退屈男の愚痴三昧

愚考卑見をさらしてまいります。
ご笑覧あれば大変有り難く存じます。

先生との出会い(22)― 一触即発、そして六本木 ―(愚か者の回想四)

2020年11月30日 19時30分34秒 | 日記

先生との出会い(22)― 一触即発、そして六本木 ―(愚か者の回想四)

 先行チームは私達が職場を乗っ取りに来たと感じたらしい。彼らは某区内で夏場だけ公開するプールのライフガードだった。それがそのまま横滑りで新設プールのライフガードになっていた。

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 大変残念なことだが彼らの水に対する認識は私達のものと大きく違っていた。

 一日の勤務者の数や配置も決まっていなかった。いわゆる勤務体制というやつが無かった。

 「ごめん、今日他のバイトが入ったから休ませて。」、「了解。」と言った会話が許された。

 元のプールでは最も重要だと認識されていたパトロールも置かれてはいなかった。

 勤務中に知り合いが来たと言って持ち場を離れるものもいた。

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 「このプールでも人は溺れ、死ぬこともありますよ。」と先行チームのメンバーに話すと、「まさかぁ~、1.2(m)ですよ~。溺れるわけないっしょ~。」という返事が返ってきた。

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 このプールには、いわゆる「腰洗い」という下半身を消毒する場所がある。入場者はここを通らないとプールには入れない。しかし、この「腰洗い」の深さは大人の腰が浸かる程度の深さはある。子供は十分溺れる。しかも、その場所は更衣室とプールをつなぐ通路にある。指令室からは全く見えない。

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 この種の施設ではプールそれ自体ばかりでなく周辺設備から生じる危険、そして周辺設備で生じる危険にも注意を向けなければならない。痴漢対策もその一つである。

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 先行チームは、こうした危険に対する認識が皆無だと言ってもよい状態だった。

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 しかし、自分たちの職場を奪われるという感情的な意識に後押しされ彼らは動員をかけた。

 当日の勤務者以外の仲間が控室にあふれた。

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 対抗するつもりは全く無かった。

 しかし、彼らのうちの一人が切れた。

 公開中にも関わらず場内放送のマイクを使ってプールサイドにいるWを怒鳴りつけた。

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 一触即発の事態だ。

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 マイク室はプールを見下ろす二階にある。そのためではなかろうが、怒鳴った人はWの体型や空気が読めなかったようだった。

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 何れにせよ、公開中のプールでお客さんが聞こえる状態で監視員同士が争うという事態はあってはならない。

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 プールサイドの清掃をしていたWが掃除を終えてマイク室に上がってきた。

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 ちなみに、状況を理解しやすいようにWについて補足しておこう。

 身長は190cmに近く体重は80kg以上の大男であった。

 この身長も手伝って多くの水泳大会で優勝してきた。泳いでいる様を「クジラのようだ」と言った人がいたほどである。

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 怒鳴った人は、先行チームのボスであった。体格はと言えば私より背は低く小柄であった。

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 マイク室から眺め、Wが上がってくるのが分かった。ボスの怒り具合は少し離れた場所にいても分かるほどであった。

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 「さて、どうなるかな?」

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 マイク室から入口に近づくWの姿が見えてきた。ボスの表情に変化が見えた。

 Wはマイク室に入った。「誰だ? 今、マイクでしゃべったのは。」その話し方は事務的で穏やかだった。だが、周囲を威圧した。「公開中だぞ。」と、あえて私らの方に目を向けた。

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 「俺だ!」とボス。

 「まずいでしょ。」とW。

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 プールは公開中である。あくまでも適切に業務を遂行すべきだ。Wはこの立ち位置に徹した。

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 だが、ボスは、いささか戸惑いながらも怒りは収まっていなかった。

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 もちろん、Wも怒っている。しかし、それを隠すすべをわきまえている。

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 ほどなくこの回の公開時間が終了した。じっくり話し合うしかない。

 Wは公開時間が終ったことも頭にあり少し強い態度に出た。その時の様子を文字化するのはいささか困難なので控えておこう。

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 ボスは納得した。と、いうか、納得せざるを得なかった。

 私らに非は無かった。

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 「私らに任してはくれませんか?」

 Wのこの最後の一言で事態は終結した。

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 かくして、少々難しい事態を経由して先行チームは業務のすべてを私達に委ねこのプールを去った。

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 職員が私達に向けた期待は大きかった。私達もそれだけの仕事はした。着任から数か月後にはWも私も水泳連盟第Ⅰ種指導員と日本赤十字社水上安全法指導員の二つの資格を取得した。

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 同区は水泳教室を何度も開催し高評を得た。

 一般公開中に無料の講習会も行った。

 ゼロから始めて立派に泳げるようになった人もいた。

 スイミングスクールと同じ感覚でやって来る利用者も少なくはなかった。

 高額なスイミングスクールにもひけを取らない講習を毎日おこなった。

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 ちなみに、子供水泳教室の卒業生が、その後年を経てこのプールのライフガードになっていた。当時のライフガードに憧れていた、と後日、耳にした。

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 ライフガードの仲間も増えた。その一方で一日だけでやめて行くものも少なくはなかった。私達にとって当たり前なことも厳しく感じたらしい。浅いプールだが質を下げたくはなかった。

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 節目の納会ではプールだけでなく施設全体を使って遊び回った。そのためさすがに職員から厳しい指導を受けた。

 夜中の二時に武道場の太鼓を打ち鳴らせば叱られても当然だ。

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 休館日の前日は勤務が終った後、皆で六本木へメシを食いに出た。ご飯お替り自由のカレー屋があった。

 チャコという名のステーキ屋が安くてボリュームのある美味いステーキを出していた。

 当時は今ほどではなかったが、それでも小ぎれいなかっこの人が目立った。だが、ライフガードは相変わらず素足にゴム雪駄。夏場はTシャツにバミューダというおきまりの服装だった。

 車は近隣の区の施設付近に停め、フロントガラスに「〇〇係長下ライフガード〇〇」と大書きした紙を置いた。もちろん、違法駐車だ。しかし、取り締まりを受けたことはなかった。後日、「俺の名前を出すな。」と係長に文句を言われた。

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 蜜月の時期はあっという間に過ぎた。

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 業務委託の話が持ち上がった。ほぼ時期を同じくして、その頃流行りだしたスイミングゴーグルの使用の可否でも職員とライフガードの意見が対立した。(つづく)

 

※「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。


先生との出会い(21)―しかし、車体の状態を見て覚せいした。―(愚か者の回想四)

2020年11月28日 20時12分50秒 | 日記

先生との出会い(21)―しかし、車体の状態を見て覚せいした。―(愚か者の回想四)

 川越街道を上り環状七号線を右折して内回りに入る。

 途中まではプールへ行くときいつも通る道だ。

 だが、国道20号線には入らず直進した。

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 何時頃着いたか記憶が無い。

 あらかじめ大家さんには話をしてあったので荷物を運び入れ施錠し、再びトラックに乗った。

 来た道を引き返す。

 今度は実家に至る道を途中で外れ後輩の工場へ向かった。

 暗くなっていた。

 指定された場所にトラックを置きSRに乗り換えた。

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 今度は妻を彼女の自宅へ送る。夜が遅いのは普通であったが今日はずいぶん遅くなった。

 アパートに戻ったのは何時頃だっただろうか。SRは、たまたま空いていた下の駐車場に入れた。後日とんでもないことが起きるがこの日は何も考えなかった。

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 部屋は中二階にある。

 階段を3分の2くらい上がると部屋が二つ。

 さらに左にUターンするように上がると少し長い廊下がありその両側に部屋が数個。

 突き当りが共同の水道。

 そして便所。

 私が借りた部屋は中二階の左側。

 右奥には別の人が住んでいた。

 後日、厄介なことになる。

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 部屋に入った。少しかび臭い。当然だろう。窓を開ける。

 大家さんと棟続きなので大家さんの台所の明かりが見えた。

 天井から下がっている裸電球のスイッチを入れた。

 あまり明るくはならなかった。急に寂しくなった。

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 カセットラジオも持って来た。

 この時間はいつも自宅で深夜放送を聴いていた。

 ラジオをつけた。

 「ラジオでこんばんわ」という番組をやっていた。

 いつもの声だ。表現のしようのない気持ちになった。

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 この頃、ラジオをつけると決まって甲斐バンドの「裏切りの街角」や「かりそめのスウィング」が流れていた。

 それを聴きながら、布団にくるまり益々増してくる寂しさをこらえて眠った。

 一人暮らし初日の夜はこんなふうだった。1974年の暮頃だったと記憶している。

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 早朝、「Hさ~ん!」と大家さんが台所から声を掛けてくれた。

 あの駐車場は別の人が使うので早朝には出さなければならない。

 出すとは言っても出した車を置くところが無い。

 やむを得ず、建物の裏の空き地に置くことにした。

 だが、そこへ至る道が非常に狭い。おかげでずいぶん狭路通過の技術が上がった。ような気がした。

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 事件はそれから数日後に起きた。

 いつものように「Hさ~ん!」の声が掛かったので半分眠っているような状態でSRの所まで来た。

 しかし、車体の状態を見て覚せいした。

 ドアからボンネットからトランクまでそこいらじゅうに線を引いたようなキズがつけられていた。

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 購入先のディーラーが遠くはなかったのでとにかく持ち込んだ。

 「子供のイタズラですね。」

 応対してくれたFさんが傷を見てすぐ言った。

 「路駐ですか?」

 「いや、アパートの車庫です。」

 「心当たりは?」

 「・・・」

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 そうか、と気づいた。たしかに子供だ。

 だが、追及はできない。証拠も無い。否、そんな事よりその子供達の様子が心配になった。

 なぜか小さな怒りは消えていた。

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 不快だったのだろう。自分の父親がいつも使っていた駐車場に突如知らない車が停まっている。

 おそらく、折に触れ父親が不平を言っていたに違いない。いや、それだけではあるまい。

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 その男性は既婚者だった。だが、その時は一人だった。子供は二人いた。いちばん母親を必要とする時期に母親がいなかった。

 毎晩、電話で難しい話をしている声が聞こえた。なにせベニヤ一枚で仕切られた部屋なのだから。

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 どうやら母親は別の男性と一緒にいるらしく、その別の男性と毎晩難しい話をしているようだった。怒鳴るような声も聞こえた。

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 子供たちのたまったストレスが見慣れぬ自動車に向けられ爆発したのだろう。かわいそうだと感じた。

 そして電話の内容からその家族の様子が手に取るように分かった。

 問題は、その日から毎日、SRをあの狭路を通る裏の空き地に停めなければならない事だけだった。

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 引っ越した翌日からは、某区のプールには定刻よりずいぶん早く到着することができた。

 以前、私が遅刻すると壁の時計を眺め、ニヤニヤしながら私を見ていた後輩が、今度は私の後から控室に入って来るようになった。

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 このプールは25m。水深は最も深いところでも1.2m程度。

 ただし、水深90cmほどの子供プールがあった。

 こういうプールの監視は非常に難しい。入場者自身が水の怖さを自覚していないからだ。

 一緒に元のプールから移ったWは一所懸命監視体制の要綱をつくっていた。だが、難しく考えずとも役割分担はすぐに決まった。

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 役所が開設時に採用したライフガード達がたいそういい加減だった。その為、すでに勤務に就いていた後輩が私達を呼び寄せたのだった。

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 バカバカしいことだが先にいたチームは私達と激しく対立し、やがて一触即発の事態に発展した。(つづく)

※「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。


先生との出会い(20)―荒れる大学、そして「はじめの一歩」―(愚か者の回想四)

2020年11月27日 18時34分53秒 | 日記

先生との出会い(20)―荒れる大学、そして「はじめの一歩」―(愚か者の回想四)

「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。

 2号館のまわりにはすでに機動隊員が待機していた。もちろん、機動隊員が学内に入ることは無い。だが、2号館と5号館の間の道路は公道なので青と白の機動隊の車両が数台停まっていた。正門前の本郷通りにも数台停まっていた。

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 一部の建物にはシャッターが下りていた。私は大勢の学生に押されてシャッターに押し付けられた。外が見えるパイプ状のシャッターだ。息はできる。このシャッターを挟んで機動隊員がこちらを眺めていた。

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 「入るなよ!」と凄いどなり声が聞こえた。それらしいヘルメット学生はいない。何と、かたわらにいた普通の学生が機動隊員に罵声を浴びせかけたのである。

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 機動隊員の一人が中の様子を窺うかのようにシャッターに近づいたときその機動隊員の安全靴の爪先がわずかに大学の敷地に入ったのである。「凄い大学だな。」と驚いた。

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 「守りやすくて責め難い」と言われた2号館の中庭では相変わらずデモやアジ演説が続いていた。

 それより少し前、アジ演説を続ける学生に應援團の学生が切り込んだことがあり警察沙汰になったという話を聞いた。1970年代の大学も荒れていた。

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 私はある科目の試験を受けるため試験会場となる教室に入った。縦に長い教室だった。私は前から5列目あたりにいた。

 担当の先生が入って来た。いつヘルメット学生が攻めてくるか分からない。他の講義では試験がつぶされたものもある。

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 試験期間前のことだが、別の科目の講義に出席していたとき突如ヘルメット学生が乱入し教員が連れ去られた事があった。

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 「(試験を)やろう!」と担当のOs先生が勢いよく言った。学生から大きな拍手が沸き上がった。試験を実施することがヘルメット学生との戦いに勝利することになる。理由の如何にかかわらず試験をつぶすことは許されない。

 教室後方の扉は職員が警備していた。開始からほどなくしてヘルメット学生が前方の扉に押しかけた。

 試験を受けている学生は落ち着かない。前方の扉の外でOs先生がヘルメット学生の一部と話し始めた。話して分かる相手ではないにもかかわらず話しをするところがOs先生の偉大なところだ。

 話し合いの際中にも廊下側の窓から侵入をこころみるヘルメット学生がいた。緊迫した状況が続いた。

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 二年生の時、プールが一時閉鎖された。水を温める重油が無いというのである。世情に疎かった私だがプールが閉鎖されたら1200SRのローンが返済できなくなる。そうでなくてもアルバイト代だけでは間に合わず、何度か母に立て替えてもらっていた。後にオイルショックと呼ばれる事態だった。

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 先輩やOB、そして職員もあれこれアルバイト先を探してくれた。私は他の仲間と交代で神田の喫茶店で働くことになった。ビルの屋上にある喫茶店である。

 しばらく「お運び」をやっていると、「カウンターやってみるか。」と本職の社員に言われた。コーヒーの淹れ方、出し方、ココアの作り方を習った。

 しかし、書き入れ時の夜間に店に出られないので収入は少なかった。

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 当時、プールに出ているときは、冬場はトレーナーにジーンズ、夏場はTシャツにバミューダという格好だった。だが、喫茶店に出ていた頃はワイシャツにスラックスだった。群れからは「どうしたの。」と訊かれた。

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 ステーキ屋でアルバイトをしたこともあった。そこは元国体選手のWの紹介だった。食事付ということなので美味いものが食えるかと期待したがボンカレーだった。

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 オイルショックが一息ついた頃、ライフガード達はプールに呼び戻された。しかし、私の居場所はなくなっていた。

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 引退後、後輩の誘いで某区のプールでライフガードとして働くことになった。

 自宅の最寄り駅が自宅から遠いこともあり新たな職場にもSRで通った。しかし、複数の幹線道路を通ることになるので遅刻することが多かった。遅刻しても業務には全く影響は無かった。だが、遅刻が一時間に満たなくても一時間分の給料が減らされた。

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 仲間の一人が、「空いている部屋がある。」というのでそのつてを頼ってアパートを借りることにした。四畳一間に半畳の台所が付いて9,000円はわるくなかった。その建物にはこうした狭い部屋がいくつかあった。二部屋借りている人もいた。夜、隣人が電話で誰かと大声でしゃべっていた。

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 無料の駐車場があるということで借りたのだがそれらしいところは無かった。やむを得ず開拓した。すぐ近くを東海道新幹線とローカル線が上下になって走っていた。3分程歩くと国道1号線に出た。電車が通ると揺れた。ここが私達の出発点となった。

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 引越は簡素だった。プールの後輩の親父が鉄工所をやっておりその会社のホロ無しの二トン車を借りた。運んだのはベッド、ちゃぶ台、木製本箱、鍋、炊飯器、やかん、フライパン。それだけだった。

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 その頃はまだ両親に妻のことは話してはいなかった。しかし、頻繁に電話でやり取りをしていたので「そういう人」がいることは分かっていたらしく、後日、その話をしようとしたら「ゴールイン?」と先手を取られた。

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 トラックを貸してくれる後輩の家にSRで行き車を入れ替えそのトラックで埼玉県の実家へ向かう。

 そこで、ベッドその他を積み込み出発した。両親と一緒に暮らしたのはこの日が最後となった。

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 実家は6畳と4畳半の和室に3畳程度の台所が付いた平屋だった。風呂もあった。当時、はやりの一戸建住宅だ。私が中学2年生の秋頃、両親が頑張って購入した。庭なぞは無い。家の周りに人がかろうじて歩ける程度の土地はあった。

 しかし、薄給自衛官が現職中に購入する家としては立派だったと思う。もっとも、私が家を出る頃には4畳半の床が一部落ち、外の土が見えた。私が家を出て数年後、別の場所に家を建てた。今度は4LDKの二階建てだった。立派だと思う。

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 最初の一戸建から中学校に通い、K工業高校へ通った。米国へもこの家から行った。プールへも中央大学へもこの家から通った。

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 一歩前に出るには懐かしい過去から離れなければならない。その覚悟はできていたはずだった。だが、やはり寂しかった。母は、私が大学やプールへ行くときと同じように「行ってらっしゃい。気を付けて。」と言って送り出してくれた。

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 このとき母は、助手席に隠れるように座っていた妻に気付いていたのだろうか。何も言わなかった。すでに日は暮れ薄暗かった。

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 実家は袋小路の突き当りにあった。路地を出て右折、「もういいよ。」と声を掛けると妻が起き上がった。登り坂を上がると両側は畑だ。妻と私の長い、長い、珍道中がこのとき始まった。私22歳、妻21歳の秋のことだった。(つづく)


このニュース、何かおかしくないですか。

2020年11月20日 14時08分25秒 | 日記

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201119/k10012720301000.html?fbclid=IwAR0YU7EZ_lyjcGOa9hw0GKMpUCj1Z3R5eyA_Xz3bgfNIatN8wcONFVhxCCY

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 このニュース、おかしくないですか。
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 まず、次の文字列。
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 「534人のうち、およそ40%にあたる216人はこれまでに感染が確認された人の濃厚接触者で、残りのおよそ60%の318人は、これまでのところ感染経路がわかっていないということです。」
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 これを聴いた人は「新たな感染者の40%は濃厚接触者なんだ。60%は感染経路が分かっていないんだ。」と感じるのですね。
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 ところが、次に、「濃厚接触者の内訳は、『家庭内』が87人で最も多く、次いで、『職場内』が60人、『施設内』が28人、『会食』が10人などとなっています。」という文字列が続きます。
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 「そうか。濃厚接触者の多くは『家庭内』なんだ。」と思うのですね。
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 そして、最後「このうち家庭内では、10歳未満から80代までの幅広い年代で感染が確認され、人数はこれまでで最も多くなりました。」という部分を聴いたり読んだりすると、「感染が最も多いのは家庭内なんだね。じゃあ家庭内感染を防ぐにはどうしたらいいんだろう。」と考え、その一方で「『会食』によるが濃厚接触者=感染予備軍は10人なんだ。少ないね。GoToイート平気じゃん。」という具合に誘導されるのですね。
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 先に「誘導」という文字を使っちゃいましたが、このニュースは、故意か過失かはわかりませんが意識誘導ですね。
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 その結果、政府のGoToに対する批判をかわす効果が生じています。
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 そもそも、家庭内で家族がじっと巣ごもりをしていて感染が起きますか。
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 家族の誰かが外で感染するから家庭内感染が起きるのですね。
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 この「外で感染した誰か」はどこでどんなふうに感染したのでしょうか。ここんとこが重要なのだと思います。
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 GoToイートで飲み会をやって誰かが感染すれば、そのまま帰宅した人が家族に感染させるわけです。
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 GoToトラベルで遊び回っているうちに感染した人がいれば、旅行から帰宅したのち、留守番をしていたおじいちゃんやおばあちゃんに感染させるわけです。
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 そもそも家族は濃厚接触関係にあるのですから、これを感染経路にカウントするのは重大な誤導を生みます。
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 さて、次に、見落としがちなのが、感染経路がわかっていない60%の318人です。これは、誰もが気づくように「わかっていない」のではなく、感染者が立ち寄り先を言っていないだけだと思います。
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 立ち寄り先を100%「白状」すれば、そのうちのどこかの施設や組織に迷惑がかかるおそれがあるので黙るんですね。
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 だから、この「感染経路がわかっていない」感染者こそが感染を拡大していると考えるべきでしょう。
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 ITの専門家でなくても分かることですが、技術的には感染経路は確実にわかるはずですネ。
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 さらにもう一つ。「濃厚接触者の内訳『会食』が10人」と報じることで『会食』は大きな感染要因ではないから時短要請はしないという政策を裏支えしています。
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 でも、そうじゃないと思います。時短要請すれば補助金が必要になるわけで、その節約で時短要請をしないのでしょう。
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 小規模な飲食店では今以上に客が来なくなり死活問題ですね。
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 視聴者が気付かないようなやり方で政府の政策を裏支えする。
 このような放送はしないでほしいですね。
 私も受信料を払っているので堂々と言いますヨ!(^^)
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浅学非才愚考卑見乱文長文多謝

先生との出会い(19)―70年代―(愚か者の回想四)

2020年11月11日 23時34分39秒 | 日記

先生との出会い(19)―70年代―(愚か者の回想四)

「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。

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 腹の底から勉強したいと思って入った大学だった。だが、自分の生活が弛んできていることは認識していた。それをSRのローンのせいにしている自分にも少しばかり嫌悪感があった。

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 その頃、大学では毎日のようにヘルメットをかぶった学生がアジビラを配っていた。2号館の中庭には対面するように、対立するセクトが立て看板を立てそれぞれ白ヘル、赤ヘル、黒ヘルをかぶった人がハンドマイクで独特のイントネーションで「ワレワレハ~~~!」云々とアジ演説をしていた。特徴的な文字で書かれたアジビラを配る人もいた。

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 ある日、それが激化したとき学内放送が流れた。「こちらは中央大学です。」で始まる放送では「大学施設の占拠をやめること」、「破壊行為をやめること」、「授業妨害をやめること」などが何度も告げられ騒然とした空気が漂う事態となった。一部の講義は休講となった。

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 70年代も荒れていた。1971年、高3のとき私は生徒会長をやっていた。K工業高校には定時制があった。学校行事の日程調整が難しく昼と夜とで別々に文化祭を行うのが難しい事態になっていた。折しも、昼の生徒と夜の生徒の相性が悪かった。後から思えば「湯呑の嵐」だが、当時は、なかなか文字表現が難しい事態が現実味を帯びて勃発する危険をはらんでいた。

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 私は夜の生徒会長に会いたいと生徒指導の教諭に申し出た。難色を示していたが、会うだけあって話しをしたいと強くお願いし、それが実現した。

 夜の生徒会長はデカい男だった。身体つきではない。もちろん、身体もデカかったが貧弱な私の話をよく聴いてくれた。

 「やりましょう。」ということで、前代未聞だったようだが昼夜合同の文化祭を開催することになった。

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 しかし、当時を知る人ならば想像がつくと思うが、文化祭にはいろいろな人が来る。外で喧嘩をした相手が何かをしにやってくることも珍しくはなかった。

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 開会の日の直前には数日間学校に泊まった。本来は許されないことだが、多くの生徒が文化祭を盛り上げるために音響機器他高額の私物を教室に持ち込み準備をしていた。

 万一の事があれば取り返しがつかない。そうした思いもあり泊まり込んだ。後日談だが、「帰れ」と言った教諭の中にも何人かは泊まり込んでいた人がいた。

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 開会式の前日、定時制の生徒会室が何者かにより襲撃された。壁に赤色のペンキがぶちまけられていた。

 夜の会長は動じなかった。

 「やりましょう。」

 「やりましょう。」私も応えた。

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 昼夜合同なので朝9時から夜9時まで学校が開かれることになる。日が落ちると影となった人が校内に出入りする。

 「H君、大丈夫かい。」と心配そうに生徒会顧問の教諭が顔を出した。

 「大丈夫です。」

 何の根拠も無かったが私はそう答えた。

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 電気科3年の副会長が息を切らして本部室に入って来た。「凄いのが来た。こんなんだ。」と自分の首あたりで人差し指と親指を縦いっぱいに広げた。

 当時、襟(カラー)が高く上着の丈が長い学生服が一部の生徒の間で流行っていた。何かを象徴するものだった。その「何か」をここで文字化するのは控えておこう。分かる人には分かるはずだから。

 副会長の説明によれば、カラーの高さは耳の下程まであり、上着の裾は足のくるぶしに届くほどの長さだという。

 上着の背は腰下あたりで切れたセンターベンツになっている。歩くと左右にたなびくようであったそうだ。並みのものではなかった。そして、それを着ている者も並みのものではなかった。健康的に日焼けした顔に鋭い眼差し。短く刈り込んだ髪型が精悍さを増していた。学生服と相まってかっこよかった。私はすでに見て知っていた。

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 「凄いよ!」

 副会長が繰り返した。

 「大丈夫。知ってるから。」

 今度の「大丈夫」には根拠があった。機械科3組、つまり私の組の生徒がその生徒の友人であるKaちゃんを誘ったと話していた。それが私の耳に入っていた。

 「凄い人」は高校を中退し今は仕事をしているらしい。そういう格好が好きで、見かけも「凄い」ので高校生の時でも誰も挑むものは無かったそうだ。しかし、喧嘩はせずタバコも吸わなかった。

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 「エッ?」と驚く副会長の顔を眺めながら、もう一度「大丈夫。」と私は言った。

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 現実に、何も起こらなかった。機械科3組はディスコをやっていた。時間も遅くなり、ハードロックは終り、ムードタイムとなっていた。「凄い人」はここにいた。男子生徒が招待したらしい女子生徒達とおとなしく語らっていた。

 ほどなく、S.F.先生が入って来た。

 「大丈夫か?」

 「はい、大丈夫です。」

 誰もが成功を危ぶんだ昼夜合同文化祭は無事終了した。

 ただし、夜8時に始める予定であったキャンプファイヤーは雨で取り止めとなった。夜の会長が頑張って集めた枕木の廃材だった。残念だった。

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 「大丈夫。」これは私の口癖だ。最近はこれに「何とかなる。」が付く。何事も、まずは「大丈夫」と言ってみるといい。何とかなるものだ。

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 中央大学の騒動はそのまま試験期間まで続いた。当時の私立大学は定員の3倍程度の学生を入学させていた。その為、試験期間になると教室が学生であふれた。試験会場となる教室から別の教室へ移動するにも人垣をかき分けて進まなければならなかった。そんな中、ヘルメット姿の学生が試験をつぶすために校舎に乱入して来た。(つづく)