たろ,はな&もみじの散歩道

たろはなもみじの愛犬日記。プリザーブドフラワー!旅グルメ、オータカラヅカ!アロマ!我が街湯島界隈!

パニック発作をイメージしないトレーニングが治る近道です!!

2008年04月06日 | PDパニック障害の克服
私がブログを書き始めてからいつの間にか3年と2ヶ月もの月日が
経っていました

こんなブログになんと毎日少ない日でも100から多い日は大抵
更新した日ですが、500ものアクセスを頂き、とても嬉しいです
内容があちこちとんでいて、あれもこれもと書いているせいだと
思いますが
広く浅くですが、これからも読んで頂けたら嬉しいです

特に最近多いのがパニック発作へのアクセスです。
やはり現代のストレス社会でこれに罹る人がいかに多いのかを物語って
いると思います

私がパニック発作を絶えず起こしていた時期は、こんな苦しい発作が
治るなんてことあるんだろうかといつも不安に感じていました

でも発作が起きなくなって10年近く経つ今、パニック発作に
苦しむ人に「必ず治ります」とメッセージを送りたいです

発作が度々起きている時はとてもとてもイメージトレーニングなんて
そんな余裕はありません

クリニックによってそれぞれ行われる薬物治療や心理療法などで
発作の回数が減ってきたら、もう治る日も近いと思って下さい

私の場合は10年近く病名が分からず苦しんで折りましたから、慢性化して
たちが悪かったですが、そうでなく、すぐ病名をみつけて貰えた人には
きっとイメージトレーニングは有効かと思います

最近はパニック発作について、テレビでも多く放送される様になりましたが
パニック発作の為に会社を辞めてしまったり、家に引きこもってしまっている
人が多いのにとても驚いています
大抵薬物治療で殆どが治る病気ですから!自分に合う薬が必ずあるはずです。

その方たちはまず医者の選択、クリニックの選択を間違えていると
思いますので、是非私がお勧めしているクリニックを試してみて下さい。
そして相性の良い先生と出会うまで医者を探す事です

私は未だに薬はお守り代わりに手放せないのと、時々鬱になるので
今でも気休めにクリニックにかかっておりますが、昨年まで通っていた
今ではパニック発作専門病院にもなっている赤坂クリニック(貝谷クリニック)
をやめて、大塚の「栄一・クリニック」の内田栄一先生に
変えました

大塚・栄一クリニック

下記参照

心療内科を選ぶ(3  (PDと共に生きて) - たろはなもみじの散歩道

引き込もりにならない為にも、苦しくてもまず今までの生活を変えないで
例えば会社や学校は辞めるなどの、人生が変わるような大きな決断は
しない方がいいですね

地下鉄に乗れなかったら山手線に乗る。電車が駄目だったらタクシーに乗る。
電車は何度も途中下車しました。その時はもうすでに電車恐怖症に
なってしまったので私はタクシー通勤をしました。お給料は交通費に
消えていた時期もありました
お金がかかっても必ず治るのだから、今の生活を維持できるように、自分を
少しでも楽にさせてあげること、そういうところにお金を使うのは長い
目で見て自分の為なんですからね

会社で発作が起きるのは一番嫌でした。皆には内緒にしてますし、
そんな姿は見られたくないのが正直のところ

ですから会社で発作が起きそうになり、やばい来た来たと思ったら
いつも急いで医務室に行き待合室で発作が治まるようにジッと
膝を抱えるようにして下を向いている姿勢でいます。
でも発作が起きてしまったらうともうどうしようもなく苦しいので、
受付に申し出ます。

「息がが出来なくて苦しいので休ませて下さい~」と言い
ベッドに寝かせてもらうのです。
大抵、過呼吸発作と間違われて看護師さんはビニール袋を持ってきて
くれますが。。。(過呼吸には袋はとても有効です!)

「袋なんかでスーハースーハーやってもパニック発作は治らないのよ~
スーハースーハーができないんだからね
と言ったところで、医者も看護師もまだこの病気には無知な人が
大変多いので何も言わず多めに薬を飲んで治まるまで耐えるしかないのです
たまに気の利く先生は鎮静剤の点滴をしてくれる方もいますが
ポトン、ポトンと点滴の薬が落ちても、そんな悠長に
してられないのがパニック発作なんです

家で発作が起きるときは家中の窓を開けたり、冷たい水を飲んでみたり、
うつ伏せになったり、気を散らせようと色々努力をしても、私の場合
兎に角手足が冷たくなって震え始めるともう発作の予期不安が始ります。
そしてパニック発作が起きてしまうのです。
このような経験をされている方も多いと思います

初めての発作から10年後に内田先生と出会い始めてパニック発作と
診断してもらってからは、私にとって人生が上向きになっていきました

ですから正しい薬物治療で80%は良くなり、あとの20%は
この病気をマイナスに捕らえないで、前向きに向き合っていくこと。
これからは楽しい事が沢山出来るんだ~と、ホントにそう思いましたからね

先生と出会ってからは乗れなかった新幹線は大好きになり、まだちょっと
怖かった飛行機も思い切って最初は家族身内と乗り、
海外旅行の前には先生に会いに行って励まされてはまた行く。。。
みたいな日が続きました

そんなことをしていくうちに、今では新幹線も飛行機も大好きで
一生行けないかもと20代の時に思った海外旅行も今では、時間と
お金があったらいつでも行きたい
当時の事を考えたらとても考えられないことです

そして会社も苦しい時期が沢山ありましたが、20年間勤めることが
出来たし、今はフラワーデザイナーとしてポジティブに生きています。
でも長患いをしたぶん、いつも元気な訳ではありません

時々鬱になるのは慢性化した私の持病と思い、自分は今下降線を
たどっているなと思うようにし、無理に頑張らないようにします。

決まってその後上向きになるのが今では自分で分かるようになる
ところまで来ています。ですから不安定な時間を抱えて次の豊かな
実りを待とうと言う気持ちで、動きたくなるまでだらだらとして
寝たいだけ寝たりゴロゴロとして過ごします

心と身体のバランスが崩れてくると来た来た落ち込み~と素直に
受け入れられるようになりました
落ちてしまったら次は良い段階がやってくるのです

自然に身体が動き出すように人間の身体ってできているのですね。

そうです、題名のイメージトレーニングはとても簡単
例えば予期不安が起きてきたら頭の中で違う事を考えるか、頭を
無にするトレーニングをしてみて下さい。

これはパニック発作だけではなく、ついつい昨日あった嫌な事とか、
過去のどうしても忘れられない辛い思い出、とにかく嫌な事が頭に
巡ってきたら、思い出さないトレーニングをするのです。

頭がカッカときそうな出来事も思い出さない様に、あたまで違う事を
考えたり、私の場合は瞑想する時の様に何も考えない状態に
するのです。
このトレーニングは慣れですから難しく考えずに是非やってみて
下さいね

何かご質問のある方は遠慮なくお聞き下さいね

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ストレス解消に今一番ハマッているもの。( ´艸`)о

2007年11月27日 | PDパニック障害の克服
久しぶりにゲームというものにハマッている私
なんと今一番のストレス解消にまでなってしまった

それは何かと言うと、そうそう今世の中で流行中の任天堂のDSだ

私がゲームをするのは腱鞘炎にまでなってしまったテトリス以来だ
私はあまりゲームに興味が無く、我が家にはプレステ3もあるが
私は一度も触ったこともないのだ

私の年齢になると脳トレとかに使う人も多いし私も必要性を
感じるほどの物忘れのひどさ

でも私がしているゲームはたろはなパパが買ってきた「ずーきーぱー」
こんな面白いものがあったんだと今超夢中の私
とても単純なゲームだがそれが私には合っている
すっかり一人で独占して自分のものになっている

朝起きたら直ぐにお布団の中で、勿論夜寝る前もお布団の中で
黙々とゲームをしている私です
あっという間に数時間が過ぎてます

そして勿論、日中も私の頭は「ずーきーぱー」の事を考えている
そんな時間があったらお花の一つでも多く作れよと自分に
言い聞かせるのだが、却ってこのゲームで私の仕事は以前より
はかどっていると思っている?
疲れたり、行き詰ったら「ずーきーぱー」をやっている
気分転換に最高の優れものの「ずーきーぱー」

さあ今日もこのお花が完成したら「ずーきーぱー」やろうっと







動物がとっても可愛いところもお気に入り




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リラックマを読んで、リラックス!リラックス!

2005年09月26日 | PDパニック障害の克服
お薦め本

コンドウアキさんのリラックマ生活をご紹介します
人生そんなに急ぐことはない
ダラダラ生活の人(私の様な)の為には心安らぐ、ホッとできる本ですよ~
気楽に生きるヒントを与えてくれます
各ページ2~4行の文章です
可愛いリラックマの絵と身に沁みる優しい言葉で、リラックスして下さいね

リラックマ生活―だらだらまいにちのススメ

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パニック発作とパニック障害

2005年07月14日 | PDパニック障害の克服
私が月に1回通っている、心療内科では、季刊誌が発行される。
vol.40 2005年Spring号に気になる記事があったので、ご紹介させて頂きますね。
私も何気なく使っていた言葉だったので、とても参考になりました。

ドクターヨシダの一口コラム(5)「パニック発作とパニック障害」

 「近頃は、パニック障害という診断も、随分普及されてきたように思いますが、
最近、パニック発作すなわちパニック障害という誤解が少々あるように思います。
 実はパニック発作というのは、パニック障害に陥った症状ではなく、他の不安障害に
おいても、起こりうる症状なのです。例えば社会不安障害(極端なあがり症)の方が
大勢の人の中で話をしなければならない状況であるとか、高所恐怖や、閉所恐怖の方が
恐れている状況に置かれた場合などに起こりえます。さらに不安障害に該当しない方でも、
恐ろしい場面や非常に緊張する場面に直面した時には、パニック発作が起きる可能性が
あります。

このパニック発作が予期せぬ状況で突然、発作的に何回か起こり、それにより、再び発作が
起こるのではないか、発作が起きると自分はどうにかなってしまうのではないかというような
強い不安や恐怖を伴うようになった場合に、パニック障害と診断されます。
つまり、パニック発作自体に対して強い恐怖感を抱くことがパニック障害の特徴といえます。
ですから、極端な話、パニック発作があっても、恐怖感が全くなければ、パニック障害との
診断はされないわけです。

(一部省略)

パニック発作が起こっても、どうにかなってしまうということはない、安静にしておれば
じきおさまるのだということをしっかり頭と身体にしみこませることができれば、
パニック障害の治療の半分は終わったと考えることができます。
パニック発作が起こりそうになっても、恐怖感を抱かないようになれば、大きな発作に
発展することなく、案外、予兆だけですんでしまうようにまるものなのです。

 とは言うものの、発作の頻度が多かったり恐怖感がなかなか取れなかったりしている間は、
しっかりと薬を服用して安心した毎日を過ごせるようになることが大事でしょう。
そして良い状態を持続する中で、多少、発作がおこることがあっても大丈夫なのだという
認識を覚えさせていき、パニック発作に対する恐怖感を払拭していきましょう。」 
                                    以上です。

なるほどと思って読みましたが、パニック発作の恐怖から抜け出すことは、
中々難しいことですよね。人それぞれの症状や、性格にも大きく違いがありますが、
このどうかなってしまいそうな恐怖と戦っている人が多いのだと、私は思います。
発作は殆ど起こらなくなりましたが、最初の発作の恐怖は今でも忘れられませんもの。
やはりまだ、薬を服用して安心して日々過ごせることが、私には必要のようです。
読んでくださった方も、無理せず、気長に、付き合って行こうではありませんか


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橋本病(甲状腺の病気)

2005年06月15日 | PDパニック障害の克服
橋本病と診断されて、早3年が経つ。これに相反する病気がバセドウ病で、
こちらは広く知られている。3年前に母親が甲状腺の乳頭ガンで、伊藤病院に
入院していた時に、毎日看病に通い、たまたまリンパ腺が腫れて熱があったので
甲状腺専門病院ではあるけれど、風邪ぐらいならと思い診察をしてもらった。

血液検査とエコーをとってみたら、私は思いも寄らぬ橋本病という病気を持って
いることを医師から知らされる。橋本病は原因不明の自己免疫疾患という、
自分の抗体が甲状腺を攻撃してしまい、炎症を起こす病気と言われている。
別名、慢性甲状腺炎ともいい、20代後半から40代に起こりやすい病気らしい。

この病気を持っていても、特に甲状腺ホルモンに異常がなければ、定期的に
様子を見ていれば良いのだが、炎症が進んでいくと、甲状腺機能低下症という


バセドウ病とはまったく正反対の症状で、元気の元が枯れてしまうような症状が
起こるのだ。私が伊藤病院で診断された時は、まだ治療の範ちゅうではなかったが、
その2ヵ月後私は原因不明の高熱とリンパ節の腫れで、日医大に入院した。

精密検査を受けた結果、私の橋本病は機能低下が始まっており、要治療という
診断が出た。橋本病の主な症状はエネルギーが足りないので、何をするにも
だるくなり、寒がりになり、全身がむくみ、食べて無くても体重が増加し、気力や
集中力も衰え、うつ病にも間違えられ易い。私はこれが原因かどうかは、言い
切れないが、この前後1年で体重が20キロも増え、いまだにその体重を維持し続け、
スリムだった頃の自分が懐かしく、鏡を見ては悲しくなるのだ。もともとパニック障害
とうつを持っていたので、症状はいつもの事だとしか考えなかった。

橋本病の治療は正常な甲状腺ホルモンがでるように、薬で調整すれば良いのだが、この
病気の特徴として厄介なのが、コレステロール値が高くなってしまうのだ。
血液検査パーフェクトだった私だったが、今は高コレステロール、高中性脂肪となり、
それらを下げる薬も飲まなければならない。
要は甲状腺ホルモンの薬チラージンと中性脂肪を下げる薬を一生飲み続けなければ
ならないのだ。でも飲んでさえいれば正常と変わらず生活できるので、甲状腺の
病気としては良い方かもしれない。

久しぶりに伊藤病院で診察を受けたが、ここ表参道の伊藤病院は全国から患者が
集まるので、患者数は一日3千人は軽く越えるらしい。やはり女性が圧倒的に多く、
バセドウの特徴である、眼球の突出された方や、首に手術の跡がある人がほんとに多い。
朝8時半に受付をし、終わったのは午後2時を過ぎていた。
ただ、生死にかかわる様な病気ではないので、病院も新しく明るいのが救われる。

母がなった甲状腺の乳頭がんもラッキーにも転移しないガンだそうだ。
3年経つが元気で、今回の検査も問題無かったようだ。
二人で安心して病院を後にしたが、長時間待たされた疲れで、表参道散策どころ
ではなく、早々に帰宅した。

伊藤病院
伊藤病院   診療実績の公開
伊藤病院  甲状腺の病気の種類
伊藤病院  橋本病(どんな病気?)
伊藤病院  バセドウ病(どんな病気?)


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心療内科を選ぶ(3)  (PDと共に生きて)

2005年05月21日 | PDパニック障害の克服
  私の選んだ心療内科です。今もし医者選びに迷っている方、 
  参考になれば幸いです。信頼のおけるクリニックです。



「医療法人和楽会 心療内科・神経科 赤坂クリニック」
  
    医療法人和楽会 ホームページ
  スタッフ紹介(01)
  設立趣旨

「大塚・栄一クリニック(内科、心療内科、口腔心療科」  

  大塚・栄一クリニック ホームページ
  院長プロフィール


「LCCストレス医学研究所(心療内科・原宿駅前クリニック」 

  城南地区:渋谷区
  桂戴作 作品一覧: 紀伊國屋書店BookWeb


「日本大学医学部付属板橋病院 心療内科」
 
  日本大学医学部附属板橋病院 ホームページ
  日本大学医学部附属板橋病院-一般用

「児島クリニック 一般内科・心療内科」
  児島クリニック

不安・恐怖症―パニック障害の克服

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パニック障害

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パニック障害の精神病理学

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心療内科を選ぶ(2) (PDと共に生きて)

2005年05月21日 | PDパニック障害の克服
当時日大病院は、現・日本心療内科学会理事長で心療内科の第一人者でもある
桂 戴作氏が教授を務め、心療内科医長でもあった。その桂教授のクリニックが神田に
できることになり、私は家も会社も近いので、そちらのクリニックに移ることにした。
そして一年あまりで、そのクリニックは原宿に移転した。

それが現在、心療内科で有名な「LCCストレス医学研究所・原宿駅前クリニック」だ。
私は十数年の間で池袋、神田、原宿、とすがる様な気持ちで先生を追いかけた。

私はそこで、内田栄一医師と出会った。私はこんな先生を待っていたのだとパニック発作を
起こしてから初めて私は心開ける信頼できる医師と出会った。
一人一人に時間などそっちのけで、熱心に関わってくれる、私には救いの神様、
お医者様だった。

ここで初めて、私は内田医師に「パニック障害」と診断された。そして「Nさんは現代病の
最先端をいっていたんだね。今だったら良い薬もあるし、すぐ良くなったのに、長い時間
かかってこじらせちゃったんだね。」と言われた。

私は病名を告げられた安心感と、今度こそ治るんだという先生の言葉に、
今迄の苦しみが込み上げて堰を切った様にまたまた涙を流したのだった。

私は内田先生には何でも話し、プライベートな事もすべてさらけ出していた。

結局8年通った日大病院でも「パニック障害」と言う事は一度も告げられず
この様な病名はまだ無かったのか知らなかったのか?どちらかというと
不安神経症と診られていたようにも思うが、色々な治療が効果無しだったのは
明らかだった。

この頃ようやく世間で「パニック障害」という言葉が聞かれ始めた。
私はこの頃読んでいた女性誌の「コスモポリタン」でアメリカでは1000万人の
患者がいる「パニック障害」と題して載せられているのを見て、これって私の
症状にピッタリ!と思い、内田医師に病名を告げられた時、改めて納得したのだった。


大きなイベントの前には必ず内田医師に相談に行った。特に海外旅行の前は、先生に
診察してもらうというより、会いに行くというほうが正しいかもしれない。
先生に勇気と励ましの言葉をもらうだけで、私は思い切って海外旅行に行くことも
可能になった。今では海外旅行大好き!飛行機大好き!ほんとに昔の自分が嘘の様だ。

しかし二年あまりで今度は内田医師も開業することになる。「大塚・栄一クリニック」と
言ってJR大塚駅のすぐ近くだった。少し不便ではあるが、もちろん私もそちらの
クリニックに移った。後でわかったことだが、年齢も私と同い年で、今から10年程前に
なるが、診察にすでにパソコンを使っていて、先端の精神医学を勉強されていた。

相変わらずの熱心な診察で、予約制ではあったが一人に一時間は普通だった。
内田医師の視野の広さにはいつも感心させられた。現代の大企業のサラリーマン
事情や会社体制のことなど、実に精通されていて先生の話には信憑性があり
素直に耳を傾けていた。で話し込んで気がつくと1時間は軽く過ぎていた。

しかし思いも掛けないショックな出来事が襲った。内田医師が過労で倒れたのだ。

詳しくは看護士の方も教えてはくれなかったが、病状は重い様で、長期の入院に
なるようだった。その時臨時の医者がきたが、とても問題外の医者で話にならなかった。
その年私は結婚と同時に夫の転勤が重なった。地方都市ではあったが知らない土地での
通院が不安だった。そこで看護師の方に内田先生の知っているいる先生がいたら
紹介してほしい旨お願いをした。

先生は親切にも病床から私の住む土地の先生を紹介して下さった。
2度ほど車を運転して1時間かかる紹介された総合病院に通ったが、やはり
医師との相性は大切だと感じた。私は駄目だと直感した。

私はインターネットで自分で探すことにした。
そして運良く貝谷医師のいるクリニックをみつけた。私は貝谷医師の書いた本を何冊か
読んでいたので、同じ土地に先生がいることを知り嬉しくなった。しかもパニック障害
専門のクリニックでもあった。その上、東京の赤坂にも先生のクリニックがあったのだ。

心療内科に詳しい人なら知っている人も多いと思うが「 医療法人和楽会・心療内科・神経科
貝谷クリニック」の元院長で現在は理事長だ。赤坂、横浜にも同じクリニックがある。

私はその「貝谷クリニック」に通い、東京に戻ってから赤坂クリニックに通い、
今日まで5年の月日が流れた。同病院はパニック障害の患者さんが多く、最近は
特に男性患者も増えてきている。研究も熱心にされていて、診察以外のケアにも
力を入れていて、講演会、行動療法やお香、季刊誌、PDを持っている人には辛い
歯科医の紹介などもしてくれる。

ここではSSRI(パキシルなど)が認可されると、すぐに処方されるようになった。
これは特効薬とも言われ、私もこの薬のおかげでずっと発作がおさまっている。
通院も月に一度行けば良いので、昔の自分を思うと今が嘘の様でもある。
今苦しんでいる人も必ず良くなるので、焦らずに病気と付き合って行って欲しいと思う。

現在は心身医療無認可の医師が心療内科の看板を掲げているところもある。
なぜなら、ストレス社会というだけに、心療内科というだけで患者が増えるという。
適当に話を聞いて、良く使われる安定剤を出すだけだ。つまり儲かるのだ。
特に年寄りがやっている、開業医は注意した方が良い。
医者選びだけは慎重に調べた方が良いと思う。病気の治癒に大きく影響してくるからだ。

そして今、私はまた内田医師に「大塚・栄一クリニック」に移ろうかと考えている。
やはり、自分と相性の良い医師に診てもらうのが、何よりも病気が良くなる最善の
方法だと思う。当時から、漢方の勉強もされていて、現在はアロマセラピストも常勤
として置いている。何事も先端をいく先生だ。

「大塚・栄一クリニック(内科、心療内科、口腔心療科」  

  大塚・栄一クリニック ホームページ
  院長プロフィール


私はこうして20年に渡り、心療内科と付き合ってきた。
そして自分に最も適した医者を見つけることもできた。

うつの状態での決断は禁物と良く言われるが、学校、会社、就職、結婚など、大きな
問題が人生にはついてくるが、ホントに悪い状態での決断は、よく考えて、信頼の
できる心療内科の医師にまず、相談することが良いと思う。
私は結局20年間会社生活を続け、結婚を機に退職し今日に至っている。
心療内科歴20年でもある。

この病気は人にもよるが、完治したら何よりだが、完治しなくても、付き合い方しだいで
充分普通の生活ができる。PDになってしまったら、それを受け入れるしか仕方ない。
でも早く治す一番の方法は、良い医者をみつける事だと思う。10人い一人がPDと言われ,
アメリカでは1000万人を超えるという。ほんとに今は特効薬ももあるので、焦らずに
ゆっくり、この病気と付き合っていって欲しいと思う。

つづく。。。

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心療内科を選ぶ(1) (PDと共に生きて)

2005年05月21日 | PDパニック障害の克服
児島医師(日大板橋病院)とはそれから、8年ほどの付き合いとなった。
診断は、特に病名は付けず、不安感とうつ傾向とのこだった。
患者の事を考えて、この医者はあえて病名は付けないのかなと、自分なりに
理解していた。

最初は週に一度、少し安定してからは2週間に一度となった。診察は予約制で午前中に
病院に寄ってから会社に向かう日々が続いた。家から池袋駅まで約30分、バスに乗り
換えて20分は結構負担だったが、上司に理解があり、会社にも、持病の治療があるから
と伝え、特に何も聞かず、大目に見てくれていた。

初めて診察を受けた日から、抗不安薬と抗うつ剤が処方された。
その効果はてき面で、胃の不快感を取り除き、全身を覆っていた不安感からも解放され、
自分が肉体的にも精神的にも、元気が取り戻されて行くことが実感できた。
その頃から、以前からやっていたテニス、スキーやダンスや日舞の稽古も再開した。
「やってみたいと思ったら、薬を多めに服用してもいいから、思い切ってやったほうが
いいよ。」と言われ、不安だった泊りがけのテニスやスキーの旅行にも出掛けた。

予期不安という言葉がパニック障害にはつきものだが、何事もなく、テニスやスキーに
行って来れても、一回出来たからもう大丈夫ではないのが、この病気のやっかいなところだ。
毎回が勇気あるチャレンジなのだ。一度起きたパニック発作で、自分は死ぬのではないかと
思い、苦しさや不安や恐怖が、身体に染み付いていて、また発作が起きるのではないだろうか
という不安が、いつも着いて回るのだ。特に初めて起きた場所や同じ状態の所は鬼門だ。

初めての発作から10年あまりがたった。この頃には発作の起きる回数も減ってきたが、
日大での治療の成果もあり、時々起きることには変わらなかった。
この時々起こるというのが、いつも不安から逃れられず、知らず知らずに、うつに移行して
いくというのが、PDとうつが密接に関係している、一つの原因とも言える。
私はその頃には最初の発作の地下鉄にも乗れるようになり(発作は時々あったが)身内と
だったら、新幹線も乗ることが可能になった。また、ラッキーな事に自分の会社までの
地下鉄区間が2つというのも、長く会社を続けられた大きな要因でもある。

問題は飛行機だった。勇気を振り絞り、3時間で到着するサイパンへ妹と旅行をした。
何が嫌かというと、飛行機の密室に閉じ込められるのが怖かった。発作が起きても
外には出られない。緊張の為前日から胃の調子が悪くなり、胃薬を飲み、病院の薬は
胃にに悪いと思い、薬をあえて飲まなかったのだ。それが間違いの始まりだった。

暑いサイパンでは不安感が襲ってきて、海がキレイだなどと言ってる場合ではない。
私は殆どホテルの部屋にいることになる。じっとしていても動悸が激しく、発作を
起こしていまった。まったく食欲がないので、日系のホテルのレストランで3,000円もする、
お素麺を食べていた。早く帰りたい、そればかり考えていた。

妹にはほんとに悪いことをした。でも妹は私の状態をわかってくれていたので、とても
ありがたかった。他人とは迷惑をかけるから、旅行はできないと思った。
帰る日になって、私は病院の薬を思い切って飲んだ。そしたら、どうだろう、胃の不快感が
なくなったのだ。徐々に不安感もなくなり、笑顔が戻っていた。胃は病気で調子が悪い
のではなく、不安と緊張によるものだったのだ。帰りは普通に飛行機に乗って帰る事が
できた。その翌年はやはり不安はあったが、弟とシンガポールに旅行したが、何事もなく楽しめた。

20代から30代前半に渡り何をするにもパニック発作と隣あわせで生きてきた。
恋愛、結婚のこと、仕事のこと本当に沢山の出来事があったが、とても書ききれないので
ここでは触れないことにする。

この頃には、心療内科が世の中にも広がり、患者数がグッと増えていつも待たされるように
なっていた。大学病院では一人一人に掛ける時間にも限界があった。この頃になると
「如何ですか」と聞かれても「相変わらずです」がお決まりの答えになっていた。
先生も診察時間を減らし、その分臨床心理士に任せる事が多くなった。
カウンセリング、自律訓練法、腹式呼吸の練習、箱庭療法などなど、正直,全く
私には役に立っていなかった。

そんな頃、8年あまりお世話になった児島医師が開業することになり、日大病院を辞めることとなった。

つづく。。。



心療内科との出会い(2) (PDと共に生きて)

2005年05月13日 | PDパニック障害の克服
動悸がして朝早く目が覚めるのも、胃の調子が悪いのも、過敏性大腸炎も、それが鬱病に
罹っている症状だという事にも、勿論気が付かなかった。神経科とか精神科とか、自分には
全く縁の無い世界だと、この時も思っていた。こんなに苦しいのだから、心臓が悪いに
違いないと、私は医学書を読みあさり、専門医にもかかったが、特に心臓に異常は見られ
なかった。

私は何とか、会社は続けていた。勿論地下鉄には怖くて乗れないので、毎日タクシーで通勤を
していた。タクシーなら、地下鉄の様な圧迫感はないし、降りたいときに降りることが
出来るし、発作が起きてもすぐ病院に連れて行ってもらえるからだ。
会社での仕事は輸入実務だったが、比較的自分のペースで仕事ができることが、私の病気に
とってラッキーだった。発作が起きそうになると、私は一人になれるトイレに行くか、
エレベーターに乗って会社の診療所の待合室に座り、発作が治まるのを我慢した。
人には決して見られたくなかったし、知られたくなかった。

辛くて、何度会社を辞めようと思ったか知れない。でも会社を辞める勇気も無かった。
何故かというと、会社を辞めたら、私はこの獲たいの知れない、やっかいな病気とだけ、
いつも付き合うことになるのだと考えたら、とても恐ろしくなった。

そうこうしているうちに、3年が過ぎた。
たまたま有休を取り会社を休んでいる日に、父が仕事の出先から戻り、胸が苦しくて
背中が痛いと倒れこむように、横になった。出先の近くの医者に診てもらったら、狭心症
だから、静かに休むように言われたという。でも私は心筋梗塞に違いないと直感した。
父は戸惑ったが、私はすぐに救急車を呼んで、救急病院に運んでもらった。

その頃、故石原裕次郎が胸部大動脈瘤で騒がれたり、故大平首相が心筋梗塞で亡くなったりと
世の中が騒がれた頃でもあったと思う。その頃私が医学書から得た知識はかなりのものに
なっていたと思う。

案の定、父の病気は、重篤な心筋梗塞と診断された。次に大きな発作が起きたら大変危険だと
告げられた。いい加減な診断をした町医者に怒りが込み上げた。

主治医に身内の人を呼んだ方が良いと言われ、あなたはお父さんの側をなるべく離れない
様にとのことであったが、まず電話をしなければと、東京にいる一番近くに住む叔母に連絡を
取り、震える手でN証券に勤める妹に電話をした。一番気丈な妹だが電話の向こうで泣いて
いるのがわかった。弟は学生で、その後誰かが連絡を取ってくれたのだろう。

長野の本宅に帰っていた母には、叔母から連絡を取ってもらった。何しろ、私は側を離れては
いけないという、医師の指示だった。その頃はまだ長野新幹線が通っておらず、上野まで3時間
を要した。母がくるまでは、何事も無くあってほしいと祈った。意識もあり普通に喋っている
父が危ないと言われても私にはピンと来ないし、夢の中の出来事のように感じていた。

皆が到着するまで、父の不安を取るように話しかけ、背中や、足をさすり続け、せめて母が
来るまでは父の発作が起きないで欲しいと祈り続けた。こういう時に自分の発作が起きないこと
が不思議だった。叔母夫婦と妹が駆けつけ、数時間後母が泣きながら駆けつけた。
親戚や父の友人、滅多に会うことのない親戚まで駆けつけたので、父はオヤッと思った様だ。

今晩が山でしょうと言われた一日目、何とか山を乗り越えた。そして3日目の山を乗り越え、
一週間目の山を無事に乗り越えた。私たち兄弟と母は病院に付き添い一週間寝ずの看病を
続けた。当時は今の様なICUのある病院も少なかった。この救急病院も内科的治療しか
せず、私は不安だった。もっと設備の整った、最先端の治療の出来る病院で治療したいと
言うのが、家族の希望だった。

そんな時、同郷でもあり、父の高校時代の先輩が日大板橋病院の心臓外科の教授をしている
ことがわかり、話はスムーズに進み、池袋の日大板橋病院へ転院した。先輩の瀬在教授は
日本で始めて、心臓のバイパス手術をした名医でもあった。石原裕次郎の慶応病院での手術の
際も執刀グループのメンバーの一人だった。父はカテーテル検査を受けたところ、やはり
冠動脈が3本も詰まっていて、バイパス手術を受けることになった。

設備の整った病院で治療をしてもらうだけでも、家族の不安は少なくなった。
一ヵ月後13時間に及ぶ手術は無事に成功し、20年後の今日現在、弟が父の会社を継ぎ
社長となり、父は会長として元気に生涯現役と豪語して頑張っている。

私は日大病院に父に会いに、毎日会社帰りに通っていた。そうこうしていると
この病院に「心療内科」という診療科があることを知った。
さっそく受付で症状を話すと、診察を受けるようにと言われた。
私の番が来て診察室に入った。そこは内科と言っても薬の臭いや、診察器具なども
なく、とても不思議だった。

先生は優しく穏やかな雰囲気の人だった。私は地下鉄で発作を起こしてから、今日までの
苦しかった数年間のいきさつを話した。先生はじっくり私の話に耳を傾けてくれた。
そして「長い間、苦しかったね。辛かったでしょう」と優しく話しかけてくれた。

私はこの言葉にふれ、堰を切ったように、涙が溢れ、先生の前で思い切り泣いた。
私は肩の力が抜け、身体の力も抜け、胃のつかえも取れていくような、久しぶりに
生きた心地を味わい、私はこれで救われるのだという気持ちになっていった。
これが私の「心療内科」、児島医師との出会いだった。

後日つづく。。。


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PDとの出会い(1)  (遅れている日本の精神医学)

2005年05月11日 | PDパニック障害の克服
地下鉄の中で発作が起きた。な、なんなのこの苦しさ、全身が不安でカーッと熱くなり、
手足が震えてきて、激しい動悸の為に息が出来ない。自分だけ、暗闇に覆われて、聞こえるのは
激しく打ち続ける鼓動の音だけだ。何、この速さ、どうなるの、助けて、私死ぬんだ。。。

立っていられず、その場に座り込んだ。何とか次の駅でおり、救急車のお世話になる。
救急病院の診断は、検査をしてみないと分からないが、発作性頻拍症という病気に似ていると
言われる。これがPDの始まりだった。この日から数年間、私のドクターショッピングが
始まる。

発作は色んな場面で表れ始めた。特に発作を起こした地下鉄は怖くて乗れなくなった。
テニスをしていて、激しく動いているうちに、運動の動悸から発作の動悸に変わり、
ドキドキするような、スポーツも出来なくなってしまった。
会社の飲み会もアルコールが入ると、発作の動悸が起こるので、お酒も飲めない。

私は発作の起きる2年前に、大手町の大手総合商社M物産に入社し、夢と希望を胸に
バリバリのキャリアウーマンを目指して張り切っていたのだ。
とにかく飲み会だの接待だのと、派手な会社でもあったので、そういう集まりは、
私にとっては迷惑な行事となり、付き合いの悪い部下となっていった。

PDの特徴は鬱病と切っても切れない繋がりがあるのは、経験者の人には分かると思う。
私も同じく鬱病へと、どんどん悪い状況に陥っていった。

発作で悩んでいると、胃や腸の調子が悪くなり始めた。食欲がなくなり、胃の辺りがギュッと
締め付けられている感じがして、胃の検査を受けることになった。結果は異常なし。
それに、毎朝動悸がして4時頃に目が覚めてしまい、おまけに毎朝お腹をこわしてしまう
ようになった。体重も減り始め、食べることが苦痛になり、生きてる為に何とか食事をとる
という日々が続いた。自分はPDとは別に何か大きな病気に罹っているのでは、と不安になり、
いくつもの、病院で検査を受けた。しかし内臓には特に異常は無かった。

医者には、発作は疲れてたからだとか、結婚すれば治るとか、気にしすぎとか、
苦しみを取り除いてくれようとする、医者には出会わなかった。勿論、PDなんて言葉も
知るわけがない。神経科を進めてくれる医師も一人もいなかった。日本の内科医は
なんと遅れているのかとつくづく思った。

後日へつづく。。。


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PD(パニック障害)と共に生きて20年

2005年05月10日 | PDパニック障害の克服
現代病とも言われるPD=パニックディスオーダー(パニック障害)
で苦しむ人達がブログを通して大勢いることを知り、
驚くほど、沢山の人がPDに苦しみ、それぞれが
PDと向き合い、一生懸命生きている事を知った。
今はこうして仲間と堂々と話をすることが出来る。
時代は変わったなと言うのが実感だ。

私が発作を起こした20年前は、日本では病名さへもわからず、
一人で、ドクターショッピングをし、心無い医者と出会ったり、
この医者は真剣になってくれているのか、自分の医者としての
無知を棚に上げ、結婚したら治るなどと、何の根拠も無いことを
言う医者共にどんなにか苦しまされたことか。

発病から3年後、ようやく辿り着いた心療内科で、「今だったら、
治療法も良い薬もあるから、すぐに良くなったのにね、ほんとに
辛かっただろうね。ちょっとこじらせちゃってね、」と。
つまりいつの間にか、私の病気は慢性化してしまったらしい。

満員の地下鉄でパニック発作を起こしてからは、通勤はタクシーを
使っていました。何故なら、降りたい時に降りられるからです。
閉じ込められるのが怖い、狭いところ、天井の低い所が苦手になり、
乗り物恐怖に陥いっていきました。PDで乗り物に乗るのが怖いと
言う人が多いが、その気持ちはホントに良くわかる。

試験に開放され、一流企業に入社し2年目、これから海外旅行に
スポーツにと、楽しもうとしていた青春の真っ只中だったから
PDを恨み、とにかくあの苦しい発作のから逃れられるなら、
死んでしまった方が余程楽だ。。。
手術して、薬を飲んで、それで治る病気の方が数倍楽だ。。。
そんな日々が続いたのだった。

私の青春はPDと共にあった。でも生きていくには、普通の
日常の生活を続けるなら、PDから逃げてはいられない。

人に言っても理解されないこの病気。親にも友人にも告げず
一人で闘った私だった。
山手線から地下鉄と何度途中の駅で降りたことか。

それが、新幹線にも乗れるようになり、飛行機に乗れたのは発作を
起こしてから5年経っていた。

今PDで苦しんでいる人にこれだけは言っておきたい。
決して逃げなければ、必ずPDを受け入れて努力すれば、
必ず普通に生きられる時がやってくる。普通に生きる事の
ありがたさを知り、自分を取り戻す時が、いつか必ずやってくる。

これからもPDについて語っていきたい思う。。。



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