たろ,はな&もみじの散歩道

たろはなもみじの愛犬日記。プリザーブドフラワー!旅グルメ、オータカラヅカ!アロマ!我が街湯島界隈!

心療内科を選ぶ(3)  (PDと共に生きて)

2005年05月21日 | PDパニック障害の克服
  私の選んだ心療内科です。今もし医者選びに迷っている方、 
  参考になれば幸いです。信頼のおけるクリニックです。



「医療法人和楽会 心療内科・神経科 赤坂クリニック」
  
    医療法人和楽会 ホームページ
  スタッフ紹介(01)
  設立趣旨

「大塚・栄一クリニック(内科、心療内科、口腔心療科」  

  大塚・栄一クリニック ホームページ
  院長プロフィール


「LCCストレス医学研究所(心療内科・原宿駅前クリニック」 

  城南地区:渋谷区
  桂戴作 作品一覧: 紀伊國屋書店BookWeb


「日本大学医学部付属板橋病院 心療内科」
 
  日本大学医学部附属板橋病院 ホームページ
  日本大学医学部附属板橋病院-一般用

「児島クリニック 一般内科・心療内科」
  児島クリニック

不安・恐怖症―パニック障害の克服

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心療内科を選ぶ(2) (PDと共に生きて)

2005年05月21日 | PDパニック障害の克服
当時日大病院は、現・日本心療内科学会理事長で心療内科の第一人者でもある
桂 戴作氏が教授を務め、心療内科医長でもあった。その桂教授のクリニックが神田に
できることになり、私は家も会社も近いので、そちらのクリニックに移ることにした。
そして一年あまりで、そのクリニックは原宿に移転した。

それが現在、心療内科で有名な「LCCストレス医学研究所・原宿駅前クリニック」だ。
私は十数年の間で池袋、神田、原宿、とすがる様な気持ちで先生を追いかけた。

私はそこで、内田栄一医師と出会った。私はこんな先生を待っていたのだとパニック発作を
起こしてから初めて私は心開ける信頼できる医師と出会った。
一人一人に時間などそっちのけで、熱心に関わってくれる、私には救いの神様、
お医者様だった。

ここで初めて、私は内田医師に「パニック障害」と診断された。そして「Nさんは現代病の
最先端をいっていたんだね。今だったら良い薬もあるし、すぐ良くなったのに、長い時間
かかってこじらせちゃったんだね。」と言われた。

私は病名を告げられた安心感と、今度こそ治るんだという先生の言葉に、
今迄の苦しみが込み上げて堰を切った様にまたまた涙を流したのだった。

私は内田先生には何でも話し、プライベートな事もすべてさらけ出していた。

結局8年通った日大病院でも「パニック障害」と言う事は一度も告げられず
この様な病名はまだ無かったのか知らなかったのか?どちらかというと
不安神経症と診られていたようにも思うが、色々な治療が効果無しだったのは
明らかだった。

この頃ようやく世間で「パニック障害」という言葉が聞かれ始めた。
私はこの頃読んでいた女性誌の「コスモポリタン」でアメリカでは1000万人の
患者がいる「パニック障害」と題して載せられているのを見て、これって私の
症状にピッタリ!と思い、内田医師に病名を告げられた時、改めて納得したのだった。


大きなイベントの前には必ず内田医師に相談に行った。特に海外旅行の前は、先生に
診察してもらうというより、会いに行くというほうが正しいかもしれない。
先生に勇気と励ましの言葉をもらうだけで、私は思い切って海外旅行に行くことも
可能になった。今では海外旅行大好き!飛行機大好き!ほんとに昔の自分が嘘の様だ。

しかし二年あまりで今度は内田医師も開業することになる。「大塚・栄一クリニック」と
言ってJR大塚駅のすぐ近くだった。少し不便ではあるが、もちろん私もそちらの
クリニックに移った。後でわかったことだが、年齢も私と同い年で、今から10年程前に
なるが、診察にすでにパソコンを使っていて、先端の精神医学を勉強されていた。

相変わらずの熱心な診察で、予約制ではあったが一人に一時間は普通だった。
内田医師の視野の広さにはいつも感心させられた。現代の大企業のサラリーマン
事情や会社体制のことなど、実に精通されていて先生の話には信憑性があり
素直に耳を傾けていた。で話し込んで気がつくと1時間は軽く過ぎていた。

しかし思いも掛けないショックな出来事が襲った。内田医師が過労で倒れたのだ。

詳しくは看護士の方も教えてはくれなかったが、病状は重い様で、長期の入院に
なるようだった。その時臨時の医者がきたが、とても問題外の医者で話にならなかった。
その年私は結婚と同時に夫の転勤が重なった。地方都市ではあったが知らない土地での
通院が不安だった。そこで看護師の方に内田先生の知っているいる先生がいたら
紹介してほしい旨お願いをした。

先生は親切にも病床から私の住む土地の先生を紹介して下さった。
2度ほど車を運転して1時間かかる紹介された総合病院に通ったが、やはり
医師との相性は大切だと感じた。私は駄目だと直感した。

私はインターネットで自分で探すことにした。
そして運良く貝谷医師のいるクリニックをみつけた。私は貝谷医師の書いた本を何冊か
読んでいたので、同じ土地に先生がいることを知り嬉しくなった。しかもパニック障害
専門のクリニックでもあった。その上、東京の赤坂にも先生のクリニックがあったのだ。

心療内科に詳しい人なら知っている人も多いと思うが「 医療法人和楽会・心療内科・神経科
貝谷クリニック」の元院長で現在は理事長だ。赤坂、横浜にも同じクリニックがある。

私はその「貝谷クリニック」に通い、東京に戻ってから赤坂クリニックに通い、
今日まで5年の月日が流れた。同病院はパニック障害の患者さんが多く、最近は
特に男性患者も増えてきている。研究も熱心にされていて、診察以外のケアにも
力を入れていて、講演会、行動療法やお香、季刊誌、PDを持っている人には辛い
歯科医の紹介などもしてくれる。

ここではSSRI(パキシルなど)が認可されると、すぐに処方されるようになった。
これは特効薬とも言われ、私もこの薬のおかげでずっと発作がおさまっている。
通院も月に一度行けば良いので、昔の自分を思うと今が嘘の様でもある。
今苦しんでいる人も必ず良くなるので、焦らずに病気と付き合って行って欲しいと思う。

現在は心身医療無認可の医師が心療内科の看板を掲げているところもある。
なぜなら、ストレス社会というだけに、心療内科というだけで患者が増えるという。
適当に話を聞いて、良く使われる安定剤を出すだけだ。つまり儲かるのだ。
特に年寄りがやっている、開業医は注意した方が良い。
医者選びだけは慎重に調べた方が良いと思う。病気の治癒に大きく影響してくるからだ。

そして今、私はまた内田医師に「大塚・栄一クリニック」に移ろうかと考えている。
やはり、自分と相性の良い医師に診てもらうのが、何よりも病気が良くなる最善の
方法だと思う。当時から、漢方の勉強もされていて、現在はアロマセラピストも常勤
として置いている。何事も先端をいく先生だ。

「大塚・栄一クリニック(内科、心療内科、口腔心療科」  

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  院長プロフィール


私はこうして20年に渡り、心療内科と付き合ってきた。
そして自分に最も適した医者を見つけることもできた。

うつの状態での決断は禁物と良く言われるが、学校、会社、就職、結婚など、大きな
問題が人生にはついてくるが、ホントに悪い状態での決断は、よく考えて、信頼の
できる心療内科の医師にまず、相談することが良いと思う。
私は結局20年間会社生活を続け、結婚を機に退職し今日に至っている。
心療内科歴20年でもある。

この病気は人にもよるが、完治したら何よりだが、完治しなくても、付き合い方しだいで
充分普通の生活ができる。PDになってしまったら、それを受け入れるしか仕方ない。
でも早く治す一番の方法は、良い医者をみつける事だと思う。10人い一人がPDと言われ,
アメリカでは1000万人を超えるという。ほんとに今は特効薬ももあるので、焦らずに
ゆっくり、この病気と付き合っていって欲しいと思う。

つづく。。。

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心療内科を選ぶ(1) (PDと共に生きて)

2005年05月21日 | PDパニック障害の克服
児島医師(日大板橋病院)とはそれから、8年ほどの付き合いとなった。
診断は、特に病名は付けず、不安感とうつ傾向とのこだった。
患者の事を考えて、この医者はあえて病名は付けないのかなと、自分なりに
理解していた。

最初は週に一度、少し安定してからは2週間に一度となった。診察は予約制で午前中に
病院に寄ってから会社に向かう日々が続いた。家から池袋駅まで約30分、バスに乗り
換えて20分は結構負担だったが、上司に理解があり、会社にも、持病の治療があるから
と伝え、特に何も聞かず、大目に見てくれていた。

初めて診察を受けた日から、抗不安薬と抗うつ剤が処方された。
その効果はてき面で、胃の不快感を取り除き、全身を覆っていた不安感からも解放され、
自分が肉体的にも精神的にも、元気が取り戻されて行くことが実感できた。
その頃から、以前からやっていたテニス、スキーやダンスや日舞の稽古も再開した。
「やってみたいと思ったら、薬を多めに服用してもいいから、思い切ってやったほうが
いいよ。」と言われ、不安だった泊りがけのテニスやスキーの旅行にも出掛けた。

予期不安という言葉がパニック障害にはつきものだが、何事もなく、テニスやスキーに
行って来れても、一回出来たからもう大丈夫ではないのが、この病気のやっかいなところだ。
毎回が勇気あるチャレンジなのだ。一度起きたパニック発作で、自分は死ぬのではないかと
思い、苦しさや不安や恐怖が、身体に染み付いていて、また発作が起きるのではないだろうか
という不安が、いつも着いて回るのだ。特に初めて起きた場所や同じ状態の所は鬼門だ。

初めての発作から10年あまりがたった。この頃には発作の起きる回数も減ってきたが、
日大での治療の成果もあり、時々起きることには変わらなかった。
この時々起こるというのが、いつも不安から逃れられず、知らず知らずに、うつに移行して
いくというのが、PDとうつが密接に関係している、一つの原因とも言える。
私はその頃には最初の発作の地下鉄にも乗れるようになり(発作は時々あったが)身内と
だったら、新幹線も乗ることが可能になった。また、ラッキーな事に自分の会社までの
地下鉄区間が2つというのも、長く会社を続けられた大きな要因でもある。

問題は飛行機だった。勇気を振り絞り、3時間で到着するサイパンへ妹と旅行をした。
何が嫌かというと、飛行機の密室に閉じ込められるのが怖かった。発作が起きても
外には出られない。緊張の為前日から胃の調子が悪くなり、胃薬を飲み、病院の薬は
胃にに悪いと思い、薬をあえて飲まなかったのだ。それが間違いの始まりだった。

暑いサイパンでは不安感が襲ってきて、海がキレイだなどと言ってる場合ではない。
私は殆どホテルの部屋にいることになる。じっとしていても動悸が激しく、発作を
起こしていまった。まったく食欲がないので、日系のホテルのレストランで3,000円もする、
お素麺を食べていた。早く帰りたい、そればかり考えていた。

妹にはほんとに悪いことをした。でも妹は私の状態をわかってくれていたので、とても
ありがたかった。他人とは迷惑をかけるから、旅行はできないと思った。
帰る日になって、私は病院の薬を思い切って飲んだ。そしたら、どうだろう、胃の不快感が
なくなったのだ。徐々に不安感もなくなり、笑顔が戻っていた。胃は病気で調子が悪い
のではなく、不安と緊張によるものだったのだ。帰りは普通に飛行機に乗って帰る事が
できた。その翌年はやはり不安はあったが、弟とシンガポールに旅行したが、何事もなく楽しめた。

20代から30代前半に渡り何をするにもパニック発作と隣あわせで生きてきた。
恋愛、結婚のこと、仕事のこと本当に沢山の出来事があったが、とても書ききれないので
ここでは触れないことにする。

この頃には、心療内科が世の中にも広がり、患者数がグッと増えていつも待たされるように
なっていた。大学病院では一人一人に掛ける時間にも限界があった。この頃になると
「如何ですか」と聞かれても「相変わらずです」がお決まりの答えになっていた。
先生も診察時間を減らし、その分臨床心理士に任せる事が多くなった。
カウンセリング、自律訓練法、腹式呼吸の練習、箱庭療法などなど、正直,全く
私には役に立っていなかった。

そんな頃、8年あまりお世話になった児島医師が開業することになり、日大病院を辞めることとなった。

つづく。。。