退屈男の愚痴三昧

愚考卑見をさらしてまいります。
ご笑覧あれば大変有り難く存じます。

先生との出会い(28)― H君にはやめてもらった方が良いんじゃないか。 ―(愚か者の回想四)

2020年12月30日 17時45分31秒 | 日記

 後期は前期のこのサイクルにAt先生の刑事訴訟法特講・演習の予習が加わった。

 夏休み中に他の3科目の予習は「やり貯め」した。刑訴の担当は夏休みの合宿の後半から始まった。

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 合宿という文字は運動部を想起させるかもしれない。だが、中央大学法学部法律学科では一部のゼミは一年に数回合宿を行っていた。大学院でも合宿をやるゼミはあった。

 学部の合宿ではそれぞれの法分野の重要論点をゼミ員が分担した。大学院のゼミでは教材を集中して読み込んだ。

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 At先生のゼミ合宿は私の想像をはるかに超える内容であった。そもそも通常のゼミでさえ度肝を抜かれていたのだが合宿ゼミでは別世界を眺めているような感じさえした。

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 合宿ゼミの教材はケースブックではなかった。LawWeekと書かれたコピーが配布された。LawWeekは米合衆国最高裁判所が一年間に下す判決の速報版である。

 ゼミでは、この内、刑事訴訟法に関係するものを抜き出しそれを要約するのである。要約である。翻訳ではない。判決文であるのでその量は少なくはない。A4サイズで左右二段組みだがケースブックより文字は小さい。それが一件平均10頁くらいはある。それを3泊4日の合宿中に10数件処理するのである。

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 担当するのは上級生だ。通常のゼミでは下級生の報告を黙って聞いていた先輩たちである。仮に翻訳されたものを読み上げれば1時間では到底終わらないであろう内容を15分から30分くらいで終わらせて行く。私は配布された印刷物に目を落としているもののどこをやっているのか全く分からなかった。親切な先輩は頁番号を言って要約に入っていたが、それでもすぐに分からなくなった。

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 しかし、驚くのはまだ早かった。その凄まじい速度で進む報告の最中に、いつものように「違う!」という先生の声が飛ぶのである。私の想像のキャパをはるかに超える先輩たちの高速報告を聴きながらAt先生は間違いを指摘する。これはもはや語学の能力のレベルではなかった。否、その様なレベルで驚くこと自体、自分の認識の低さと狭さを実感させられる合宿ゼミであった。

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 合宿ゼミの行程は濃密であった。初参加の日、私は道に迷い合宿所に着いたのは夕方であった。先輩たちはすでに到着しており、風呂から出てのんびりしていた。娯楽室らしき部屋には卓球台があり卓球をしている人もいた。そのとなりが食堂だが、のんびりしている人もいたが、そのかたわらで教材に取り組んでいる人もいた。

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 その年の合宿初日はゼミも無く、穏やかに時が流れた。先生はご自分の山荘をお持ちだということで合宿所には居られなかった。日が落ちると高弟達が先生の山荘へ行かれた。若い人は明日の報告に備え勉強をしていた。あたかも嵐の前の静けさであったと後から気付いた。

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 合宿二日目は普通の朝食で始まった。N〇Kの朝ドラをみ終わり、皆で「ごちそうさま。」。「9時からでいいですね。」とAt先生。食器を戻してテーブルを拭き。間もなく定刻。すでに全員席に着いている。

 順序から言えば上座にいるはずの先輩Miさんが、なぜか最下座の私の前に座っていた。同じく先輩で全共闘風のMaさんも私の左隣に座っていた。この3人の配置はこの合宿ゼミが行われなくなるまで同じだった。

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 9時から12時までゼミ。昼食を取り、朝ドラの再放送をみて13時からゼミ。16時を過ぎたころ休憩。誰かの「ソフトボールやりましょう!」の声でAt先生も加わり、合宿所前のグラウンドでソフトボール。一汗かいて風呂。18時頃から夕食。19時から21時頃までゼミ。その後、先生は山荘にお帰りになる。合宿所では明日報告をする人たちがそれぞれお気に入りの場所でノートと教材を広げ自習に入る。凄い集団に入り込んでしまったと感じた。とにかく皆、一所懸命勉強した。

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 合宿最後の晩、夕食後のゼミが無かった。先輩方が先生の山荘に上がった後、先輩の一人から「皆も来ないか。」とのお声がかかった。

 私もお邪魔に上がった。どういう時間が流れるのか見当が付かなかった。

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 山荘にお邪魔すると中央のリビングに先生が居られ「いらっしゃい。」とニコニコと私達を迎えてくれた。

 驚いたことに、リビングの両脇にある和室にはそれぞれ麻雀卓が出ていた。プールにいた頃、麻雀狂いがいたので麻雀には悪い印象しかなかった。だが、この先生が麻雀をなさるのかと不思議に感じた。

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 ほぼ初めて私も麻雀卓についた。先輩方に教えられるままパイを積みゲームに加わった。食堂のゼミ室で私の隣にいた全共闘風のMa先輩がくわえタバコでパイをさばく様が板についていた。私は負け続けた。

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 先生が見に来られた。「どうですか?」穏やかな口調だ。 

「ダメですね。よく分かりません。負けっぱなしです。」と私はそう答えた。

「そうか!」そうおっしゃると私の後ろに立たれた。私がパイを積み上げて起こすと、「誰からだ?」と声が飛んだ。たまたま私からだった。「私です。」、「右の〇〇を切れ。」。

 「〇〇」はパイの名前だったがそれが何を指しているのか分からなかった。たぶんこれだろうと思いパイを一つ摘まもうとしたところ、「違う!そのとなりだ!右だ!」とおっしゃった。このときの「違う!」がゼミのときの「違う!」とそっくりだったので愉快だった。

 すぐに一回りして私の番になった。何をしようか迷っていると後ろから「一番右のパイを切る!リーチだ!」との声がかかった。その通りにして次の人がパイを捨てると「あたりだ!」と再び声がかかり、私が上がった。

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 司法試験に合格した人がそれぞれの法曹になるために研修を受ける司法研修所というものがある。

 そこでは毎年ある時期に麻雀大会があるらしい。その麻雀大会を始めたのがAt先生だったとのことである。

 「一芸に秀でる者は多芸に通ず」とはこのことかと納得した。

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 合宿3日目、予定されたLawWeekの報告がすべて終わった。ついに私の出番が来てしまった。努力はしたのだが惨憺たるものであった。要は言葉の問題ではない。もちろん、

語学力が足らないのは確かだが中身が分かっていないのだ。中身が分かっていないから英語が日本語にならない。改めて刑訴を勉強し直すことにした。

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 ほぼ勉強漬けの夏休みが終り後期の講義が始まった。多少予習をやり貯めて置いたので少しは気持ちに余裕はあった。だが、やはりAt先生のゼミのことを想うと緊張し、不安になった。

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 私の準備不足のためゼミが早く終わってしまうときもあった。準備不足を見破られていたのかもしれないが、報告している事件の背景を話して下さったり、その他の話題について話して下されたときもあった。

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 ずいぶん後になってからMi先輩が私に話してくれた事がある。

 「H君にはやめてもらった方が良いんじゃないか。」

 私があまりにも力不足であったためだろうか、あのひときわ大柄でいかにも偉そうなKg先輩がMi先輩にそう言ったそうだ。

 「Mi君はH君と親しいようだから君から言ってほしい。」ということだった。

 Mi先輩とは合宿で私の向側に座っていた車好きの大柄な人だ。Mi先輩と全共闘風のMa先輩は私とよく話をしてくれた。その様子を知っていてMi先輩にそういう話をしたらしい。しかし、Mi先輩は私には何も言わなかった。有り難いことだ。

 Mi先輩はそれから数年後、フルブライトで留学した。留学先はノースウエスタン大学ロースクール。ノーベル賞受賞者を複数人輩出している名門大学であった。(つづく)

※「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。


先生との出会い(27)― 勉強は楽しい ―(愚か者の回想四)

2020年12月16日 18時50分11秒 | 日記

 At先生とやり取りした内容を伝えると、「あっ、そう。それならいいけど。」と釈然としない様子で席に着いた。

 どうやら、着席する場所も決まっているようだ。この種の部屋の上座下座の定石に従い入り口近くの端の椅子に座ってAt先生の到着を待った。

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 定刻より少し早く、At先生がいらした。私は起立した。しかし、他の先輩方は座ったままだった。

 「ここは狭いな。いつもの部屋にかえてもらおう。」

 そう先生がおっしゃると、誰かが足早に部屋を出た。すぐに戻ってきて、「教室変更しました。」と言い、全員で移動した。全員と言っても10名もいなかった。

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 移動前の教室は窓が無く狭い部屋だった。移動後の教室には窓もあり広かった。机は長方形のロの字型に配置されていた。

 先生は黒板の前の席。大柄の先輩はその左の窓側の席に着いた。他の先輩方もそれぞれお気に入りの席があるらしく、すぐに各々着席した。

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 ゼミは英語、否、米語で書かれたModern Criminal Procedureという分厚いケースブックから報告者が自分で選んだテーマに関連する部分を翻訳するというやり方で進められた。

 私はまだ自前の教科書を持っていないので図書館から借りてきたものを眺めていた。

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 この日の担当者は前期二年生(M2)の先輩だった。先輩はノートに書かれた日本語訳を一気に読み始めた。

 普通の会話の早さよりも早い。先生はそれを聞きながら時折、「違う。」とおっしゃってみずから日本語訳を示し。「はい。」と言って続行を促していた。先生の手元にはあの分厚い教科書しかなかった。このようにして一回のゼミで数十ページが読み進められた。

 ちなみに、教科書とされたケースブックはA4版で1ページが左右二段組みになっている。厚みは6cmくらいだった。比べるべくもないが高校の教科書なら6年分以上の厚みだ。

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 At先生は凄い。大学院とはこういうものなのかと改めて驚嘆した。このゼミで私が報告を担当するのは夏合宿の後半からだった。

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 私が指導教員として選んだ先生は学部のときに講義を盗聴していたSi教授だ。Si教授の講義も少人数のゼミ形式であった。

 ところが、同期で入学した他大学出身者が刑事政策の専攻だというので教材が二つになった。

 Si教授のゼミの教材はドイツの学者の論文を日本語にするというやり方で進められていた。

 大学院に入学する一年前、Si教授は「候補生として大学院のゼミに出たらどうだ。」と声を掛けてくれた。

 一年早く参加していたゼミだがその時の教材は一種類だった。

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 二種類のドイツ語論文を一回のゼミで扱う。時間は約3時間。報告を担当者は3名だが報告内容の正否を問われるので自分が担当する部分だけ目を通しておけばよいという具合には行かなかった。

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 ちなみに、外国語論文を日本語にするという作業は言葉の能力だけでは到底できるものではない。

 日本語の法学論文にも言えることだが、論文と名のつくものの中身は概念と概念が論理で結び付けられている。したがって、それぞれの「概念内容」が分からなければ、たとい外国語の文字列が日本語の文字列に置き換わっても何を言っているのか全く分からない。これは他の文化領域でも同じだと思うが私には非常に難しく混迷する世界であった。

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 さらに、概念と概念とを結ぶ「論理」の内容が分からなければ論文の筋がとんでもない方向へ行ってしまう。

 そうは言ってもその論理の内容をどうやって探し、確認し、日本語に置き換えるかやり方が全く分からなかった。大学を目指した機械科3組の頃を思い出した。

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 しかし、今はあの時とは違う。手繰る手段はあった。図書館だ。中央大学には学部学生が使う中央図書館の他に大学院図書館がある。また、学部学生では入れない中央図書館の書庫に大学院生は入ることができた。

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 分からない単語が出てくると図書館へ直行した。その内、書庫の中でゼミの準備をするようになった。頻繁に使うものは高額だが購入した。図書館へ行かなければ言葉の意味が分からないが、図書館へ行けば予習の時間が減る。多少高額でも時間には代えられない。他で節約した。

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 他の大学院生の多くは一言語に集中していたが、英語が苦手な私は英語とドイツ語の二言語を相手にするので苦労した。

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 さらに、日本語で行われるゼミでも報告の仕方が全く分からなかった。「レジメをつくって来なさい。」と指示されたが「レジメって何だ?どうやって作るんだ?」という状態だった。

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 同期の連中は昼間部の出身なので昼の学部のゼミでこうした基礎知識は身に付けていた。しかし、私はそうした知識が皆無だった。

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 先に報告した人の真似をしてレジメらしき配布物をつくったが10分ともたなかった。少しの静寂の後、先輩から質問と言おうか、意見と言おうか、助言と言おうか、どう表現すればよいのか分からない言葉の機関銃が放たれた。

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 しかし、有り難かった。嬉しかった。

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 この先輩は、すでに数年前に司法試験に受かっていた。いつでも、判事、検事、弁護士になれる人物であった。実際、それから数年後、どこかの裁判所の判事になっていた。

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 そういう先輩が真正面から私に質問を浴びせて来た。もとより、私の無理解を質す質問なのだが、それでも「まぁ、いいか一年生だから。」という妥協を一切せず高いレベルから機関銃を撃って来た。それが腹の底から嬉しかった。

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 「・・・と・・・は違うでしょ。だから〇〇と△△の関係を先に論証しなければ君が主張したいものが伝わらない。そもそも、何をしたいの?」

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 何も言えなかった。

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 「次回までに考えてきます。」それを言うのが精一杯だった。

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 大学院に入る前、別世界と感じたKa先生のドイツ語の特訓、このときは民法特講・演習だったが、これが最も心安らぐひと時だった。しかし、手抜きなぞできるほど私は器用ではなかった。大量のドイツ語を読んだ。読んで、読んで読みまくった。

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 これらの履修科目の予習は受験勉強の比ではなかった。

 火曜日がKa先生の民法特講・演習(ドイツ語)、水曜日がYa先生の刑法特講・演習(日本語)、木曜日がAt先生の刑事訴訟法特講・演習(米語)、そして週末の土曜日がSi先生の刑法特講・演習(ドイツ語)だ。

 この4教科の準備をいつするか。前期のAt先生のゼミはM2の先輩が担当してくれたがそれ以外はすべて毎回担当だった。

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 土曜日のSi先生のゼミが終った後から日曜日と月曜日を使ってKa先生の民法特講・演習、Ya先生の刑法特講・演習、Si先生の刑法特講・演習の予習をする。火曜日が終ると水曜日の予習の仕上げをする。水曜日が終ると少しだけAt先生の刑事訴訟法特講・演習の予習をし、木曜日が終ると少し休息して、金曜日の早朝から土曜日の予習の仕上げをする。

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 前期の最終日、その日は土曜日だった。

「じゃあここまでにしようか。続きは後期。」というSi先生の言葉でゼミが終った。思わず天を仰いだ。

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 Si先生は「H君、充実しているでしょう。今の気持ちを忘れないように。」とおっしゃった。

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 先生をお見送りしたその足で同期のNと大学の裏にあるバッティングセンターへ走った。バカバカしいほど楽しかった。(つづく)

 ※「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。


先生との出会い(26)― 合掌、 そして1980年(昭和55年)4月―(愚か者の回想四)

2020年12月15日 18時01分04秒 | 日記

 先生がお見えにならないまま司会がややかすれた小さな声で「定刻なので・・・」と言った。嫌な予感がした。

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 「大変残念なご報告ですが、昨日、At先生が・・・」

 司会の声は聞こえているが頭の整理がつかない。心の整理がつかない。

 約二時間の研究会だったが内容なぞほとんど頭に入らなかった。ただ茫然と時間だけが流れた。事実を受け入れられないまま帰途についた。

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 何日か経って「偲ぶ会」がもたれた。

 正面にお元気だった頃のお写真が置かれた。

 一番後ろのイスに座りぼうっと参列者の背中を眺めていた。

 別の学会で知り合った人が私を見つけ話しかけて来た。

 「先生とはどういうご関係でしたか。」

 「・・・」

 「ゼミにいらしたのですか。」

 「・・・」

 「生前はどんなご様子でしたか。」

 「・・・」

 間を置きながらこんな質問をした。

 だが、何も答えられなかった。口を開こうとすると涙があふれそうになり何も言えなかった。

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 「じゃぁ、失礼します。」と言ってその人は前の方に歩いて行った。こちらの方が失礼をした結果になった。

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 最後に奥様のお話があった。

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 先生は十分生き切った、とあのとき奥様はお感じになったそうだ。

 階段を上るときはいつも一段飛ばし。

 アキレス腱がずいぶん太いと感じられたお話。

 そんなガッテンのお話もされた。

 会場から小さな笑い声が出る軽妙で悲しく切ないお話だった。

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 運命を変えることは誰にもできない。

 ご冥福を祈るしかない。合掌

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 時計を1979年に戻そう。

 At先生の通教の教科書が手に入った。

 それだけでなく、私の学習環境はさらにどんどん大きく変化していった。

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 Ha先生が教職員用に配布された自動車入構証を貸してくださった。これがあるとキャンパス内に自動車を駐車することができる。信じ難いほど有り難いことだった。

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 そのおかげで、大学まで約20分で行くことができた。電車とバスを乗り継ぐと2時間近くかかるところだ。

 毎週2回、At先生の刑事訴訟法の講義を聴くにも好都合だった。通学に要する時間を勉強に振り向けることができた。

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 さらに、このとき、すでに、「努力できなければ諦めろ」との書名の解釈がまことしやかに伝承されていたAt先生の「刑事訴訟法要諦」の再版が完成し入手できた。

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 刑事訴訟法の勉強に加えドイツ語の勉強にも時間をかけた。多摩に来てからも引き続きKa先生の大学院のゼミにお邪魔に上がっていた。

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 教材はドイツの民法学者Karl Larenz(カール・ラレンツ)のMethodenlehre der Rechtswissenschaft(法学方法論)である。

 ラレンツは民法学者であるが同時に法哲学者でもあった。

 内容は民法だが論理的思考力を鍛えるには、また、ドイツ語の力を付けるには刑法である必要は無かった。

 しかも、同書は方法論との書名の通り、民法学者であると同時にヘーゲル哲学の研究者でもあるラレンツの法に向けられた哲学的記述が多く、特定領域に偏らないことが求められる入試問題の勉強には大いに適していた。これに勝るものはないと感じた。ナチ法との関係は後日知ったが、法学の業績に影を落とすものとは考え難い。

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 私の専攻希望である刑法の勉強も当然に時間をかけた。

 当時すでにやや古典の部類に近づいていたDa教授の刑法総論の基本書を徹底的に読み込んだ。不可解な個所もずいぶんあったが掘り下げることは避けた。

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 このようにして、刑事訴訟法、刑法、ドイツ語の3つの受験科目につぎ込んだ時間はほぼ毎日10時間を優に超えていた。中指には鉛筆ダコができ、痔に悩む日々でもあった。

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 1980年(昭和55年)4月、中央大学大学院法学研究科刑事法専攻博士課程前期課程に入学した。

 指導教授であるSi先生が最初のゼミの時、「H君、君がトップだったよ。」と教えてくれた。この年度の入試で、三教科それぞれと総合点で私の得点は入学者の中で一番だったそうだ。嬉しかった。一番というのは高校の校内水泳大会以来初めてだった。もっとも、賞状なぞ記録に残るものは無かった。

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 しかし、しかし、しかし。喜んでなどいられなかった。大学院の勉強は学部時代とは全く比較にならないほどレベルが高く難しかった。そして量が多かった。

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 初年度に履修すべき科目は8個。選択に迷うことは無かった。Si教授の刑法特講・演習、At教授の刑事訴訟法特講・演習、Ka教授の民法特講・演習、Ya教授の刑法特講・演習、の4科目である。Ya教授の科目以外はすべて外国語であった。

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 「特講・演習」とは「特講」と「演習」。特講は毎週1回90分で通年で4単位。「演習」も同じだ。ほとんどの科目はこれがセットになっている。実際の講義もこれらを続けて行うので180分、3時間となる。担当教員によってさまざまだが、3時間より短くなることはほとんど無かった。

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 先生ご自身の研究室で行っているKa先生のゼミでは、ワインが出てくるときもあった。もちろん、私達の口には入らない。上座はパーティー、私達下座は猛勉強というわけだ。

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 だが、これは不自然な力関係ではない。

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 研究室の奥、窓から日がさすあたりにKa先生がいらっしゃる。片手にロングケント、片手にラレンツである。健康のためロングケントはパイプがついているのでたいそう長くなる。それをくゆらせながら私たちの下手な訳を聞いていてくださる。

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 先生に一番近い上座には先生の高弟がふたりいる。

 私達は訳してきたものを読み上げるのだが、どれほど早口で読み上げても、「うん?」とおかしなところで先生がつぶやく。

 すると高弟が「今のところをもう一度訳してごらんなさい。」と優しい口調で促してくれる。

 そこで、もう一度読み上げると、別の高弟がニコニコと笑いだす。

 しかし、決して正しい日本語訳を教えてくれたりはしない。

 私達がそれを見つけるまで待ってくれるのである。

 この待ち時間が長くなると、普段は先生と高弟たちが世間話を始め時間をつぶす。

 だが、季節によりワインが出てくるときがある。その間私達は積み上げた辞書や法学辞典を引きまくり正しい訳を探すのである。ワインは、いわば親心である。

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 とはいえ、分からない状態が続いたり、頻繁に間違えると冬でも全身から汗が噴き出してきた。

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 当時、大学院には多くの院生がいた。前期課程は2年間、後期課程は3年間。だが、この5年間で博士の学位を得られるものは皆無であった。

 大学もこの種の学位、課程博士と呼ぶそうだが、それを出すことは考えていなかったと言われていた。

 その為、院生はそれぞれ2倍まで在籍できる学則に従い10年間は大学院の研究室に留まるのがほとんどだった。

 そうした滞留組が民事法、刑事法、公法といった各専攻に複数人ずついるので所帯は大きかった。在籍するすべての院生の顔を覚えるのは容易ではなかった。

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 受験勉強をしている間に私は刑事訴訟法の魅力に取りつかれた。日本の現行刑事訴訟法のルーツが米国にあることも知った。刑事訴訟法を改めて徹底的に勉強したくなった。

 そこで大学院へ入学することが決まったときAt先生に「学部のゼミで勉強させて頂きたい。ついては入ゼミ試験を受けたいが米国刑事法のケースブックを教材にしているゼミは3年のゼミか、それとも4年のゼミか。」という趣旨のお願いをした。

 すると、先生は「今の学部のゼミではケースブックは読んでいない。君は大学院に入ったのだから大学院のゼミに出てくればいい。」とのお言葉を下さった。嬉しかった。At先生のゼミで勉強ができる。これはいよいよ凄いことになってきた、とわくわくした。

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 At教授の刑事訴訟法特講・演習が行われるゼミ室へ行くと一度も会ったことが無い人ばかりがいた。

 「1年生のHです。よろしくお願いします。」と言うと反応は様々であった。

 しばらくすると、ひときわ大柄でいかにも偉そうな人が入って来た。後にKg氏だと聞かされた。

 「1年生のHです。よろしくお願いします。」と言うと、

Kg氏は「このゼミは刑訴専攻者以外履修禁止だよ。」と言った。

(つづく)

 

※「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。

 


先生との出会い(25)―嬉しい出来事、悲しい出来事―(愚か者の回想四)

2020年12月06日 18時17分41秒 | 日記

 1885(明治18)年、東京神田に英吉利法律学校として創設された中央大学は1978年3月、この地を去ることとなった。奇しくも私達は駿河台の最後の卒業生となった。

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 移転先は八王子市東中野、いわゆる多摩校地。当時、多くの大学が区部を離れ東京近県へ移転していた。

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 多摩校舎はきれいだった。広大な敷地に理工学部を除く4学部がそれらを象徴する建物と共に配置されていた。

 正門から眺めると白鳥が翼を広げたような建物配置になっていた。

 中央には図書館と厚生棟がそびえ立つ。そこへ至る道は幅の広い上り坂になっている。その後、定年坂と呼ばれるようになった。この坂を上れなくなったら定年だという意味。それほどの高低差だった。

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 駿河台とは異なり当時の多摩校舎周辺には飲食店がほとんど無かった。そのため厚生棟には多彩な食堂が入っていた。夕方の指定時刻を過ぎると酒類の販売もあった。

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 私は聴講生という身分を得て1科目だけ登録し大学へ通った。身分が無いと図書館やその他の大学施設が使えないからだ。とはいえ、その講義の日とKa先生のゼミの日以外は自宅で勉強していた。私達は大学の移転に伴い、一足早く町田にアパートを借りて生活を始めていた。

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 自家用車はあるが大学構内へ乗り入れることはできない。

 車で行ったときは周辺の農家が庭を解放した駐車場にあずけることになった。

 多摩校舎は動物園や遊園地のすぐ近くにあった。農家の駐車場は行楽客が土日や休日に利用していたものらしい。大学が来て特需を得ていた。

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 この頃は夜を日に継いで一所懸命勉強した。

 二回目の試験に落ちたときSi先生から「刑訴が0点だ。At君の所へ行って勉強しなさい。」と指示された。

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 そうなのだ。このときになって夜間部であったことが負の要因となっていた。

 ちなみに、「At君」とは、知る人ぞ知るあの伝説のAt教授である。

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 刑事訴訟法という科目は3年生に配当されていた。しかし、この時、私は「不可」だった。勉強不足が原因だったが、教員の話している内容が全く聴き取れなかった。

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 その教員は現職の裁判官だった。4年生になり再度履修した。今度はDo大学のMa教授だった。

 多くの学生は裁判官の先生の講義で「優」を取り、Ma教授を苦手としていた。私はMa教授の講義で「良」をいただいた。

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 だが、その程度では大学院の入試には到底歯が立たなかった。そもそも、歯が立たない理由も分からなかった。試験問題を見ても、何をどう答えればよいのか全く分からなかった。何を問われているのかも分からなかった。

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 しかし、その原因はすぐに明らかとなった。当時、大学院の入試問題を出していたのはAt教授だった。しかし、At教授は夜間部の講義を担当してはいなかった。そして、このAt教授こそこの大学で最も単位が取れない科目の担当教員だった。

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 その先生の講義を聴いている昼間部の優秀な学生でも単位を取れない科目である。講義を聴いていない夜間部の凡庸な学生である私が、しかも大学院の入試問題で合格点を採れるはずがない。

 普通の勉強をしていたのでは未来永劫、この大学院には入れないと悟った。

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 しかし、この先生の教科書が無かった。長く品切れだった。

 「どうして俺は教科書に恵まれないのか。」と高校時代を思い出した。

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 しかし、救世主はいるものだ。

 はじめは私をOさんのオッカケだと思っていたらしいHa先生が助けてくれた。

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 At先生は通信教育部で教科書を書いていた。しかし、これは非売品なので通信教育部の学生以外手に入れることができない。

 ところが、私がこの教科書が欲しいとOさんに言うと、その話がHa先生に伝わりHa先生が手に入れてくれた。

 自分のまわりがどんどん変化して行く。そんな感じがした。

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 多摩移転は私に大きな幸運をもたらした。

 駿河台では受講できなかったAt教授の刑事訴訟法の講義が毎週2回開講されていた。本来は毎週1回なのだが移転に伴う留年生向けの救済措置で2回になっていた。これは非常に有り難いことだった。

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 刑事訴訟法の講義は毎週火曜日と木曜日だった。大学院に入学してからも出席し続けた。いつからだったか記憶が無いが、毎週二回ではなく毎週一回になっていたが出席し続け2005年に先生がご定年でご退職されるまで20余年間聴き続けた。

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 ご退職後も先生はそれまで主宰されてきた研究会でご指導を続けられ私も引き続きお邪魔に上がっていた。

 先生が発起人の一人となっている某学会の研究会にもお邪魔に上がっていた。

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 先生は退職される前に新たな学部を創られた。そこでは、刑事訴訟法ではなく「法の原理」という科目で先生がお得意とされる領域についてご講義された。学部の二年次か三年次に配当された科目だったと記憶している。現役の学生諸氏には難しかったのかもしれない。

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 その後、同学会が提供する「社会安全政策論」というオムニバス講義で総論をご担当された。

 先生の法の哲学がビンビン伝わってくる熱のこもった講義であった。

 ちなみに、このときは当時まだ警察庁の現役官僚であった男Tと机を並べて受講した。「わかるかい?」と問いたくなったが控えた。たぶん分かってはいなかったと思う、推測だが。

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 例の某学会は設立から15年が経っていた。複数の部会が置かれ、それはAt先生が部会長をされている部会の研究会の日の事だった。

 当然、私もお邪魔に上がった。

 開始時間まで少し間があった。

 私が入室したときはすでに数名の会員が着席していた。

 先生はまだお見えではなかった。

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 いつもならば研究会が始まるまでの時間、参加者がそれぞれ談笑するのが常であった。

 皆、元警察官僚である。現役の頃の話や天下国家についてにぎやかに話していた。

 だが、この日は静かだった。

 その静けさに押されて私も静かに席に座り開始の時刻を待った。

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 向かい側に座っていた元警察庁長官が沈痛な面持ちで隣に座っている元某県警察本部長に小声で何かささやいた。

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 「いやあ、残念だねえ。」かすかな声だが私にはそう聞こえた。元本部長は「ええ。」とだけ声にならないような声で小さく頷いた。

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 過去に経験の無い胸騒ぎがした。心臓がバクバクして来た。

 2014年1月31日の出来事だった。(つづく)

※「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。


先生との出会い(24)―不合格、そして卒業と閉校―(愚か者の回想四)

2020年12月02日 19時48分56秒 | 日記

 刑法は2年生の時、クラス指定ですでに履修していた。だが改めて別の先生の講義に潜り込んだ。Si教授の講義だ。この講義は大変人気がありいつも大教室が満室となり「立ち見」もできていた。流れるような語り口にノートを取ることも忘れ聴き入った。

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 この頃、中央大学の教室には不思議な現象が起きていた。

 中央大学には名物先生がいた。一人や二人ではなかった。そして、そういう先生の多くが司法試験委員をされていた。

 さらに、他大学の教授の職にあり、同じく司法試験委員をされている先生が教壇に立っていた。

 その為、他大学の学生、とりわけ本郷にある官僚養成大学の学生が最前列から4番目あたりまでを占めていた。

 のんびりした中大生はいつも中ほどから後方に追いやられていた。

 それでも、Si教授の講義では毎週最前列廊下側の席を死守した。

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 当然のことながら、4年生で初めて受けた大学院の試験は見事に不合格となった。

 だが、ある日のSi教授の講義の時、先生が教室に入るなり私の机にメモを置いた。そこには簡単な走り書きで「ド〇〇、刑〇〇、刑訴〇〇」とそれぞれ数字が書かれていた。不合格となった試験の得点だった。

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 およそ合格できる数字ではない。だが、それより驚いたことは、大学にはこういう先生がいるのかということだった。再び感動した。

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 私は勉強した。とりわけドイツ語はOさんが特訓を受けているという民法のKa先生の特訓に入れてもらうことにした。

 刑法も勉強した。その甲斐あってか5年生の時、一次試験に合格した。

 それほど親しかったわけではないHa先生が「オ~、君かぁ~、頑張れよ!」と偶然会った中庭で肩を叩いてくれた。

 Oさんのゼミの先生である。嬉しかった。

 後日談だが、私はOさんの「オッカケ」だとOさんの先生方には思われていたらしい。一次だけでも受かってよかった。

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 二次試験は口述試験である。会場はそれまで入ったことがなかった建物にあった。大きな広間だった。会場には大きめの机がコの字型に広く配置されていた。

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 試験を担当する先生方はそれぞれの科目がかかれた机の向こう側に座っていた。

 受験生は係の人の指示で自分が受ける科目の先生の机の前に座るのである。

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 私の順番が来た。係の人の指示でSi教授の前に座った。入り口からそこまでの距離が非常に長く感じた。

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 何を聴かれ、何を答えたか全く覚えていない。しかし、一つだけ、専門科目とは直接関係があるとは思えない日本語の使い方について指導を受けた。後々このことが非常に重要なことであったと記憶に残っている。

 このときは最終合格には至らなかった。

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 5年生になったのは大学院の受験のためであった。留年という負の認識は全く無かった。

 4年生の時、「私の単位を落としてください。」と必修科目を担当していたあのOs先生にお願いに行ったことがある。「もともと落ちてるよ。」とニコニコしておっしゃっていた。そういう先生がいるこの大学が私は大好きだった。

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 5年生の終、1978年(昭和53年)3月、私は中央大学を卒業した。

 進路は決まっていなかった。

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 そして、この同じ日、中央大学は駿河台校舎の閉校の日を迎えた。

 私達は駿河台の最後の卒業生となった。(つづく)

※「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。