たろ,はな&もみじの散歩道

たろはなもみじの愛犬日記。プリザーブドフラワー!旅グルメ、オータカラヅカ!アロマ!我が街湯島界隈!

心療内科との出会い(2) (PDと共に生きて)

2005年05月13日 | PDパニック障害の克服
動悸がして朝早く目が覚めるのも、胃の調子が悪いのも、過敏性大腸炎も、それが鬱病に
罹っている症状だという事にも、勿論気が付かなかった。神経科とか精神科とか、自分には
全く縁の無い世界だと、この時も思っていた。こんなに苦しいのだから、心臓が悪いに
違いないと、私は医学書を読みあさり、専門医にもかかったが、特に心臓に異常は見られ
なかった。

私は何とか、会社は続けていた。勿論地下鉄には怖くて乗れないので、毎日タクシーで通勤を
していた。タクシーなら、地下鉄の様な圧迫感はないし、降りたいときに降りることが
出来るし、発作が起きてもすぐ病院に連れて行ってもらえるからだ。
会社での仕事は輸入実務だったが、比較的自分のペースで仕事ができることが、私の病気に
とってラッキーだった。発作が起きそうになると、私は一人になれるトイレに行くか、
エレベーターに乗って会社の診療所の待合室に座り、発作が治まるのを我慢した。
人には決して見られたくなかったし、知られたくなかった。

辛くて、何度会社を辞めようと思ったか知れない。でも会社を辞める勇気も無かった。
何故かというと、会社を辞めたら、私はこの獲たいの知れない、やっかいな病気とだけ、
いつも付き合うことになるのだと考えたら、とても恐ろしくなった。

そうこうしているうちに、3年が過ぎた。
たまたま有休を取り会社を休んでいる日に、父が仕事の出先から戻り、胸が苦しくて
背中が痛いと倒れこむように、横になった。出先の近くの医者に診てもらったら、狭心症
だから、静かに休むように言われたという。でも私は心筋梗塞に違いないと直感した。
父は戸惑ったが、私はすぐに救急車を呼んで、救急病院に運んでもらった。

その頃、故石原裕次郎が胸部大動脈瘤で騒がれたり、故大平首相が心筋梗塞で亡くなったりと
世の中が騒がれた頃でもあったと思う。その頃私が医学書から得た知識はかなりのものに
なっていたと思う。

案の定、父の病気は、重篤な心筋梗塞と診断された。次に大きな発作が起きたら大変危険だと
告げられた。いい加減な診断をした町医者に怒りが込み上げた。

主治医に身内の人を呼んだ方が良いと言われ、あなたはお父さんの側をなるべく離れない
様にとのことであったが、まず電話をしなければと、東京にいる一番近くに住む叔母に連絡を
取り、震える手でN証券に勤める妹に電話をした。一番気丈な妹だが電話の向こうで泣いて
いるのがわかった。弟は学生で、その後誰かが連絡を取ってくれたのだろう。

長野の本宅に帰っていた母には、叔母から連絡を取ってもらった。何しろ、私は側を離れては
いけないという、医師の指示だった。その頃はまだ長野新幹線が通っておらず、上野まで3時間
を要した。母がくるまでは、何事も無くあってほしいと祈った。意識もあり普通に喋っている
父が危ないと言われても私にはピンと来ないし、夢の中の出来事のように感じていた。

皆が到着するまで、父の不安を取るように話しかけ、背中や、足をさすり続け、せめて母が
来るまでは父の発作が起きないで欲しいと祈り続けた。こういう時に自分の発作が起きないこと
が不思議だった。叔母夫婦と妹が駆けつけ、数時間後母が泣きながら駆けつけた。
親戚や父の友人、滅多に会うことのない親戚まで駆けつけたので、父はオヤッと思った様だ。

今晩が山でしょうと言われた一日目、何とか山を乗り越えた。そして3日目の山を乗り越え、
一週間目の山を無事に乗り越えた。私たち兄弟と母は病院に付き添い一週間寝ずの看病を
続けた。当時は今の様なICUのある病院も少なかった。この救急病院も内科的治療しか
せず、私は不安だった。もっと設備の整った、最先端の治療の出来る病院で治療したいと
言うのが、家族の希望だった。

そんな時、同郷でもあり、父の高校時代の先輩が日大板橋病院の心臓外科の教授をしている
ことがわかり、話はスムーズに進み、池袋の日大板橋病院へ転院した。先輩の瀬在教授は
日本で始めて、心臓のバイパス手術をした名医でもあった。石原裕次郎の慶応病院での手術の
際も執刀グループのメンバーの一人だった。父はカテーテル検査を受けたところ、やはり
冠動脈が3本も詰まっていて、バイパス手術を受けることになった。

設備の整った病院で治療をしてもらうだけでも、家族の不安は少なくなった。
一ヵ月後13時間に及ぶ手術は無事に成功し、20年後の今日現在、弟が父の会社を継ぎ
社長となり、父は会長として元気に生涯現役と豪語して頑張っている。

私は日大病院に父に会いに、毎日会社帰りに通っていた。そうこうしていると
この病院に「心療内科」という診療科があることを知った。
さっそく受付で症状を話すと、診察を受けるようにと言われた。
私の番が来て診察室に入った。そこは内科と言っても薬の臭いや、診察器具なども
なく、とても不思議だった。

先生は優しく穏やかな雰囲気の人だった。私は地下鉄で発作を起こしてから、今日までの
苦しかった数年間のいきさつを話した。先生はじっくり私の話に耳を傾けてくれた。
そして「長い間、苦しかったね。辛かったでしょう」と優しく話しかけてくれた。

私はこの言葉にふれ、堰を切ったように、涙が溢れ、先生の前で思い切り泣いた。
私は肩の力が抜け、身体の力も抜け、胃のつかえも取れていくような、久しぶりに
生きた心地を味わい、私はこれで救われるのだという気持ちになっていった。
これが私の「心療内科」、児島医師との出会いだった。

後日つづく。。。


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