24-24「玄象琵琶、為鬼被取語」……見えない鬼が琵琶の名器を弾く。音色がどこまでもついてくる。
○27-13「近江国安義橋鬼、噉人語」③……渡辺綱の鬼(茨木童子)退治原話とされる。茨木童子は後述する酒呑童子の配下。
○27-17「東人、宿川原院被取妻語」③……妻を伸びて来た手にひきずりこまれ、無傷のまま殺害される。
○27-18「鬼、現板来人家殺人語」……板状の鬼。
○27-19「鬼、現油瓶形殺人語」……油瓶状の鬼。
○27-22「漁師母、成鬼擬噉女語」⑦
○27-23「播磨国、鬼来人家被射語」①……陰陽師が鬼の家に来るのを予言する。〈然様ノ鬼神ハ、横様ノ非道ノ道ヲバ行カヌ也。只、直シキ道ノ道ヲ行ク也〉と予言された鬼は現れ、「同じ死ぬなら射よう」と射たら、消えた。
○27-35「有光来死人傍野猪、被殺語」①④……鬼ではなく猪だった。 〈死人ノ所ニハ必ズ鬼有リト云フニ、然カ臥シタリケム心、極テ難有シ。野猪ト思ル時ニコソ心安ケレ、其ノ前ハ、只鬼トコソ可思ケレ。〉
○27-36「於播磨国印南野、殺野猪語」①③……鬼ではなく猪だった。 〈葬送ノ所ニ必ズ鬼有ルナリ。〉
●31-27「兄弟二人、殖萱草紫菀語」⑧←『俊頼髄脳』「忘れ草かきもしみみに植ゑたれど鬼のしこ草なほおひにけり」の和歌説話が出典。


以下は、△もしくは×のついた説話であり、怪異と見えたものが出現した鬼のしわざではなく、その可能性も含めて、実在の人間(動物)によるしわざと考えることのできる説話です。
△20-37「耽財、娘為鬼被噉悔語」⑦……財を積まれて娘の結婚を許すが、初夜に娘は頭一つ、指一本を残して食われる。←日本霊異記・中・33では「過去の怨」。
△27-8「於内裏松原、鬼、成人形噉女語」⑦……三人いた女の一人が男との恋の語らいに引かれていった。戻ってこないので見に行く足と手が離れたところにバラバラにされて殺されていた。←三代実録仁和三年八月十七日条
△27-9「参官朝庁弁、為鬼被噉語」⑦……早朝、宮ノ司での勤務中に、血みどろになった頭と持ち物だけを残して殺されていた。扇に本人からダイイングメッセージ。内容不明。
△27-12「於朱雀院、被取袋菓子語」⑦
△27-15「産女行南山科、値鬼逃語」③⑦
△27-16「正親大夫、□(欠字)若時値鬼語」③⑦……正親大夫が宮仕えの女と廃屋であいびき中、鬼に出ていけといわれる。廃屋には鬼が住んでいた。女がその後、病気になったこととの因果関係が不明。
×27-7「在原業平中将女被噉鬼語」③←伊勢物語第6段に真相あり。
×27-44「通鈴鹿山三人、入宿不知堂語」③……〈実ノ鬼ナラムニハ、其ノ庭(その場)ニモ後也トモ平カニハ有ナムヤ。〉
×28-28「尼共、入山食茸舞語」
×28-29「中納言紀長谷雄家顕狗語」……鬼ではなく犬だった。〈実ノ鬼ニ非ネドモ、現ニ人ノ目ニ鬼ト見ユレバ、鬼トハ占いケル也。〉
×28-35「右近馬場殿上人種合語」
×28-44「近江国篠原入墓穴男語」


【分析と解釈】

①今昔27-35「有光来死人傍野猪、被殺語」の結論部には、次のようにあります。


  〈死人ノ所ニハ必ズ鬼有リト云フニ、然カ臥シタリケム心、極テ難有シ。野猪ト思ル時ニコソ心安ケレ、其ノ前ハ、只鬼トコソ可思ケレ。〉


つづく今昔27-36「於播磨国印南野、殺野猪語」には、次のようにあります。


  〈葬送ノ所ニ必ズ鬼有ルナリ。〉


どちらも鬼出現と思って対象を仕留めたら、屍肉を漁りにきた猪だったという話です。つまり、鬼のいない鬼説話です。しかし、「死人のところに必ず鬼がいる」「葬送のところに必ず鬼がいる」という言葉に、当時の人々の見方・考え方が示されています。
おもしろいものです。人々は厄介な問題、そのものを前に、このようなまとめ方をしないし、できません。まのあたりにする恐怖するばかりでしょう。鬼ではなかったとなって、厄介な実在が手を離れたとき、その〇〇について、うわさしつつ共有し、このようなものだとして一般化が進められます。こうした一般化をプロセスに持つほど、鬼出現は、身近な人の死と深く関係し、鬼たちは、誰かが亡くなるたびに、その出現を人々に意識させていたのでしょう。
①の例が、突出するはずです。

②疫病に関係する鬼の例が少なかったのが、意外でした。病気をもたらすものの多くは、「おに」というよりは、「もの」、すなわち物の怪として認識されていたのかもしれません。20-7「染殿后、為天宮被嬈乱語」において、染殿后の病気は憑き物のしわざであり、后の「もの」を祓った徳の高い聖が、后への愛欲から極めて強力な「おに」となるストーリーにおいて、今昔の扱おうとしていた鬼が、物の怪と区別されていたことが、うかがえます。
では、物の怪と区別された「鬼(のしわざ)」とは、どのようなものだったのでしょうか。⑦と併せて⑶にて、後述します。

③の廃屋、古寺、橋などは、市井の人の棲まない地場。日常と非日常の境界です。特に橋は、甚だ凶悪なる鬼の出現地であり、27-13「近江国安義橋鬼、噉人語」は、渡辺綱による鬼(茨木童子)退治の原話ともされています。茨木童子は後述する酒呑童子の配下の鬼であり、『今昔物語集』には、この後の時代、鎌倉や室町時代に造形される鬼説話の舞台となる地や、土台となるストーリーが含まれています。

④は、死体のリンが発光するという科学的な説明を、現代ではつけられるとしても、当時としては超自然の現象であり、畏怖の対象だったでしょう。

⑤ここでは滝つぼに大量の蛇が登場します。鳩槃荼鬼(くはんだき)と名乗る鬼神が登場し、谷から上がれなくなった日蔵上人を肩にかけて助けますが、加害はしません。今昔で蛇神は本朝部より震旦部に見られ、鳩槃荼鬼は、吉野山中の瀧に由来する水神でしょうか。

⑥百鬼夜行とは、化け物の行列。いずれも火を燃やしながら、がやがやとやってきます。

⑦は、17-43「籠鞍馬寺遁羅刹鬼難僧語」、20-7「染殿后、為天宮被嬈乱語」、20-37「耽財、娘為鬼被噉悔語」、27-8「於内裏松原、鬼、成人形噉女語」、27-9「参官朝庁弁、為鬼被噉語」、27-12「於朱雀院、被取袋菓子語」、27-15「産女行南山科、値鬼逃語」、27-22「漁師母、成鬼擬噉女語」の各話が該当します。そのようにとらえた理由を後述します。

⑧拙考にて前述しました。

⑨12-28「肥後国書生、免羅刹難語」の女鬼の口から出る光は、火花を想起させます。14-42「依尊勝陀羅尼験力、遁鬼難語」、16-32「隠形男、依六角堂観音助顕身語」ではいずれも、異形の鬼の集団が、火を燃やしながらガヤガヤとやってきて、特に後者では、鬼たちによって男にかけられた、姿が見えなくなる呪いを解く動作として、童子が姫を槌で打ち、姫は憑き物が落ち、男は姿が見えるようになります。昔の人々は、溶鉱炉の炎や鍛冶の火花に異界を感じていたのでしょうか。


⑶ 事件簿としての 『今昔物語集』

さきに「心の鬼」について触れましたが、紫式部が「祟りではなくて疑心暗鬼に駆られているだけでは?」と看破したように、超自然のできごとのように見せかけて、本当は、人間のしわざではないかと思える話が、とても気になります。鬼のいない鬼説話に、厄介事が一般化されるプロセスを示されるように、人間のしわざであることを鬼のせいにしておくという、持って行きようのうちには、解決の困難な物事に直面したとき、当時の人々がそれをどのように扱おうとしたのかが、示されていそうです。

17-43「籠鞍馬寺遁羅刹鬼難僧語」、20-7「染殿后、為天宮、被嬈乱語」、20-37「耽財、娘為鬼被噉悔語」、27-8「於内裏松原、鬼、成人形噉女語」、27-9「参官朝庁弁、為鬼被噉語」、27-12「於朱雀院、被取袋菓子語」、27-15「産女行南山科、値鬼逃語」、27-22「漁師母、成鬼擬噉女語」について、これらを事件として見た場合、どのようなことが見えてくるか、考えました。








●説話、○説話
17-43「籠鞍馬寺遁羅刹鬼難僧語」で登場する女の鬼は、女の羅刹鬼が襲ってき、激しい攻防ののち、修行僧は毘沙門天に救いを求めました。すると、鬼の上に木が倒れてき、翌朝、鬼は、倒木で死んでいることが確認されます。次の日に死体を確認できたということは、この鬼はもとは人間でしょう。
20-7「染殿后、為天宮被嬈乱語」の鬼は、初めから鬼だったわけではありません。金剛山の聖人が、生前の愛欲を果たすために自ら命を絶って鬼となる、その経緯までがわかります。
この二つの説話の、鬼のポートレートからいえることは、もとは生きた人間であったということです。

△説話
27-12「於朱雀院、被取袋菓子語」は、入れ物にいれた菓子を預かったのに、中身だけを知らないあいだに抜き取られていたという話です。その話は、初めから何も入っていなければ、中身だけを取られたりしないでしょうし、
27-15「産女行南山科、値鬼逃語」は、宮仕えをしていた女が老婆に匿われ人知れず子を産みますが、その老婆を鬼と疑って逃げ出す話です。しかし、女が疑っただけで、鬼らしい犯行が見当たらず、追い詰められた状況のなかで出てきたものを鬼と思い込んだ可能性を捨てられません。
27-16「正親大夫、□若時値鬼語」は、ひとけのない場所で、逢瀬の最中に出てきたものを鬼と思ったことと、その後、女が病気になったこととの因果関係がつかめません。

△説話のうち、以下の3件には、特徴があります。いずれも、いわゆるバラバラ殺人であることです。

20-37「耽財、娘為鬼被噉悔語」(相手が鬼と思わず結婚をゆるし、その初夜に襲われ、女が頭と指一つだけを残す)
27-8「於内裏松原、鬼、成人形噉女語」(恋の語らいに引き入れた女が『襲われ、足と手をバラバラに離して残す)
27-9「参官朝庁弁、為鬼被噉語」(官吏が早朝の出仕中に襲われ、頭と持ち物だけを残す)

超自然的な現象を含みませんが、殺害の状況が残虐きわまりないため、超常的現象に匹敵する衝撃をもたらします。

よほどの怨みを買っていたり、貴人や権力者が死体愛好者であったり、漢方薬として贓物を求めていたり、あるいは、暗殺不履行の見せかけ工作に、殺害証拠としての代替死体(部分)を必要とするなど。つまり、バラバラ殺人だからといって、超自然現象とは限らないのです。人間のしわざであるところまで、超自然現象と見せかける、このような演出は、説話と実社会とのかかわりを希薄にします。

超自然現象としか思われない、不可思議なことほど、原話が存在するはずです。なぜなら、もととなる実話なくして、貴族の宮廷生活の平穏を破るようなバラバラ殺人のストーリーを考えついても、おなじ貴族である周囲の人々に受け入れさせることが困難だからです。
たとえば、『伊勢物語』第6段が書かれたのと年代の近そうな27-8「於内裏松原、鬼、成人形噉女語」(887年)の出典は、『日本三代実録』の仁和三年(887年)。
27-9「参官朝庁弁、為鬼被噉語」は出典未詳ですが、今昔によると、清和天皇の頃。このどちらか、あるいは両方が実話として実存して、のちに、『伊勢物語』第6段が「鬼」の表現を伴って書かれたと推察すれば、自然なように思われます。
20-37「耽財、娘為鬼被噉悔語」については、因果応報が示されており、仏教説話の側面もまた、ありますが、出典は『日本霊異記』の中巻33縁。霊異記の中巻33縁に示されているわざ歌が、今昔の20-37には除外されており、このできごとへの解釈が違ってきます。出典では前述したように、殺害された娘が主体となって、娘の「過去の怨」を報としますが、その因果関係については記されていません。今昔では、娘ではなく、題名に「たからにふけりて、むすめをおにのためにくはれてくいること」となっているように、親の物欲が原因となって娘を殺害されるという、親が主体の因果応報です。
超自然の現象についてですが、この説話で超自然的に感じられるのは、財物が獣骨に変わり果てていたくだりです。しかし、翌朝まで車に乗せたままだったのだから、よく見ていなかったことがわかります。つまり、犯人は、初めから獣骨だったのを、見せかけていたととらえられます。

非常に驚いたことやどうしようもないことを、鬼のしわざと考えようとした痕跡が、今昔では、自覚的に見られます。

今昔20-37が親の因果による現報とし、霊異記中巻33縁では娘本人による過去の怨とします。娘にも親にも、悪根といえるほどの悪業を見出だせないから、このように相違するのであって、本説話を仏教説話と仕立てながらも、超自然による現象としてその因果関係を説明しきることに、つまずいているのです。恐ろしい目に遭うのは、なぜかということ。






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(未定稿)鬼さん考 6

2024-06-30 20:53:36 | 月鞠の会
三 超自然の鬼から実体を持つ鬼へ(仮題)


⑴ 心の鬼

平安時代の和歌や日記には、女性の作品を中心に、「心の鬼」という言葉がしばしば使われるようになります。この言葉は連語で、小型のでも、古語辞典の見出し語にある言葉です。それなのに、仏教語辞典の見出し語には、ありません。
その辞書義は、①疑心暗鬼、②良心の呵責、あるいは通俗的な意味合いで、煩悩や迷いの意味を持たせる場合もあるようです。用例は『蜻蛉日記』(974年頃)、『一条摂政集』(992年頃)、『枕草子』(1001年頃)、『源氏物語』(1008年頃)、『紫式部集』、『浜松中納言物語』(1052年頃)などに見られます。(※成立年代は、「国史大辞典」のほか「ベネッセ全訳古語辞典」による。)
そもそも「鬼」は、死霊を意味する漢字ですから、仏教語辞典で「鬼」を引けば、その項目は必ずあります。しかし、「心の鬼」は、仏教との関係も薄いようで、「古語大辞典 コンパクト版」(小学館。編者:中田祝夫 和田利政 北原保雄)には「平安時代の物語や歌に散見する語であるが、出典は未詳。列子説符口義に「諺曰疑心暗鬼」とあり、天台軌範に「心迷生暗鬼」と関係あるか。」と記載されます。列子説符口義は、道教の書『列子』「説符」(春秋戦国時代)の注釈書で、時代は南宋。平安時代よりも後ですから、関係があるとしても、「心の鬼」の由来とまではいえません。

古語辞典の用例をヒントに、原文に当たっていきましょう。

  〈心の鬼は、もし、ここ近きところに障りありて、帰されてやあらむと思ふに、人はさりげなけれど、うちとけずこそ思ひ明かしつれ。〉(『蜻蛉日記』新潮日本古典集成)


大意 疑心暗鬼で思うことには、もし、(いま突然訪ねてきたあの人が)、ここに近い別な女に通って、何か障りがあって帰されて私のところに寄ったのかしらと思うと、あの人はしれっとしていても、私はこだわりが解けずに考えこんで朝になってしまった。

「あの人」とは通い婚の夫、兼家。夫が別な女性に心を移して、すっかり離れたかと思ったら、戻ってきたりもして、疑心暗鬼の募るさまを、「心の鬼」と表現しました。


  〈絵に、物の怪つきたる女のみにくきかたかきたるうしろに、鬼になりたるもとの妻を、小法師のしばりたるかたかきて、男は経読みて物の怪せめたるところを見て
  
   亡き人にかごとをかけてわずらふもおのが心の鬼にやはあらぬ〉
    返し
   ことわりや君が心の闇なれば鬼の影とはしるく見ゆらむ〉(『紫式部集』新潮日本古典集成)


大意 絵に、物の怪のついた今の妻の醜い姿を書いた背後に、鬼の姿になった前の妻を小法師が縛っているさまを描いて、男はお経を読んで、物の怪を退散させようとしているのを見て
  今の妻についた物の怪を亡くなった前の妻のせいにして、苦しめられているというのも、結局は、自分自身の疑心暗鬼に苦しめられているということではないかしら。
   返し
  もっともです。あなたさまのお心が闇でいらっしゃるから、その鬼の姿を、しかとお認めになられるのでしょう。


死霊の祟りを信じる人が、絵に描かれています。紫式部は、その絵を指しつつ、祟られたと思いこむ人の疑心暗鬼を、心の鬼として抉り出します。この歌に付いた返しを、校注者、山本利達氏は侍女からの返しであろうと推察します。ここで、宮中の女たちが精神世界に関心を持ち、自覚的であったことに驚かされるのです。『蜻蛉日記』でも『紫式部集』でも、実人生に根ざした苦悩を生きている女人の面差しが、言葉の背後に、浮かび上がってくるようです。

『源氏物語』にも「心の鬼」が出現します。六条御息所の生霊に取り憑かれて、光源氏の正妻、葵の上の苦しむさまを描いています。


  〈里におはするほどなりければ、忍びて見たまひて、ほのめかしたる気色を心の鬼にしるく見たまひて、さればよと思すもいといみじ。〉(『源氏物語』新編古典文学全集)


大意 御息所は私邸にいらっしゃるときだったので、(源氏からのやんわりお断りのお手紙を)こっそりご覧になって、その本意を、(生霊となった)心のやましさゆえにはっきりとご理解になられて、そうだろうなあとお思いになるのも、まことに情けない。

六条御息所は、光源氏の正妻、葵の上に取り憑いて苦しめ、愛人ゆえの屈辱を晴らそうとしました。しかし「心の鬼」は、怨霊ではありません。良心の呵責の意味です。
このように、「心の鬼」は、超自然現象でも霊体でもなく、日常生活における、ごく普通の人間の、ネガティブではあっても、ごく普通の思考そのものを指していたのです。
超自然現象や逸脱者を表した「おに」が、日常生活の思考そのものを指す連語に採り入れられたのは、なぜだったのでしょうか。
つまり、平安時代の人々は、何を見て、どのように、人の心のなかに鬼のひそむのを、感じるようになったのでしょうか。
「心の鬼」が、直接に仏典に由来しなくとも、仏教が日常生活に浸透していたことが、やはり、ヒントになるように思います。たとえば、次に挙げる「毘沙門天王功徳経」のなかでは、人間の悪業煩悩を、「鬼」と呼んでいます。


  〈そのときに阿難一心に掌を合わせて仏に白して言さく、なんの因縁を以て此毘沙門天王は身に金甲を被し、左の手に宝塔を捧げ、右の手に如意宝珠を取りて捧げ、左右の足下に羅刹毘闍舎鬼(らせつびしゃじゃき)を趺むや。〉

  〈仏阿難に告げてのたまわく、此毘沙門天王は、七万八千億の諸仏の護持仏法之兵の士なり。左の手に宝塔を捧ぐるは、普集功徳微妙(ふしゅうくどくびみょう)と名づく宝塔之内には八万四千の法蔵十二部経の文義を具し、然して見る者の無量の智慧を得る。右の手に如意宝珠を取りて棒ぐるは、震多摩尼珠宝(しんたまにしゅほう)と名づく飲食衣服無量の財宝を涌出す。身に金甲を被(ひ)するは、四魔之軍を除く為なり。両毘は悪業煩悩(あくごうぼんのう)を降伏せんが為に趺む所なり。 〉(「仏説毘沙門天王功徳経 : 訓点」より。国立国会図書館デジタルコレクション)


当時、観音信仰がまず広まり、京都の鞍馬寺を発祥地として、770年頃から毘沙門信仰が広まるようになりました。平安時代の半ばともなりますと、鞍馬寺は、『枕草子』にも登場する人気のお寺です。観音信仰に次いで、毘沙門信仰はポピュラーなものとなっていましたから、毘沙門天が煩悩を鬼として踏みつけている御形を見ては、煩悩は心のなかにあるなぁと、胸に手を当てるのが、参詣の人々の、自然な物の思いようではなかったでしょうか。

また、『蜻蛉日記』に先立つ頃、庚申信仰が広がり始めていました。天台宗の僧侶、浄蔵貴所による八坂庚申堂の建立は、900年代の半ば。山上憶良が挙げていた『抱朴子』に、庚申信仰の三尸について記載があります。


  〈又言身中有三尸。三尸之為物雖無形而実霊鬼神之屬也。欲使一早死。此尸當得作鬼自放縦遊行饗人祭酧。是以毎到庚申之日輙上天白司令道人所為過失。又月晦之夜竈神亦上天白人罪状。〉 (抱朴子内篇 第六微旨)


抱朴子は言います。「身中に三尸がいる。三尸に形は無いが、霊体であり鬼神の仲間である。その人を早死にさせようとして、欲望や本能をほしいままにさせる」、つまり、「身中の鬼」が、『蜻蛉日記』に先立つ頃、信仰対象として広まりつつあったのです。「身」に鬼がいるとなれば「心」にはどうかと考えの向かうのが、これもまた、自然な物の思いようではないでしょうか。

「心の鬼」は、やはり人々が、信仰生活を持つゆえに自らを内観し、先行作品に依拠せずして、おのずから醸成された言葉ではないかと、見当をつけられそうです。









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(未定稿)鬼さん考 5

2024-05-19 18:58:52 | 月鞠の会
二 「鬼」の表現をめぐって、死生観を探る

⑶ 中古の時代の死生観――和歌における自然物の感じ方

この章では、輪廻転生を教義とする仏教思想と、本来相容れないはずの魂魄の思想(本考3)が、和歌説話において共存していたこと、日本文学では、死霊ではなく生霊が、遊離魂としてはたらきかけると構想されるようになり、和歌に詠まれる愛の世界を支えるようになったことを述べます。

まず、魂魄の思想が、和歌の解釈に援用されるようになった例を挙げましょう。

『万葉集』に、次のような歌があります。現代語訳については、新編古典文学全集『俊頼髄脳』(1111-1115年の間に成立)の校注訳者、橋本不美男氏の現代語訳どおりに引用します。


  〈3076 わすれ草かきもしみみに植ゑたれど鬼のしこぐさなほおひにけり〉
現代語訳
  〈忘れ草を垣根いっぱいに植えたのだが、あの人を忘れられない。やはり忘れ草ではなく鬼の醜草がいっそう生えたのだ。〉


この歌には、後代、『俊頼髄脳』において「わすれ草VS鬼のしこぐさ」の故事が添えられました。


  〈鬼のしこ草といへるは、むかし、人の親、子を二人もたりけり。親うせたるのち、恋ひ悲しぶこと、年をふれども忘らるることなし。兄の男、(中略)「ただにては、思ひなぐさむべきやうもなし。萱草(わすれぐさ)という草こそ、人の思ひをば忘らかすなれ」とて、萱草を、その塚のほとりに植ゑつ。〉〈この弟の男、(中略)「我は忘れ申さじ」とて、「紫苑といへる草こそ、心におぼゆることは忘れざなれ」とて、紫苑を、塚のほとりに植ゑてみければ、いよいよ忘るる事なくて、日をへてしあるきしけるを見て、塚のうちに声ありて、「我は、そこのかばねをまもる鬼なり。ねがはくはおそるる事なかれ。君をまもらむと思ふ。」と言ひければ、おそりながら聞き居りければ、「君は親に孝ある事、年月を送れども、かはる事なし。兄のぬしは、おなじく恋ひ悲しみて見えしかど、思ひ忘れ草を植ゑて、そのしるしを得たり。そこは、紫苑を植ゑて、またそのしるしを得たり。心ざしねんごろにして、あはれぶ所すくなからず。我、鬼のかたちを得たれども、物をあはれぶ心あり。また、日のうちの事を、さとる事あり。見えむ所あらば、夢をもちて示さむ」と言ひて、声やみ、またそののち、日のうちにあるべき事を、夢に見ることおこたりなし。〉(『俊頼髄脳』新編古典文学全集)


大意 鬼のしこ草のいわれというのは、こうである。昔、子を二人持った親が、亡くなった。二人とも、亡くなった親を恋い悲しみ、年月が経っても忘れることがない。兄は、忘れ草を墓のそばに植えて、悲しみを忘れようとした。弟は、「私はお忘れいたすまい」といって、「紫苑という草が、心に思うことを忘れさせない草であった」といって、紫苑を墓のそばに植えてみたところ、ますます忘れることがなくなって、毎日墓参を欠かさない。それを見て、墓の中から声がした。「私はあなたの親の屍をまもる鬼である。怖がらないでほしい。あなたを守ろうと思う。」というので、恐る恐る聞いていると、「あなたの親孝行は、年月を経ても変わらない。お兄さんも、あなたと同じように悲しんで、悲しみを忘れようとしてわすれ草を植えて、願いがかなった。あなたは、紫苑を植えて、またその願いがかなった。あなたの亡き親への思いの深さは、まことに行き届いて、少なからず心を動かされる。私は鬼の身ではあるが、物事に感動する心を持っている。それに、その日のうちに起こることを予知できる。わかることがあれば、あなたに、夢で知らせよう」といって、声はやみ、それから弟は、その日に起こることを夢に見るようになった。

ここでの鬼は、「屍をまもる鬼」。つまり、死者の霊のうち、「魄」のほうです。
本考3で述べたように、古代の中国の人々は、人が死ぬと、その霊体は魂と魄とに分離して、魂は天に昇り、魄は屍のそばに残って屍を守ると考えました。ここでの「鬼」は、まことに死者の霊というかたちで登場し、そしてこの鬼は、自分語りに「物をあわれぶ心」、物事に感動する心があるといいます。
この鬼の自分語りは、傍線部に『古今和歌集』「仮名序」の〈目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ〉のくだりを、想起させます。
『俊頼髄脳』が「わすれ草VS鬼のしこぐさ」の故事をどこから持ってきたのか詳らかではありませんが、『俊頼髄脳』と同時代の『今昔物語集』巻31第27では、この和歌説話を出典とし、「物をあはれぶ心」を「慈悲」という仏教語に置き換えることで仏教化しています。

「魂魄」といえば、「長恨歌」に次のようなくだりがあります。
「長恨歌」は、806年、唐の詩人、白居易の作。楊貴妃が没し、白居易は、愛する女性に死なれた玄宗皇帝の悲しみを、長編の漢詩に詠みました。その一節です。


  〈
  夕殿蛍飛思悄然
  孤灯挑尽未成眠
  遅遅鐘鼓初長夜
  耿耿星河欲曙天
  鴛鴦瓦冷霜華重
  翡翠衾寒誰与共
  悠悠生死別経年
  魂魄不曾来入夢
  〉


大意
夕殿に蛍が飛ぶと、思いは悲しみに沈んでゆきます。
灯はもうこの部屋一つだけとなり、燃やしても燃やしても、まだ眠ることができずにいます。
時を告げる鐘鼓がゆっくりと響くようになった夜長の秋に、
光り輝いていた天の川は、はや、明けてゆく朝の光に、のまれようとしています。
おしどりを形どった瓦に冷たい霜がきらきらと重なり、
かわせみが描かれた寝具は、共寝するあなたがいなくて、寒いものです。
あなたが亡くなって、あの世とこの世に隔たった、はるかなお別れをして、すっかり年月が経ちました。
あなたの身も心も、まだ一度も、私の夢に入ってきてはくれません。

私はここに、『伊勢物語』45段を想起しました。
まず、『新校注 伊勢物語』(和泉書院。著者 片桐洋一、田中まき)から本文を引用し、大意を次のようにまとめました。連番は算用数字にして、歌の冒頭に付け替えています。


  〈昔、男有りけり。人のむすめのかしづく、いかで、この男に物言はむと思ひけり。うち出でむこと、かたくやありけむ、物病みになりて、死ぬべき時に、「かくこそ思ひしか」と言ひけるを、親聞きつけて、泣く泣く告げたりければ、まどひ来たりけれど、死にければ、つれづれとこもりをりけり。時は水無月のつごもり、いと暑きころほひに、宵はあそびをりて、夜ふけて、やや涼しき風吹きけり。蛍、高く飛び上がる。この男、見臥せりて、

  84 ゆく蛍雲のうへまで去ぬべくは秋風ふくと雁に告げこせ〉
  85 暮れがたき夏の日ぐらしながむればそのこととなく物ぞ悲しき〉


大意 昔、あるところに、一人の男がおりました。両親に大切に育てられた良家の娘が、その男を好きになり、片思いのまま言い出せずに思い詰めて、とうとう病気になりました。臨終の際、あの人を、私こんなに好きだったのと、誰かに話したのを両親が聞きつけ、泣きながら、男にそれを告げ知らせました。男は、我を忘れて女のもとに駆けつけますが、女は、すでに息絶えていました。そして男は、死の穢れに触れてか、女の家で、することもなく喪に服しておりました。時は六月の末日、とても暑い頃で、夜には鎮魂の音楽を奏でるのが聴こえてきます。夜が深まり、少し涼しくなって、蛍が高く飛びあがりました。男は、横になったまま飛び交う蛍を見上げて、歌を詠みました。

84 飛んでゆく蛍よ。雲の上までゆけるのだったら、地上は秋風が吹いて涼しくなったよ、だから、帰っておいでと伝えてくれないか。
85 なかなか暮れきらない夏の日を、一日何もしないでぼんやりしていると、あなたのことだというのではないが、悲しい気持ちになってしかたがないよ。

片桐洋一氏、田中まき氏による同書には、〈雁は死者の世界から飛び来るものと考えられていた〉とあります。秋山虔氏の「ゆく蛍」の校注(新大系『伊勢物語』)では、〈雁は秋に飛来する渡り鳥だが、亡き女の霊魂をも暗示する。〉〈うち明けられぬ片思いの果てに病み死んでいった女のために喪屋に籠る男の目に、闇のなかを飛び交う蛍は女の霊魂といった印象。その蛍への呼びかけは、異界の亡き女からの雁信の願いをこめている。〉と述べられます。

蛍飛、孤灯、星河。徐々に天を仰いでいくこの目線は、『伊勢物語』の男が横になったまま蛍を目で追いかけた目線と、その動きが重なります。そして鴛鴦瓦、翡翠衾と、下がってきた目線は、屋内、さらに内面へ。蛍は天を飛翔しても私の寝床、夢の中まで来てはくれない。「蛍」には、亡き楊貴妃の「魂魄」が重ねられています。

平安時代の貴族に好んで朗詠された詩歌を集めたソングブック、『和漢朗詠集』には、「長恨歌」を始め白居易の作品がきわめて多数収められています。『伊勢物語』45段が「長恨歌」を踏まえたことは容易に想像され、飛び交う「蛍」という自然物に、亡くなった女の霊を見ていることは、疑いがないでしょう。『伊勢物語』では、ここにさらに、雁という飛来する自然物をも重ねています。この雁もまた、天へ昇ってしまった女の霊、そのものではありませんか。

そこで私は、このように考えてしまうのです。
「魂魄」の「魂」は、霊体のうち、天へ到達し、「魄」は、身体を離れないといいます。
『伊勢物語』45段の作者は、「長恨歌」の「魂魄」という表現を発展させたのではないでしょうか。すなわち雁に、天上に到達した女の「魂」を、そして蛍に、屍を離れずにただよう女の「魄」ーーなきがらに寄り添う生命の揺曳を、見立てたのではないでしょうか。
「蛍」に限らず、『伊勢物語』には、魂が肉体を離れて遊離することを思わせる段が、他にもあります。59段がそうです。いったん死んだ男が蘇生して、その遊離魂が天の河までいちどは昇ったことを示す歌を詠みます。110段にも、女を思うあまり、男の魂が抜けだしたことを示す歌があります。(参考:「國語國文」一〇六七号「《毘沙門の本地》をめぐって」出雲路修著)

『古今和歌集』で、遊離魂が描かれているのは、恋歌二にある、次のような歌。


  〈570 恋しきにわびて魂まどひなば空しきからの名にや残らむ よみ人しらず〉


大意 恋しさのあまり、思い悩んで魂がさまよい出てしまったら、恋のために身を空っぽの抜けがらにしたという評判だけが残るのでしょうね。


生きた身から魂がさまよい出るという思想は、『伊勢物語』にも『古今和歌集』にも、すでに存在しますが、ここでは魂がさまよい出てしまった身を「むなしきから」として、中空から見下ろすような視線を注いでいます。

後代では、『後拾遺集』(1086年)の、著名な歌を挙げましょう。


  〈1162 もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づるたまかとぞ見る 和泉式部〉


大意 男に忘れられて、ここに来ています。沢(ここでは御手洗川。貴船神社に男の心変わりのを訴えた折の詠歌。)の蛍を見ても、私の体からさまよい出てしまった魂かと思えてきます。それほどまでに思い悩んでいるのです。

同時代、紫式部が『源氏物語』に、女の、愛ゆえの生霊の跋扈を描いています。霊魂は、生きたままでも身体を離れうるものとして積極的に描かれるようになりますが、『源氏物語』では、生霊がたださまようだけでなく、人を殺めるまでになります。生霊が取り憑けば、誰彼を殺しうるというとらえ方に至ったのは、非常に新鮮な進展であるように思います。

その出典を明確にたどれないとしても、平安時代末期の『俊頼髄脳』では、「わすれ草VS鬼のしこくさ」の万葉歌の背景に、「魂魄の思想」をみました。万葉集3076番を古例とした場合、『古今和歌集』570番、『伊勢物語』45段、『後拾遺集』1162番のように、生きたままの身体から分離する遊離魂の思想として、発展的に継承されたと見るべきではないでしょうか。

霊体が身体から分離するという思想が、仏教思想と矛盾しない感じさせ方で、和歌や和歌説話(和歌物語)に発展したのは、なぜでしょう。
それは、死霊ではなく、生霊というかたちをとらせるようになったからではないでしょうか。
つまり遊離した魂に、帰っていく肉体を存在せしめ、日常への帰還を可能にしたことで、物語の進行上のつじつまを合わせられるからでしょう。
その一方で、詩歌は、あらかじめ説明がつくものを扱うジャンルではありません。
和歌が生まれるとき必要なのは、他者への説明がつくことではなく、対象に実体的な感覚を持ち得ることでありましょう。つまり、魂であれ魄であれ、膚身に感じられてこそなのです。
たとえ説明がつかなくても、そのように感じられるときに、言葉にすることでそのものを在らしめるのが、詩歌でありましょう。(本考1)
古人は、恋焦がれて、生ける身から離れてしまう「たましい」を、実際に感じていたのでしょう。
だからこそ、歌が生まれたのでしょう。

『古事記』の次の記述を挙げます。

  〈又食物乞大氣津比賣神、爾大氣都比賣、自鼻口及尻、種種味物取出而、種種作具而進時、速須佐之男命、立伺其態、爲穢汚而奉進、乃殺其大宜津比賣神。故、所殺神於身生物者、於頭生蠶、於二目生稻種、於二耳生粟、於鼻生小豆、於陰生麥、於尻生大豆。故是神產巢日御祖命、令取茲、成種。〉(『古事記』上巻三)


記紀では、死後のイザナミの腹の上に雷が発生したり(本考2)、オオゲツヒメの死体からさまざまな穀物が生まれたり、死によって自然物が創造され生長するというかたちがありました。前者の雷は、妻のイザナミに代わって夫のイザナキを追いかけますし、後者のオオゲツヒメは死後、食物神であることの本質を変えずして、五穀豊穣の女神へと発展する説話であると見られます。

要するに、私たちは、ずいぶん古代から、単にその死によってその本質を損なうことないと考えつつ、生命は、その死後、自然物によって何らかの形で代理・代弁されたり、引き継がれたりすることが可能だと、とらえていたのではないでしょうか。

あらためて、奥村恆哉氏の解説(新潮日本古典集成『古今和歌集』)を引用しておきます。


  〈ほかならぬ『古今集』仮名序は、日本の歌人、紀貫之の言葉であるというところが肝心なのだ。貫之の思想を、単純に中国思想に還元し、それで万事畢ったと考えては、重大な見落としが出ることになるだろう。〉
  〈仮名序の書き出しは、和歌の本質にかかわった重要な箇所であるが、細かく見ると、「花に鳴く鶯」「水にすむ蛙」という言い方には、的確な出典は見当たらない。ここには明らかに、古い日本の汎神論的思考を読みとることができる。〉

また奥村氏は、『古今和歌集』「仮名序」の〈力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思わせ、男女の中をもやわらげ、猛きもののふの心を慰むるは歌なり。〉のくだりについても、同解説中で、次のように述べます。(本稿の序文に引用した箇所と重なります。)


  〈語としては、漢語「鬼神」と大和言葉「おにがみ」とが、中身まで同じだと考えては性急にすぎるのだ。前者は死者の霊であり、後者は記紀の神話に出てくる、名も記されなかった諸々の「かみ」である。漢語「鬼神」を、「おにがみ」と訓むところで、意味深長な日本化が行われたのである。〉


奥村氏の〈意味深長な日本化〉という言葉に、『古今和歌集』の意図の絶妙さが、見え隠れします。『古今和歌集』は、「日本文化とは、日本の歌とは何か」を目がけた国書です。『古今和歌集』の意図とは、いったん取り入れた中国の文化を排除してしまおうとの意図ではなく、外的な環境からさまざまに影響を受けながら成り立ってきたことを認め、日本の詩歌、日本の自然と人間のありようから、日本化できるものを日本のものとし、アイデンティファイする、その意図だったでしょう。

さて、その『古今和歌集』において、「古い日本の汎神論的思考」とは、どのようなものだったでしょうか。


 〈849 時鳥今朝なく声におどろけば君に別れしときにぞありける 紀貫之〉
 〈855 なき人の宿にかよはば時鳥かけて音にのみ泣くと告げなむ よみ人知らず〉


大意 
849 今朝、ホトトギスの鳴く声を耳にして、はっとしましたよ。去年のきょう、あなたは亡くなられたのでした。
855 亡くなったあの人の、冥途の宿に通うというホトトギスよ。私が、ずっと心から忘れないで、泣いてばかりいると、あの人に伝えてくださいな。

「巻第十六 哀傷歌」から引きました。
これらの歌について、同書の校注に奥村氏は、〈時鳥が現世と冥途とを行き来するという『十王経』の考え方を踏まえる。〉としています。

ホトトギスは、キョッキョッキョッ……という鳴き声。しかも、鳴き止まないという鳥で、昼間だけでなく夜通しでも鳴くことから、夏の部には、なぜそうまでして鳴くのかと、観入する歌が多く見られます。『古今和歌集』は、日文研の和歌データべースで全1111首中、「ほとときす」のヒット52件。全体の4.68%に、ホトトギスが詠まれています。ちなみに『万葉集』では全4516首中、3.38%。『古今和歌集』ではその夏の部で、全34首中なんと28首がホトトギスの歌、82%です。『万葉集』でも『古今和歌集』でも、描かれた自然物のなかで、「ホトトギス」の愛されようは、飛び抜けた件数の多さです。

『十王経』は、唐代の中国や平安時代の日本で作られた経です。ここでは、日本で作られた『地蔵菩薩発心因縁十王経』の国書データベース(国文学資料館)に当たってみます。(原文中の句点、引用符、注記は筆者。■★は筆者無学につき不明字。★★は「カンロウ」の読み仮名あり。)


  〈至門閞樹下。樹有荊棘■(うかんむりに「死」)如■(かねへんにはつがしらに似た部分の下に「手」)刃、二鳥栖掌。一名無常鳥。二名抜目鳥。我汝旧里化成★★示怪語、鳴別都頓宜寿。此鳥近呉語其祈家命鳴。我汝旧里化成烏鳥示怪語、鳴阿和薩加。此鳥遠呉語病来将命尽。〉


冥界の門に生える棘のある樹に二種類の鳥が棲みついており、それが、死者の罪業に対して責め苦を与える霊鳥であるそうです。一つめの鳥は無常鳥と名付けられ「別都頓宜寿(ホトトギス)」と鳴き、死者の生前、身近なところ(旧里)にも、カンロウの姿をして出現しています。二つめの鳥は目抜鳥と名付けられ、カラスの姿をしています。

中国の古典では、霊獣はたいてい空想上の産物であり、現実離れしたファンタジックな姿形を持つのに対し、日本の古典では、実生活のなかで身近に目にする生き物を、その姿を変えずに霊獣としてあてがうのです。このことが、注目すべきポイントではないでしょうか。


さて、部立「哀傷歌」は、全34首中、貫之の作が5首という多さ。この部立に、貫之の思い入れが感じられます。そして、壬生忠岑4首、紀友則2首を、この部立に入集。友則は『古今和歌集』の完成を待たずに、送られる側ともなり、貫之5首、忠岑4首のなかから哀傷を受けています。親友でもあった友則への貫之の哀傷は、こころが奔りやまぬという詠みぶりで、次のようなものです。


  〈839 明日知らぬわが身と思へど暮れぬ間の今日は人こそ悲しかりけれ 紀貫之〉


大意 あすは自分がどうなるともわからないのだが、今日はまだ生きている。その今日のうちは、亡くなってしまった友のことが、ただただ悲しくてならない。〉


さきのホトトギスの849番と比べてみましょう。849番は、前出した藤原基経という要人の弟が亡くなって、一年経ったというその日の歌。貫之は、ホトトギスは冥途とこの世を結ぶという霊獣なだけあって、亡き人に代わってその命日を告げ知らせたと詠みました。架空の生物ではなく、現実のホトトギスをそのまま霊獣として受け止めています。「悲しかりけれ」と叫ばずにいられない839番と比べれば、ホトトギスの849番は、言葉のあっせんに十二分に理知がはたらいていますから、ここでなされているのは、感情に突き動かされての詩的飛躍ではないでしょう。つまり、ホトトギスが冥途の使い、霊獣であることは、当時の社会通念ともなっていたのでしょう。

「哀傷歌」にある、他の歌も見ていきましょう。


  〈853 君が植ゑしひとむらすすき虫の音のしげき野辺ともなりにけるかな 御春有助〉

大意 住む人がいなくなった邸は荒れ果てて、お庭に植えられた一むらのすすきが茂りに茂って、虫たちが思う存分に鳴いていますよ。

この歌は、荒れ果てた庭で、虫たちが鎮魂の音楽をさかんに奏でているとも受け取れますし、オーケストラを奏でることで、虫たちが、庭のさまを痛ましく思う作者の悲しい気持ちを代弁しているとも受け取れます。


  〈831 空蝉は殻を見つつもなぐさめつ 深草のやま 煙だに立て 僧都勝延〉
  〈832 深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け 上野岑雄〉


大意
831 はかない蝉の抜け殻でも、あればその殻を見ながら、お姿を思い出して心が慰められもするのに、深草の山に埋葬してしまったので、何も残りはしない。山よ、せめて形見の煙ぐらい、立ててみせなさいよ。
832 深草の野辺の桜の木よ。もし、おまえに心があるならば、今年の春だけは、墨染めに花を咲かせてほしい。私と同じ、悲しい気持ちでいてほしいのです。

831・832番は、いずれも当時の摂政・関白、藤原基経が亡くなったのを受けての歌。
831番は、蝉の抜け殻を、現代人はどう見るでしょう。茶色くてかさかさして、風が吹いただけでくしゃりと潰れてしまいそうで、気持ちがわるいと思う人のほうが多いかもしれません。しかし、その壊れやすさを、この時代の人々は、美質として愛しました。抜け殻に生命の名残を見て、いとおしいと感じたのです。
832番は、モノクロームの桜、実際には存在し得ないものの像を、作者は幻視しました。死という非日常が招きよせる「墨染めの桜」は、悲しみ極まるところの、ばけものでしょう。そのような怪異をひきおこしたいと願ってしまうほど、悲しいというのです。

こうした、はかないもののなかでもはかない自然物への観入、そのような自然物に一体的なることへの希求こそが、「古い日本の汎神論的思考」として、古代人に、鮮烈に持たれていたのではないでしょうか。
『古今和歌集』巻二十「神遊びの歌」から、その詞書「ひるめの歌(天照大神を祭る歌)」を一首、紹介しておきます。


  〈1080 ささのくま 檜隈川に 駒とめて しばし水かへ かげをだに見む〉


大意 ささのくまの檜隈川に、馬をとめて、馬に、しばらく水を飲ませてやってくださいな。天照大神様、せめて、水にうつるあなたのお姿を、そのあいだ、私に拝ませてやってください。

この歌は、『万葉集』の〈3097 さひのくま 檜隈川に馬とどめ馬に水かへ我よそに見む〉が伝承され、神遊びの歌となったものです。本文訳に、そのように明示はされないのですが、この大意では、「かげ」を、水にうつる太陽神としました。奥村氏の解説によると、水に映ったものの影は、〈『古今集』の特別な嗜好〉であるとのこと。太陽神の「かげ」を拝ませてくださいという歌です。しかし、目を焼かれるため、太陽を直接に見ることはできません。ですので、水かがみをとおして、馬に水を飲ませるあいだ、そっと、拝んでいるのではないでしょうか。
『万葉集』での部立は「寄物陳思」。「寄物陳思」という部立から、伝承されるうち天照大神を祭る歌として、「神遊びの歌」の部立に移行しています。「寄物陳思」は、「物に寄せて思いを陳べる」意。自然物に託して思いが陳べる、この様式が、伝承を経て洗練され、異界や死生観を表出しうる様式となっていったように思われます。







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(未定稿)鬼さん考 4

2024-04-20 16:03:02 | 月鞠の会
二 「鬼」の表現をめぐって、死生観を探る

⑵ 『日本霊異記』――死後の世界観を映しだす「鬼」

通称『日本霊異記』には、「鬼」が明確な形で登場する説話が、上巻第3縁、中巻第24縁、25縁、33縁の四つに見られます。
上巻第28縁、中巻第5縁では、「鬼神(おにかみ)」について触れられます。
この書は、日本最古の仏教説話集といわれており、上巻、中巻、下巻の三巻構成。延暦六(787)年に原撰本がまとめられ、その後改編増補されて、弘仁年間(810-824)に現存本の成立をみたとされています。
ここでは、出雲路修氏校注・解説の『日本霊異記』(新日本古典文学大系〈岩波書店〉)に沿って読解を試みます。
その理由として、一つめに、その成立年代が、万葉の次の年代を見るのにふさわしいこと。
二つめ。この書には『日本国現報善悪霊異記』という正式の題名があります。
この題名は、作者である景戒がみずから付けた題名です。
出雲路氏は、この題名にある「現報」「霊異」について作者景戒が何を表そうとしていたのかを見ることで、原撰本説話(まず先に成立した幹説話群)とそうでない枝説話との分類に成功しています。ゆえに、この分類に基づいたとき、原撰本説話の「報」と「霊異」の叙述に、作者景戒の価値観の反映が望めるのです。そして、原撰本説話ではないということは、後に改編増補された説話であり、必ずしも所期の価値観に拠らない、枝説話ということです。

では、正式の題名である「現報」「霊異」について作者が何を表そうとしていたのか。
出雲路氏は、「現報」と「霊異」について、各縁の標題が、作者景戒の理解語彙に対応しているかどうかを分類しました。そして、次のような対応が見られるものを原撰本説話としています。


  〈「現報」とは、「報」のひとつ。「時」を基準としてなされた「現報」「生報」「後報」という「報」の三分類、の一項である。〉(同書「解説」)
 
 〈「現報」は、その人の行為に対する「報」がその人の生涯のうちに現れる。現在世で完結する因果応報のありかた。〉

  〈「霊異」とは、どのようなものか。(中略)たんなる「怪」な現象ではなく、その背後に超越的なもの(ここでは「神祇」)をもった超自然的な現象とみるべきであろう。〉


「報」とは、仏教でいうところの因果応報の「報」を指します。
つまり、作者景戒がまとめようとしたのは、〝その人の生涯のうちに現れた現在世で完結する因果応報を示す、神仏による超自然的な現象の記〟であるといえるでしょう。
そして、これらに基づいて、『日本霊異記』の、さきに挙げた鬼(鬼神)の説話の6編を見ていくとき、この意味合いに対応した説話……すなわち原撰本説話は、このなかで、一つしかありませんでした。中巻第5縁です。
原撰本説話であること、あるいはないことにおいて、どのようなことがわかるでしょうか。
まず、原撰本説話ではないが、「鬼」が明確な形で登場する上巻第3縁、中巻第24縁、25縁、33縁から、順次見ていきます。
それから、原撰本説話である中巻第5縁について、見ていきます。
最後に、原撰本説話ではない上巻第28縁を取り上げます。

上巻第3縁。「雷の憙びを得て子を生ましめ強き力ある縁」。本文の一部を引用します。


  〈時に其の寺の鍾堂の童子、夜別に死ぬ。彼の童子見て、衆の僧に白して言さく「我れ此の鬼を捉りて殺し、謹めて此の死の災を止めむ」とまうす。衆の僧聴許す。〉〈すなはち鬼の頭の髪を捉りて別に引く。〉〈鬼已に頭の髪を引き剥がれて逃ぐ。明日彼の鬼の血を尋ねて求め往き、其の寺の悪しき奴を埋み立てし衢に至る。すなはち彼の悪しき奴の霊鬼なりと知る。〉


大意 ときに、寺の鐘堂の童子が、夜毎に死んだ。彼の童子が見て、僧侶たちに、私がこの鬼を捕まえて退治し、いましめてこの死人の出つづける災いをくい止めましょう、と申した。僧侶たちはこれを許可した。悪霊は、彼の童子に、頭髪を引き剝がされて逃げた。あくる日、血の痕を辿っていくと、寺の、疫病で死んだ奴を埋めた街角に至った。すなわち、この鬼は、疫病で死んだ奴の悪霊だったとわかった。

この前の文脈で、「彼の童子」が、雷と農夫との間に生まれた子で普通の子ではなく、怪力を持っていたことが示されますが、その部分を含めても、因果応報について述べる要素は皆無です。鬼は、疫病で亡くなった者の霊が、人に死をもたらす悪霊となったのでしたが、その退治の方法は、生々しい流血の描写を伴い、力ずくで退治されるのが印象的です。これは私の感想に過ぎないのですが、この上巻第3縁は、疫病で亡くなった者の霊が祟るという点で、古代中国という源流への近さを感じさせます。その一方で、力ずくの鬼退治というアスペクトに、大江山や桃太郎のような、非常にポピュラーな鬼退治伝説への方向性をも感じさせます。頭髪を捥ぎ取っての流血に、江戸時代『雨月物語』(上田秋成)の「吉備津の釜」を想起する人も少なくないでしょう。あとから増補された枝説話ですが、この一本の説話に、大陸に由来しながら、どのようなことを後代の人々が吸収し、見せ場として伝承してきたのか、日本の人々のメンタリティと、日本の説話文学のたどる命運とが、象徴的に示されているように思えます。

次いで、中巻第24縁、25縁です。あらすじのみを示します。

中巻第24縁「閻魔王の使の鬼召さるる人の賂を得て免す縁」。
あらすじ 楢磐嶋は、閻魔王の使いである鬼に、命を狙われつきまとわれていたが、大安寺から交易の資金を受けて寺を利する商いの途中だったことを鬼に伝えると、鬼は、商いが終わるまでの猶予を与えた。鬼は、腹が減ったので何か食べさせるように求めた。そして磐嶋が干飯を食べさせると、鬼は、病気になるからおまえは私に近づくなといい、疫病神であることを告白した。磐嶋は、無事に家まで帰り着くことができたので鬼を饗応した。すると鬼は、牛の味が好きだから牛を食べたいと、さらに饗応を求め、自分が牛を死なせる死神であることを告白した。磐嶋が、牛は差し上げるのでどうか免じてほしいというと鬼は、饗応を受けた恩によっておまえを許したら、重い罪となって鉄の杖で打たれる。そうならないよう、おまえと同じ年齢の身代わりを差し出せという。また鬼は、磐嶋に、金剛般若経百巻を読めとも命じた。牛、読経、身代わりの命をもって、磐嶋は許され、九十余歳まで長生きした。

鬼は、閻魔王の使いであるから、勝手なことは許されないのです。校注によると、「酒食をもてなされて人を死から免れさせた冥界の死者の例」はさまざまの典籍で見受けられるようです。

中巻第25縁「閻魔王の使の鬼召さるる人の饗を受けて恩を報ゆる縁」。
あらすじ 山田郡に衣女という女がいて、病気になった。そこへ、閻羅王の使いの鬼が来て、衣女を連れて行こうとしたが、鬼は走り疲れ、祭ってある食べ物を見て、そそられて饗応を受けた。「私はおまえの饗応を受けてしまった。だからその恩に報いよう。おまえと同じ姓名の人はどこかにいるか。」と鬼は言い、衣女は、鵜垂郡に同姓同名の別人がいると伝えた。鬼は、鵜垂郡にいる別人の額に一尺の鑿を打ち込んで、身代わりにとったが、閻魔王に見破られ、別人の女が蘇生し、衣女は、やはり死ぬことになった。ところが、身代わりとなった別人の身体は、すでに荼毘に付されてしまっていたので、まだ遺されていた衣女の身体に別人の精神を宿すことにして、別人が、山田郡の衣女として蘇生した。

中巻第24・25縁については、原撰本説話ではなく、因果応報についての記事ではありませんが、死後の世界からの蘇生譚です。「鬼」は、ともに「冥界からの死者」(校注)、閻魔王の使いとしての死神であり、食の接待を受けたことで、対象者の蘇生を実現させようとします。第24縁と第25縁を比べてみると、24縁のほうは、磐嶋には大安寺を利する交易のあったことや読経百巻の般若の力のあったことが結果の違いとなっているようで、これを現報かつ善報ととらえれば、そうでしょう。いずれも『今昔物語集』に見え、25縁の別人としての蘇生については、添加文により、蘇生の成功譚であることが強調されます。
いずれにせよ、閻魔王の部下である死神の仕事ぶりが、対象者からの饗応次第であることや、饗応や賄賂を受けたことによる刑罰を免れようとして、対象者に経を読ませるところなど、人間の世界が死後の世界におおいに投影されています。死後の世界の秩序を、この世と地続きにあるものとしてとらえていることが、特徴な枝説話です。

さて、中巻第33縁はどうでしょう。本文の一部を引用します。


中巻第33縁「女人悪しき鬼に点され噉はるる縁」。
  〈聖武天皇の世に、国挙りて歌詠ひて謂はく「なれをぞよめにほしとたれ あむちのこむちのよろづのこ 南无南无や 仙さか文さかも酒持ち のり法まうし やまの知識あましにあましに」といふ。爾の時に大和国十市郡 菴知村の東の方に、大に富める家有り。〉〈一の女子有り。名けて万の子と曰ふ。〉〈面容端正し。高き姓の人伉儷ふになほ辞びて年祀を経。爰に有人伉儷ひて念々物を送る。彩帛三車なり。見ておもねりの心をもちて兼ねてまた近き親ぶ。語に随ひて許可し、閨の裏に交通ぐ。其の夜閨の内に音有りて言はく「痛きかな」といふこと三遍なり。父母聞きて相談ひて曰はく「いまだ効はずして痛むなり」といひて、忍びてなほ寐。明日の暁に起き、家母戸を叩きて驚かし喚べども答へず。怪しび開きて見れば、ただし頭と一の指とのみを遺し、自余はみな噉はる。父母見て、悚慄り惆懆て、娉妻に送れる彩帛を睠れば、返りて畜の骨と成る。載せたる三の車は、また返りて呉朱臾木と成る。〉〈すなはち疑はくは、災の表まづ現れ、彼の歌は是表ならむ、或るいは神しき怪しなりと言ひ、或るいは鬼の啖ふなりと言ふ。覆し思ふに、なほし是れ過去の怨なり。斯れまた奇異しき事なり。〉


大意 聖武天皇の世に、わらべ歌が流行った。(わらべ歌の現代語訳は後述。)そのとき、あむち村の東の方に、大金持ちの家があった。(その家に)一人の娘がいた。名を万の子といった。たいへん美しい娘であった。位の高い人が求婚するのにそれでも断って年月が経った。そこへ、物を送って求婚する人が現れた。染められた絹布が車三台ぶんであった。それを見て気に入られたいと思うようになり、仲良くなって、結婚を許した。夜中に三度、「痛いなあ」という声が聴こえた。父母は、性交になれないせいだととらえて、それでもじっと寝ていた。夜が明ける頃になって、母親が大きな声で起こしても答えない。怪しんで戸を開けてみると、東部と指一本だけを遺して、ほかはみな食われていた。結納の豪華な品々を載せた車は、畜骨と呉茱萸の木に変貌していた。つまり、こういうことではないか。災いのしるしは歌となってまず現れる。それが、あのわざ歌だったのだ。このできごとを、ある人は神の起こした怪異だといい、ある人は鬼の仕業だという。にれかんで思うに、これはやはり、過去に怨まれたせいである。これはまた、あやしい事である。

出雲路氏は、傍線部のわざ歌について、次のような校注を付けています。


  〈仏教語を多用しての戯笑歌。歌の歌詞それ自体に奇怪なものが含まれているわけではない。仏教というきらびやかなイメージを織りこんで、男たちが、「おれたちみんな、おまえが好きなんだぞ」と、女にからかい半分で歌いかけたもの。語音の連想から連想へと展開する歌。〉
  〈汝(な)も南无(なも)や、仙(ひじり)釈迦文(さかもに)、さかも酒(さか)持(も)ち。「汝(な)も」から同音の南无(なも)がみちびかれ、南无から仙(ひじり)釈迦文(さかもに)(釈迦牟尼仏)へと連想が展開し、さらに、釈迦文から同音を共有する「酒(さか)持(も)ち」がみちびき出されている。釈迦牟尼を「釈迦文」とする例は、たとえば妙法蓮華経・方便品をはじめ諸書にみえ、めずらしいものではない。〉


またさらに、出雲路氏のわざ歌の訳を校注から拾ってまとめますと、次のようになります。


  〈「おまえを嫁にほしい、と言うのは誰か。「おれさまだぞ。」「このおかただぞ」といっている、みんな。おまえも、酒持って。車に乗って、こぼれるほど、たくさん。」〉


本文では、結びの文に、冒頭部分のわざ歌を「災の表(しるし)」としていますが、校注者が、同じわざ歌を、不吉の予兆と解釈していないことがわかります。
仏教語にきらびやかなイメージを結ぶのは、歌人がいにしえの歌語にまばゆさを覚えるのと、同じことでありましょう。
そして作者である景戒は、この書を、仏教説話集として著そうとしている僧侶です。
加えて「知識」が、「友人。三宝供養のための行動に党を結び力を合せる人々。」(上巻第35縁の校注)の意であることを踏まえると、やはり、このわざ歌は、仏教的な価値観からいって、災いの予兆であるとはいえないように思います。
そして、この中巻第33縁は、原撰本説話ではありません。しかしながら、本文中に「奇異しき事」という表現が出てきます。
この説話中で「奇異しき事」らしいのは「彩帛三車」の変貌ですが、しかし「彩帛三車」の変貌は、本文に「返りて」と、「返」の字が使われていることから、もともと畜骨と呉茱萸の木だったと校注者は指摘します。
「奇異しき事」が、神仏による超自然の現象でないならば、作者景戒の理解語彙に対応しているといえません。そればかりか、ここでは、限りなく人のしわざとしての、凶悪殺人事件でありましょう。
またさらに、結びの部分の「なほし是れ過去の怨なり。」とは、いかなる「怨」を指すのでしょうか。
景戒は、過去世の報ではなく、現報について書こうとしていたはずです。
校注者は、上巻第3縁で、「日本の前世説話では、過去世においていかなる行為がなされたのか、といったことは記述されないのがふつう。」とします。
『今昔物語集』巻20第37が、この中巻第33縁を出典としています。
「耽財、娘為鬼被噉悔語」と題され、「たからにふけりて、むすめをおにのためだんぜられくゆること」と読めることから、『今昔物語集』では、子の過去世の怨みから起きた事件ではなく、親が貪欲であったために、その娘が鬼の被害に遭ったという現世での因果応報に解釈している点が霊異記と異なります。そして、今昔では、わざ歌について記しません。
こうした編集は、編纂者の解釈次第なのでしょう。
『日本霊異記』、『今昔物語集』、そのいずれにせよ、解明のならない、受け止めがたいできごとを、一足飛びに超自然の現象であるとするところに、ある種の無理を生じています。人ではなく鬼のしわざ、超自然のしわざであると、なんとか合理化することで、日々の平安を守ろうとした人々の心もようが、見えてくるようです。

それでは、原撰本説話として分類を受けている、中巻第5縁を見ていきましょう。あらすじのみを示します。

中巻第5縁「漢神の祟により牛を殺して祭また生を放つ善を修ひて現に善と悪との報を得る縁」。
あらすじ 摂津の国にいたある金持ちが、鬼神(漢神)の祟りを恐れて、一年に一頭ずつ供物として牛をほふった。七年かけて七頭を祭り終わったが、たちどころに重い病となり、殺生の業のためだと思って、放生供養をせっせとおこなった。そして臨終のときを迎え、亡骸をすぐには焼かないように妻子に伝えて、亡くなった。九日のちに蘇生した。金持ちの男は、冥界での出来事を語った。冥界には、七人の非人がいて、牛の頭で人のからだ、彼らは地獄の獄卒でもあったが、この金持ちにほふられた牛たちの霊であった。牛たちは、自分たちを供物にして祈り、そのあと肴にして食べた男を激しく怨んでおり、この男に苦しみを与えてほしいと訴える。その一方で、この男を赦してやってほしいと訴える声もあり、閻魔王は悩んで、赦してやってほしいという声の数の多さにより、この金持ちを蘇生させることにした。蘇生させた者たちは、じつは、この金持ちに放生された生き物たちであった。殺生が悪報につながり、放生供養が善報につながる。

ここでの「鬼神」は、あの世の鬼ではなく、主人公が生前、祟りを免れるために牛を殺して供物としていた鬼神で、本文中、「漢神」「鬼神」と二通りの呼び方をされています。
『今昔物語集』巻20第15が、この中巻第5縁を出典としています。
「摂津国殺牛人、依放生力従冥途還語」と題され、「つのくにのうしをころすひと、ほうじょうのちからによりてめいどよりかえること」と読めることから、霊異記と同様に、放生供養の大切さを説いています。
殺生を求める鬼神という反仏教と、仏教とを対照させ、殺される生き物の、悲痛と嘆きをとらえさせます。終局、放生供養の大切さが説かれるための流れにおいて、完成された仏教説話といえるでしょう。

鬼神信仰については、『抱朴子 内篇』(引用部分は古典籍総合データベース『全文抱朴子』。公開者:早稲田大学図書館)に、次のように述べられています。(原文の句点筆者。)訳文については『抱朴子 内篇』(東洋文庫。校注訳:本田濟)から引用し、その解説を参考にしました。


  〈楚之霊王躬自為巫靡受斯牲而不能却呉師之討也。〉(巻9 道意)

  〈孝文尤信鬼神咸秩無文而不能免五柞之殂。〉

  〈楚の霊王は神がかりのことが好きで、自身巫のまねをし、惜しまずに犠牲を供えたが、呉の軍勢が攻めて来たとき、これを斥けることはできなかった。(桓譚『新論』)〉

  〈武帝は最も鬼神を信じ、文献にない民間の神々にもすべて禄を与えたが、不老不死の願いはかなわず、とど五柞宮でなくなった。(『漢書』武帝本紀)〉


『抱朴子』は、317年に成立。作者は葛洪。内篇は道家の理念を、外篇は儒家の理念を示す書として著されました。
ここから、家畜をほふり鬼神への供物とする祭祀や、鬼神を使役する方術が、楚の霊王(前541-前529在位)、漢の武帝(前140‐前87在位)の頃、古代中国においてさかんにおこなわれていたことがわかります。ただし『抱朴子』では、供物や賄賂で鬼神の機嫌をとることに否定的な見解を示し、長生のための仙術、呼吸法などを重んじます。実際、このような祭祀で家畜を殺してしまうと農作業ができなくなるので、古代中国でも禁じられることがあったようです。

霊異記において、殺された牛たちは、「明に知る、是の人主と作りて我が四足を截り、廟を祀りて乞祈り、賊して膾して肴に食ひしことを。」と閻魔王に訴えています。つまり、お祀りしたあと、その牛を食べていたのです。『日本霊異記』の中巻第5縁の校注に、791年、牛を殺して漢神を祭ることが、諸国で禁じられたことが示されます。逆にいえば、禁令がでるほど流行しかかっていたのでしょう。霊異記の原撰本がまとめられたのは787年、直近です。作者の景戒は、殺された牛たちの無念の声を聞き届け、鬼神を崇める肉食祭祀を、強い気持ちで咎めようとしたことでしょう。

最後になりましたが、上巻第28縁。あらすじのみを示します。

上巻第28縁「孔雀王の呪法を修持ちて異しき験力を得て現に仙となり天に飛ぶ縁」。
あらすじ 役優婆塞は、大和国葛木上郡茅原村の人である。生まれつき頭がよく、いろいろなことを学んで、道を会得した。仏教の三宝を仰いで信心し、四十余歳で岩屋にこもり松を食して清水を浴み、孔雀の呪法を修得して不思議な仙術を身に付けた。鬼神を自在にあやつり、「大倭国の金峯と葛木峯とに、橋をわたして通えるようにしよう」などというので、使役される鬼神たちはうんざりした。その鬼神の一人である葛木峯の一語主大神が、「役優婆塞が天皇を傾けようとしている。」と託宣したため、役優婆塞は朝廷に追われる身となったが、験力を使えるので捕まらない。しかし、代わりに母が捕らわれたので、母を放すために自ら捕らわれた。伊豆に流されたが、空を飛べるので夜は富士山で修行をし、処刑されようというとき、その刃に富慈明神の表文があらわれ、これを奉り、赦免を乞うた。701年、辛丑に次ぐ年の正月、役優婆塞は、天朝の辺に近づかれて、ついに仙人となられて空を飛んだ。一言主大神は役行者に呪縛され、今の世に至ってなお、その術は解かれない。

ここでは、道教の方術が仏法として用いられ、鬼神たちは、仏法に使役される鬼神であり、その鬼神たちのなかで、役優婆塞の圧倒的な霊力を疎ましく思い、朝廷に讒言した一人の鬼神には名前があります。本説話は、異教の方術をも駆使し、強かな鬼神たちをも支配するのが仏法であることを示しており、結びの文では〈仏の法の験術の広く大なることを、帰り依まばかならず證を得む。〉と、仏教に帰依することの大切さが強調されます。原撰本説話ではなく、因果応報を記す気配もありません。強いていえば、仏教が道教の神々を使役する様子を前面に押し出すことで、仏教の優位性を見せつけています。この説話が盛り込まれた意味合いは、そこにあるのかもしれません。

では、『日本霊異記』の鬼(鬼神)説話について、まとめます。

①上巻第3縁に、日本の中世以降の鬼退治伝説や、近世の怪談につながっていく方向性が見られる。
②中巻第24・25縁に見られる死後の世界の秩序には、人間の世界の秩序が地続きに投影されている。
③中巻第33縁に、人のしわざである凶悪事件が「霊異」によって合理化されるという、受け止めがたいできごとへの人間的な反射が見られる。
④原撰本説話である中巻第5縁に、仏教の死生観である輪廻転生が明確に前提され、あの世へいった人々が生前の人格を保っていることが、死後の世界観として見てとれる。
⑤上巻第28縁に、仏教が他の民間信仰を統合する優位性を持つことが強調されている。

①~④の点は、現代人の所作とつながり、現代人もまた、知らず知らずのうちに、「あの世へいった人々が生前の人格を保っている」と見ているように思われます。現代人の死後の世界観と、通じるのではないでしょうか。
⑤については、この以降、和歌や文学において、興味深い展開が見られるようになります。
超自然の霊性を、日本に古来からある自然物の、そのままの姿に象徴させるようになっていくのです。その過程を次いで述べます。











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(未定稿)鬼さん考 3

2024-04-14 14:44:08 | 月鞠の会
二 「鬼」の表現をめぐって、死生観を探る

⑴ 万葉の時代の死生観――「死者の霊」のイメージを中国と比較する


「鬼」の字義は死者の霊。中国ではそうだといっても、「死者の霊」の意味合いもまた、中国と日本とで、違っています。
中国では、死者の霊を「鬼(キ)」と呼んで、古くから信仰の対象でした。
それは、現代の日本文化の一つでもある盂蘭盆の行事に想起される、子孫を見守るという穏やかな祖霊のあり方とは、かなり異質です。そして、中国では、仏教と、仏教以前から存在する道教を含めた、中国古来の民間信仰が分かちがたく結びついていることを、知っておく必要がありそうです。

孔子の編纂といわれる歴史書『春秋』の、注釈書である『春秋左氏伝』「昭公七年」には、鄭の宰相である子産によって、取るに足りない人でも非業の死を遂げることになれば祟りをなすことが述べられます。


  〈人生始化曰魄。既生魄。陽曰魂。用物精多、則魂魄強。是以、有精爽至於神明。匹夫匹婦強死。其魂魄猶能馮依於人、以為淫厲。〉

  〈人間が生まれて、最初に動き出すのを魄(目・耳・手・足などの肉体の作用)といいますが、魄ができますと陽、すなわち霊妙な精神もできますもので、それを魂といいます。さまざまな物を用いて肉体を養うのに、そのすぐれた精気が多いと魂も魄も強くなります。そこでその魂魄が精明になると天地の神々と同じはたらきをするようになります。いやしい男女でも非業の死をとげた場合には、その魂魄が後に残って他人にとりついて、みだらなたたりをするものです。〉


新釈漢文大系『春秋左氏伝』「昭公七年」 (鎌田正著 明治書院)から、原文・現代語訳とも引用しました。ただし原文からは返り点を省略し、漢字を新字体もしくは通用しやすい書体に改めました。この原文と同じまとまりにあたる箇所を、中国古典文学大系『春秋左氏伝』(竹内照夫訳 平凡社)では、次のように訳しています。


  〈人が生まれるとき、まずできるものを魄といいます。魄ができてのち、陽の気が身に添いますのを、魂といいます。そして物を取って身を養い、精力が多くなれば魂も魄も強くなり、こうして清く明るい心が育てられ神にもひとしい知恵を持つにも至るのです。ですから卑しい男ひとり女ひとりでも、変死などしたならば魂魄がなお他人にとりついてよこしまなたたりをすることもできます。〉



中国で「鬼」と呼ばれる「死者の霊」については、一般書においても次のように述べられます。


  〈『漢書』の「地理志」にはすでに、「江南は土地が広く、……巫・鬼を信じ、淫祀を重んじている」とあるように、特に中国の南方では、かなり古い時代から鬼に対する信仰が盛んに行われていた。〉(『中国の呪術』松本浩一〈大修館書店〉)

  〈たとえば『楚辞』「九歌」中の「国殤(こくしょう)」は、戦死者のための鎮魂の歌とされているが、「身すでに死して、神(しん)にして以て霊、子(し)の魂魄、鬼雄とならん」とあるように、のちの時代に横死者の霊魂が、厲鬼(れいき)として恐れられたことを彷彿とさせる。やはりこの「国殤」の目的も、彼らを祀り慰めることで、たたりを免れることが目的だったのだろう。〉(同)


漢民族が考えた「鬼」、すなわち死者の霊とは、生前の貴賎によらず、横死や非業の死を遂げることになれば、人々に取り憑き、不満を申し立て、救済が得られるまで祟りをなす存在のようです。それが古来からの考え方であり、現在でも、浙江省磐安県では三十六種の孤魂(祀り手のない魂)と、異常死した三十六種の殤冤鬼を供養し救済する儀式がおこなわれているそうです。それは、祟りを受けないためにそうするのです。
この点が、中国と日本とで、死者の霊についてのとらえ方の大きく異なる点です。
本章において後述しますが、日本では、祀らないからといって、すぐさま死者から祟りを受けるとは考えないでしょう。貴人の怨霊を御霊として区別し、祟りを恐れ、お祀り申し上げるといった信仰が平安時代にはありましたが、誰でも祟ることができるとは、考えませんでした。

さらに、同じ一般書から、祟りをなすもののうち、「鬼」とは由来を区別される「精怪」について述べた箇所を引きます。


  〈精怪は鬼の一種として考えている著作もあるが、鬼とはある一点で明確に異なっている。それは、鬼はもともと人間だったわけだが、精怪はもとは人間以外の存在だったという点である。もとの物とは、動物であったり、植物であったり、あるいは器物であったりするが、それらが長い間、天地日月の精気に感応することによって、変化を来たし霊物となったものを精怪という。〉


自然霊や精霊もまた、中国と日本とで、そのイメージが違っているようです。
日本人が身近に感じてきた精霊の類については、中国では「精怪」と呼ばれ、死者の霊である「鬼」とは、明確に分けられていました。中国では、「精怪」もまた、祟りをなします。しかし、日本人にとっての精霊は、もっと身近にいて、祖霊と地続きにつながるような、親しみ深いものではなかったでしょうか。たとえば、現代になっても、針、鞠、筆、人形の供養がなされますが、それは祟りを恐れてというよりも、愛用した事物への哀惜の所作でしょう。


出雲路修氏は『説話集の世界』において、仏教伝来ののち、死後の世界観の展開がまだ希薄であった時代、その萌芽の古例に、山上憶良の歌を挙げ、次のように述べます。


  〈たとえば、《万葉集》巻五・九〇五「わかければ 道行き知らじまひはせむ したへの使 おひてとほらせ」は、「まひ」「したへの使」といった、中国の志怪小説の世界では普通であるが当時の日本においてはかえって孤立した〈冥界游行〉伝承を歌う。志怪小説の世界を念頭においての詠歌である。〉(『説話集の世界』[「よみがへり」考]出雲路修著〈岩波書店〉)
  
〈八世紀初頭における中国志怪小説との接触が、一方では《万葉集巻五・九〇五》の歌を生み出し、一方では在来の〈蘇生〉説話を〈冥界游行〉説話へと変貌させたのではなかったか。〉


引用中の和歌の大意は、「まだ幼いのであの世への行き方も知らないだろうから、贈り物はしましょう。あの世からの使いよ、この子を背負って、連れていってやってください。」となります。わが子の死を悲しむ父親になり代わって、詠まれた歌です。
あの世の使いに贈り物をするのは、祟りや障りを恐れるからではなく、苦しい旅路とならないよう、配慮をくれてやってほしいからでしょう。親としてよくよくのことをしてやらなければ気が済まなくてそうするのであって、贈り物をする理由を、祟りを封じるためと受け取ってしまったら、和歌として成り立ちません。和歌は、愛の世界をうたうものです。「まひ」が、愛の世界の所作となる点で、大陸との違いが決定的です。


出雲路氏は、この和歌によって、在来の〈蘇生〉説話が〈冥界游行〉説話と変貌したのはいつ頃かを探り、死後の世界観がこの国の言葉の世界に注入され始めた時期を推し量りました。すなわち『万葉集』の頃、仏教が、国教として浸透するようになり、それまでに希薄だった死後の世界観もまた、具体的に示されるようになってきたのです。

『万葉集』の、他の和歌を見てみましょう。「新日本古典文学大系」(岩波書店)の『万葉集』(校注:佐竹昭広氏、山田英雄氏、工藤力男氏、大谷雅夫氏、山崎福之氏)から作品を引用し、大意については、校注を参考に付しました。読みやすくする目的で、漢字表記を仮名にした箇所があります。


  〈117 ますらをや片恋せむと嘆けどもしこのますらをなほ恋ひにけり〉


舎人皇子の御製。「原文では「鬼乃益卜雄」。注記に〈「しこ」は罵りの言葉。原文「鬼」の字は、漢語「鬼」「鬼子」が罵る語に用いられることによる表記であろう。〉とあります。恋に囚われる自分自身を「ますらを」であるとしながらも、同時に「鬼(しこ)」と自虐せずにいられない。片恋が深まるにつれ、激しさを増した嘆きをうたっています。ここでの「鬼」は、心の中の想いが、みにくい化け物のようにつのってしまった自分、という意味で「しこ」の訓を当てていますが、このあとの時代では、「鬼」の字に「しこ」の訓を当てなくなっていきます。


  〈608 相思はぬ人を思ふは大寺の餓鬼のしりへに額づくごとし〉


笠女郎から大伴家持に贈った歌です。女が、男を、「餓鬼」と罵って、恋が終わろうとしています。思うように愛してくれない人を愛するのは、立派なお寺でもその仏様ではなく、餓鬼を後ろから拝むようなものだというのです。


  〈3640 寺々の女餓鬼申さく大神の男餓鬼たばりてその子はらまむ〉


詞書に〈池田朝臣の、大神朝臣奥守を嗤ひし歌一首 池田朝臣、名忘失す〉とあります。注記に〈痩せている大神奥守を「男餓鬼」と戯れた。〉とありますから、池田朝臣が痩せている大神奥守を「男餓鬼(おがき)」と呼んで、「女たちがあなたの子を産みたいと言ってるよ」などと、からかった歌のようです。

「餓鬼」は死後、餓鬼道に落ちた亡者を意味する仏教語ですが、そのままの意味に使われてはいません。いずれの歌でも、メタファーとして、人を罵ったりからかったりする言葉となっています。このように『万葉集』の時代には、大陸からやってきた仏教語が、身近に浸透していたことをうかがわせます。

和歌ではありませんが、特に見ておきたいのは、巻五の、896番と897番のあいだに挟まれた題詞「沈痾自哀文」です。
山上憶良最晩年の作で、病苦を嘆きます。
形式は、全体に七つの連で構成され、本文と憶良自身によるごく散文的な注記を含みます。ここで取り上げるのは、その⑴⑷⑸⑺の連から、本文のみの抄出です。冒頭の連番は、出典が七つの連を⑴~⑺の連番で示したことに従い、注記については、大意のほうに反映しました。


(1) 〈窃かに以みるに、朝夕に山野に佃食する者すら、猶し災害なくして、世を度ることを得。〉〈況や、我胎生より今日に迄るまで、自ら修善の志有りて、曾て作悪の心なきや。〉〈この 所以に三宝を礼拝して、日として勤めずといふことなく、百神を敬重して、夜として闕くること有ること鮮し。〉〈嗟乎媿しきかも。我何の罪を犯してか、この重疾に遭へる。〉


大意 ひそかに思いみるに、一日中慎むことなく山野で狩りをして生き物を殺している人ですら、災害にも遭わずに生きていくことができる。生まれてこのかた、善行をしたいと思うことはあっても、悪事をはたらこうと思ったことなぞ、これまで私にあっただろうか、いや、ない。仏法僧の三宝を礼拝し、神々を敬い尊ぶこと、夜でも欠かさなかった。ああ、それなのになんと恥ずかしい。私が何の罪を犯したというのか。こんなにつらい病気にかかるなんて。


⑷ 〈命根既に尽き、その天年を終ふるすら、尚し哀しと為す。〉〈何に況や、生録未だ半ばならずして、鬼の為に枉げて殺され、顔色壮年にして、病の為に横に困めらるる者や。世に在る大患、敦かこれより甚しからむ。〉


大意 生命力がすでに尽き、天寿を全うするときですら、それでも死ぬのは哀しいと人は思うものだ。それなのに、本来の寿命をまだ半分も生きられず、鬼のために理不尽に殺され、病気のためにこれでもかと苦しめられる者は、どれほど哀しいだろうか。これにまさる苦しみが、この世にあるだろうか。


⑸ 〈抱朴子に曰く、「神農云はく、[百病癒えざれば、安ぞ長生を得むや。]」といふ。帛公略説に曰く、「伏して思ひ自ら励ますに、この長生を以てす。生は貪るべし。死は畏るべし」といふ。天地の大徳を生と曰ふ。故に死人は生鼠に及ばず。〉〈遊仙窟に曰く、「九泉の下の人は、一銭にだも直らじ」といふ。〉〈孔子曰く、「これを天に受けて、変易すべからざるものは形なり。これを命に受けて、請益すべからざるものは寿なり」といふ。〉〈故に生の極めて貴く、命の至りて重きを知る。言はむと欲ひて言窮まる。何を以てかこれを言はむ。〉


大意 「[もろもろの病気が治らなくて、長生きできるはずがない]と神農にある」と抱朴子がいう。帛公略説には「ひそかに自らを励ますときに、長生きしようと思っている。貪欲に生を求めるべきで、死ぬことは恐れるべきだ。」とある。天地の偉大な徳が生だ。ゆえに死んでしまえば生きているネズミにも劣るのだ。遊仙窟には、「あの世にいってしまった人には一銭の値打ちもあるまい」とある。孔子がいう。「天から授かって変えようのないものが人の姿かたちである。天命として授かって、もっと続けさせてくださいと請願できないものが寿命である」と。ゆえに生がきわめて貴く、命がまことに重要なものであると知る。このことを言葉で表したいのに、言葉に詰まってしまう。どうすれば言葉にできるだろうか。


⑺ 〈若しそれ、群生品類、皆尽くることある身を以て並びに窮りなき命を求めずといふこと莫し。この所以に、道人方士、自ら丹経を負ひて、名山に入りて、薬を合はするは、性を養ひ神を怡びしめて、以て長生を求む。〉〈帛公また曰く、「生は好き物なり。死は悪しき物なり」といふ。〉〈今吾病の為に悩まされて、臥坐すること得ず。〉〈「人願へば天従ふ」といふ。如し実有れば、仰ぎて願はくは、頓にこの病を除きて、頼りて平の如くなること得むと。鼠を以て喩と為すこと、豈に愧ぢざらむや。〉


大意 そもそも生き物はどんな生き物でもいつかは死ぬ身でありながら、終わりなき命を求めずにはいられない。だからこそ、道人方士たちが、仙薬の処方を記した書巻を背負い、名山に入って薬を調合するのは、性を養い心神をよろこばせることで長生きしようというのである。また帛公に、「生はよいもので、死はわるいものだ。」とある。今、私は病気に悩まされて、寝ているのも座っているのもつらくてできない。「人が願えば天は従う」といわれる。もし本当なら、天を仰いでお願い申し上げます。ただちにこの病気を取り除いて、健康な体に戻してくださいと。ネズミをたとえに出したのは、恥ずかしいことでした。

(1)のように、「沈痾自哀文」は、不殺生戒への「窃か」な疑問に始まります。狩猟採集、殺生を生業とする人々ですら、健康に一生を遂げられるというのに、自分は、欠かさず経をよみ三宝を礼拝するという信仰生活を実行してきた。それなのになぜ、病気にかかって苦しむのかと。そして、⑸の『抱朴子』は、道教の教典として著された前仏教時代の漢籍(次章)、『遊仙窟』は唐代の伝奇小説。『帛公略説』が未詳ですが、校注者は、「死人は生鼠に及ばず」の部分を、引用ではなく作者自身の言葉であると解しています。この解に従うと、憶良は、「人間だって、死んでしまったら生きているネズミ以下だ」と、天に唾するように言い切ったことになります。そして、⑺の結びの部分では、一転して天を仰ぎ願い、いますぐ健康な体に戻してください、さきほどのネズミのたとえを恥じいるので、と殊勝です。この起伏の激しさは、居ても立ってもいられぬ病苦のゆえでしょう。

結びの部分に示されている憶良の本望、真の願いは、病の癒えることでした。仏教による「死後の世界観」の注入があったとしても、生命の根源にある瀬戸際の価値観が、どうであったかということ。この作品は、仏教の教えを受け入れ順いながらも、生きとし生ける者の本心をあらわにしているでしょう。

そして、「沈痾自哀文」にでてくる「鬼」は、本来の寿命をねじ曲げてでも生命を奪う鬼、死神です。

『万葉集』に出てきた「鬼」を、いったん、次のようにまとめておきます。


・「しこ」と訓じ、「鬼」は、心の中の想いが、みにくい化け物のようにつのってしまった自分。
・餓鬼。もとは死後、餓鬼道に落ちた亡者を意味する仏教語だが、ここでは人物や人々への嘲り、からかいのメタファー。あるいは、人の姿形の特徴をたとえていう。
・本来の寿命をねじ曲げてでも生命を奪う死神。


仏教は、中国に仏教が入ってくる以前の中国の世界観(道教など)を残したまま、日本に伝来しましたが、日本的には、大陸から伝来の「鬼」が、そのもの「死者の霊」であることをほとんど拒絶しているのです。
日本で「鬼」と「死者の霊」は、別のものです。

大陸と違って、死霊は祟るものではなくて、惜しむものだと、私たちの祖先は考えたのです。ですから、「鬼」の字の、祟るものだというネガティブな意味合いに、日本の古代社会において排除対象を意味した「おに」という和語が、くっついたのかもしれません。

そして、万葉の時代よりあと、死後の世界は、日本においても具体的に描かれるようになります。
その死後の世界で、日本における「死者の霊」たちが「鬼」の姿ではないとしたら、いったい、どのような姿をしていたのでしょうか。






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(未定稿)鬼さん考 2

2024-03-31 17:40:24 | 月鞠の会
一 日本にもとからいた「おに」を探る

⑵ 周辺事物との関係性を考察する

折口信夫博士は言います。

  〈おには「鬼」といふ漢字に飜された為に、意味も固定して、人の死んだものが鬼である、と考へられる様になつて了うたのであるが、もとは、どんなものをさしておにと称したのであらうか。」〉

馬場あき子氏は言います。

  〈いずれにしても「おに」という語が、中国産の「鬼」とはまったく別個に、独自の土俗的信仰や、生活実感として存在していたわけである。〉

お二人とも、漢字をこの国に迎える以前から、この国には、「おに」の概念が存在していたと述べているのです。

漢字の伝来には諸説がありますが、『新字源』(角川書店)では、「鬼」のなりたちを「象形。顔に大きな面を着けた人の形にかたどる。死者の霊魂に扮するさまにより、神霊の意を表す。」としています。さらに、儒教の教典「礼記」から挙げた用例の意味を、「神として祭られる霊魂。死人のたましい。祖先の霊」としています。中国への仏教伝来は1世紀半ば、『礼記』は、整理されたものの成立年代が紀元前1世紀。「鬼」の字義にみえる「死者の霊。祖先の霊」のイメージは、中国に仏教思想の浸透するよりも古いことがわかります。
そして、漢字が日本で文字として普及したのは、6、7世紀頃といわれています。この国にはその以前の文字による記録が無いため、中国の文化の影響を受けない言葉の例を探すのは難しそうです。いかなる方法を用れば、「おに」の概念が日本にもとからあったと、言ってもよくなるのでしょうか。

折口氏のほうは、『信太妻の話』のなかで、「かみ」と「おに」の「二つの語の境界の、はつきりしなかつた時代もあつた事」を示しつつも、「強ひてくぎりをつければ、おにの方は、祀られて居ない精霊らしく思はれる点が多い。」とも述べています。この伝え方が示唆するのは、「かみは祀られて、おには祀られない」といったことでしょうか。

『新字源』で「神」のなりたちを見ていくと、「会意形声。示と、申シン(いなびかり)とから成り、空中をただよう「かみ」、ひいて、人間わざを超えたはたらきの意をあらわす。」としており、「あまつかみ。天の神」の意味では「鬼」を対義語に当てています。「楚辞」からの用例が「死者の霊魂」の意味で挙げられていますから、古代の中国では、「神」も「死者の霊魂」の意味で使う場合があったようです。

また、折口氏の言葉で気になるのは、「漢字としての意義は近くとも、国訓の上には、鬼をかみとした例はない。」というところです。

日本にもとからいた「おに」とは、どのようなものだったのでしょう。
果たして、精霊のたぐいだったのでしょうか。
この章では、ともに超自然的な意味合いをもつという点で似通った、「かみ」と「おに」とを比較することで、日本にもとからいた「おに」がどのようなものであったか、探っていこうとしています。
また、「おに」と呼ばれているそのものの、周辺事物との関係性にも着目します。
まず、「かみ」との類似点から見ていきましょう。

〇「かみ」と「おに」の類似点

「神」の語源について、阪倉篤義氏の『語源――「神」の語源を中心に』(『講座日本語の語彙〈第1巻〉語彙原論』〈明治書院〉)を見ていきますと、次のようなことが述べられています。

 ・〈カムシロ・クマシロは、「神の御料(シロ)を意味して〉いること。
 ・〈カムに並んでクマという語が、神を意味するものとして存在したことが推定される〉こと。
 ・〈クマという地名を持つ土地は、山嶽重畳して、奥深く隠れた場所であることが多い〉こと。
 ・〈複合語に用いられて、道や川や垣根などの「入りくんで見えにくい場所」を意味するクマと同一の語である〉こと。
 ・「クマ」という名詞は、夫婦のことをおこなう「久美度」(『古事記』神代)「竒御戸」(『日本書紀「神代紀」)という用例から存在が推定される、クムという動詞から派生した情態性の体言で、「隠れたる情態」を意味したこと。
 ・〈「神」の意を有したと考えられるクマは、こうして成立した、同じ情態言であって、「隠れたるもの」というのが神(クマ)の本来の意味であったと考えられる〉こと。
 ・カムという形は、動詞の終止形でもあり、「入りくむ」「つつみこむ・深くしまう」のような、クムと同趣の意味であること。
 ・〈クムと、kumu-kamu という母音交替の関係にあると見なし得るのが、神を意味するカムである。すなわち、カムという語もまた本来、「奥まった所に身を隠しているもの」を意味した〉こと。

そして、阪倉氏は、カムは、i母音接合による名詞構成の方式にならって、「カミ」という語(名詞)となり、同様に、「入りくんでいる」「「奥深く隠れた存在」あるいは「奥深く身を隠している存在」を意味するものであったと結論づけています。

「鬼」のほうは、三省堂『例解古語辞典』によると、〈『日本書紀』や『風土記』の類に「鬼」という字はあるが、訓で読む場合、「もの」をあてたらしく、「おに」と読まれた確かな例はない。「おに」の確例は、文献上は、『竹取物語』『伊勢物語』が古いところ。〉〈平安時代の「おに」のとらえ方には、その本体を人の目にさらすのをきらって姿を隠しており、人の前に現れるときにはいろいろな姿を借りて現れるもの、といったとらえ方が強かったらしい。〉とあります。また、10世紀前半の辞書『和名類聚抄』には、「おに」の語源を「隠(おん)」にあるとしています。

「常陸国風土記」(717~724)に、次のようなおにの話があります。

A 〈郡より西北のかた六里に、河内の里あり。本、古々の邑と名づく。俗の説に、猿の声を謂ひて古々と為す。東の山に石の鏡あり。昔、魑魅(おに)在り。萃集りて鏡を翫び見て、すなはち自づから去る。俗、疾き鬼は鏡に面へば自づから滅ぶと云ふ。〉(「常陸国風土記」)

大意 この里には昔、おにがいて、集まって鏡をもてあそんでいると、自分からいなくなりました。里の人によると、悟ったおには鏡に向かうと、自分から消えていなくなると伝えられていました。

これらのことから、「かみ」と「おに」が似た意味の言葉であるのは、確かに、どちらも「身を隠す」という意味においてであるといえそうです。聖徳太子のお母さん、穴穂部間人皇女の名が「神隈」とも「鬼隈」とも呼ばれていたのも、この意味においてでしょうし、その地名が、身を隠す適地ともいえる洞穴に由来するとの馬場氏(あるいは折口氏)の明察をも、この語源説が裏付けていることになります。

そして、このように明確に語源について説明できることにおいて、少なくとも、「神(かみ)」は、もとから日本にあった言葉で、日本で生まれた言葉(この国に語源がある)だと、はっきりしています。


〇「かみ」と「おに」の相違点

古代社会で、日本古来の「神」と同義の役割を果たした「おに」のあったことをもとに、「おに」の概念が、〈独自の土俗的信仰や、生活実感として〉、もとからこの国に存在していたと言い切ってしまうのは、果たして、正しいのでしょうか。

その説明の方法は、「おに」と「かみ」が完全に一致して同じものしか示さないか、「おに」の持つ意味のすべてが「かみ」に含まれる場合においてのみ、有効である気がします。少なくとも「かみ」については、語源における意味が日本に固有のものであるとき、確かに「かみ」は、日本にもとからある概念であると説明がつきます。そして、「おに」が、「かみ」と同一の意味以外の意味を持たないとき、「おに」もまた、日本にもとからある概念であると説明できます。しかし、「おに」のほうに、「かみ」と明らかに区別される要件のあった場合、やはり、別の言葉なのですから、「かみ」と区別される「おに」において、日本にもとからあった使い方を探してみなければ、どの意味において日本に固有といえるのかが、はっきりしないのではないでしょうか。

つまり、むしろ、日本にもとから「おに」の概念の存在したことは、折口博士のいう「国訓の上には、鬼をかみとした例はない」ことや、かみは祀られてもおには祀られないという背景らしいところから、断定され得ると私は思うのです。すなわち、決して「かみ」と交換しえない「おに」の概念が、古代社会に存在したことにおいて、紛れなく、日本にもとから「おに」の概念はあったと、言い切れると思うのです。

さらに、同じものをさして、「神」とも「鬼」とも呼んだ例を挙げておきます。それは「雷」です。

  
B 〈已にして伊奘諾尊に謂りて曰はく、「吾が夫君尊、請はくは吾をな視たまひそ」とのたまふ。時に闇し。伊奘諾尊、乃ち一片之火を挙して視す。時に伊奘冉尊脹満れ太高へり。上に八色の雷公有り。伊奘諾尊、驚きて走げ還りたまふ。是の時に、雷等皆起ちて追ひ来る。時に、道の辺に大きなる桃の樹有り。故、伊奘諾尊、其の樹の下に隠れて、因りて其の実を採りて雷に擲げしかば、雷等、皆退走きぬ。此桃を用て鬼を避く縁なり。〉(『日本書紀』「神代上」〈岩波文庫〉)


ここでは、イザナキを追いかけてくる雷たちを「鬼」としています。この雷たちは、その前の一文で「八色の雷公」とされており、黄泉の国で、イザナミの膨れ上がった腹の上にいた雷たちです。イザナミから、私の姿を見ないでと懇願されているのに、イザナキは、火をかざしてイザナミの姿を見ました。そして、逃げ出しました。そのイザナキを追いかけてきた雷たちを、「鬼」と表現し、桃の実を投げることで退散させたとしています。


C 〈天皇、少子部連繋贏に詔して曰はく、「朕、 三諸岳の神の形を見むと欲ふ。或いは云はく、此の山の神をば大物主神と為ふといふ。或いは云はく、菟田の墨坂神なりといふ。汝、膂力人に過ぎたり。自ら行きて捉て来」とのたまふ。 蜾蠃、答へて曰さく、「試に往りて捉へむ」とまうす。乃ち三諸岳に登り、大蛇を捉取へて、天皇に示せ奉る。天皇、斎戒したまはず。其の雷虺虺きて、目精赫赫く。天皇 畏みたまひて、目を蔽ひて見たまはずして、殿中に却入れたまひぬ。岳に放たしめたまふ。仍りて改めて名を賜ひて雷とす。〉(『日本書紀』「雄略天皇」〈岩波文庫〉)


ここでは、雄略天皇が「三諸岳の神の形」を見たいといって、少子部連繋贏に捉えるよう命じ、繋贏は確かに三諸岳に登って、大蛇をとらえてきました。蛇は水神で、雷となって降雨をもたらします。

このようにして、雷という自然現象は、古代社会のとらえ方において、主体性のある霊的存在であり、生命体になぞらえられての格を持ちました。簡単にいえば、古代社会において、「おに」の概念は、中国由来かどうかはひとまずおいて、自然の物象に存する霊魂、自然霊として「かみ」と同一の性格を有し、まったく同じものを指すことがありました。

しかし、同じものなのに、それが、前者のエピソード(B)では「鬼」と呼ばれ、後者のエピソード(C)では、「神」とされています。さて、それが「神」であるか「鬼」となるかは、何による違いであったか。

前者のエピソード(B)では、イザナキとイザナミに対立が発生し、イザナミの立場にいた雷たちがイザナキの追手となりましたから、イザナキと雷たちは、敵どうしとなってしまった関係性です。いわば、敵となったものをイザナキの立場から「鬼」と呼んだとして差し支えないでしょう。
しかし、後者のエピソード(C)では、「三諸岳の神」とは「蛇」の姿をして降雨をもたらす水神であり、雄略天皇は畏まり、少子部連繋贏に捉えさせたものの放させてもいます。その後、繋贏に「雷」を称号として与えていますから、ここで「雷」は、善神の意味合いで一貫しています。
つまり、雄略天皇の立場から畏まる態度を表明し、利害において対立しない(対立が発生するのを避けた)関係性です。

このことから、そのものが「かみ」だったか「おに」だったかは、利害対立の有無や、畏敬の表明の有無に拠ったのではないかと思わされます。このようにとらえて、折口氏のいう「強ひてくぎりをつければ、おにの方は、祀られて居ない精霊らしく思はれる点が多い」こと、ひるがえして「おに」は祀られていないらしく「かみ」は祀られていることに、矛盾しません。

さらに、同一語彙、「雷」に関連して、「神」や「鬼」の出てきた例を、『日本書紀』から挙げていきます。
『日本書紀』は、天武年間に編纂が始まった、わが国で初めての正史といわれています。「正史」とは、すなわち当時の朝廷が公式に認めたということですから、朝廷の立場を正として編纂されています。内容は、天皇紀として区切られていますが、まだ文字による記録のない神代の昔から始まっています。
岩波文庫『日本書紀』の解説によると、もとになった史料は、帝紀と旧辞であり、「帝紀と旧辞とは、もとは口々に伝えられていたものであるが、天武天皇のときには諸家が所有して異本が多く生ずるほど、文献として定着していたのである。その筆録は六世紀欽明朝の前後から始まったのであろう。」としています。そのほか、個人の記録など多様な記録がもとにされ、潤色のために中国の史書が用いられるなどしているようです。これらのことから、『日本書紀』は、六世紀以降の記録をもとに、『日本書紀』編纂の始まった天武年間の価値観でもって、まとめられているといってよいでしょう。

「雷」は、「神」ともされ「鬼」ともされる典型的な例として、『日本書紀』に多く出現します。同一語彙の例に当たるのは、用いられ方に違いがあったときに、比較しやすいからです。次に挙げるのは、推古天皇紀から。「雷」が「神」とされて順当にストーリーが展開される例です。加えて、推古天皇は、聖徳太子が摂政を務めた折の女帝ですから、聖徳太子のお母さんが「神隈」「鬼隈」とも呼ばれたのと同時代の記録です。


D 〈是年、河辺臣――名を闕せり。――を安芸国に遣して、舶を造らしむ。山に至りて舶の材を覓ぐ。便に好き材を得て、伐らむとす。時に人有りて曰はく、「霹靂(かむとき)の木なり。伐るべからず」といふ。河辺臣曰はく、「其れ雷の神なりと雖も、豈皇の命に逆はむや」といひて、多く幣帛祭りて、人夫を遣りて伐らしむ。則ち大雨ふりて、雷電す。爰に河辺臣、剣を案して曰はく、「雷の神、人夫を犯すこと無。当に我が身を傷らむ」といひて、仰ぎて待つ。十余霹靂すと雖も、河辺臣を犯すこと得ず。即ち少き魚に化りて、樹の枝に挟れり。即ち魚を取りて焚く。遂に其の舶を脩理りつ。(『日本書紀』「推古天皇」二十六年〈岩波文庫〉)


同書校注に、「霹靂の木」の木とは、「雷神による木の意か。」、「落雷は稲と雷との交接であり、それによって稲が稔るのだと、当時の人々は信じていたので、雷電をイナツルビと訓む。」とあります。「伐るべからず」と言われているのに、その雷の木を切ったから祟られるのかといえば、そうではなく、ここで河辺臣は「神」に呼びかけ申し入れをしており、雷神は、誰を傷つけることもなく、船舶も完成しています。つまり、「神」に呼びかけることで対立を避け、それによって「雷」は稲を稔らせる善神として温存され、勅命もまた成りました。

時代がくだって、同書「斉明天皇」の七年には、「雷」をめぐって「神」と「鬼火」がでてきます。


E 〈五月の乙未の癸卯に、天皇、朝倉橘広庭宮に遷りて居ます。是の時に、朝倉社の木を斮り除ひて、此の宮を作る故に、神忿りて殿を壊つ。亦、宮の中に鬼火見れぬ。是に由りて、大舎人及び諸の近侍、病みて死れる者衆し。(『日本書紀』「斉明天皇」七年〈岩波文庫〉)

この「神」は、同書校注によると「雷神」であり、この災厄は落雷に依るものとわかります。五月は梅雨明けであり、落雷の多い季節ですから、落雷のあること自体は順接に発生する自然現象で、落雷があっただけでは、祟りや怪異に結びつきません。「雷の木を伐った」だけで祟られるわけではないのも、「推古天皇」二十六年のエピソードから明らかです。ここでは、「鬼火」が現れ病死者の出たことで、それが雷の木の祟りによるものと示唆されますが、順接の自然現象でありながら、そののちに発生した、無関係かもしれない凶事とひもづけて、それを祟りによるものと受け止めるには、そう受け止めるだけの背景が、別途、あったはずです。

じつは、この文脈には、直後に、この頃、百済救援の拠点であった済州島からの朝貢が始まったこと、百済が滅亡してからも、百済救援の拠点であった済州島を助け、大和朝廷と半島との関係性に大きな変化は見られなかったことを印象づける挿話がつづきます。さらに、韓智興という人物の付き人からの讒言を受け、遣唐使人らは、唐の朝廷からの「寵命(みめぐみ)」が無かったことが記されています。
「斉明天皇」の五年にも、智興の別な付き人から遣唐使人らが讒言を受け、流罪を被るということがありました。同種のことがうちつづくと信憑性を増し、国と国の問題となることは必定です。このままでは遣唐使どころか、大和が、大国である唐と戦争になってしまうかもしれない。このような文脈をととのえる挿話が、「鬼火」の出る背景を語っているのでしょう。この挿話は、次の二文をもって、締め括られます。


F 〈使人等の怨、上天の神に徹りて、足嶋を震して(雷を落として)死しつ時の人称ひて曰へらく、『大倭の天の報近きかな』といへりといふ。〉(『日本書紀』「斉明天皇」七年〈岩波文庫〉)

「死しつ」は「ころしつ」と読みます。遣唐使人らの怒りが天の神に通じて落雷が讒言者を殺しました。この挿話によってととのえられてから、つづく本文の文脈に注目です。「鬼」は、百済救援を推し進めた斉明天皇(皇極天皇)の、喪の儀を、山から見下ろすという姿で、登場したのでした。


G 〈秋文月の甲午の朔丁巳に、天皇、朝倉宮に崩りましぬ。八月の甲子の朔に、皇太子、天皇の喪を奉徙りて、還りて磐瀬宮に至る。是の夕に、朝倉山の上に、鬼有りて、大笠を着て、喪の儀を臨み視る。衆皆怪ぶ。〉(『日本書紀』「斉明天皇」七年〈岩波文庫〉)


大意 斉明天皇が崩御されました。その喪の日、朝倉山の上に大笠に身を隠した「鬼」が現れ、喪の儀を見下ろしていました。人々は皆、怪しんだということです。

書紀の文章として、E→F、F→Gは、そのままつづきます。この文脈は、どういうことでしょうか。「鬼」出現の直前には、落雷によって讒言者が天誅を受けています。そして、当時の人々が、天の怒りを称えていうには、〈『大倭の天の報近きかな』といへりといふ。〉です。
この部分では、「大倭」にも天の報いやいかにと、「時の人」の秘められた逆心が表明されているのではないでしょうか。戦乱に兵士としてかりだされる以上の負担はありません。すでに民心の離れてしまっていることを、すぐあとに登場する大笠を着た鬼が、暗示しているのではないでしょうか。
あの鬼火は、「雷の木」を伐ったことによるものと読者に思わせながら、決して、そのアクションだけでそうはならないこと、「雷の木」の伐採をきっかけに、政治への批判が、こうした「鬼」の姿をとって山上にまで現れたとみるのが、もっともではないでしょうか。
つまり、ここでとどろき閃く雷は、国難を暗示させて、焉りゆく斉明天皇の時代を劇化する、盛大な演出としてはたらいているのです。

E→F→Gの「鬼」出現までは、「斉明天皇」七年です。さかのぼって、「斉明天皇」六年にも、百済救援の失敗を予感させる次のような「わざ歌」が、取り上げられています。


H 〈是歳、百済の為に、まさに新羅を伐たむと欲して、乃ち駿河国に勅して船を造らしむ。已に訖りて、続麻郊に挽き至る時に、其の船、夜中に故も無くして、艫舳相反れり。衆終に敗れむことを知りぬ。(中略)或いは救軍の敗續れむ怪といふことを知る。童謡有りて曰はく、
  まひらくつのくれつれをのへたをらふくのりかりがみわたとのりかみをのへたをらふくのりかりが甲子とわよとみをのへたをらふくのりがりが〉
(『日本書紀』「斉明天皇」六年〈岩波文庫〉)


同書校注によると、この童謡(わざ歌)の意味は解明されていませんが、「要するに征西軍の成功し得ないことを諷する歌に相違ない。」とあります。つまり、このわざ歌は、船の前と後ろが夜のあいだに理由もなく反対になっていたという怪異を、戦に敗れる予兆として位置づけるとともに、斉明天皇崩御に至る流れの伏線としても、機能していたということです。そして、喪の儀を見下ろす「鬼」出現の怪が、大和と百済が小国どうし同盟の絆で結ばれていた政治の季節の終わりを象徴していたことをうかがわせます。『日本書紀』編纂者の工夫としていえば、一つの政治的局面の終焉であることを強く印象づけるために、わざ歌の伏線を張り、喪の儀を見下ろす「鬼」出現に至るまで、文脈を仕込んであるということです。
つまり、大和朝廷という絶対者を浮き彫りにするために、「鬼」を出現させているのです。大和朝廷が絶対者である。この浸透こそが、天武朝の、『日本書紀』編纂の意図であったからでしょう。

『日本書紀』の「鬼」の用例を、もっと見ていきましょう。


I 〈二の神、諸の順はぬ鬼神(かみ)等を誅ひて、一に云はく、二の神遂に邪神及び草木石の類を誅ひて、皆已に平けぬ。〉
(『日本書紀』「神代下」〈岩波文庫〉)


「二(ふたはしら)の神」とは、地上の世界である「葦原中国」を平定するために派遣された武甕槌神(たけみかづちのかみ)、経津主神(ふつぬしのかみ)であり、「鬼神」の記述で「かみ」の訓になるのは、「鬼」の字が修飾語であることを意味しているでしょう。そしてここでは、直後に出てくる「邪神」とイコールであることから、「鬼」の意味は、ここでは「身を隠す」という古来の意味よりは、「邪」のほうが近いでしょう。
『日本書紀』では、朝廷の日本統一を阻害する存在を、おしなべて敵とみなす態度が明白であり、朝廷の敵を「鬼」と呼んでいるようです。次に挙げる、孝徳天皇紀も同様です。


J 〈乙卯に、天皇・皇祖母尊・皇太子、大槻の樹の下に、群臣を召し集めて、〈今より以後、 君は二つの政無く、臣は朝に弐あること無し。若し此の盟に弐かば、天災し、地妖し、 鬼誅し人伐む。皓きこと日月の如し」 とまうす。〉(『日本書紀』「孝徳天皇」〈岩波文庫〉)


年号を日本独自の年号として大化にあらためるに際し、孝徳天皇は家臣らを集めて、従わぬ者を滅ぼすことを宣言しました。校注によると、この改元には、従わない者へのとりこぼしのない制裁が強調されています。この強調は、強権を誇示するばかりでなく、大和朝廷こそが正統・正義であることを前提とするでしょう。

さらに、『日本書紀』では、「鬼」のどのような様子を邪悪としたのかを、具体的に見ていきます。


K 〈亦山に邪しき神有り。郊に姦しき鬼有り。衢に遮り徑を塞ぐ。多に人を苦しびむ。(中略)或いは党類を聚めて、辺堺を犯す。或いは農桑を伺ひて人民を略む。撃てば草に隠る。追へば山に入る。故、往古より以来、未だ王化に染はず。〉(『日本書紀』「景行天皇」)〈岩波文庫〉)


ここでは、「邪しき神」「姦しき鬼」と呼ばれる人々が、山や辺境など、村里の外れに潜んで、グループを形成し、村里の生活を脅かす姿が描かれています。そして、天皇は、日本武尊に武器を授け、このような「邪しき神」「姦しき鬼」を討てと、熊襲征伐を命じます。この対句は、あとで「即ち言を巧みて暴ぶる神を調へ、武を振ひて姦しき鬼を攘へ」とつづきます。つまり、「神」は言葉で調伏し、「鬼」は力づくで追い払えということです。ここに、「神」と「鬼」の違いが示されているように思われます。

つまり、それが「神」であるか、「鬼」となるかの違いであったのです。関係性が対立へと向かえば、「鬼」となり、利害対立する「神」には対話、しかし「鬼」には、武力行使だったのです。実際、雄略天皇紀では少子部連繋贏が、推古天皇紀では河辺臣が雷神に言葉で申し入れをして、対象は、「神」であることを温存しています。そのことを、これらの記述が裏付けてくれます。
つまり、「かみ」か「おに」かは、絶対的な意味合いではなく、環境(周辺事物)との関係性の持ち方で、決まっていたのです。


⑶ 様相の具体的な記述から考察する

この章では、古代の文献において、「おに」と呼ばれているものが、直接に描かれるとき、どのような具体性をもっているかに着目します。
『日本書紀』と同時代の国書に『風土記』があります。
『風土記』とは、「国史が大和朝廷に対してお答え申し上げる性格の公文書であり、国の過去と現在の忠実な報告記事に終始するもの」であり、「内容は史籍地理志を意識して書けということ」であると、『風土記』(新編日本文学全集〈小学館〉)の校注・訳者の植垣節也氏は、同書の冒頭において紹介します。つまり、『風土記』は、公式の歴史書である『日本書紀』を正もしくは主としつつ、各国情を報告差し上げる『風土記』は、事実に忠実でなければならないということです。

各国の『風土記』のなかで、完本で遺され、「鬼」の古例が見られるのは「出雲風土記」(733年)でした。


L 〈阿用の郷。郡家の東南一十三里八十歩なり。古老伝へて云ひしく、昔、或る人、此処に山田を佃りて守りき。その時、目一つの鬼来て、佃る人の男を食ふ。その時、男の父母、竹原の中に隠れて居りき。時に、竹の葉動(あよ)けり。そのとき、食はるる男「動く動く」と云ひき。故れ、阿欲と云ふ。神亀三年、字を阿用と改む。〉(『風土記』「出雲風土記」新編古典文学全集〈小学館〉)


大意 目が一つしかない鬼が来て、ある農夫の息子を食べました。その父母は、竹原に隠れてじっとしていましたが、竹の葉が動くと鬼に見つかりそうになるので、農夫の息子は、みずからが食われながらも父母に、「動(あよ)く、動(あよ)く」といって、じっと隠れているように教えました。この伝承は、地名のもととなりました。


この「目一つの鬼」のエピソードについて、植垣氏は同書「古典への招待」及び本文校注にて、次のように述べます。


  〈風土記の執筆者は、これが高天原から追放された神の仕業という大和側の見方を排することで出雲の立場を貫きました。八岐の大蛇の話の原型は、須賀の宮のすぐ近くにある大原の郡阿用の里の、目一つ鬼の伝承です。〉

  〈出雲は明治以前、鉄の生産が日本一であったが、鉄鋼から鉄を取り出す技術が大陸から伝えられた。技術者は尊敬されながらも、一方、不思議な術を使う集団に見えたと思われる。ところで、鍛冶の仕事では火の温度を知るために火の色を見る。これを長年続けると片目が失明する。目一つの鬼の正体はじつは自分の片眼を犠牲にして仕事をした人であった。愚かな恐怖心から鬼に仕立て、子を食う話が語られた。八岐の大蛇の伝承の原形はこれであろう。〉(『風土記』「古典への招待」植垣節也)


馬場あき子氏は、『鬼の研究』のなかで、この「目一つの鬼」について、次のように推察します。


  〈日本の書物に登場する鬼が一つ目であることは、日本の鬼の原型を考える上にたいへん参考になることである。神犠にえらばれたしるしとして片目をつぶされた一つ目の男が、ある時よこしまな暴力をもってふいに民衆の収穫を奪い去ることは考えられぬことではない。〉


馬場氏がこのように述べるのは、「目一つの鬼」の由来を、柳田国男氏の研究に求めたからです。柳田国男氏が、『一つ目小僧』のなかで、日本の古代の風習を挙げ、「大昔いつの代にか、神様の眷属にするつもりで、神様の祭りの日に人を殺す風習があつた。恐らくは最初は逃げても捉まるように、その候補者の片目を潰し足を一本折つておいた」ことの名残であるととらえたからです。また。馬場氏は、「鬼」に「しこ」という読み方があったことに言及し、異形であったり、身体の一部が損なわれていたりする姿のものを「おに」と呼んだ可能性を示唆します。

じつは、私は、両氏の説の、ある部分に、違和感を持ってしまうのです。両氏とも、ここで「目一つの鬼」とは、二つある目のうち、一つが潰れた(潰された)人物を想定しているのですが、二つある目の一つが潰れている、そのようなすがたかたちを見て、人々は、「目一つ」と認識するかということです。その場合、「片方の目の潰れた(潰された)」と認識するのではないでしょうか。またそれに、片方の目が潰れているといったようなことは、一見してわかりにくく、近くに寄って認識できることです。ですので文字どおり、この「鬼」の目は、初めから一つしかなかったのではないかと、私は思うのです。

それから、『日本書紀』の八岐大蛇の伝説は、強力な霊性を感じさせる水神伝説でもあります。


M 〈時に素戔嗚尊、乃ち所帯かせる十握剣を抜きて、寸に其の蛇を斬る。尾に至りて剣の刃少しき欠けぬ。故、其の尾裂きて視せば、中に一つの剣有り。是所謂草薙剣なり。(中略)一書に云はく、本の名は天叢雲剣。蓋し大蛇居る上に、常に雲気有り。故以て名くるか。日本武皇子に至りて、名を改めて草薙剣と曰ふといふ。〉
(『日本書紀』「神代上」第八段〈岩波文庫〉)


そもそも朝廷が、『風土記』の編纂を各国に命じたのは、各国から税を、余すところなく搾取する目的があったでしょう。この伝承のある出雲国ではよく雨が降るということになり、五穀豊穣の地という印象になります。遠国である出雲国において、このような伝承を「風土記」の報告に認めてしまうと、租税がたいへん重くなる可能性があったでしょう。

『日本書紀』欽明天皇紀には、飢餓による食人の記録が残されています。

N 〈廿八年、郡國大水飢、或人相食。轉傍郡穀、以相救。〉(この書き下し文は後ほど。)

食人の強烈な描写は、増税回避のために、かつての大災害、大飢饉を、中央政府に想起させることにあったのではないでしょうか。大災害が発生すれば、どうなるかわからない。出雲国とて例外ではない。そして、目一つの鬼が、遠巻きにも「目一つ」とわかるほどの、文字どおりの異形の姿であったとしたなら、この郷の人々にとり、伝承すべきであった事柄は、何だったのでしょうか。

実際、班田収授法は、税を納める農民にも、取り立てる側の国司にも過酷すぎて、ほどなくして戸籍を偽るなどの不正が横行したほどでした。男子は六歳になると口分田を支給されますが、六歳など、まだほんの子供で、おとなのように働けるはずもありません。そして、成人男子が死亡すると、その口分田を返納しなくてはなりません。男親は、六歳にはなったがまだ幼い男の子のぶんをも耕さねばならず、税を滞納すると、兵役や建設工事にボランティアで駆り出されます。すると、家には女子供だけとなり、田畑を耕す人がいなくなってしまうのです。そのようなわけで、農民のほうでは、男子が生まれたら女子と偽ったり、高齢者が亡くなってもまだ生きていると偽って、収穫を見込める口分田を手放すまいとしました。そのようななか、なんらかの事情で労働力と見込めそうにない子は、口分田支給の六歳までに死んだことにして、山などに移したり、遺棄したりしていたのではないでしょうか。

またさらに、「おに」は、欽明天皇紀にて、次のようにも記されます。北陸地方に伝わったとされる、放浪民の伝承です。


O 〈越国言さく、「佐渡嶋の北の御名部の埼岸に、粛慎人有りて、一船舶に乗りて淹留る。春夏捕魚して食に充つ。彼の嶋の人、人に非ずと言す。亦鬼魅なりと言して、敢て近づかず。
〈人有りて占へて云はく、『是の邑の人、必ず魅鬼の為に迷惑はされむ』といふ。久にあらずして言ふことの如く、其に抄掠めらる。是に、粛慎人、瀬波河浦に移り就く。浦の神厳忌し。人敢て近づかず。渇ゑて其の水を飲みて、死ぬる者半に且とす。骨、巌岫に積みたり。俗、粛慎隈と呼ふ。」とまうす。〉


「粛慎人」がどのような人々をさすのか諸説あるようですが、彼らは、どこからかやってきて、その土地に隠れ棲んでいたようです。定住はせず、放浪民であり、地元の人々から「おに」と呼ばれて、地元の人々を悩ませるようになったという伝承です。この「鬼魅」の様子は、前項(2)、書紀におけるKの文章が述べた「鬼」の様子と重なります。

ここで、もう一度、Aの文章に戻っておきたく思います。


A 〈郡より西北のかた六里に、河内の里あり。本、古々の邑と名づく。俗の説に、猿の声を謂ひて古々と為す。東の山に石の鏡あり。昔、魑魅(おに)在り。萃集りて鏡を翫び見て、すなはち自づから去る。俗、疾き鬼は鏡に面へば自づから滅ぶと云ふ。〉(「常陸国風土記」)


魑魅(おに)は、集まって遊ぶことがあり、鏡に映るのは自分自身であると認知できる。鏡に映ったのは自分自身だと分かれば、姿を消してしまったーー。姿を消して、どこへ行ったのでしょうか。集まるまえは、どこにいたのでしょうか。

私には、「風土記」に登場する「阿用の鬼」も「河内の魑魅(おに)」も、なんらかのハンディキャップをもって生まれた子が、労働力とはならないために、物心つかないうちに、そう遠くない山のなかに棄てられ、なかには生き残るものもいて、山の民となった姿と思えるのです。そして、生きた人であるからには、食べ物などを求めて、しばしば、郷にも出没をします。山のなかでグループになることもあったでしょう。郷の人々のほうでも、もとは自分たちの血縁者であり、戸籍を偽るなど、生きていくためのやむなき不正のためにそうなったものであるからこそ、事件化を避けて、なんとか山へ追い返そうとしたでしょう。逆に、こうした者たちに事件を起こされたときも、「おに」が現れては消えたことにして、その形で伝承もし、「風土記」なる中央への報告書としても、このような形でバランスを取ったのではないでしょうか。

いずれにせよ、日本にあったもとからの「おに」の概念とは、折口博士のいう精霊や自然霊のような土俗の信仰のそれではなくて、生きながら棄てられた人々を、あるいは定住民と対立する流浪民を、もとから「おに」と呼んでいたではないかという問題提起を、私は、しようとしています。中世以降、山の民や流浪民を「おに」と呼んだらしいことは、『鬼の研究』ほか、先行の研究で明らかにされていますが、農耕が始まり、条件のよい土地を奪い合うようになったときから、そのような人々はすでに発生していたでしょうし、そのような人々への呼び名が無かったとは、むしろ、考えにくいことだからです。ですので、そうした人々を、とっくに「おに」と呼んでいたのではないかと、考えてしまうのです。
この国の言葉の使い方に、外来文化の影響の乏しかった頃にも、共存の難しい人々、異質な人々を排除しようとする向きと、対立を避けて、なんとか折り合いを付けようとする郷の風情は、常にないまぜであったようにも思われます。
 
欽明天皇紀にあった、「佐渡嶋に鬼魅(おに)あり」の「粛慎人」「粛慎隈」は、異文化の部落の存在を示し、異文化の人々との対立を暗示します。この景行天皇紀における「邪しき神」「姦しき鬼」のふるまいは、まさに、定住民から見た、対立する異文化集団のふるまいと同様ですし、「常陸国風土記」の目一つの鬼のふるまいも、「農桑を伺ひて人民を略む」行為そのものでした。そして『日本書紀』が、そのような人々の排除を、朝廷の権力でもって唱えるようになるまで、郷の人々は、彼らをひそかに「おに」と呼びつつ、折り合う道を模索していたかもしれないのです。
いずれにせよ、古代の人々が「おに」と呼んでいたのは、重い税に耐えかねて逃げ出すなどした人々、戸籍操作のために山などに棄てた子や、あるいは放浪することになったグループ、ハンディキャップピープルであった可能性が高いでしょう。

さて、ここまででわかってきたことを、まとめます。
古典籍からの引用を、アルファベットでA~Oとしています。①~⑤に、A~Oの引用部分を対応させると、次のようになります。
間接的な引用部分は、主たる引用部分にひもづける形で(‐●)として示しました。


【⑴2のまとめ】

① 「おに」の概念の、中国に由来しない、日本にもとからあった意味合いとは、「身を隠す」という意味合いであった。……阪倉「神」語源説、折口信夫説、馬場あき子説、A、G

② 「おに」の概念の、「かみ」の概念と意味の重なるところが多いなか、「おに」の概念の独自性は、文脈の中心人物と対立する関係性となったときから、中心人物の立場で、「おに」と呼んだ。なかでも『日本書紀』においては、朝廷が武力において制圧すべき敵とみなした存在を「鬼」とした。…B、I、J、K

③ ②を受けて、『日本書紀』では、雷のような、信仰対象であった自然現象を絶対視してはおらず、大和朝廷と対峙する関係にあるものとしてとらえている。もとは「神」として順接にとらえてあっても、災厄を結果としたものについては、同一文脈中にあっても、「神」から「鬼」へと関係性をとらえ直した。朝廷からの、対話や対立を避けるアクションなどにおいて災厄を避けられた場合は、「神」であることを温存した。つまり、「かみ」か「おに」かは、絶対的な意味合いではなく、環境(周辺事物)との関係性の持ち方で、決まっていた。……C、D、E

④ 『日本書紀』では、わざ歌を用いるなどして、大和朝廷に対する大衆の反感や逆心を、「鬼」の出現によって暗示した。……H→E→F→Gの流れ

⑤古代社会の人々に 「おに」と呼ばれていたのは、流浪民や棄民、ハンディキャップピープルであった可能性が高い。……A、K、L(‐M、N)、O



このように見ていきますと、日本にもとからいた「おに」は、どうやら精霊のたぐいではなかったということになります。
あるときは、逆賊のメタファーであり、メタファーでないときは、現実の人間もしくは人間集団を指し、その内実は、悪意のある無しによらず。社会と協働していくことの難しい人々だったようです。
であれば、なぜ、折口博士や馬場氏は、日本にもとからいた「おに」に、精霊や自然霊といった、土俗信仰の対象である可能性を、取り置こうとされたのでしょうか。
なぜ自分もまた、同じ指向を持ったのでしょうか。
このことを、和歌文学をその精神風土におくものにとり、『古今和歌集』「仮名序」の影響が大きかったせいではないかと私は考えました。(本考5)

さて、「おに」という和語には、中国から入ってきた漢字のうち、「鬼」の字が当てられています。
この「鬼」の字は、大陸では「キ」という音を持ち、死者の霊を表しました。それにまた、天武朝の頃には、同じく大陸から渡ってきた仏教が、浸透してきた時代でもあります。
本考では、次いで、大陸から受け入れた死生観が日本でどのようにアレンジされていったかを、「鬼」の字において表現される事物をめぐって、見てまいります。














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(未定稿)鬼さん考 1

2024-03-29 12:54:18 | 月鞠の会
一 日本にもとからいた「おに」を探る

⑴ 特記すべきこと


日本にもとからいた「おに」とは、きっと、精霊のたぐいだろう。――この論考を始めたとき、私は、そのように心づもりをしていました。

見通しのよくない道を歩いていて、袋小路に入り込んでしまう。山茶花の咲くのを目印にして出られたけれど、その次に通ったときには散っていて、また迷う。道を抜けてから、何かに遭ってしまった気分が残る。何かを見たわけでも、耳に聞こえたわけでもないのに、あやしい気配に遭ってしまったという、「体験」に類するできごと。――自然にまつわる、そのような感覚を、古代の人は、どのように表現したのだろうか、と。そして、それを、「おに」や「おに」に類する言葉によって、表現していたのではないかと。

折口信夫博士が、次のように書いています。(傍線筆者、以下同)


  〈一体おにと言ふ語は、いろいろな説明が、いろいろな人で試みられたけれども、得心のゆく考へはない。今勢力を持つて居る「陰」「隠」などの転音だとする、漢音語原説は、とりわけこなれない考へである。聖徳太子の母君の名を、神隈(カミクマ)とも鬼隈とも伝へて居る。漢字としての意義は近くとも、国訓の上には、鬼をかみとした例はない。ものとかおにとかにきまつてゐる。して見れば、此は二様にお名を言うた、と見る外はない。此名は、地名から出たものなるは確かである。其地は、畏るべきところとして、半固有名詞風におにくまともかみくまとも言うて居たのであらう。二つの語の境界の、はつきりしなかつた時代もあつた事を示してゐるのである。強ひてくぎりをつければ、おにの方は、祀られて居ない精霊らしく思はれる点が多い。〉

「青空文庫」『信太妻の話』(折口信夫)から、表記を若干改めて引用しました。「青空文庫」の底本は「折口信夫全集 2」〈中央公論社〉、底本の親本は「古代研究 民俗学篇第一」〈大岡山書店〉、1929(昭和4)年4月10日発行。

 
  〈「おに」と言ふ語(ことば)にも、昔から諸説があつて、今は外来語だとするのが最勢力があるが、おには正確に「鬼」でなければならないと言ふ用語例はないのだから、わたしは外来語ではないと思うてゐる。さて、日本の古代の信仰の方面では、かみ(神)と、おに(鬼)と、たま(霊)と、ものとの四つが、代表的なものであつたから、此等に就て、総括的に述べたいと思ふのである。〉
  〈鬼は怖いもの、神も現今の様に抽象的なものではなくて、もつと畏しいものであつた。今日の様に考へられ出したのは、神自身の向上した為である。たまは眼に見え、輝くもので、形はまるいのである。ものは、極抽象的で、姿は考へないのが普通であつた。此は、平安朝に入つてから、勢力が現れたのである。〉
  〈おには「鬼」といふ漢字に飜された為に、意味も固定して、人の死んだものが鬼である、と考へられる様になつて了うたのであるが、もとは、どんなものをさしておにと称したのであらうか。

こちらも、「青空文庫」に公開されている『鬼の話』(折口信夫)から、表記を若干改めての引用。底本は「折口信夫全集 3」〈中央公論社〉、底本の親本は「古代研究 民俗学篇第二」〈大岡山書店〉、1930(昭和5)年6月20日発行。


つまり、昭和の初め頃、折口信夫博士によって、だいたいこのように考えられていたのを、私は、自身の感覚に近いこととしてとらえていました。馬場あき子氏は、『鬼の研究』(三一書房)において、博士の言説について、以下のように考察しています。『鬼の研究』は、一九七一年です。

  
  〈聖徳太子の母は、書紀その他に拠れば、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)で、穴穂部は安康天皇の名代(なしろ)として雄略天皇十九年におかれたものである。間人皇女は欽明天皇の皇女で、「欽明紀」には泥部穴穂部皇女(はしひとのあなほべのひめみこ)とある。これにたいして、異母妹の磐隈皇女(いわくまのひめみこ)は伊勢の大神祠であり、夢皇女(ゆめのひめみこ)の別称をもっていた。いかにも夢占や巫言に長じていたことを推測させる名で、もし「神隈」という字を当てるとすればこの方の名としてふさわしい。しかし、「穴穂」という呼称は穴太ともかかれ、この皇女の墓は大和平群の地を占めて築かれているので、穴穂は山沿いの洞穴の多い地形の名であったことも考えられる。折口氏もまた、「おにの居る処は古塚、洞穴などであるらしい。死の国との通ひ路に立つ塚穴である。――鬼隈の皇女などという名も巌穴、洞穴にかんけいありさうだ」(『鬼と山人と』)と述べて、穴と鬼の連想を明らかにしている。
  いずれにしても「おに」という語が、中国産の「鬼」とはまったく別個に、独自の土俗的信仰や、生活実感として存在していたわけである。〉(『鬼の研究』)

  馬場氏のいう「中国産の鬼」とは、漢字として「鬼(キ)」の、もともとの字義である「死者の霊」。折口氏が昭和の初めに「もとは、どんなものをさしておにと称したのであらうか。」として示唆する「もと」の鬼――日本古来の「おに」の存在が、馬場氏によって、「独自の土俗的信仰や生活実感」との限定を加えつつも、このように積極的に肯定されています。
馬場氏は、さらに同著のなかで、『日本書紀』から、「鬼」が「もの」とも訓を当てられた例を挙げ、補足します。


  〈「彼(そ)の国に、多(さは)に螢火の光(かかや)く神、及び蠅声(さばへ)なす邪(あ)しき神あり。復(また)、草木ことごとくに能(よ)く言語(ものいふこと)あり。――吾れ葦原の邪(あ)しき鬼(もの)を撥(はら)ひ平(む)けしめむと欲(おも)ふ」〉(『日本書紀』「神代紀」……『鬼の研究』中の引用部分)

  〈ここで「もの」とよまれている「鬼」とは、「螢火の光(かかや)く神」や「蠅声(さばへ)なす邪(あ)しき神」あるいは、「ことごとくに能(よ)く言語(ものいふこと)」がある草木などの総称である。つまり、これらの例によって知られる、よろずの、まがまがしき諸現象の源をなすものが、〈鬼〉の概念に近いものとして認識されていたのである。それは、はっきりとは目にも手にも触れ得ない底深い存在感としての力であり、きわめて感覚的に感受されている実体である。〉(『鬼の研究』)


ここから、馬場氏がイメージしている、日本にもとからいた「おに」は、折口氏と同様、具体的には精霊や自然霊であることが伺えます。「目にも手にも触れ得ない」けれども、「感覚的に感受されている実体」という表現は、私が冒頭に述べた、「何かを見たわけでも、耳に聞こえたわけでもないのに、あやしい気配に遭ってしまった」という感覚と一致するでしょう。

しかしながら、これらを引用しつつ思うことが一つ。それは、私が、折口信夫博士の言説や、馬場あき子氏の解釈を受け入れているのは、そのものが正しいかどうかとは関係がなく、なおかつ、当然だということ。なぜなら、歌人である私は、一九六六年生まれ、お二人から見て、後の世代の実作者です。歌人として偉大な先達であられる人々の言説を、つづく世代の自分自身が、先達と共有すべき文化として、疑うことなく取り込んでいるのは、むしろ自然でありました。
ですので、この二人の識者の手柄において、すなわち、大陸の文化が入ってくる以前から、自然物の気配を精霊によるものとして感受し、「おに」と呼ぶことがあったと、日本にもとから「おに」と呼ばれる精霊の一身があったと、このように言葉にされていたことで、この章の冒頭に掲げた趣の気配を、私は、「そのように感じるようになった」のかもしれない、ということを、まず、特記しておきます。



















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(未定稿)鬼さん考 序

2024-03-16 11:08:07 | 月鞠の会
鬼さん考 序


現代を生きる私たちが、慣れ親しんで使う言葉に「おに」があります。
「鬼」と書いて、「おに」と読む。とても恐ろしい、程度が人知を超えているといった意味や存在を表します。
ツノを生やし牙をむいた姿態で童話に登場したり、「鬼ばば」のようにさまざまなニュアンスの接頭語になったり、その分野への情熱の傾け方が尋常でない人を「◯◯の鬼」と身近に呼んだりもし、その一方で、非常に残虐な事件があったようなときに、「鬼の所業」のように、穏やかでない使い方をされる言葉です。
いずれにせよ、超自然的で、恐ろしいイメージがあります。
お茶目に呼ぶときにも、恐ろしいイメージが持たれることを前提に、その前提を裏切るお茶目さ、という意味合いになってきます。

そもそも、「鬼」の語は、いつ頃からある言葉でしょうか。
ずっと同じ意味に使われていたのでしょうか。
そうでないとしたら、現代の意味に近づいてきたのは、どの時代からでしょうか。
そして、この言葉が大昔からあるとしたら、古代の人々は、「おに」という言葉で、どのようなものを表そうとしたのでしょうか。

私がそんな疑問を抱いたのは、『新古今和歌集』(1205年)の撰者の一人であり、『小倉百人一首』(1235年)の編者である藤原定家が、その構想した和歌十体において、「鬼拉の体」なる異様の体を、打ち出していたからでした。
「拉ぐ」とは、「かっさらう」「ぶっつぶす」ぐらいの強烈な意味なのです。
弱い、あえかな存在に対して、そのような物騒な行為をはたらくことが、和歌の美意識であるはずもない。「鬼拉の体」は、和歌の体として提唱されたものの一つなのですから、美意識の現れ方でなければなりません。そうすると、おのずから、「鬼を拉ぐ」の「おに」とは、拉がれるべき凶悪な、恐ろしい存在でなければなりません。
逆にいえば、「定家十体」の頃には、「おに」という語に、恐ろしいイメージがすでにあったということです。

もっと昔は、どうだったのでしょう。
そこで、私は、『古今和歌集』(905年)の仮名序に、「鬼神」の語があったことを思い出しました。


  やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出だせるなり。花に鳴く鶯、水にすむ蛙(かはづ)の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の中をもやはらげ、猛きもののふの心をも慰むるは歌なり。
(『古今和歌集』新潮日本古典集成)(傍線筆者)


校注者の奥村恆哉氏は、傍線部を「おにがみ」と読ませ「もろもろの精霊たち」と注を付し、解説ではこのように述べています。

  「漢語『鬼神』と、大和言葉『おにがみ』とが、中身まで同じだと考えては性急に過ぎるのだ。前者は死者の霊であり、後者は記紀の神話に出てくる、名も記されなかったもろもろの『かみ』である。」

他方、「新 日本古典文学大系」(小島憲之、新井栄蔵校注)による『古今和歌集』では、傍線部を「おにかみ」と読ませ、その意味を「霊魂・神霊の意の漢語『鬼神』の訓読語。」であるとしています。

互いに異説にみえますが、そのいずれであったとしても、現代の「鬼」に通じる、恐ろしい凶悪なイメージは、少なくとも905年、『古今和歌集』仮名序における「鬼」もしくは「鬼神」には、持たれていなかったとみえます。
そして、定家の用いた「鬼拉」の「おに」を『古今和歌集』仮名序における、精霊、自然霊、もしくは死者の霊、もしくは神霊、そのいずれに置き換えても、訳語として意味が通じないことも、わかります。
つまり、『古今和歌集』の時代には、「精霊」「自然霊」「霊魂」といった、かすかな存在の意味を担っていた「鬼」の語は、『新古今和歌集』の時代に至るまでのあいだに、凶悪さ、恐ろしさが、その意味の中心として持たれるようになったということです。

仮名序は、勅撰和歌集という公文書の仮名序です。
真名序よりは自由に書かれているとはいっても、「目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ」とは、少なくとも現代の公文書には登場しないファンタジーでしょう。
おそらく、『古今和歌集』の時代には、今となっては迷信であるとしか考えられないファンタジーに、リアリティがあったのでしょう。「鬼神」たちは、人々の営みから生まれる和歌のしらべに耳を澄まして、しみじみと味わっていたのであり、また、それのできる距離感に、人々と「鬼神」が共存していたはずです。

それにまた、『古今和歌集』の時代の「鬼」と「神」は、「鬼神」として一括りにできた、意味においての近さがあったということ。それがいつ、対極的な存在としての「鬼」と「神」に、分かれたのでありましょうか……?

そこで、時代はくだるのですが、こんどは能楽者、世阿弥が『風姿花伝』(1400~1418年)のなかで唱えた「物まね条々」を見ていきましょう。
「物まね条々」とは、世阿弥が演劇論に挙げている「物」、演じるべき対象です。
講談社学術文庫『風姿花伝』(市村宏全訳注)によると、次のような項目が設けられています。

・女
・老人
・ひためん
・物ぐるい
・法師
・修羅
・神
・鬼
・唐事

世阿弥には、「神」と「鬼」が、線引きされています。
さらに、「神」と「鬼」の項目をそれぞれ見ていくと、「通釈」や「余説」(訳者私見)において、次のように述べられています。


●神
  「およそ、此の物まねは鬼がかり也。なにとなくいかれるよそほひあれば、神体によりて、神がかりにならんもくるしかるまじ。但、はたとかはれるほんゐあり。神はまひかかりの風ぜいによろし。鬼は更にまひかかりのたよりあるまじ。」
  (通釈)「およそ神の物真似は鬼物の風情である。何となく強烈な容子がみえ、扮する神体によっては、鬼の風情になっても差支えあるまい。但し、神と鬼とは本質を異にする。神は舞がかりの風情を見せてよいが、鬼は全く舞がかりでゆけるよりどころはない。」

●鬼
  「凡怨霊つき物などのおには、おもしろきたよりあればやすし。」「まことのめいどの鬼よくまなべば、おそろしきあひだ、おもしろき所更なし。」
  (通釈)「凡そ怨霊や憑き物などの鬼は、面白くやれる手懸りがあるから演じやすい。」「本当の冥途の鬼をうまく真似すぎると、恐ろしいために少しも面白くないことがある。」(余説)「畏怖すべき共通点はありながら、鬼には幽玄に傾く風情はなく、従って舞がかりではゆけない。」

また、「鬼」と演じ分けなければならない条に「修羅」がありました。

●修羅
  「これていなる修羅のくるひ、ややもすれば鬼のふるまひになる也。又は、まひの手にもなる也。」
  (通釈)「このような修羅能の狂は、ややもすると鬼の仕草になりがちである。またときには舞の手になる場合もある。」


世阿弥が、「神」「鬼」「修羅」を演じ分けなければならないとしたのは、なぜでしょう。
私がこの序文に挙げた『古今和歌集』『新古今和歌集』『風姿花伝』の三つの書には、共通点があります。
それは、言語表現として、あるいは身体表現として、それぞれに美意識を現すことを目的としている点です。
世阿弥は、「神」「鬼」「修羅」といった対象物どうしの輪郭を明確にすることで、より美しい表現に仕上がると考えたのでしょう。
このことは、もしこれらが明確に分かれていないとしたら、鑑賞者の抵抗にあうということですから、これもまた、一般の感覚としても、「鬼」と「神」とが明確に分かれているべきものであったわけです。

『古今和歌集』『新古今和歌集』についても、次のようにもいえます。
『古今和歌集』仮名序(905年)のように「鬼」と「神」とをないまぜにできるのは、それを美意識として、鑑賞者である人々と共有できるだけの土台が、その時代に存在していたからであると。
そして、『新古今和歌集』(1205年)の時代においては、「鬼」の一語を特定のイメージにおいて象徴化して打ち出すことができるようになっていたと。つまり、それをして、鑑賞者である人々にも、共有しうる認識、一致しうる認識が存在していたと。
すなわち、何を真善美とするかを探っていくことで、そのときどきの、社会的な状況や背景をうかがい知ることができるわけです。

そしてここまでの、ささやかな問いと答えの繰り返しによって得られたことからも、さらに次々と問いが湧き起こってきます。

第一に、『古今和歌集』が構想した古代社会においては、「おにかみ」であれ「おにがみ」であれ、「かみ」と「おに」は、かつて、私たちの日々と隣り合う異界の存在でありました。では、私たちの祖先は、実際にはいかなる感性をもって、そのものを「おに」や「かみ」と呼んでいたのでしょうか? 和歌文学の伝統的な構想と、古代社会における実態との、重なるところやすれ違うところを見ていきます。

第二に、「鬼」や「神」を、超自然の存在としてとらえおく、その宗教性についてです。604年、聖徳太子が仏教のおしえを政治に採り入れてから、中国の民間信仰を含めた仏教の導入が、「おに」と「かみ」に、どう影響したのかということ。中古、中世の文学的表現に見られる死後の世界観の形成から、死生観の変遷についても、辿っていきたく思います。

第三に、『古今和歌集』の時代には、精霊や霊魂の意味を含んでいた「鬼」の語が、『新古今和歌集』の時代には、強く恐ろしいイメージ、凶悪なイメージを広く持たれるようになり、世阿弥の能楽論の頃には、「鬼」と「神」は、明確に線引きされるようになりました。その線引きは、文学的表現の背景が中古から中世へ移ろったこと、さらに戦国時代へ進展したことと関係がありはしないか。そのなかで、「鬼」のイメージに、どのような変化があったのかということを、とらえていきたく思います。



次の章では、第一のとりかかりとして、「おに」と「かみ」がどのように形づくられたのかを、語源説を中心に、辿っていきます。

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片付けてしまふは惜しき鰯雲  松木靖夫(松木千樹)

2024-03-03 10:21:13 | 月鞠の会
たずねびと、松木靖夫さまの、ご家族さまからご近況を伺うことができました。
深く深く感謝申し上げます。

靖夫さまには、亡母がたいへんお世話になりました。
兵庫県立篠山鳳鳴高校時代から、五十年余の長年にわたる温かきお励ましと、
亡母の晩年には、亡母の句作をご指導くださいました。

表題の俳句は、靖夫さまが、拙ブログの連歌の記録をお読みになられて、そのなかで連衆の詠んだ「どこからかたづけようか鰯雲」の句に、着想を得られたのではないかと拝察した次第です。

「鰯雲人に告ぐべきことならず」という、楸邨の有名な句が、世の中には先行します。
楸邨の句に、「鰯雲」、すなわち取るに足りないものの意を汲むのであれば、「人に告ぐべきことならず」と下句がつづくのは同義反復であり、なぜこの句が名句とされたのか、それはおそらく、軍国時代を背景にもつからでしょう。

そして、靖夫さんの、「片付けてしまふは惜しき鰯雲」の句は、時代を代表する句としても、内容のうえでも、楸邨の句それ以上です。

靖夫さんの句は、「鰯雲」に取るに足りないものの意を汲みながらも、天空一面に広がる実際の景色とともに、このいまの眺めがさらに、未来につながる可能性を示唆しているのです。

靖夫さんの築かれた時代の自由がここには象徴されています。
私ども子の世代は、その恩恵に浴しました。
この句は、さらにそのうえ、子々孫々に未来の広がることを、片付けてしまうには惜しい、一つ一つの生命のつながりを、示してくれているのです。

この記は、さしあたっての雑記であり、ここに示したものを基調に、「月鞠」第21号では、靖夫さん句について、ささやかながら、筆を執らせていただきます。

未来を描いて見せてくれる作品を、私も、多くの人に見せたくなりました。




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朗読「曽根崎心中」「仙川心中」、アップしました。

2024-02-29 19:22:59 | YouTube


皆さん、ありがとうございます。
ひきつづきよろしくお願いいたします。

辰巳泰子拝





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