たろ,はな&もみじの散歩道

たろはなもみじの愛犬日記。プリザーブドフラワー!旅グルメ、オータカラヅカ!アロマ!我が街湯島界隈!

はなの初ワンピース

2005年05月29日 | たろとはな(遊びに来てね!)
はなには、似合わないような気がして、今までワンピースという
可愛いお洋服を着せたことがなかったのですが、
公園のお友達の勧めで、ワンピースを着せてみました
似合ってますか?

なんだか、ちょっと色っぽくなったような気がします
「はな可愛い!!」と一番喜んだのはパパですが。。。
本人もご満悦

他にも2点、赤のチェックとピンクの花柄のワンピースを、
ヤフオクで購入しました
もちろん、たろにもおニューを2枚購入しましたが
洋服の苦手なたろは、全然喜んでいません


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ローズを使った夏のハーブティー

2005年05月28日 | アロマテラピー
女性の大敵、冷え性に効くハーブティーをブレンドしました
暑い夏ももうすぐですね
私達女性は知らぬ間に、強い冷房で身体を冷やしています
冷えは万病の元とも言いますから、気をつけたいですね。

私は暑がりで冷房をガンガン効かせてしまいますが、そんな人にも是非、
お薦めしたいのがローズのブレンドティーです

バラは花の部分をハーブティーに使います。
バラのハーブ自体にもホルモンバランスを整え、血の巡りをよくしたり、
精神のバランスを整える働きがありますから、まさに女性の味方です

<冷えと整理痛の緩和ブレンド>

ローズ:大さじ2、ラズベリーリーフ:大さじ2、カモミール:大さじ1
ネトル:大さじ1

上品でほのかに甘い香りが、とても飲み易いハーブティーですので
是非、試してみてください
ブレンドしたハーブ、小さじ一杯が、ティーカップ一杯分のお茶の目安です

効能

ローズ:神経過敏、抑うつ、精神不安、情緒不安(鎮静、緩和、収れん)
ラズベリーリーフ: 月経前緊張症、月経痛、貧血(子宮筋、骨盤の調整、収れん)
ネトル:アレルギー、花粉症、貧血、糖尿予防、肥満、関節炎、リウマチ(ビタミン、
          ミネラル豊富、浄血、増血、抗アレルギー、尿酸排泄)
ジャーマンカモミール:消炎、鎮痛、鎮静、保温、発汗(月経前緊張症、不眠、風邪など)

メディカルハーブLESSON

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月組「エリザベート」千秋楽観劇   2005年5月22日

2005年05月23日 | 観劇日記、宝塚、ミュージカル、芝居
劇場の前に着くと、千秋楽のチケットの捌きを待つ人と、彩希直のさよならパレードの、
場所取りのファンで、人が溢れていた。

トップスターのさよなら公演千秋楽には前楽の夜の部と共に通常の出し物の他に
サヨナラショーが行われる。ファンにとってはスターの最後の舞台の見納めだ

座席に着くと、サヨナラショーに使うペンライトが、座席の背もたれに張られている。
中にはファンクラブからのメッセージがあり、どの場面でペンライトを振るかという
注意書きが入っている。ペンライトは劇団が用意するのではなく、退団するトップスター
の会(ファンクラブ)が用意をするのだ。しかも全席分だから3000個位になるだろうか。

満員の客席の興奮の中、いよいよ千秋楽の幕が上がった。
舞台はいつも以上に熱が入り、客席にも熱いものが伝わってくる

良い作品は何度観ても飽きない。「エリザベート」の世界にいつの間にか入り込んでいた。
特に宝塚の舞台は日を追うごとに良くなっていく。観る座席によっても新しい発見がある。
今回は2階席の6列やや下手で観劇した。舞台全体が見えるのが嬉しく新鮮だ。

黒天使の凝ったフォーメーションが、美しく見事に揃っている
歌もダンスもプロフェッショナルだと感じさせてくれる場面がいくつかある。
今回新しく「ミルク」の場面の演出が変わり、市民が銀橋に出てきて歌う場面は、迫力も
あり感動する。歌い終わったあとの客席からの拍手もすごい

7日以来の観劇だが、心配されたトートの声も喉が少し疲れている感じはするが、
エリザベート共にしっかり声も出ている

今回、意外性がファンに大きなショックを与えたのが瀬奈じゅん「エリザベート」だ。
少々男役の荒っぽさが、たまに出ることは仕方ないことだが、それもシシィのと時は
それが却ってお転婆娘らしく面白い。
しかしエリザベート役の瀬奈じゅんが「私だけに」を始め、男役があの高音部を歌い
こなせるかという心配を、払拭してくれたことは、ほんとにすごいと思った

しかし、やはり「エリザベート」は娘役にやって欲しい。特に繊細さを要するこの役は
ちょっとしたところで、男役が出てしまっては繊細さが欠けてしまう。
もう一度、花總まりの「エリザベート」が観たくなった

またこの舞台の重要な役でもあるルキーニの出来は最高だ。作品の狂言回しでもある
霧矢大夢のルキーニの名演技が、舞台の要所要所を引き締め、盛り上げていた
またヨーゼフ役のベテラン初風緑も見事な歌唱力で舞台を盛り上げた。

大拍手と共に千秋楽「エリザベート」の幕が下りた。

早速組長の、夏河ゆらさんが登場する。私も大好きなゆらさんのお喋りにはいつも
感心させられる。ほんとに頭の良い方だと思う。
まずは今後のスケジュールのお知らせ。退団生徒の紹介。

そして準備が出来たところでいよいよサヨナラショーの幕が開いた
ペンライトの用意をしなければと、うっかりしていて焦ってしまう

「ベルサイユのばら」のオスカル愛の巡礼」を歌いながらの登場。面白かったのは、
過去に役替わりで出演した「ベルサイユのばら」のオスカルとアンドレがひとつに
合成された映像がスクリーンに映し出される。ただ、時間がないのだろう。トートの
メイクのオスカルとアンドレは少し怖い。が彩輝の2役に観客からは歓声が起きた。
思い出の舞台の衣装で10曲近く披露されたと思う。

長髪に黒燕尾で階段を下りてきた男役の瀬奈じゅんに大拍手!やっと男に戻れて
ほっとしたようなあさこちゃんでした

いよいよ緑の袴でのご挨拶。お別れの時が来てファンには辛い瞬間だ
あちこちから、すすり泣きの声が聞こえる

彩希の涙もなく、さっぱりとした挨拶がすがすがしく感じられた。
近頃のさよなら公演では、退団者の涙が殆ど見られなくなった。
結婚退団する人も少なく、外部で活躍する人が増えてきたが、彩希も同じく
次のお仕事も決まっているようだ。

「すみれの花咲く頃」を歌い幕が閉じたと思ったが、なんとカーテンコールが
延々と続き8回はあったかと思う。そしてスタンディングオベイション
舞台と客席が一つになって盛り上がる最高のひと時であった

劇場の外は雨の中ファンが大勢集まり、最後のパレードを一目見ようとする
ファン達で一杯だ。私は千秋楽の感動を胸に、劇場を後にした。

瀬奈じゅんトップの新生月組に期待し、これからも良い作品にめぐり合えることを
願わずにはいられない

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心療内科を選ぶ(3)  (PDと共に生きて)

2005年05月21日 | PDパニック障害の克服
  私の選んだ心療内科です。今もし医者選びに迷っている方、 
  参考になれば幸いです。信頼のおけるクリニックです。



「医療法人和楽会 心療内科・神経科 赤坂クリニック」
  
    医療法人和楽会 ホームページ
  スタッフ紹介(01)
  設立趣旨

「大塚・栄一クリニック(内科、心療内科、口腔心療科」  

  大塚・栄一クリニック ホームページ
  院長プロフィール


「LCCストレス医学研究所(心療内科・原宿駅前クリニック」 

  城南地区:渋谷区
  桂戴作 作品一覧: 紀伊國屋書店BookWeb


「日本大学医学部付属板橋病院 心療内科」
 
  日本大学医学部附属板橋病院 ホームページ
  日本大学医学部附属板橋病院-一般用

「児島クリニック 一般内科・心療内科」
  児島クリニック

不安・恐怖症―パニック障害の克服

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パニック障害

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パニック障害の精神病理学

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心療内科を選ぶ(2) (PDと共に生きて)

2005年05月21日 | PDパニック障害の克服
当時日大病院は、現・日本心療内科学会理事長で心療内科の第一人者でもある
桂 戴作氏が教授を務め、心療内科医長でもあった。その桂教授のクリニックが神田に
できることになり、私は家も会社も近いので、そちらのクリニックに移ることにした。
そして一年あまりで、そのクリニックは原宿に移転した。

それが現在、心療内科で有名な「LCCストレス医学研究所・原宿駅前クリニック」だ。
私は十数年の間で池袋、神田、原宿、とすがる様な気持ちで先生を追いかけた。

私はそこで、内田栄一医師と出会った。私はこんな先生を待っていたのだとパニック発作を
起こしてから初めて私は心開ける信頼できる医師と出会った。
一人一人に時間などそっちのけで、熱心に関わってくれる、私には救いの神様、
お医者様だった。

ここで初めて、私は内田医師に「パニック障害」と診断された。そして「Nさんは現代病の
最先端をいっていたんだね。今だったら良い薬もあるし、すぐ良くなったのに、長い時間
かかってこじらせちゃったんだね。」と言われた。

私は病名を告げられた安心感と、今度こそ治るんだという先生の言葉に、
今迄の苦しみが込み上げて堰を切った様にまたまた涙を流したのだった。

私は内田先生には何でも話し、プライベートな事もすべてさらけ出していた。

結局8年通った日大病院でも「パニック障害」と言う事は一度も告げられず
この様な病名はまだ無かったのか知らなかったのか?どちらかというと
不安神経症と診られていたようにも思うが、色々な治療が効果無しだったのは
明らかだった。

この頃ようやく世間で「パニック障害」という言葉が聞かれ始めた。
私はこの頃読んでいた女性誌の「コスモポリタン」でアメリカでは1000万人の
患者がいる「パニック障害」と題して載せられているのを見て、これって私の
症状にピッタリ!と思い、内田医師に病名を告げられた時、改めて納得したのだった。


大きなイベントの前には必ず内田医師に相談に行った。特に海外旅行の前は、先生に
診察してもらうというより、会いに行くというほうが正しいかもしれない。
先生に勇気と励ましの言葉をもらうだけで、私は思い切って海外旅行に行くことも
可能になった。今では海外旅行大好き!飛行機大好き!ほんとに昔の自分が嘘の様だ。

しかし二年あまりで今度は内田医師も開業することになる。「大塚・栄一クリニック」と
言ってJR大塚駅のすぐ近くだった。少し不便ではあるが、もちろん私もそちらの
クリニックに移った。後でわかったことだが、年齢も私と同い年で、今から10年程前に
なるが、診察にすでにパソコンを使っていて、先端の精神医学を勉強されていた。

相変わらずの熱心な診察で、予約制ではあったが一人に一時間は普通だった。
内田医師の視野の広さにはいつも感心させられた。現代の大企業のサラリーマン
事情や会社体制のことなど、実に精通されていて先生の話には信憑性があり
素直に耳を傾けていた。で話し込んで気がつくと1時間は軽く過ぎていた。

しかし思いも掛けないショックな出来事が襲った。内田医師が過労で倒れたのだ。

詳しくは看護士の方も教えてはくれなかったが、病状は重い様で、長期の入院に
なるようだった。その時臨時の医者がきたが、とても問題外の医者で話にならなかった。
その年私は結婚と同時に夫の転勤が重なった。地方都市ではあったが知らない土地での
通院が不安だった。そこで看護師の方に内田先生の知っているいる先生がいたら
紹介してほしい旨お願いをした。

先生は親切にも病床から私の住む土地の先生を紹介して下さった。
2度ほど車を運転して1時間かかる紹介された総合病院に通ったが、やはり
医師との相性は大切だと感じた。私は駄目だと直感した。

私はインターネットで自分で探すことにした。
そして運良く貝谷医師のいるクリニックをみつけた。私は貝谷医師の書いた本を何冊か
読んでいたので、同じ土地に先生がいることを知り嬉しくなった。しかもパニック障害
専門のクリニックでもあった。その上、東京の赤坂にも先生のクリニックがあったのだ。

心療内科に詳しい人なら知っている人も多いと思うが「 医療法人和楽会・心療内科・神経科
貝谷クリニック」の元院長で現在は理事長だ。赤坂、横浜にも同じクリニックがある。

私はその「貝谷クリニック」に通い、東京に戻ってから赤坂クリニックに通い、
今日まで5年の月日が流れた。同病院はパニック障害の患者さんが多く、最近は
特に男性患者も増えてきている。研究も熱心にされていて、診察以外のケアにも
力を入れていて、講演会、行動療法やお香、季刊誌、PDを持っている人には辛い
歯科医の紹介などもしてくれる。

ここではSSRI(パキシルなど)が認可されると、すぐに処方されるようになった。
これは特効薬とも言われ、私もこの薬のおかげでずっと発作がおさまっている。
通院も月に一度行けば良いので、昔の自分を思うと今が嘘の様でもある。
今苦しんでいる人も必ず良くなるので、焦らずに病気と付き合って行って欲しいと思う。

現在は心身医療無認可の医師が心療内科の看板を掲げているところもある。
なぜなら、ストレス社会というだけに、心療内科というだけで患者が増えるという。
適当に話を聞いて、良く使われる安定剤を出すだけだ。つまり儲かるのだ。
特に年寄りがやっている、開業医は注意した方が良い。
医者選びだけは慎重に調べた方が良いと思う。病気の治癒に大きく影響してくるからだ。

そして今、私はまた内田医師に「大塚・栄一クリニック」に移ろうかと考えている。
やはり、自分と相性の良い医師に診てもらうのが、何よりも病気が良くなる最善の
方法だと思う。当時から、漢方の勉強もされていて、現在はアロマセラピストも常勤
として置いている。何事も先端をいく先生だ。

「大塚・栄一クリニック(内科、心療内科、口腔心療科」  

  大塚・栄一クリニック ホームページ
  院長プロフィール


私はこうして20年に渡り、心療内科と付き合ってきた。
そして自分に最も適した医者を見つけることもできた。

うつの状態での決断は禁物と良く言われるが、学校、会社、就職、結婚など、大きな
問題が人生にはついてくるが、ホントに悪い状態での決断は、よく考えて、信頼の
できる心療内科の医師にまず、相談することが良いと思う。
私は結局20年間会社生活を続け、結婚を機に退職し今日に至っている。
心療内科歴20年でもある。

この病気は人にもよるが、完治したら何よりだが、完治しなくても、付き合い方しだいで
充分普通の生活ができる。PDになってしまったら、それを受け入れるしか仕方ない。
でも早く治す一番の方法は、良い医者をみつける事だと思う。10人い一人がPDと言われ,
アメリカでは1000万人を超えるという。ほんとに今は特効薬ももあるので、焦らずに
ゆっくり、この病気と付き合っていって欲しいと思う。

つづく。。。

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心療内科を選ぶ(1) (PDと共に生きて)

2005年05月21日 | PDパニック障害の克服
児島医師(日大板橋病院)とはそれから、8年ほどの付き合いとなった。
診断は、特に病名は付けず、不安感とうつ傾向とのこだった。
患者の事を考えて、この医者はあえて病名は付けないのかなと、自分なりに
理解していた。

最初は週に一度、少し安定してからは2週間に一度となった。診察は予約制で午前中に
病院に寄ってから会社に向かう日々が続いた。家から池袋駅まで約30分、バスに乗り
換えて20分は結構負担だったが、上司に理解があり、会社にも、持病の治療があるから
と伝え、特に何も聞かず、大目に見てくれていた。

初めて診察を受けた日から、抗不安薬と抗うつ剤が処方された。
その効果はてき面で、胃の不快感を取り除き、全身を覆っていた不安感からも解放され、
自分が肉体的にも精神的にも、元気が取り戻されて行くことが実感できた。
その頃から、以前からやっていたテニス、スキーやダンスや日舞の稽古も再開した。
「やってみたいと思ったら、薬を多めに服用してもいいから、思い切ってやったほうが
いいよ。」と言われ、不安だった泊りがけのテニスやスキーの旅行にも出掛けた。

予期不安という言葉がパニック障害にはつきものだが、何事もなく、テニスやスキーに
行って来れても、一回出来たからもう大丈夫ではないのが、この病気のやっかいなところだ。
毎回が勇気あるチャレンジなのだ。一度起きたパニック発作で、自分は死ぬのではないかと
思い、苦しさや不安や恐怖が、身体に染み付いていて、また発作が起きるのではないだろうか
という不安が、いつも着いて回るのだ。特に初めて起きた場所や同じ状態の所は鬼門だ。

初めての発作から10年あまりがたった。この頃には発作の起きる回数も減ってきたが、
日大での治療の成果もあり、時々起きることには変わらなかった。
この時々起こるというのが、いつも不安から逃れられず、知らず知らずに、うつに移行して
いくというのが、PDとうつが密接に関係している、一つの原因とも言える。
私はその頃には最初の発作の地下鉄にも乗れるようになり(発作は時々あったが)身内と
だったら、新幹線も乗ることが可能になった。また、ラッキーな事に自分の会社までの
地下鉄区間が2つというのも、長く会社を続けられた大きな要因でもある。

問題は飛行機だった。勇気を振り絞り、3時間で到着するサイパンへ妹と旅行をした。
何が嫌かというと、飛行機の密室に閉じ込められるのが怖かった。発作が起きても
外には出られない。緊張の為前日から胃の調子が悪くなり、胃薬を飲み、病院の薬は
胃にに悪いと思い、薬をあえて飲まなかったのだ。それが間違いの始まりだった。

暑いサイパンでは不安感が襲ってきて、海がキレイだなどと言ってる場合ではない。
私は殆どホテルの部屋にいることになる。じっとしていても動悸が激しく、発作を
起こしていまった。まったく食欲がないので、日系のホテルのレストランで3,000円もする、
お素麺を食べていた。早く帰りたい、そればかり考えていた。

妹にはほんとに悪いことをした。でも妹は私の状態をわかってくれていたので、とても
ありがたかった。他人とは迷惑をかけるから、旅行はできないと思った。
帰る日になって、私は病院の薬を思い切って飲んだ。そしたら、どうだろう、胃の不快感が
なくなったのだ。徐々に不安感もなくなり、笑顔が戻っていた。胃は病気で調子が悪い
のではなく、不安と緊張によるものだったのだ。帰りは普通に飛行機に乗って帰る事が
できた。その翌年はやはり不安はあったが、弟とシンガポールに旅行したが、何事もなく楽しめた。

20代から30代前半に渡り何をするにもパニック発作と隣あわせで生きてきた。
恋愛、結婚のこと、仕事のこと本当に沢山の出来事があったが、とても書ききれないので
ここでは触れないことにする。

この頃には、心療内科が世の中にも広がり、患者数がグッと増えていつも待たされるように
なっていた。大学病院では一人一人に掛ける時間にも限界があった。この頃になると
「如何ですか」と聞かれても「相変わらずです」がお決まりの答えになっていた。
先生も診察時間を減らし、その分臨床心理士に任せる事が多くなった。
カウンセリング、自律訓練法、腹式呼吸の練習、箱庭療法などなど、正直,全く
私には役に立っていなかった。

そんな頃、8年あまりお世話になった児島医師が開業することになり、日大病院を辞めることとなった。

つづく。。。



お茶犬 あと一匹。。。!

2005年05月20日 | 我が家のトピックス
我が家のマイブーム??です
伊藤園から発売中の「お~いお茶・新茶」に付いている、
陶器のマスコットお茶犬とお茶猫です
陶器の重みがあって、ちょっとダックス似で色もとっても可愛いですよ!!

写真の左から名前が紅茶犬<アール>、緑茶犬<リョク>ハーブ茶犬<ハナ>、
紅茶犬<チャイ>と後ろのお茶猫はさくら茶<サクラ>です

お茶犬は全部で5色があるのですが、烏龍茶犬の<ロン>が見つからず、ここまで
きたら何としてでもと、毎日夫が、コンビニやドンキに足を運んでいます
飲んだお茶はすでに12本
アールばかりが5匹も集まってしまいました

(ちなみに猫好きの方にはサクラ猫の他にラベンダー茶猫<ラン>と
ジャスミン茶猫の(ミン)があります)

そしてもう一つのお楽しみ景品は、「バカラ」オリジナルの「クリスタルお茶犬」
が3,000名に当たります これは是非ゲットしたいです

応募券5枚一口で応募できます応募締め切りは6月17日です。
夫はヘルシア緑茶、私は濃い味のファンですが、たろに似ている、ロンが見つかるまで、
「お~いお茶・新茶」で頑張ります

ワンコ好きな方、一緒にトライしてみませんか

(ちなみに陶器のマスコットは中国の有名名窯の「景徳鎮」と並ぶ名窯「徳化窯」で
作られたものだそうですよ)

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心療内科との出会い(2) (PDと共に生きて)

2005年05月13日 | PDパニック障害の克服
動悸がして朝早く目が覚めるのも、胃の調子が悪いのも、過敏性大腸炎も、それが鬱病に
罹っている症状だという事にも、勿論気が付かなかった。神経科とか精神科とか、自分には
全く縁の無い世界だと、この時も思っていた。こんなに苦しいのだから、心臓が悪いに
違いないと、私は医学書を読みあさり、専門医にもかかったが、特に心臓に異常は見られ
なかった。

私は何とか、会社は続けていた。勿論地下鉄には怖くて乗れないので、毎日タクシーで通勤を
していた。タクシーなら、地下鉄の様な圧迫感はないし、降りたいときに降りることが
出来るし、発作が起きてもすぐ病院に連れて行ってもらえるからだ。
会社での仕事は輸入実務だったが、比較的自分のペースで仕事ができることが、私の病気に
とってラッキーだった。発作が起きそうになると、私は一人になれるトイレに行くか、
エレベーターに乗って会社の診療所の待合室に座り、発作が治まるのを我慢した。
人には決して見られたくなかったし、知られたくなかった。

辛くて、何度会社を辞めようと思ったか知れない。でも会社を辞める勇気も無かった。
何故かというと、会社を辞めたら、私はこの獲たいの知れない、やっかいな病気とだけ、
いつも付き合うことになるのだと考えたら、とても恐ろしくなった。

そうこうしているうちに、3年が過ぎた。
たまたま有休を取り会社を休んでいる日に、父が仕事の出先から戻り、胸が苦しくて
背中が痛いと倒れこむように、横になった。出先の近くの医者に診てもらったら、狭心症
だから、静かに休むように言われたという。でも私は心筋梗塞に違いないと直感した。
父は戸惑ったが、私はすぐに救急車を呼んで、救急病院に運んでもらった。

その頃、故石原裕次郎が胸部大動脈瘤で騒がれたり、故大平首相が心筋梗塞で亡くなったりと
世の中が騒がれた頃でもあったと思う。その頃私が医学書から得た知識はかなりのものに
なっていたと思う。

案の定、父の病気は、重篤な心筋梗塞と診断された。次に大きな発作が起きたら大変危険だと
告げられた。いい加減な診断をした町医者に怒りが込み上げた。

主治医に身内の人を呼んだ方が良いと言われ、あなたはお父さんの側をなるべく離れない
様にとのことであったが、まず電話をしなければと、東京にいる一番近くに住む叔母に連絡を
取り、震える手でN証券に勤める妹に電話をした。一番気丈な妹だが電話の向こうで泣いて
いるのがわかった。弟は学生で、その後誰かが連絡を取ってくれたのだろう。

長野の本宅に帰っていた母には、叔母から連絡を取ってもらった。何しろ、私は側を離れては
いけないという、医師の指示だった。その頃はまだ長野新幹線が通っておらず、上野まで3時間
を要した。母がくるまでは、何事も無くあってほしいと祈った。意識もあり普通に喋っている
父が危ないと言われても私にはピンと来ないし、夢の中の出来事のように感じていた。

皆が到着するまで、父の不安を取るように話しかけ、背中や、足をさすり続け、せめて母が
来るまでは父の発作が起きないで欲しいと祈り続けた。こういう時に自分の発作が起きないこと
が不思議だった。叔母夫婦と妹が駆けつけ、数時間後母が泣きながら駆けつけた。
親戚や父の友人、滅多に会うことのない親戚まで駆けつけたので、父はオヤッと思った様だ。

今晩が山でしょうと言われた一日目、何とか山を乗り越えた。そして3日目の山を乗り越え、
一週間目の山を無事に乗り越えた。私たち兄弟と母は病院に付き添い一週間寝ずの看病を
続けた。当時は今の様なICUのある病院も少なかった。この救急病院も内科的治療しか
せず、私は不安だった。もっと設備の整った、最先端の治療の出来る病院で治療したいと
言うのが、家族の希望だった。

そんな時、同郷でもあり、父の高校時代の先輩が日大板橋病院の心臓外科の教授をしている
ことがわかり、話はスムーズに進み、池袋の日大板橋病院へ転院した。先輩の瀬在教授は
日本で始めて、心臓のバイパス手術をした名医でもあった。石原裕次郎の慶応病院での手術の
際も執刀グループのメンバーの一人だった。父はカテーテル検査を受けたところ、やはり
冠動脈が3本も詰まっていて、バイパス手術を受けることになった。

設備の整った病院で治療をしてもらうだけでも、家族の不安は少なくなった。
一ヵ月後13時間に及ぶ手術は無事に成功し、20年後の今日現在、弟が父の会社を継ぎ
社長となり、父は会長として元気に生涯現役と豪語して頑張っている。

私は日大病院に父に会いに、毎日会社帰りに通っていた。そうこうしていると
この病院に「心療内科」という診療科があることを知った。
さっそく受付で症状を話すと、診察を受けるようにと言われた。
私の番が来て診察室に入った。そこは内科と言っても薬の臭いや、診察器具なども
なく、とても不思議だった。

先生は優しく穏やかな雰囲気の人だった。私は地下鉄で発作を起こしてから、今日までの
苦しかった数年間のいきさつを話した。先生はじっくり私の話に耳を傾けてくれた。
そして「長い間、苦しかったね。辛かったでしょう」と優しく話しかけてくれた。

私はこの言葉にふれ、堰を切ったように、涙が溢れ、先生の前で思い切り泣いた。
私は肩の力が抜け、身体の力も抜け、胃のつかえも取れていくような、久しぶりに
生きた心地を味わい、私はこれで救われるのだという気持ちになっていった。
これが私の「心療内科」、児島医師との出会いだった。

後日つづく。。。


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