退屈男の愚痴三昧

愚考卑見をさらしてまいります。
ご笑覧あれば大変有り難く存じます。

「みんな仲良くしましょう。」はいじめの原因!?(6)

2019年09月03日 23時58分23秒 | 日記

(unfairとは)
 一時期、貿易関係の報道で「不公正貿易」云々(「ウンヌン」です。「デンデン」ではありません。)ということが言われたことがあります。

 元の言葉は unfair trading です。

 貿易なのですから売ったものには代金を支払い、代金を支払って品物を買っているのですから代金の不払いや粗悪な物を引き渡さない限り「不公正」などと非難される理由は無いはずです。

 貿易とはいえ結局は商品取引なのですから。

 しかし、二国間、多国間の間ではそう簡単に割り切れるものではないようです。

 また、そもそも商品取引自体、実は買い手がいなければ成り立たない仕組みであることは誰でもわかることです。

 一方的な輸出によって輸出国が極端に黒字になれば、長期的に眺めれば赤字国は財力を弱め、結局、上記黒字国から物を買えなくなってしまい、この黒字国も在庫ばかりが山となり不景気となるでしょう。

 つまり健全な貿易関係、国内でいえば健全な商品流通と貨幣の流通が無ければ経済は破綻するのです。

 したがって、このような流通を阻害するような、いわば「一人勝ち」のような貿易関係になった場合、これが unfair trading と呼ばれるのですね。

 つまり「あんたの商売の仕方は汚いよ」って感じですか。

 実感としてお分かりいただけましたか。

 justice とか正義とか言ってもそんなに難しいものではありません。

 そしてこういう概念を法の中に取り込むことで弱者や社会で割を食っている人を救済できる法の仕組ができて行くのですね。

 これを別の文字列で表すとrule of lawとか rule of justice となります。

 justice が政治と統治の原理として現れると rule of law となり、法哲学の原理として現れると rule of justice となると考えると分かりやすいかもしれません。

 もっとも、現実社会でこれが実現している国は無いでしょう。

 だからjusticeが声高に主張されるのです。

(つづく)

「みんな仲良くしましょう。」はいじめの原因!?(5)

2019年09月03日 23時25分00秒 | 日記

 justice に関して研究が盛んで一定の共通理解が形成されている国の代表は米国ですね。

 中でも John Rawls の A Theory of Justice(1971)は justice に関する代表的なテキストのひとつだとされています。

 もとより、ここで本書を詳細に紹介することはできません(訳本として「正義論」(2010年)(紀伊国屋書店)が出ていますので是非ご一読ください。)が、私が通読して得た認識を極々簡単に文字化すれば「正直者が馬鹿を見ない仕組(状態、制度)」と言ってよいかと愚考しております。

 我が国では「自由や平等が大切である。」としばしば言われます。

 そしてさらに教育の場では「親切」だとか「愛情」だとか「思いやり」などという、いわば道徳や倫理の領域に属する言葉が頻繁に使われます。

 もちろんこれらは重要です。

 しかし、小学校や中学校、そして高校でも、種々の科目の中で自由や平等や平和について学ぶ機会は多く提供されているようですが「正義(=justice)」について学ぶ機会は多くないようです。

 しかし、この justice こそが種々の難しい問題を解決する際に必要となる決定的な物差しであることを認識すべきだと思います。

 法学では「正義、自由、平等」という順番で法概念を紹介しますが、この順序は気まぐれではなく原理として重要なものから並べているのです。

 正義が実現されていない社会で自由や平等を強調すると弱者が排除され、弱者が不利益をこうむり、弱者が虐げられます。

 John Rawls は同書のなかに「justice as fairness」という章を置き fairness との関係について詳論しています。

 fairness は日本語では公正と訳されますが、その概念内容は若干不明瞭なままにされているようです。

 私は、訳語は公正でも構いませんがその内容を実感として理解するひとつの方法として fair の反対語である unfair の意味からご案内しています。

 unfair とはどんな内容でしたでしょうか。

 「不公正」ですか。
 
 fair に un が付いたのですから「公正」に「不」をつけて「不公正」とすれば単語のテストならば正解です。

 しかし、これでは概念内容は分かりませんね。

 unfair とは「やり方が汚い」という内容(≠訳)だと私は習いました。


(つづく)

「みんな仲良くしましょう。」はいじめの原因!?(4)

2019年09月03日 17時36分59秒 | 日記


 イジメ自殺で記者会見に応じる学校関係者が、「イジメがあったとは承知していない。」とか「イジメがあったとは認識していない。」として「知らなかった」と応答する場面をテレビでしばしば見ます。

 しかし、あながち「逃げ」ではないのかもしれないなと思えるときもあるのです。

 上記の「消しゴム貸して事件」は特異ではなく頻繁に起きそうな気がします。

 そして、Bさんだけで止まればA君が自殺するなどという悲劇には至らないかもしれません。

 しかし、上記の「消しゴム貸して事件」よりも悲惨な状況が生じた場合、A君はさらに深刻な選択を迫られるのではないでしょうか。

 しかし、学校関係者、とりわけ先生には事態の出発点が見え難いのかもしれません。

(justiceの視点から眺める「消しゴム貸して事件」)
 さて、ところで、この「消しゴム貸して事件」ではもう一つ、法学の大原理であるjusticeの問題が提起されているのです。次にこの問題について簡単にご案内いたしましょう。

 justiceを日本語で正義と訳しているのは周知のとおりですが、ここではjusticeの文字のままご案内したいと思います。

 その為にはjusticeと正義の違いについてお示ししておく必要があるでしょう。

 我が国では一部の専門家を除くと、justiceの概念を口にする人は少ないようです。

 ましてや正義を話題にする学者も多くは無く、学者の中にも正義を話題にすると、「世界観によって正義の内容も変わるから」と言って「正義(=justice)」を法学の基礎とすることに懐疑的な人もいます。

 justiceが正義という日本語になると概念内容が曖昧なものだとされる傾向があります。

 したがって、私はこの種の議論に入るときは「正義」という文字列ではなくjusticeを用いることにしています。

 「正義(=justice)」を法学の基礎とすることに懐疑的な人がいるとはいえ、日本国憲法の思想的かつ理論的背景にAnglo-American Legal System(英米法系)という法体系があることに争いはないでしょう

 そしてjusticeはこの法体系の中核となる概念だとされています。

(つづく)

「みんな仲良くしましょう。」はいじめの原因!?(3)

2019年09月03日 13時57分56秒 | 日記
 困難な状況に置かれたA君ですが、「みなさん仲良くしましょうね。」という先生の絶対的命令があるのでCさんとも仲良くしなければならないとA君は考えます。

 したがって、次にCさんから消しゴムの借用依頼があったときのためにA君はCさんに貸すために消しゴムを準備することになります。

 ここにA君が将来凄惨なイジメにあう萌芽があることに皆さまは気付かれますか。

 この時点でA君は今後借りに来るかもしれないD、E、F、Gのことも考えておかなければならなくなります。

 このときの貸し借りの対象は消しゴムです。

 しかし、多少年齢が上がり、児童や生徒が必要とする物に変化が生じるとA君に誰かが借りに来るものも変化します。

 消しゴムが鉛筆に変化し、それがノートに変化するかもしれません。

 このような変化が始まるとその後はA君から借りられそうなものならば何でも、誰でもA君に借りに来ることになります。

 いま「誰でも」という表現をしましたが理由はお分かりですね。

 Cさんがノート(例えば、リーフ紙一枚)をA君から借りたとします。

 そうすると他の人もA君に言えばノート(前同)を貸してくれると感じます。

 そうして、次にDさんがノートを借りに行ったとき万一A君が拒否するとDさんは何と言うでしょうか。

 「Cさんに貸してあげたのになぜ私には貸してくれないの。不公平だ。」とA君に詰め寄るかもしれません。

 A君はもはや誰に対しても要求された物を貸さなければならない立場に置かれてしまったのです。

 すでにお気付きの人もいるでしょう。

 A君はそれほど遠くない時期に「お金を貸してくれないか。」という依頼を受けることになります。

 そのようにして多額の金銭を集団から要求されるという事態も容易に想起できるでしょう。

 A君に起きたこの一連の出来事は先生の「A君、意地悪をしないで貸してあげなさい。Bさんが困っているのだから。」という発言に端を発しているのです。」

 「飛躍がある」とお考えですか。

 私はそうは考えません。

(つづく)