退屈男の愚痴三昧

愚考卑見をさらしてまいります。
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先生との出会い(31)―教材は映画「ダーティーハリー」(1971)―(愚か者の回想四)

2021年01月30日 13時38分28秒 | 日記

先生との出会い(31)―教材は映画「ダーティーハリー」(1971)―(愚か者の回想四)

 さて、このように、一見単純そうで実は非常に複雑で知的好奇心を刺激する法律適用だが、有罪となるかもしれない被告人はありとあらゆる(悪)知恵を絞って無罪となりそうな根拠を探し(屁)理屈を展開する。

 裁判所は、その根拠や(屁)理屈を真正面から受けとめ被告人が反論できないところまで論破して有罪判決を下す。

 そしてその被告人の反論を論破する理屈も合理的かつ論理則に適っていなければならない。

 さらに、同時に、過去の事例との整合性も維持されていなければならない。これが、いわゆる歴史的平等の確保である。

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 先にあげた例は刑法、すなわち刑事実体法の例だが、刑事訴訟法、すなわち刑事手続法においても同じように厳格かつ合理的で論理的な法運用がされなければならない。

 加えて手続法では憲法遵守という要請が強く働く。なぜならば、どちらかと言えば裁判の場で論理的対立が顕在化する刑法と異なり、職務質問や逮捕、勾留、捜索、押収といった刑事手続は突如として人の日常に入り込み、人を法領域へ取り込む刑事訴訟法では憲法、とりわけ基本権規定との関係が常に重視されなければならない。

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 一例をあげよう。私が講義の際に必ずあげる例が映画「ダーティーハリー」(1971)だ。

 M29というカーストッピングパワーを持つマグナムハンドガンでご存じの人も多いだろう。ただし、20歳前後の人の中には知る人が少ない。

 あらすじはWikipediaで読んでもらえば良いが、ただ、私が例としてあげたい肝心な部分が欠落している。Wikipediaでは「ミランダ警告を無視した逮捕と自白強要が違法とされ、決定的証拠もなく結局犯人は放免される。」(「放免」ではなく「釈放」)という説明があるがそうではない。

 主役のキャラハン刑事が容疑者から被害者の居場所を聴き出すまでの過程に米合衆国憲法が保障する基本権の侵害があり、かりに起訴しても犯人を有罪にはできないのである。少し深入りしよう。

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 キャラハン刑事は、容疑者を救急診療した医師から容疑者の居場所を聞き出しその場所へ行った。

 ここからがこの映画の一つの見せ場だろう。

 容疑者は球場でプログラムを売っている男だと医師はキャラハン刑事に告げていた。

 球場へゆくと門は閉じられている。キャラハン刑事はこの門をよじ登り球場内に入り、容疑者が寝泊まりしているという小屋に向かう。

 M29を取り出し、用心しながらドアに近づきドアを蹴破って中に入る。この種の映画では当たり前のシーンだ。

 だが、容疑者はいない。

 しかし、キャラハン刑事はベッドのぬくもりから直前までこのベッドに人がいたことを察知する。

 その直後、物音がする。

 球場の照明をつける。

 容疑者が球場を横切って逃げる。

 M29の出番だ。

 キャラハン刑事は容疑者の足を撃つ。

 動けなくなった容疑者から被害者の居場所を聴き出そうとする。

 容疑者は「俺には弁護人を依頼する権利がある。」と絶叫する。

 だが、キャラハン刑事は撃たれて傷ついた足を踏みつけ被害者の居場所を聴き出す。

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 容疑者の供述に従い捜索した結果、被害者は遺体で発見される。

 球場で容疑者から聴き出した内容は「犯人でなければ知り得ない事実の暴露」、いわゆる「秘密の暴露」だ。この容疑者が犯人であることに間違いはない。

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 しかし、その後、キャラハン刑事は検事と判事に呼び出され犯人を釈放したと聞かされる。

 「なぜだ」と迫るキャラハン刑事に「証拠が無い」と判事らは答える。

 球場の小屋で発見した狙撃用ライフル銃や遺体が証拠となると主張するキャラハン刑事に、「あれは証拠としては使えない。君がしたことは米合衆国憲法第4、第5、第6修正違反だ。被疑者の権利を忘れたのか。」と判事は憤る。

 「少女の権利は誰が守るんだ。」と言い捨ててキャラハン刑事は部屋を出て行く。

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 この映画の核心部分はまさにこのやり取りである。M29の派手さで日本に上陸した映画なので、キャラハン刑事の名台詞やM29のパワーが人目を引くが作者の狙いはこのやり取りにあったと私は見ている。☆

(つづく)

※「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。


先生との出会い(30)― 続・電流窃盗 ―(愚か者の回想四)

2021年01月17日 23時28分37秒 | 日記

 このとき裁判所は歴史に残る解釈を示した。その後、その解釈は「許されざる類推解釈」だと少なくない数の研究者から批判されました。しかし、私にはそのようには見えなかった。批判をした多くの研究者はドイツ法研究者だった。

 さて、裁判所はどんな解釈をしたのだろうか。以下その概略である。

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「電力の供給は契約に基づいているのだから、いわば財産的価値を有するものである。そしてこの財産的価値を有するものは電線を通じて供給する他、何らかの手段で管理することができるものであり、したがって、電流は財物と言える。」

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 以上の解釈を示し被告人に窃盗罪の成立を認めた。

 この解釈は後に管理可能性説と名付けられ、『物』にこだわる有体物説と対照的に位置付けられた。

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 ちなみに、法律には「モノ」と発音される概念が三つある。

 「物」、「者」、「もの」だ。法律を学び始めたばかりの人はこのあたりに苦労する。中には、「もの」と書いて説明したのに「物」と書いてレポートを作成してくる学生もいる。そのため、口頭報告では、ご存じの通り「物」は「ブツ」、「者」は「シャ」と発音せざるを得ない。なお、「もの」は英語のoneに当たる。

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 さて、上記の裁判所の判断には後日談がある。管理可能性説を採った後、刑法が改正され第245条に「この章の罪については、電気は、財物とみなす。」という一カ条が置かれた(旧規定では『本章ノ罪ニツイテハ電気ハ之ヲ財物ト見做ス』。以下現行刑法の規定を用いる。)。

 これに勢いづいたのが先の判決をした『少なくない数の研究者』であった。「『みなす』というのは、そうでないものをそうだと扱うことを意味する。刑法には『公務員』でないものを賄賂罪の規定に関し『公務員とみなす』という規定があるのがその証左だ。『電気は、財物とみなす』という規定を置いたことは、結局それ以前は電気が財物ではなかったことを認めたことになる。」という立論である。

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 しかし、これに対して裁判所実務は次のように再反論した。

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 「再び条文を途中から読む愚行だ。同条は『この章の罪については、電気は、財物とみなす』と規定している。ここで『この章』とは、第三十六章を指し、同章の罪とは窃盗及び強盗の罪である。財物に関する管理可能性説が無制限に広がることに歯止めをかけるために置かれたのが本条であり、したがって、本条の狙いは『財物とみなす』という部分ではなく『この章の罪については』という部分である。また、本条は、管理可能性説によって財物として扱われるのは電気だけであり、管理可能なその他のエネルギー、例えば人口暖気や人口冷気は財物には当たらないことを示した注意規定である。」

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 この解釈によれば、電流窃盗だけでなく電流強盗も管理可能性説で説明されることになる。他方、人口冷気や人口暖気の窃用は窃盗罪にはならないことになる。

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 さらに、準用規定である第251条が背任罪を含む第三十七章「詐欺及び恐喝の罪」に第245条を準用しているので電流詐欺、電流背任、電流恐喝までは犯罪となる。

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 なお、刑法上、財産に対する罪は、窃盗罪、強盗罪、詐欺罪、恐喝罪、背任罪、横領罪、盗品譲受他罪、毀棄罪、隠匿罪の9個ある。この内、横領、盗品、毀棄、隠匿に関する罪を定める章には第245条の準用を定める規定が無い。したがって、条文上、電流背任罪はありうるが電流横領罪は無い。

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 例示が長くなり過ぎた。また、電気に深入りし過ぎた。この種の話は他にもいくらでもある。講義や研修で出席者が話に飽きて来た頃に話すとたいそう受けた。教科書には書かれていない、そして誰も教科書には書けない実話も話した。筆記する手が止まり、出席者全員が聴き入ってくれることも何度かあった。楽しかった。

 だが、定年退職前の約10年間、大学の講義では私の受講生は徐々に減り、ついに1名とか2名、ときには0名のときもあった。誰もいない講義室で90分間、私が自習をしていることが何度もあった。寂しく、悲しかった。だが、これには理由があった。いずれ機会を見てご紹介しよう。(つづく)

※「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。


先生との出会い(29)― 電流窃盗 ―(愚か者の回想四)

2021年01月13日 19時14分27秒 | 日記

 後期も前期同様、勉強漬けの日々が続いた。勉強がしたくて大学に入り、勉強を続けたくて大学院に入った凡庸な私にとって、大学院初年度の日々は、新鮮で、刺激的だった。

 他方、質的にも、量的にも、時間的にも非常に厳しい日々の繰り返しであったが想像を超えて楽しく充実した一年だった。

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 二年生になった。去年の大忙しの日々が嘘のように時間にゆとりができた。一年生が教材を分担して報告するので私達上級生は座っているだけになった。

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 だが、「座っているだけ」という認識は甘かった。Si先生のゼミでは一年生が一文の報告を終えると、すぐに「H君、今の訳でいいかな。」とお声がかかる。

 一年生の報告の正否を質問されるのである。自分が一年生のときは無我夢中だったので全く気付かなかったが、思い起こすと自分が報告した後、先輩と先生とが何やら言葉を交わしていたことがあった。

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 「H君、今の訳でいいかな。」という質問に答えるのは大変だった。自分が報告する方がはるかに楽だったと実感した。

 なぜならば、私が「はい、いいと思います。」と答えると間髪入れず別の上級生が「そうですか?」と疑問を差し挟む。

 私が「いや、違うかなぁ~。」と言うと、「では、先輩のご見解を伺いましょう。」というSi先生の声で下級生だけでなく全員の目が私に向けられる。「いやいや、まいった、まいった。」といつも腹の中で呟いていた。

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 そんなわけで、Si先生のゼミの予習にかける時間は一年生のときとあまり変わらなかった。「変わらなかった」というより、予習の重点が大きく変わったという方が正しい。

 一年生のときは、とにかく横のもの(ドイツ語)を縦(日本語)にすることが先決だった。何と言っても、自分が発言しなければゼミが進まなかったからだ。

 これに対して、二年生になると一年生が横にしたものの正否と背景について発言しなければならなかった。

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 私が専攻した刑事法は罪と罰の関係を規律する法を扱う。しかし、条文を知っていればそれでどうにかなるという代物ではまったくない。

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 日本法においてもその難しさは容易に例示できる。長くなるが簡単な例を上げてみよう。

 誰でも「泥棒」という言葉は知っている。泥棒を罰する規定は刑法という法律の第235条に窃盗罪という罪として規定されている。

 窃盗罪という罪名を知る人も少なくはない。しかし、第235条という条文番号に至ると知っている人は激減する。

 この条文には「他人の財物を窃取した者は、窃盗の罪とし、十年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する。」と書いてある。ここまで来ると法律の専門的訓練を受けた人でないと、知っている人は希ではないだろうか。

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 さて、この条文を知っていれば泥棒を捕まえて処理できるだろうか。まず、容易に気づくことだが刑罰に幅があり過ぎる。これでは扱いようがない。

 次に「財物」って何だ、という疑問が生じる。刑法を学ぶとすぐに紹介される電流窃盗事件というものがある。これは電力の供給契約が切れた後も料金を払わずに電気を使い続けた人について電流の窃盗だと電力会社が主張したものである。元々、契約もせずに勝手に使用した者も同じ罪に問われた事がある。

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 今の刑法典の前の旧刑法典の条文が適用された事件だが、行為当時の旧刑法典にも「財物」という文字が使われていた。ところが、刑法典には「財物」に関する定義が無かった。今も無い。

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 そこで、被告人は民法の定義を持ち出した。現在の民法85条には「この法律において『物』とは、有体物をいう。」と規定されている(ちなみに、『』は私が付けた。)。

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 条文の文字の並びは当時とほとんど変わらない。この規定を根拠に、被告人(側弁護人)は「『物』とは有体物だ。」と主張した。有体物とは形があり、目で見ることができ、手で触ることができるものという趣旨である。

 この点を重視すれば電流は有体物ではないことになる。有体物でなければ電流を勝手に使っても、少なくとも窃盗罪にはならないという理屈になる。

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 しかし、裁判所は「刑事裁判に民法の定義を持ち込むのは妥当ではない。」として、いとも簡単にこの理屈を退けた。~~~

 被告人は「この法律において物とは有体物をいう」という文字列の内、「物とは有体物をいう」という部分を拠り所とした。だが、裁判所は、「条文は途中から読むな」と言ったかどうか定かではないが、「この法律において物とは、有体物をいう。」という文字列の「この法律において」という部分を無視した被告人の解釈を誤りだと断じたのである。これは至極もっともだ。

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 しかし、被告人の主張を退けたとしてもそれだけでは被告人を有罪とすることはできない。被告人の有罪を積極的に論証しなければならない。(つづく)

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