退屈男の愚痴三昧

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先生との出会い(19)―70年代―(愚か者の回想四)

2020年11月11日 23時34分39秒 | 日記

先生との出会い(19)―70年代―(愚か者の回想四)

「先生との出会い」はファンタジーです。実在する団体及び個人とは一切関係ありません。

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 腹の底から勉強したいと思って入った大学だった。だが、自分の生活が弛んできていることは認識していた。それをSRのローンのせいにしている自分にも少しばかり嫌悪感があった。

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 その頃、大学では毎日のようにヘルメットをかぶった学生がアジビラを配っていた。2号館の中庭には対面するように、対立するセクトが立て看板を立てそれぞれ白ヘル、赤ヘル、黒ヘルをかぶった人がハンドマイクで独特のイントネーションで「ワレワレハ~~~!」云々とアジ演説をしていた。特徴的な文字で書かれたアジビラを配る人もいた。

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 ある日、それが激化したとき学内放送が流れた。「こちらは中央大学です。」で始まる放送では「大学施設の占拠をやめること」、「破壊行為をやめること」、「授業妨害をやめること」などが何度も告げられ騒然とした空気が漂う事態となった。一部の講義は休講となった。

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 70年代も荒れていた。1971年、高3のとき私は生徒会長をやっていた。K工業高校には定時制があった。学校行事の日程調整が難しく昼と夜とで別々に文化祭を行うのが難しい事態になっていた。折しも、昼の生徒と夜の生徒の相性が悪かった。後から思えば「湯呑の嵐」だが、当時は、なかなか文字表現が難しい事態が現実味を帯びて勃発する危険をはらんでいた。

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 私は夜の生徒会長に会いたいと生徒指導の教諭に申し出た。難色を示していたが、会うだけあって話しをしたいと強くお願いし、それが実現した。

 夜の生徒会長はデカい男だった。身体つきではない。もちろん、身体もデカかったが貧弱な私の話をよく聴いてくれた。

 「やりましょう。」ということで、前代未聞だったようだが昼夜合同の文化祭を開催することになった。

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 しかし、当時を知る人ならば想像がつくと思うが、文化祭にはいろいろな人が来る。外で喧嘩をした相手が何かをしにやってくることも珍しくはなかった。

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 開会の日の直前には数日間学校に泊まった。本来は許されないことだが、多くの生徒が文化祭を盛り上げるために音響機器他高額の私物を教室に持ち込み準備をしていた。

 万一の事があれば取り返しがつかない。そうした思いもあり泊まり込んだ。後日談だが、「帰れ」と言った教諭の中にも何人かは泊まり込んでいた人がいた。

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 開会式の前日、定時制の生徒会室が何者かにより襲撃された。壁に赤色のペンキがぶちまけられていた。

 夜の会長は動じなかった。

 「やりましょう。」

 「やりましょう。」私も応えた。

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 昼夜合同なので朝9時から夜9時まで学校が開かれることになる。日が落ちると影となった人が校内に出入りする。

 「H君、大丈夫かい。」と心配そうに生徒会顧問の教諭が顔を出した。

 「大丈夫です。」

 何の根拠も無かったが私はそう答えた。

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 電気科3年の副会長が息を切らして本部室に入って来た。「凄いのが来た。こんなんだ。」と自分の首あたりで人差し指と親指を縦いっぱいに広げた。

 当時、襟(カラー)が高く上着の丈が長い学生服が一部の生徒の間で流行っていた。何かを象徴するものだった。その「何か」をここで文字化するのは控えておこう。分かる人には分かるはずだから。

 副会長の説明によれば、カラーの高さは耳の下程まであり、上着の裾は足のくるぶしに届くほどの長さだという。

 上着の背は腰下あたりで切れたセンターベンツになっている。歩くと左右にたなびくようであったそうだ。並みのものではなかった。そして、それを着ている者も並みのものではなかった。健康的に日焼けした顔に鋭い眼差し。短く刈り込んだ髪型が精悍さを増していた。学生服と相まってかっこよかった。私はすでに見て知っていた。

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 「凄いよ!」

 副会長が繰り返した。

 「大丈夫。知ってるから。」

 今度の「大丈夫」には根拠があった。機械科3組、つまり私の組の生徒がその生徒の友人であるKaちゃんを誘ったと話していた。それが私の耳に入っていた。

 「凄い人」は高校を中退し今は仕事をしているらしい。そういう格好が好きで、見かけも「凄い」ので高校生の時でも誰も挑むものは無かったそうだ。しかし、喧嘩はせずタバコも吸わなかった。

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 「エッ?」と驚く副会長の顔を眺めながら、もう一度「大丈夫。」と私は言った。

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 現実に、何も起こらなかった。機械科3組はディスコをやっていた。時間も遅くなり、ハードロックは終り、ムードタイムとなっていた。「凄い人」はここにいた。男子生徒が招待したらしい女子生徒達とおとなしく語らっていた。

 ほどなく、S.F.先生が入って来た。

 「大丈夫か?」

 「はい、大丈夫です。」

 誰もが成功を危ぶんだ昼夜合同文化祭は無事終了した。

 ただし、夜8時に始める予定であったキャンプファイヤーは雨で取り止めとなった。夜の会長が頑張って集めた枕木の廃材だった。残念だった。

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 「大丈夫。」これは私の口癖だ。最近はこれに「何とかなる。」が付く。何事も、まずは「大丈夫」と言ってみるといい。何とかなるものだ。

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 中央大学の騒動はそのまま試験期間まで続いた。当時の私立大学は定員の3倍程度の学生を入学させていた。その為、試験期間になると教室が学生であふれた。試験会場となる教室から別の教室へ移動するにも人垣をかき分けて進まなければならなかった。そんな中、ヘルメット姿の学生が試験をつぶすために校舎に乱入して来た。(つづく)