退屈男の愚痴三昧

愚考卑見をさらしてまいります。
ご笑覧あれば大変有り難く存じます。

消費税の税率引き上げについて、憲法学者の発言を見つけることができなかったので甚だ僭越至極ながら愚考卑見を少々。

2019年09月30日 13時24分57秒 | 日記

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 消費税の税率引き上げについて、憲法学者の発言を見つけることができなかったので甚だ僭越至極ながら愚考卑見を少々。

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 税率はさておき、本来の消費税には反対はしません。むしろ直接税と間接税の比率(直間比率)を是正する方向に進むならば10%でも構わないと思います。

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 しかし、今の税制のままでは税の公平負担や二重課税の問題が置き去りにされ、結果的に弱者が疲弊することになると思います。

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 消費税は間接税の象徴ともいわれますが、今の日本の消費税は消費税ではなく品物税(≠旧物品税)ですね。

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 元来、消費税は全収入の内、消費に回せる部分について税を課すというのがその哲学であったはずです。

 つまり、大きな消費ができる人にはそれだけの消費ができるのだから多額の税を納めてもらい、小さな消費しかしない人には少額の税を納めていただく。

 逆に言えば、少額消費者は少額の税負担を甘受しつつ、高額消費者に多額の税負担を求めるという仕組みであったはずです。

 これならば公共財(道路や橋、社会保障や社会治安)の維持に必要な経費の公平負担の原則に合致します。

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 しかし、軽減税率という仕組を入れると消費税は消費税ではなくなり品物税になってしまいます。

 品物税にするならば、廃止された旧物品税のように高額商品に高い税を課さなければ公平負担の原則に反します。

 高額商品を買えるだけの財力のある人には応分の税を負担してもらいましょうという税制ですね。

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 軽減税率などという、いわばごまかしで争点を見えなくしてしまうので、本来の「直間比率の是正」という論点に国民の目が向かなくなってしまうのですね。

 報道でもこの点を目にすることができません(愚輩だけが知らないのかな?)。

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 消費税を課すならば直接税(所得税や住民税他)を軽くしなければ国民の消費力はますます低下します。

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 その一方で、国にカネが流れ込みすぎます。このカネはどこへ行ってしまうのでしょうか。

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 このままではますます消費が落ち込み経済は失速するでしょう。

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 「景気の好循環」をスローガンとした政権は、今や国民の5%しか関心を寄せていない憲法の関心に目が向き国民の生活苦には目が向いていないようです。

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 国家予算の配分比率を見直さないと国民の生活は困窮しますね。

 

愚考卑見多謝


「みんな仲良くしましょう。」はいじめの原因!?(9)

2019年09月05日 00時58分49秒 | 日記

 

 ここまで8回も愚考卑見を曝してしまいました。

 

 お付き合い下さり深く感謝申し上げます。

 

 ありがとうございました。

 

 「変なことを書いているな。」とあきれた人もいるでしょう。

 

 「うん、そうだそうだ。」と共感してくださった人もいるのではないかと期待しています。

 

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 どれほど「イジメをなくそう。」とスローガンを掲げても、関係者がまったく気づかないうちにイジメの原因をつくっている場合があります。

 

 このことに気づかなければイジメは無くなりません。

 

 ここまでに登場した、Bさんもその担任の先生も、そしてその後同じように消しゴムを借りに来たC、D、E、F、Gも自分自身がイジメにかかわっているとはまったく気づかないのかもしれません。

 

 そして、C、D、E、F、G 他の内、一人でも意識的にA君が不快に感じていることに気づき、それを「おもしろい」と感じて、あるいはA君がなんでも言うことをきくと感じてしまうと凄惨なイジメにつながる危険が生じます。

 

 この悲劇の連鎖の出発点が先生の「A君、意地悪をしないで貸してあげなさい。Bさんが困っているのだから。」という、一見ごく当たり前に聞こえる発言であったことは深刻に受けとめなければならないのだと思います。

 

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 「『仲良くしなさい。』って言っちゃいけないならなんて言えばいいんだ。仲良くしなければケンカばかりになるではないか。」

 

 ごもっともなご意見です。

 

 大切なことは「仲良くしなさい。」との発言が結論しか言っていないことです。

 

 小学生に「仲良くしなさい。」と伝えただけでその方法を伝えなければ小学生はどうやって仲良くすればよいか分かりません。

 

 「仲良くしなさい。」は命令規範です。

 

 そうではなく、「やってはいけないこと」を具体的にあらわす禁止規範を示す方がイジメを減らすことができるのではないかと愚考しております。

 

 たとえば、「嫌がることをしてはいけません。」という禁止です。

 

 このように申し上げると、すかさず出てくる反論が「相手が嫌がっているかどうかなんてわからない。」です。

 

 そこで、「無理に他の人を誘ってはいけません。」という禁止も付け加えます。

 

 さらに、最近街なかで目にするようになりましたが、「他の人をぶってはいけません。」や、さらに、「他の人の物を使ってはいけません。」、「他の人の物を壊してはいけません。」、「他の人の物を隠してはいけません。」、「他の人の悪口を言ってはいけません。」などです。

 

 つまり他者を明らかに害する言動やその危険性のある言動を禁じるのですね。 

 

 「仲良くしましょう。」の後に、こうした具体的にやってはいけない行為を付け加える必要があると思います。

 

 そうすることで子供たちには「仲良くしましょう。」の意味が伝わるのだと思います。

 

 それでも、自分の感情や欲求、欲望をコントロールできずに他者を害する人がいます。

 

 この場合には徹底した原因究明が必要です。

 

 「学校なんだから『原因究明が必要』だなんて、警察みたいなことはできません。」という人もいます。

 

 そうでしょうか。

 

 この時点の原因究明が不十分な結果、人の生死につながる深刻なイジメが起きたらどうするのでしょうか。

 

 複数の人を預かる指導者は常にこうしたことに鋭い感性をもって臨まなければならないと思います。

 

 そして、この体制は集団生活が始まるできるだけ早い時期に構築しておかなければならないと感じています。

 

 ここでいう早い時期は年齢だけでなく集団が形成される早い時期も含みます。

 

(つづく)


「みんな仲良くしましょう。」はいじめの原因!?(8)

2019年09月04日 13時43分57秒 | 日記


 すぐに想起できる権威者(先生)の規範階層に関する認識の欠如についてご案内しましょう。

 これはこの事件の最も重要な要素となります。

 法学の歴史の中に、いわゆる法階層説というものがあります。

 法は階層を為していて上位法を具体化するために下位法があるというのが一般的な理解です。

 当たり前といえば当たり前のことです。

 難しいことではありません。

 わが国の国内現行法も日本国憲法を頂点に刑法や民法、商法その他種々の法律が整備されています。

 他方、広い意味の法規範という観点から眺めると議会制定法とは別に人の行動を規制し促す基準として種々の規範を認識することができます。

 先ほどご案内した道徳規範は分かりやすくて分かり難い身近な規範の一つです。

 そして、法規範が求める行為は最も小さい規範、つまり「せめてこれだけは守ってほしい。」という規範だということができます。

 したがって、「せめてこれだけは守ってほしい」という最低限の規範要求であるにもかかわらず守ってくれないという場合には、やむを得ず例外なく制裁を科し規範違反は許されないことを人々に周知する必要があります。

 これが法規範の役割だということになります。

 このように規範には緩やかなものから厳しいものまで段階があることが分かります。

 行動規範として最も厳しいものは宗教規範でしょうか。

 制裁という観点から見れば刑法を含む法規範が、やはり最も厳しいものだといえるでしょう。

 これらの規範は適用領域と妥当領域を慎重に考慮して適用しなければなりません。

 家族内に厳しい規範を置いたら息苦しくていたたまれないでしょう。

 他方、国家という価値観や、生活様式の異なる多数の人々が一緒に空間を共有して生活をする場では強制力を伴う規範が不可欠です。

 難しいのは家族と国家の中間に属する組織や集団でいかなる規範を用いるかということです。

 すでにお気付きかとは思いますが、小学校の学習上の約束はクラス、またはその学年、ときには全校生徒に適用がある組織的行動規範と考えてよいでしょう。

 「組織的」という文字列は「組織を規律する」という趣旨です。

 「行動」とは単純な行為だけでなくその行為を動機づける意思決定をも含む趣旨です。

 したがって、この種の規範は客観的で目的に応じて厳格でなければなりません(次回ご紹介する「レポートの締切日時厳守事件」もご参照ください。)。

 他方、自発的に生じる他者への友愛や思いやりの心は道徳規範に属するものです。

 したがって、行動規範の問題が生じているときに道徳規範を参照してはいけないのです。

 逆もまた同じです(「優先席はそれを必要としている人に譲るものだ。」と他人に命令することは不合理です。)。

 この考え方を「消しゴム貸して事件」に適用してみましょう。

 A君は「消しゴムは各自準備しなければならない。」という行動規範に従っていました。

 この行動規範に客観的な順守義務があることはすでにお分かりでしょう。

 したがって、Bさんも消しゴムを用意しなければならなかったはずです。

 Bさんに「消しゴムを貸して」と言われたA君は客観的な順守義務が生じている行動規範に従ってこれを拒否しました。

 本来ならばBさんのアピールを受けた先生はBさんに対してこの行動規範の次元で「消しゴムは各自で準備しなければならないことになっていますね。不便かもしれないけれど、今日は我慢しなさい。」と指導すべきであったはずです。

 ところが、先生は行動規範とは異次元の道徳規範を持ち出して「A君、意地悪をしないで貸してあげなさい。Bさんが困っているのだから。」と言ってしまったのです。

 A君にとっては不意打ちを受けたような「規範攻撃」であったわけです。

(つづく)

「みんな仲良くしましょう。」はいじめの原因!?(7)

2019年09月04日 13時23分24秒 | 日記

 さて、そこで、この justice の観点を「消しゴム貸して事件」に当てはめたらどうなるでしょうか。

 A君は正統な、いわば権威(ここでいう「権威」とは命令や禁止の総体である規範を明示する主体という意味です。国でいえば議会や政府であり、小学校でいえば担任の先生ですね。)のある人の「消しゴムを準備して来なさい。」という命令に従って消しゴムを準備して来ました。

 それにもかかわらず、この命令に従っていないBさんが自己の利益を主張して同じ権威者に救済を求めたところ、この権威者はこの要求を入れてA君に「消しゴムを貸してあげなさい。」という不可解な命令をしたことになります。

 A君は「消しゴムを準備して来なさい。」という規範に正直に従ったにもかかわらず規範違反者の犠牲になったことになります。

 正直者が馬鹿を見た結果になりました。

 justiceに反する事態が生じました。

 では、なぜこのような事態が生じたのでしょうか。

 すぐに想起できることは権威者(先生)に規範の階層に関する認識が欠如していたということです。

 後でご案内しますが規範には上下の階層があります。

 この順序を間違うと命令や禁止の規範を示される側、ここでは児童が混乱します。
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 先生が規範の順序を間違えたことでA君は、いわゆる「二重の基準(double standard)」に翻弄されることになります。

 つまり、一つは「消しゴムを準備しなければならない。」という命令規範です。

 そしてもう一つは「意地悪をしてはいけない。」という禁止規範です。

 この二つの規範は階層が違うばかりでなく質も違います(この点も後にご案内します。)。

 「意地悪をしてはいけない。」という禁止規範には「他人には親切にしなければならない。」という命令規範がその裏側に付着しています。

 この後者に位置する、いわば「背後の規範」は、多くの場合入学式などで校長先生や然るべき人が「皆さん、仲良くしてください。」とか「みんな仲良く楽しい学校生活を送ってください。」という挨拶や指導で植え付けられている規範意識です。

 A君の場合、double standard に翻弄されるばかりでなく、入学式で宣言された「みんな仲良く」の命題に自分が反していると先生にレッテルを張られたことに大変大きな心的衝撃(ダメージ)を受けたことになります。

 「自分は先生の指示に従っていた。先生の指示に従っていなかったのはBさんだ。それなのになぜ自分は先生から『意地悪をしてはいけない。』と、自分が意地悪者であるかのような評価をされなければならないのだろうか。」これがA君を追い詰める疑問です。

 同時に、先生の指示に従っていなかったBさんを先生が擁護したことで「消しゴムを準備しなければならない。」という命令規範より「意地悪をしてはいけない。」という禁止規範の方が重要であるということになりました。

 規範の逆転が生じました(ただし、そう考えない人もいます。)。

 A君にとってこの感覚は他人から不当な要求を受けても「意地悪をしてはいけない。」という意識の方が強く作用するので不当な要求を拒否できなくなります。

 イジメ被害の始まりです。

(つづく)

「みんな仲良くしましょう。」はいじめの原因!?(6)

2019年09月03日 23時58分23秒 | 日記

(unfairとは)
 一時期、貿易関係の報道で「不公正貿易」云々(「ウンヌン」です。「デンデン」ではありません。)ということが言われたことがあります。

 元の言葉は unfair trading です。

 貿易なのですから売ったものには代金を支払い、代金を支払って品物を買っているのですから代金の不払いや粗悪な物を引き渡さない限り「不公正」などと非難される理由は無いはずです。

 貿易とはいえ結局は商品取引なのですから。

 しかし、二国間、多国間の間ではそう簡単に割り切れるものではないようです。

 また、そもそも商品取引自体、実は買い手がいなければ成り立たない仕組みであることは誰でもわかることです。

 一方的な輸出によって輸出国が極端に黒字になれば、長期的に眺めれば赤字国は財力を弱め、結局、上記黒字国から物を買えなくなってしまい、この黒字国も在庫ばかりが山となり不景気となるでしょう。

 つまり健全な貿易関係、国内でいえば健全な商品流通と貨幣の流通が無ければ経済は破綻するのです。

 したがって、このような流通を阻害するような、いわば「一人勝ち」のような貿易関係になった場合、これが unfair trading と呼ばれるのですね。

 つまり「あんたの商売の仕方は汚いよ」って感じですか。

 実感としてお分かりいただけましたか。

 justice とか正義とか言ってもそんなに難しいものではありません。

 そしてこういう概念を法の中に取り込むことで弱者や社会で割を食っている人を救済できる法の仕組ができて行くのですね。

 これを別の文字列で表すとrule of lawとか rule of justice となります。

 justice が政治と統治の原理として現れると rule of law となり、法哲学の原理として現れると rule of justice となると考えると分かりやすいかもしれません。

 もっとも、現実社会でこれが実現している国は無いでしょう。

 だからjusticeが声高に主張されるのです。

(つづく)