90代の繰言

後期高齢者の戯言

残照の記(137)

2023-02-26 20:13:15 | 日記
音痴が唄う

 威張るわけではないがガラジイは生来の音痴だ。

 父がそうだった。母の家系はまったく音痴ではないから、父から受け継いだDNAだ。

  そのせいで、まだ一度もカラオケに行ったことがないという珍しい人種だ。

 それでも、歌を唄っている居酒屋とか、スナックに連れていかれることがある。唄うのは極力ご遠慮申し上げるのだが、どうしても唄わなければならない場合もあった。

 そんな場合はどうしたのか?
 ごくマイナーな歌、田舎の小学校の校歌とか、小学校唱歌などを歌ってごまかした。ある時「緑の地平線」を唄ったら、同僚が気に入ってしまって彼の持ち歌になってしまった。

 さてデイサービスでは参加した当初はカラオケをやらないので安心していたら、実は皆さんカラオケ大好きなのだ。近頃は頻繁にカラオケをやるようになった。最初の2・3回は拒否していたのだが、いつまでも唄わないわけにはいかない。

 やむなく「圭子の夢は夜開く」を唄った。知ってる人は少ないだろうと多寡をくくって唄ったのだが、我が盟友Fさん(86歳)は知っていた。

 つぎは「湯島の白梅」にした。これはさすがに知っている人はいなかった。YouTubeにもないだろうと思ったら、ちゃんとあった。
 若い(29歳)介護士さんからは「湯島って?」「お蔦、主税って」矢継ぎ早に質問があって、あらすじを説明することになり、音痴の件は何処かに行ってしまった。しめしめ!

 さてこの次は何を歌おうか?「勘太郎月夜唄」「愛染かつら」「愛染椿」あたりはどうだろう。小学校のころ映画で見た主題歌を思い浮かべている。
(以上)

残照の記(136)

2023-02-21 13:34:42 | 日記
春の奇跡

ひところは2500歩も歩くことができた。二本杖をつきながらだけれども……

それが最近では二本杖で800歩程度である。
昨年上半期にかけての入院生活ですっかり弱ってしまった脚力。
Mリハビリ療法士の指導とサポートのおかげで何とかこの辺までこぎつけた。

別府と言えども、2月の屋外は寒い。
陽気が巡ってきたら記録を伸ばしたいものと期待している。
来月で満91歳。91歳の奇跡を現出すべく、ガラジイは3月の陽気を待っている昨今だ。

現在エミアスの居住棟2階には、100歳のSuさんを筆頭に23名の居住者がいる。そのうち補助具なしで歩いて食堂を往復するのは80代半ばのH君、80代初めのOさん、92歳のKさんの3人だけ。
残念ながらガラジイは2本杖で往復している。杖なしでも往復できないことはないが、M先生のお許しが出ていない。お許しがないまま、補助具なしで歩くと、介護士がそばにぴったり張り付く、万一の転倒に備えてだという。鬱陶しく面倒である。



残照の記(135)

2023-02-17 20:25:50 | 日記
「コメント」欄の消滅

 ガラジイの怠慢から、「コメント」欄を管理できない。
 
 逃げるにしくはないと、この際同欄を消滅させる。悪しからずご了承のほど。

――――――――――――――――――――――

Stop the War!
 ガラジイは諸般の状況から戦争悪の根源はプーチンにありと確信しているが、そういわない人もいる。代表的な論説を以下に紹介しておく。



大前研一「プーチンの怒りの根源を見抜けなかったゼレンスキー大統領は、決して英雄なんかではない」

【2022上半期BEST5】「政治家に恵まれていない国」に降りかかった悲劇
PRESIDENT BOOKS https://president.jp/articles/-/60976

大前 研一(ビジネス・ブレークスルー大学学長)

ロシアのプーチン大統領は、なぜウクライナ侵攻を決断したのか。ビジネス・ブレークスルー大学学長の大前研一さんは「ゼレンスキー大統領は、対ロシア外交で致命的なミスを犯した。プーチン氏からすれば、ゼレンスキー氏こそが『紛争の種を蒔いた張本人』という気持ちだろう」という――。
※本稿は、大前研一『大前研一 世界の潮流2022-23スペシャル』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

西側諸国はゼレンスキー大統領を英雄視するが…
ロシアの軍事侵攻が始まって以来、首都キーウ(キエフ)にとどまって、連日悲痛な顔で徹底抗戦の意志を発信し続けるウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領の姿を、西側メディアは英雄であるかのように報じている。また、多くの西側諸国において、ゼレンスキー氏に議会でオンライン演説をさせて、拍手喝采で迎えている。
だが、プーチン大統領になり代わって“ロシア脳”で考えてみると、ゼレンスキー氏は決して英雄ではない。むしろ、彼こそが今回の紛争の種を蒔いた張本人だと言っていい。
実際、彼がウクライナの大統領でなければ、プーチン氏も国境を越えて自国の軍隊を送り込むなどという暴挙に出ることはなかっただろう。

低迷する支持率対策で「NATOとEU入り」を表明
ソ連崩壊により1991年に独立を果たしたウクライナでは、レオニード・クチマ、ヴィクトル・ユシチェンコ、ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ、ユーリヤ・ティモシェンコなど、国民のことよりも自身の保身と蓄財に熱心な人間ばかりが大統領や首相に就いてきたという歴史がある。そういう意味ではゼレンスキー氏にかぎらず、ウクライナはもともと政治家に恵まれていない国であると言える。
よく知られているように、ゼレンスキー氏の前職はコメディアンだ。あるとき、彼は『国民の僕』という政治風刺ドラマで、後に大統領になってしまう歴史教師の役を演じた。これが大ヒットすると、勢いでドラマのタイトルと同じ「国民の僕」という政党をつくって党首となり、2019年の大統領選に出馬したところ、70%を超える票を獲得して当選してしまったのである。
ところが、実際に大統領に就任すると、政治家としては素人なので当たり前だが、内政でも外交でも失策が続き、支持率はたちまち20%台にまで急落してしまった。
そこでゼレンスキー氏は起死回生の策として、ウクライナをEU(欧州連合)とNATO(北大西洋条約機構)のメンバーに入れると言い出したのである。
これは効果てきめんだった。なぜなら、NATOはともかく、EU加盟はウクライナ人にとってメリットが大きいからだ。

EUのパスポートさえあれば、国外で就職できる
ウクライナ国内で連日ロシアとの激しい戦闘が続く中、メディアの前に登場するウクライナ人は、軍人、民間人にかかわらず、誰もがウクライナという自分の祖国を心から愛しているように見える。戦時下において愛国心が高揚するのは自然なことだ。
だが、私はロシアだけでなく、ウクライナにも何度も足を運んでいるが、これまで「何があってもこの国に骨を埋めたい」というような愛国者に出会ったことがなかった。
自国の政治家に期待できないこともあって、多くのウクライナ人、とくに30~40代の働き盛りの人々は、ウクライナを出て外国で仕事をしたいと思っている。みな必死に勉強して、ビジネスコミュニケーションに必要な英語と、ITや理系の高度なスキルを身につけ、それらを武器に脱出を図ろうとしているのだ。同様の傾向は、同じ元ソ連構成国である隣国のベラルーシでも見られる。
だから、ゼレンスキー氏が本当にEU加盟を実現させてくれるのであれば、ウクライナ人にとってこんなにありがたいことはないのだ。EUのパスポートを持っていれば、シェンゲン協定によって、EU域内を自由に移動することができる。また、ヨーロッパ中での就職も可能になるからである。

“旧ソ連国”が次々にロシアを離れていってしまう
ただし、EUに入るには厳しい基準をクリアし、さらに現加盟27カ国すべてに承認されなければならない。ハードルが高いため、非常に時間がかかるのが通例だ。現時点で最も新しいメンバーのクロアチアも、2013年7月に加盟が認められるまで10年かかっている。
しかも、現在はまだトルコ、北マケドニア、モンテネグロ、セルビア、アルバニアが順番を待っている状況であり、ウクライナの加盟が認められるにしても、ずっと先にならざるを得ない。
そう考えると、ゼレンスキー氏のEU加盟宣言は、実は極めて実現性の低い口約束だったのだが、それでもウクライナ国民はこれを歓迎したのである。
しかし、ロシアのプーチン大統領にとってみれば、このゼレンスキー氏のEUやNATO入り発言には、絶対に見過ごすわけにはいかない理由がある。
1991年12月のソ連崩壊前後、連邦を構成してきた14の国(リトアニア、ラトビア、エストニア、ウクライナ、ウズベキスタン、カザフスタン、ベラルーシ、アゼルバイジャン、ジョージア、タジキスタン、モルドバ、キルギス、トルクメニスタン、アルメニア)が次々に独立した。
そして、2000年代には旧ソ連構成国のエストニア、ラトビア、リトアニア、および衛星国だった東欧のチェコ、ハンガリー、ポーランド、スロバキア、ブルガリア、ルーマニアが厳しい条件をクリアして、相次いでEUに加盟した。
こうして旧ワルシャワ条約機構の国々は、次々に自由主義陣営に取り込まれて、今やベラルーシとウクライナを残すだけになってしまった。

EUのパスポートさえあれば、国外で就職できる
ウクライナ国内で連日ロシアとの激しい戦闘が続く中、メディアの前に登場するウクライナ人は、軍人、民間人にかかわらず、誰もがウクライナという自分の祖国を心から愛しているように見える。戦時下において愛国心が高揚するのは自然なことだ。
だが、私はロシアだけでなく、ウクライナにも何度も足を運んでいるが、これまで「何があってもこの国に骨を埋めたい」というような愛国者に出会ったことがなかった。
自国の政治家に期待できないこともあって、多くのウクライナ人、とくに30~40代の働き盛りの人々は、ウクライナを出て外国で仕事をしたいと思っている。みな必死に勉強して、ビジネスコミュニケーションに必要な英語と、ITや理系の高度なスキルを身につけ、それらを武器に脱出を図ろうとしているのだ。同様の傾向は、同じ元ソ連構成国である隣国のベラルーシでも見られる。
だから、ゼレンスキー氏が本当にEU加盟を実現させてくれるのであれば、ウクライナ人にとってこんなにありがたいことはないのだ。EUのパスポートを持っていれば、シェンゲン協定によって、EU域内を自由に移動することができる。また、ヨーロッパ中での就職も可能になるからである。

“旧ソ連国”が次々にロシアを離れていってしまう
ただし、EUに入るには厳しい基準をクリアし、さらに現加盟27カ国すべてに承認されなければならない。ハードルが高いため、非常に時間がかかるのが通例だ。現時点で最も新しいメンバーのクロアチアも、2013年7月に加盟が認められるまで10年かかっている。
しかも、現在はまだトルコ、北マケドニア、モンテネグロ、セルビア、アルバニアが順番を待っている状況であり、ウクライナの加盟が認められるにしても、ずっと先にならざるを得ない。
そう考えると、ゼレンスキー氏のEU加盟宣言は、実は極めて実現性の低い口約束だったのだが、それでもウクライナ国民はこれを歓迎したのである。
しかし、ロシアのプーチン大統領にとってみれば、このゼレンスキー氏のEUやNATO入り発言には、絶対に見過ごすわけにはいかない理由がある。
1991年12月のソ連崩壊前後、連邦を構成してきた14の国(リトアニア、ラトビア、エストニア、ウクライナ、ウズベキスタン、カザフスタン、ベラルーシ、アゼルバイジャン、ジョージア、タジキスタン、モルドバ、キルギス、トルクメニスタン、アルメニア)が次々に独立した。
そして、2000年代には旧ソ連構成国のエストニア、ラトビア、リトアニア、および衛星国だった東欧のチェコ、ハンガリー、ポーランド、スロバキア、ブルガリア、ルーマニアが厳しい条件をクリアして、相次いでEUに加盟した。
こうして旧ワルシャワ条約機構の国々は、次々に自由主義陣営に取り込まれて、今やベラルーシとウクライナを残すだけになってしまった。

「ロシアの生みの親」にプーチン氏は怒り心頭
ベラルーシは、独立以来、親ロシア派のアレクサンドル・ルカシェンコ氏が30年近く大統領を務めている。同国は1992年に発足したロシアと旧ソ連構成国のアルメニア、キルギス、カザフスタン、タジキスタンからなる軍事同盟「CSTO(集団安全保障条約機構)」の一員であり、1999年には両国の政治、経済、安全保障などを段階的に統合するロシア・ベラルーシ連合国家創設条約も締結するなど、ロシアとほぼ一体化していると言っていい。
一方、ウクライナの歴史を紐解くと、ロシアとの関わりはベラルーシよりも深いことがわかる。現在のウクライナの首都キーウは、9世紀から13世紀にかけて存在したキエフ大公国の首都だった。そして、ロシア人のほとんどが信仰しているロシア正教は、キエフ大公国の正教会から派生したと言われている。つまり、ロシアにとってウクライナは、親のような存在なのだ。
ウクライナはソ連からの独立後、ロシア寄りと欧米寄りの政権が交互に入れ替わりながら、ロシアを刺激しないように中立を保っていた。ところが、ゼレンスキー大統領は、「自分たちはEUにもNATOにも入る」と宣言してしまった。ロシアのプーチン大統領からすると「親子なのにどういうつもりだ」と、ゼレンスキー氏の態度に怒り心頭だったであろうことは想像に難くない。
しかも、ウクライナがNATOに加盟した結果として、ロシアとの国境近くにミサイルが配備されると、モスクワまで約700キロメートルしかないのだ。

かつての勢力圏が西側にどんどん削り取られている
ロシアという国は広大な国土を持つ大国であるが、逆に言えば16もの国々と国境線を持ち、何度も侵略されてきた歴史を持つ。
有名なところでは、帝政ロシア時代の1812年に起こったナポレオンのロシア遠征、第二次世界大戦におけるナチスドイツの侵攻(独ソ戦)が挙げられる。第二次世界大戦でソ連は戦勝国であるにもかかわらず、敗戦国日本の死者数約300万人の9倍にあたる約2700万人もの死者を出している(※諸説あり)。ロシアでは、前者は「祖国戦争」、後者は「大祖国戦争」と呼ばれており、国土を脅かされることは極めてナーバスな問題なのである。
このような歴史的経緯もあり、ソ連は冷戦期に東欧諸国を支配下において、NATOとの緩衝地帯としてきた。しかし、冷戦が終結して、東欧諸国がEUやNATOに次々と加入したほか、かつてのソ連構成国も独立を果たした。ソ連を引き継いだロシアとしては、かつての勢力圏が西側にどんどん削り取られているという危機感があるのだ。
だから、ロシアとしてはウクライナやベラルーシを緩衝地帯とするために、NATOへの加入を絶対に阻止したいのである。国防上、ゼレンスキー氏の発言を許すわけにはいかなかったのである。
ウクライナ侵攻から2カ月余りが過ぎた2022年5月9日の戦勝記念日の式典で、プーチン氏はゼレンスキー政権を反ロシアの「ネオナチ」と決めつけ、NATOに対してもウクライナを支援していると侵攻を正当化したが、背景にはこのような事情があるのだ。

プーチン氏の逆鱗に触れたゼレンスキー大統領のミス
ゼレンスキー氏はもうひとつ、ウクライナの大統領として致命的なミスを犯した。プーチン氏が絶対に触れてほしくない核問題に踏み込んでしまったのだ。
ウクライナは旧ソ連における核開発基地だったため、ソ連解体後も大量の核が残されていた。しかし、独立国家となったウクライナが核を保有し続けることを、国際社会は認めなかった。
そこで、1994年12月、ハンガリーの首都ブダペストで開催されたOSCE(欧州安全保障協力機構)会議で、「ウクライナがベラルーシ、カザフスタンとともにNPT(核拡散防止条約)に加盟すれば、協定署名国がこの3国に安全保障を提供する」という内容の覚書(ブダペスト覚書)に、アメリカ、ロシア、イギリスが署名したのである。このブダペスト覚書によって、ウクライナは非核兵器国となった。
ところが、ゼレンスキー氏は自身の支持率回復を狙うために、「ロシアによるクリミア併合のようなことがウクライナに起こるのは、自分たちに核がないからだ」と、ブダペスト覚書に異議を唱えるような発言をし始めた。

なぜ真っ先にチェルノブイリ原発を占領したのか
これはロシアにとって大問題だ。なにしろウクライナは核開発のノウハウを持っており、優秀な技術者も多数有しているので、その気になれば、実際に核を保有できてしまうのである。
このような事情で、今回のウクライナへの武力侵攻で、プーチン氏は真っ先にチョルノービリ(チェルノブイリ)原発を占領させたのだ。チョルノービリは1986年4月の原発事故以来、すでに機能していない。しかしながら、使用済み核燃料が保管されている。言い方を換えれば、チョルノービリには、核兵器の材料となるプルトニウムが山のようにあるのだ。ロシアとしては、ウクライナに核兵器をつくらせないために、これを押さえる必要があったのである。
ロシア軍はさらに、ウクライナ南東部に位置するザポリージャ(ザポロージェ)原発を占拠し、その西にある南ウクライナ原発にも迫っている。おそらくウクライナ国内で稼働中の15基すべての原発が標的になっていると思われる。

ウクライナ全域のブラックアウトは避けられない
加えてプーチン氏はここにきて、証拠も示さぬまま、「ウクライナが放射性物質を拡散するダーティーボム(汚い爆弾)を開発している」という主張も始めた。
また、ウクライナは2014年に発生した「ロシア・ウクライナ紛争」以来、東部の石炭産出ができなくなり、さらにロシアに頼っていた天然ガスも不払いなどを理由にしばしば止められるようになったため、電力供給の原子力発電に対する依存割合が年々増し、現在は6割弱を原子力発電でまかなっている。ウクライナはフランス、スロバキアに次ぐ原子力発電依存国なのだ。
したがって、ロシアがウクライナの原子炉15基をすべて押さえて停止させたら、ウクライナ全域がブラックアウトして、工場も操業できなくなる。つまり、工業を全部乗っ取ることができる。そうしたら、さすがのウクライナもへたってしまうだろう。
だが、どんな理屈で自分たちの行為を正当化しようと、原発に対する攻撃だけは許されるものではないし、絶対に許してはならない。

「ミンスク合意の破棄」で堪忍袋の緒が切れた
以上のように「我々はEUとNATOに入る、核も持ちたい」と平然と口にするウクライナのゼレンスキー大統領に対し、ロシアのプーチン大統領はかなり立腹していたに違いない。そして、ゼレンスキー氏が次にとった態度で、プーチン氏は完全に堪忍袋の緒が切れた。ミンスク合意の破棄だ。
2014年3月、ロシアがウクライナ南部のクリミア半島を併合した後、親ロシア派武装勢力がウクライナ東部のドネツク、ルハンスク(ルガンスク)2州の一部地域を占拠したことで、紛争が勃発した。翌2015年2月、ロシア、ウクライナ、ドイツ、フランス4カ国の首脳が、ベラルーシの首都ミンスクで会談を行い、なんとか停戦合意がまとまった。これがミンスク合意である。
この合意の中には、「ウクライナ東部親ロシア地域に『特別な地位』を与える恒久法の採択」という項目がある。ドネツク、ルガンスクの東部2州の住民は、ロシア系が約4割を占める。そのロシア系の多い東側の地域(ロシア系が7割に達すると言われている)に、ウクライナは「自治権」という特別な地位を与えることになっていたのだ。

「非はゼレンスキーにある」というロシア側の理屈がある
ところが、自国の東部地域をロシアに実効支配されるのを恐れたウクライナは、ロシアからミンスク合意の履行を迫られても、なかなか実行しようとしなかった。国連安保理も2015年にミンスク合意の履行を求める決議を全会一致で承認していた。
しかし、2019年に大統領に就任したゼレンスキー氏は、そんなことはおかまいなしに、国内世論を意識して「東部2州に『特別な地位』を与えるつもりはない」と、堂々と口にし始めたのである。
そこでプーチン氏は今回、強硬手段に出た。2022年2月15日、ロシア下院が「ドネツク人民共和国」と「ルガンスク人民共和国」を国家として承認するようプーチン氏に求める決議を賛成多数で採択すると、同2月21日、プーチン氏は先の2国を独立国家として承認する大統領令に署名、同時にこれらの地域を守るために軍の派遣を指示したのだ。
「非はあくまでミンスク合意を履行しないゼレンスキーにある」というのが、プーチン氏の主張なのである。ロシア脳で考えるとそうなるのだ。

プーチン氏と良好だったメルケル首相は何を思う
ドイツの首相が現在のオーラフ・ショルツ氏ではなく、2021年12月に退任したアンゲラ・メルケル氏であれば、今回のロシアのウクライナ軍事侵攻は防げたのではないかという見方もあるようだ。
確かにメルケル氏は首相在職中、プーチン氏と非常に良好な関係を築いており、彼の性格もよくわかっていたはずだ。また、ミンスク合意を締結したときの当事者の一人でもある。そう考えると、もし彼女がドイツの首相のままであれば、プーチン氏ではなくゼレンスキー氏に対して、ミンスク合意の履行を強く迫ったのではないだろうか。そして、彼女ならそれができたはずだ。
そのメルケル氏はロシアの軍事侵攻以後、ずっと沈黙を守っている。やはり忸怩たるものがあるのだろう。
(以上)


残照の記(134)

2023-02-15 19:37:19 | 日記

100歳の恐怖

最近めでたく100歳になって市長に表賞されたSuさん。

食堂で隣の空いていた席に新人のOさん(82)が入ってきた。
ガラジイの対面だ。
入ってきたその日からSuさんのお説教が始まった。
妙な高い声で口をOさんの耳のそばに近づけてよく分からないことをくどくどとしゃべる。Oさん、2,3日は何とか我慢ができたらしい。
しかし4日目には朝食に現れない。

一人にしておくと大声で架空の人に受話器もなしに電話している。隣室に居住するガラジイは一晩中悩まされることもある。
その内遂に介護人の少女に暴力を振るった。

部屋を変わりたいが生憎空き室がない。退寮も考えた。別府は高齢者施設が多く、その気になればいくつも手ごろな施設が見つかる。

ある晩から急に静かになった。不審に思って看護師長に尋ねると睡眠薬を処方したようだ。

100歳、そして痴呆症恐るべし。
その前にこの世とバイバイしなければ、と密かに思う。
(以上)

残照の記(133)

2023-02-13 19:14:19 | 日記
Stop the War !

 ウクライナの大統領は戦車や戦闘機が欲しと言って諸国訪問に余念がない。どの国の首脳も提供するのに好意的なようだ。

 しかし、操作法に加えて、故障修理などの研修、それぞれの国内世論の成熟などなど、一朝一夕には実現しそうにない。

 その間にロシアが大攻勢をかけるという報道もある。

 ガラジイはハラハラしている。
 一刻も早く340台の戦車が動き始め、100っ機もの飛行機が飛び交い、ロシア軍を木っ端みじんに打ち砕く日がやってこないかと祈るばかり。

 ガラジイ少年の日、「勝った、勝った」で提灯行列を何回もやった記憶があるが、結局、ABCD包囲網には勝てなかった。その故事を思い浮かべて安心はしているのだが。
(以上)


ABCD包囲網
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ABCD包囲網(エービーシーディーほういもう、英語: ABCD encirclement)とは、1930年代後半(昭和10年頃)から、海外に進出する日本に対抗して行われた石油や屑鉄など戦略物資の輸出規制・禁止による米英蘭中諸国による経済的な対日包囲網。「ABCD」とは、貿易制限を行っていたアメリカ(America)、イギリス(Britain)、中国(China)、オランダ(Dutch)と、各国の頭文字を並べたものである。ABCD包囲陣、ABCD経済包囲陣、ABCDライン(英: ABCD line)とも呼ばれる。この呼称は日本の新聞が用いたものとされるが、初出については良く分かっていない。
この対日政策が、経済制裁か経済封鎖かについては、研究者間でも一定していない。


概要

事実上の対日経済制裁に対する、日本側からの別称である。経済制裁および経済封鎖という強制外交手段は、私掠船の時代以前から存在したが、非軍事的強制措置の手段として英蘭戦争あるいはナポレオン戦争時にほぼ確立した。戦時国際法においては、中立国の権利義務が存在しており、ある国が交戦対象国に経済的圧力を及ぼす目的で、中立国に協力を要請し、中立国がそれに協力することは、中立義務違反として禁じられている。このため自国の港湾から輸出される貨物が、自国の許可書を持たない場合や、自国の港湾や船舶を経由して、敵性国に輸出される貨物が許可書を持たない場合、あるいは「経済封鎖」指定海域を航行する商船(船籍を問わず)に臨検した際、自国の許可書を所持しない場合、許可書のない貨物については、敵国所有物として拿捕の対象にするといった手法が開発された。また金融資産凍結令は、金本位制の時代にはイギリスあるいはアメリカ合衆国にとって、敵性国家の外国為替決済用資産を没収する強力な外交手段であった。
第一次世界大戦後には、その講和原則であるウッドロウ・ウィルソンの十四か条の平和原則に基づき、従来の勢力均衡から、新たに集団安全保障という国際紛争や侵略に対し、国際社会が集団で協調して対処を行うことにより、平和秩序を構築する多国間主義体制へと転換する試みが行われ、国際平和機構である国際連盟が設立された。また国際連盟規約では、その16条において、軍事力の行使に至らない実際の平和構築の強制手段として、違約国に対する集団的な経済制裁が定められた。
個別の国家による経済制裁そのものは、強制外交手段のひとつであり、伝統的な国際法の理解によれば武力使用(交戦)による強制外交と同様に外交上の敵対行為と見なされる可能性があるが、国際連盟規約の協約に従う限り、国際連盟を中心とする集団安全保障の枠組みでは、その国際法上の合法性が担保されることとなった。
1931年(昭和6年)9月18日の満洲事変の発生で、国際連盟は中華民国の提訴と日本(大日本帝国)の提案により、日中間の紛争に対し介入を開始し、リットン調査団を派遣した。リットン調査団の報告を受けて、1933年(昭和8年)2月24日の国際連盟総会では「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」が、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=現タイ王国)、投票不参加1国(チリ)で採択された。この結果を受けて、中華民国は規約16条の経済制裁適用を要求したが、対日経済制裁には必要不可欠なアメリカ合衆国は、国際連盟に対し制裁に反対であることを、リットン調査団が派遣される以前の1931年(昭和6年)11月11日の段階で、駐米英国大使が確認しており、中華民国の要求は、他の代表の沈黙および討議打ち切り宣言により黙殺された。
1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件が勃発し、日中間が地域紛争に入ると、中国の提訴を受けた国際連盟総会では、同年9月28日に中国の都市に対する爆撃に対する、23ヶ国諮問委員会の対日非難決議案が全会一致で可決された。1938年(昭和13年)9月30日の理事会では、連盟全体による集団的制裁ではないものの、加盟国の個別の判断による規約第16条適用が可能なことが確認され、国際連盟加盟国による対日経済制裁が開始された。
孤立主義の立場から、アメリカ合衆国議会での批准に失敗し、国際連盟に加盟していなかったアメリカ合衆国は、満州事変当初は、中国の提案による連盟の対日経済制裁に対し非協力的であった。しかしその立場は不戦条約および九カ国条約の原則に立つものであり、満州国の主権と独立を認めず、国際連盟と同調するものであった。アメリカ合衆国の孤立主義的な立場が変わるのは、フランクリン・ルーズベルトがアメリカ合衆国大統領になってからである。ルーズベルトは大統領に就任してから1937年(昭和12年)の隔離演説発表まで、表面上は日本に協調的姿勢を見せ、日中国間の紛争には一定の距離を置く外交政策を採っていた。しかし、同年7月に盧溝橋事件が発生すると、対日経済制裁の可能性について考慮をし始め、10月5日に隔離演説を行い、孤立主義を超克し増長しつつある枢軸諸国への対処を訴えた。日本に対する経済的圧力については、アメリカ国内に依然として孤立主義の声もあって慎重であり、後述の通り長期的で段階的なものであった。
仏印進駐による1941年(昭和16年)7月から8月にかけての対日資産凍結と枢軸国全体に対する、石油の全面禁輸措置によって、ABCD包囲網は完成に至る。


日蘭会商

詳細は「日蘭会商」を参照
日本は、日蘭会商で蘭印と石油200万トンの供給量で合意し、この量は、当初の希望量の2倍であったが、1941年6月17日、日蘭会商の芳澤団長は蘭側へ交渉の打ち切りを通告した。


アメリカの対日経済「封鎖」

アメリカ合衆国は日露戦争以降、中国東北部およびロシアシベリア権益について日本と対立と協調を繰り返してきたが、日本は満州善後条約や満州協約、北京議定書・日清追加通商航海条約、対華21カ条要求における2条約13交換公文などを根拠に「宣戦布告せず交戦する技術」。を進化させてきたのに対し、アメリカが採用した「宣戦布告せず経済制裁する技術」が対日経済封鎖である。アメリカは日本と開戦しておらず、国際連盟が対日経済制裁を決定する(1938年9月30日)以前には公然と経済制裁によって対中協力をおこなうことはできない。また国際連盟に参加していないため国際連盟と協調行動をとり対日経済制裁に参加する国際法上の、あるいはアメリカ国内法上の根拠がない、とくに日米はともに不戦条約締約国でありアメリカ側からの対日宣戦と受け取られかねない国家実行はアメリカ上院の許容するところではなかった(宣戦布告はアメリカ上院の権限)。欧州で大戦が勃発(1939年9月3日英仏対独宣戦布告)した後も、アメリカは外交上中立を維持し9月5日に中立宣言を発布していた。
アメリカは満州事変の発生、とくにルーズベルトが大統領に就任した1933年3月以降、対日貿易を制限する根拠となる法令を成立させてきた。これは直接的には1929年から発生した世界恐慌を乗り切るための経済ブロック政策としての面があり、関税・輸出品目統制・金融機関への窓口指導・制限品目への監視体制などである。貿易は原則自由から制限許可制となっており、戦略物資はアメリカからの輸出を原則禁止としたうえで除外国リストから日本(あるいはドイツなど)を慎重に除去するだけでよかった。ルーズベルトは1933年には修正対敵通商法を成立させており、この法律は国家が戦争状態にあるとき、議会の承認なく重要な法律や政令を実行に移すことを可能にしたものであるが、ルーズベルトは恐慌の発生を国家の戦争状態とし1933年 銀行法(大統領令6102 のちグラス=スティーガル法)の通達を発するなどすでに議会から(平和裏の)非常時権限を一部獲得していた。1940年の日米通商航海条約失効以降はアメリカ側が輸出入に関して制限をかけても日本に対抗手段がない状態となった。さらに対敵通商法の適用国となればアメリカの民間人がある国(日本人)と自由に、あるいは第三国を経由して交易をおこなうことを制限する完全許可制となり、対敵通商法の適用を匂わせることで日本に対する「紙上封鎖」圧力を加えることができた。当時は金本位制であり日本政府の為替決済用在外資産はニューヨークとロンドンにあり、ニューヨークの日本政府代理店(横浜正金銀行)には1億ドルの金融資産があった。
1920年代後半、第二次北伐やそれにともなう山東出兵、済南事件などをうけ、蒋介石政権は大衆を動員した政治運動として日貨排斥運動を展開しており、1928年5月14日には上海反抗日軍暴行委員会が組織され対日経済絶交を宣言していた。アメリカ政府が、上院の許容する外交権限の範囲で、上院の前提とする国際条約と国際法の範囲内において、国内法を使用してイギリス・オランダを含め東アジアの欧米植民ブロックから日本を締め出すためには、議会や(アメリカ大統領には議会への法案提出権は無い)大衆への説得、慎重で精密な法の構成と運用が必要であった。


対日経済封鎖

アメリカによる対日封鎖と経済制裁のあらましを記す。
  • 1937年(昭和12年)10月5日 ルーズベルトによる「隔離演説」
  • 1939年(昭和14年)7月 日米通商航海条約破棄を通告
  • 1939年(昭和14年)12月 モラル・エンバーゴ(道義的輸出禁止)として航空機ガソリン製造設備、製造技術の関する権利の輸出を停止するよう通知。
  • 1940年(昭和15年)1月 日米通商航海条約失効
  • 1940年(昭和15年)6月 特殊工作機械等の対日輸出の許可制
  • 1940年(昭和15年)7月 国防強化促進法成立(大統領の輸出品目選定権限)
  • 1940年(昭和15年)7月26日 鉄と日本鉄鋼輸出切削油輸出管理法成立
  • 1940年(昭和15年)8月 石油製品(主にオクタン価87以上の航空用燃料)、航空ガソリン添加用四エチル鉛、鉄・屑鉄の輸出許可制
  • 1940年(昭和15年)同8月 航空機用燃料の西半球以外への全面禁輸
  • 1940年(昭和15年)9月 屑鉄の全面禁輸
  • 1940年(昭和15年)12月 航空機潤滑油製造装置ほか15品目の輸出許可制
  • 1941年(昭和16年)6月 石油の輸出許可制
  • 1941年(昭和16年)7月 日本の在米資産凍結令
  • 1941年(昭和16年)8月 石油の対日全面禁輸

経過

1930年代半ば、世界はヴェルサイユ体制の存続をめぐって枢軸国(伊独日)・自由主義国(英米仏)・共産主義国(ソ連)の3陣営が次第に対立を深める。日本は1937年から日中戦争を始め、それによりパネー号事件などの日本軍によるアメリカの在中国権益侵害事件が発生するに従い、中国大陸の権益に野心があったアメリカでは対日経済制裁論が台頭してきた。そして近衛内閣が1938年に発表した東亜新秩序声明に以前から日本を敵視していたアメリカは態度を硬化させ、1939年に日米通商航海条約の廃棄を通告した。1940年1月に条約は失効し、アメリカは屑鉄・航空機用燃料などの輸出に制限を加えた。アメリカの輸出制限措置により日本は航空機用燃料(主に高オクタン価ガソリンとエンジンオイル)や屑鉄など戦争に必要不可欠な物資が入らなくなった。アメリカの資源に頼って戦争を遂行していたため、その供給停止による経済的圧迫がなされ、地下資源に乏しい日本は苦境に陥った。
1940年9月、イギリス・アメリカなどが蒋介石政権に物資を補給するルート(援蒋ルート)を遮断するために、日本は親独のヴィシーフランスとの条約締結のもと、仏領インドシナ北部へ進駐した(北部仏印進駐)。さらに同月ドイツとの間で日独防共協定を引き継ぐ日独伊三国軍事同盟を締結した。この同盟によりアメリカは日本を敵国とみなし、北部仏印進駐に対する制裁と、日中戦争の拡大など日本の拡大政策を牽制するという名目の元、アメリカは屑鉄と鋼鉄の対日輸出を禁止した。その一方で、日本は蘭印(オランダ領東インド)と石油などの資源買い付け交渉を行っており(日蘭会商 [8])、結果的には日本は、蘭印と石油200万トンの供給量で合意した。この量は、当初の希望量の2倍であった。この交渉で鍵となったのが航空機用燃料の量で、アメリカの圧力によって蘭印側は、日本が求めた量の1/4に留められた。そのため、当時の日本では航空機用燃料の貯蔵量が底をつきかけていた。4月に、アメリカ・イギリス・オランダの三国は、軍事参謀会議を開き、アジアにおける対日政策について協議した。しかし1941年6月17日、日蘭会商の芳澤団長は蘭側へ交渉の打ち切りを通告した。
海軍などでは三井物産などの民間商社を通じ、ブラジルやアフガニスタンなどで油田や鉱山の獲得を進めようとしたが、全てアメリカの圧力によって契約を結ぶことができず、1941年には、民間ルートでの開拓を断念した。
7月には、石油などの資源獲得を目的とした南方進出用の基地を設置するために、日本は仏領インドシナ南部にも進駐した(南部仏印進駐)。これに対する制裁という名目のもと、米国は対日資産の凍結と石油輸出の全面禁止、英国は対日資産の凍結と日英通商航海条約等の廃棄、蘭印は対日資産の凍結と日蘭民間石油協定の停止をそれぞれ決定した。日本は石油の約8割をアメリカから輸入していたため、アメリカによる石油輸出全面禁止が国内世論に深刻な影響となった。これにより、日本国内での石油備蓄分も平時で3年弱、戦時で1年半といわれ、早期に開戦しないとこのままではジリ貧になると帝国陸軍を中心に強硬論が台頭し始める事となった。これらの対日経済制裁の影響について、英国首相のウィンストン・チャーチルは、「日本は絶対に必要な石油供給を一気に断たれることになった」と論評している。
9月、日本は御前会議で戦争の準備をしつつ交渉を続けることを決定し、11月に甲案・乙案と呼ばれる妥協案を示して経済制裁の解除を求め、アメリカと交渉を続けた。しかし、アメリカはイギリスや中国の要請(大西洋憲章)により、中国大陸からの日本軍の撤退や日独伊三国軍事同盟の破棄、蒋介石政権以外の否認などを要求したハル・ノートを提出。これは暫定かつ無拘束と前置きはしてあるものの、日本側が最終提案と考えていた乙案の受諾不可を通知するものであり、交渉の進展が期待できない内容であると考えた日本政府は、開戦も止むなしと判断した。なお日本側が乙案を最終提案として、交渉終了の目安を11月末程度と考えていた事は、暗号解読と交渉の経過により米国側にも知られており、その上で穏健案は破棄され、厳しい内容のハルノートが提示された。


包囲網の実態

この包囲網の実態に関して。


同時代人の言葉

  • 時のイギリス首相、ウィンストン・チャーチルは、1941年の対日政策について、「英米両政府は緊密な連繋のもとに日本に対して行動していた」としており、7月のアメリカによる経済制裁措置を受けて、「イギリスも同時に行動を取り、二日後にはオランダがこれにならった」と述べている。
  • 時の駐日アメリカ大使、ジョセフ・グルーは、ハル・ノートの手交について記した、1941年11月29日の日記において、「もし日本が、南方における主導権を軍隊によって追求しようとするならば、日本は直ぐにABCD諸国と戦争になり、疑問の余地なく敗北し、三等国になるであろう」と述べている。
  • ロナルド・リンゼイ(英語版)駐米英国大使は「ルーズベルト大統領は戦争を避けるため、経済封鎖に固執していた」と述べている。

歴史学者からの評価

  • イギリスの戦史家ベイジル・リデル=ハートは、「アメリカ政府の資産凍結措置と同時にイギリス政府も行動をとり、ロンドンのオランダ亡命政府も誘導されて追随した」。「このような措置は、1931年にさかのぼる議論においても、日本を戦争に追い込むことは必定だった」と述べており、一連の経済封鎖を背景にしたアメリカの要求について「いかなる国にも、とりわけ日本のような面子を重んじる国にとっては、このような要求を容れることは不可能であった」。「日本が4ヶ月以上も開戦を延期し、石油禁輸解除の交渉を試みていたことは注目に値する」と評している。
  • 同じくイギリスのJ・F・C・フラーは「オランダはアメリカとイギリスの措置に加わった」。「経済戦争の宣言であり、実質的な闘争の開始であった」と述べている[21]。大西洋会談ではルーズベルトがチャーチルに対し『私は決して宣戦布告をやる訳にはいかないでしょうが、戦争を開始する事はできるでしょう』と述べ、チャーチルは後日『われわれの共同禁輸政策は確実に、日本を平和か戦争かの瀬戸際に追いやりつつあります』という書簡を送ったとしている。
  • アメリカの戦史家サミュエル・エリオット・モリソンは、「1941年の後半にイギリスとオランダが協調して、資産凍結と禁輸措置を実行した」としている。
  • 同じくアメリカの政治学者、ジョセフ・S・ナイ・ジュニアは、「日本を抑止しようとするアメリカの努力は破綻をもたらした。平和という選択肢は、戦争に敗れるよりも非道い結果をもたらすと日本の指導者達は考えていた」と述べている。
  • 家永三郎は「日本は、中国侵略を継続するために、これに反対する米英蘭との戦争をすることになった」と述べている。
  • 秦郁彦によれば、ABCDの国々の間で早い段階から対日戦が計画にあったのかどうかであり、イギリスやオランダの領地が日本に攻撃されたとき必ずアメリカは参戦すると密約があったとするものである。ワシントンとシンガポールでその会議は行われ、その報告書は「ABC-1」、「ADB-1」と呼ばれ、「レインボー5号」になったとされている。米政府は日本軍の南部仏印に進駐するをみて7月26日に日本資産凍結を発表した。これは必ずしも貿易の禁止を意味するものではなかったが、米国内の資産で貿易を決済出来ない事になるのであるから、事実上の禁輸であり英国、蘭印もこれにならった。米国が日本への石油の輸出をやめれば蘭印の石油を日本が奪いにくることは明白だったので、蘭印政府は米国に蘭印への軍事援助があるかどうか打診したが、米側からは回答がなかった。しかし日本は石油・ゴム・スズ・屑鉄の軍事物資が止められたので止む無く戦争を始めたといっているが、そうではなく、以前の7月2日の御前会議で「情勢推移に伴う帝國國策要綱」で「南方進出の態勢を強化す」「帝國は本号達成のため対英米戦を辞さず」としていた。戦争への引き金はABCD包囲網ではなかったと秦は述べている。(検証・真珠湾の謎と真実)
  • 須藤眞志は「ABCD包囲網のようなものが、意図的なものとして存在したかどうかは疑わしい」と述べている。また密約合意文書とされる「ABC-1」「ADB-1」について大統領が承認していないので、米政府の意思決定や活動を縛る拘束性がなく、「レインボー5号」の作成に関係があったのか証明が出来ず、ABCDラインの証拠ともならないとしている。
  • ジョージ・モーゲンスターンは「ABC-1」「ADB-1」両報告書は陸海軍トップの承認後6月に大統領に提出されたとしているが、「これは各国の承認を必要とする」として承認は拒否されたとしている。
  • 井口治夫は、対日経済制裁によって「日本海陸軍をジリ貧論へ追い込んでいった過失責任は明らかに米国側にあった」としている[27]。
  • 岩間敏は「陸海軍の省部(陸軍省、海軍省、参謀本部、軍令部)の幕僚たちは、この英米の強硬な反応に茫然自失となった。彼らは、日本が南部仏印に進駐しても米国は、それを許すと思い込んでいたのである。日本の政策決定集団は経済制裁を冷徹に実施してきていた米国のカードが読めていなかったのであった」としている。