「道」とは、私達が言う「way」や「road」ではなく、
何よりも古くからあり"普遍的"なもの。
そう、私たち"Tao Planning"の"Tao-タオ"です。
すごく捉えにくいものですが、一番身近で単純なものです。
「道(タオ)」を一言で言い換えるなら
「根元」若しくは「無」とでもいいましょうか。
すべての始まりであり、すべての元であり、変わらず今も存在するものです。
「道」は、この"タオ"という名前が付く前から存在していました。
人間がこの世に存在した時には、すでにそれはあり、
人間が"道"という名前を付けました。
何よりも古く本来この名を持たないものから天と地が生まれました。
ですからこの世で一番最初に名前を持ったものが"天と地"と言う事になります。
ここでひとつ面白い事がわかります。
すべてのものの名は"仮"であって普遍的ではないと言う事。
例えば、私の魂は輪廻転生を繰り返しています。
が、それは良斗ではありません。
魂にとって現在の名は永遠ではないのです。
あくまで今世を過ごすための仮の名にすぎません。
また、逆に考えてみましょう。
皆さんが飲み物を飲まれる時に使うコップありますよね。
コップに水を入れて「飲んでください」と言うと
何の抵抗もなく飲めます。
しかし、肥樽(昔、農家の方が人糞を運ぶのに使っていた桶)を
きれいに洗って、消毒して"コップ"という名前を付けて
「飲んでください」と言うと飲めますか?
ほとんどの方は飲めないでしょう。
それは、"コップ"と言う名前に意味があるのではなく
そのもの自体に意味があるのです。
つまり、"道"という名前自体に意味があるのではないく
その働き、そのもの自体に意味があります。
名を持たないものが普遍的と言えるのかも知れませんね。
つづく・・・
何よりも古くからあり"普遍的"なもの。
そう、私たち"Tao Planning"の"Tao-タオ"です。
すごく捉えにくいものですが、一番身近で単純なものです。
「道(タオ)」を一言で言い換えるなら
「根元」若しくは「無」とでもいいましょうか。
すべての始まりであり、すべての元であり、変わらず今も存在するものです。
「道」は、この"タオ"という名前が付く前から存在していました。
人間がこの世に存在した時には、すでにそれはあり、
人間が"道"という名前を付けました。
何よりも古く本来この名を持たないものから天と地が生まれました。
ですからこの世で一番最初に名前を持ったものが"天と地"と言う事になります。
ここでひとつ面白い事がわかります。
すべてのものの名は"仮"であって普遍的ではないと言う事。
例えば、私の魂は輪廻転生を繰り返しています。
が、それは良斗ではありません。
魂にとって現在の名は永遠ではないのです。
あくまで今世を過ごすための仮の名にすぎません。
また、逆に考えてみましょう。
皆さんが飲み物を飲まれる時に使うコップありますよね。
コップに水を入れて「飲んでください」と言うと
何の抵抗もなく飲めます。
しかし、肥樽(昔、農家の方が人糞を運ぶのに使っていた桶)を
きれいに洗って、消毒して"コップ"という名前を付けて
「飲んでください」と言うと飲めますか?
ほとんどの方は飲めないでしょう。
それは、"コップ"と言う名前に意味があるのではなく
そのもの自体に意味があるのです。
つまり、"道"という名前自体に意味があるのではないく
その働き、そのもの自体に意味があります。
名を持たないものが普遍的と言えるのかも知れませんね。
つづく・・・
私が尊敬する方に吉田松陰寅次郎と言う方が居られます。松下村塾を主宰し、伊藤博文や山縣有朋など多くの偉人を育て若干29歳で生涯を閉じた吉田松陰が弟子、高杉晋作に宛てた手紙にこう言うのがあります。これは、高杉晋作が獄中の松陰に「先生!男の死すべき所は何処ですか?」と言う問いに後日答えたものです。
「君は問う、男子の死すべきところはどこかと。私も去年の冬投獄されて以来この事を考え続
けてきたが、死についてついに発見した。死は好むものではなく、また憎むべきものでもない。世の中には生きながらえながら心の死んでいるものがいるかと思えば、その身は滅んでも魂の存する者もいる。死して不朽の見込みあらば、いつ死んでも良いし、生きて大業を成し遂げる見込みあらば、いつまでも生きたら良いのである。つまり私の見るところでは、人間というものは生死を度外視して、要するになすべきをなす心構えこそが大切なのだ」
松陰は、死を目前にし、"死"の一字について考え出た結果です。
ここで重要なのが「要するになすべきをなす心構えこそが大切なのだ」
"なすべきをなす心構え"です。生きる死ぬと言う事はさほど大きな問題ではない。
自分に与えられし使命をしっかりと全うする事こそ大切だと言っています。
言い換えれば"一時の繁栄を求めるが為、私利私欲に走るより、永続を求め利他愛に生きた方が素晴らしい。"
と言う事ではないでしょうか。
苦は、確かに人間を成長させますが、自ら進んで苦に飛び込み、その苦の中に居る自分に満足をしている方が居られますが、これは利己心(自己満足)でしかありません。従って徳は、積めないのです。例えば、あなたの大切な方がずっと苦の中に居るのを見て幸せでしょうか?そうではないですよね。
苦は確かに人を成長させるでしょう。逆に喜びも人を成長させるのです。
同じ成長を求めるのであれば、喜びを求めてください。
誰のって?自分のです。
我が守護神が「己が幸せであれ!」と言われますが、自分が幸せでないと人を幸せにする事は出来ないのです。
だって、不幸で苦しんでおられる方から「あなたを幸せにしてあげます」と言われても・・・ね・・・
今、あなたは自らの使命に気づこうとしています。それを曇りなく感じて頂きたいです。
"苦+学び=幸せ"ではありません。"(喜び+感謝)×愛=安心"です。
ヒントはここまでにしておきます。苦しむだけが人生ではありません。今の状況から喜びと感謝と愛を見出してください。
あなたにはたくさんのありがとうを頂きました。これからは、私がお返しする番ですね。