90代の繰言

後期高齢者の戯言

軍国少年の変化

2017-04-29 09:04:14 | 社会

 1945年8月15日、終戦の日である。

 この年、軍国少年ガラジーは5月から美幌町で援農に駆り出されていた。中学校(当時は5年制だった)2年生2組は、兵隊に駆り出されて男手の少なくなった近郊農家の住み込み手伝いに動員されたのだ。
 
 1か月たらず高台の畑作農家に住み込み馬鈴薯の植え付けを手伝った。
 ついで網走川沿いの水田農家に移転、同級生のM君と二人で住み込んだK家は若い当主が出征して老夫妻、おなかの大きい若奥さん、当主の妹3人という家族構成だった。経営は水田5ha、畑10ha。
 水田播種が終わると、晴天なら水田または畑の除草に追われ、雨天なら納屋の片付け作業と、毎日疲労困憊を極めた。その中でただ一つの救いは、ご飯だけは腹いっぱい食べられたことだ。一般家庭が食糧難で喘いでいたから、この上なくありがたかった。

 8月15日、畑の除草作業でラジオ放送「終戦の詔勅」を聞く機会がなかった。昼食に遅れて畑から上がってくると、戦争は終わったようだと聞かされる。夕方になって同じの街に近い農家に住み込んでいた同級生から伝言がやってきて終戦を知らされる。それでも半信半疑だった。「神国日本が戦争に負けるはずはない」軍国少年ガラジーはかたくなに思い込んでいたから。

 一週間ほどして、中学校から連絡が来て、援農に入っている同級生全員が街の小学校の古教室に集められた。
 そこには配属将校がやってきていて、終戦のいきさつを丁寧に話してくれた。勝った、勝ったと新聞やラジオで報道されたニュースはほとんどが嘘だったことを涙交じりに話す大人がそこにいた。
 彼は最後に言った。
「諸君たちはこれからも新聞やラジオ放送を信じてはいけない。大人たちの言葉を簡単に信じてはいけない。」
 この言葉が軍国少年ガラジーの思想を変化させるターニングポイントとなった。

 10月になってガラジーたちは中学校に戻った。半年ぶりに授業が始まったのだ。そこには大人たちの見事な裏切りが待っていた。
 先生たちの言動は見事に豹変する。例を挙げよう。
 万世一系の天皇に滅私奉公を説いた歴史の教師が「自由・平等・博愛」と口を酸っぱくして力説する。よく生徒を殴っていた軍国教師が、生徒に向かってまるで優しい言葉をかけるようになり、追従笑いまでするようになったのには驚かされものだ。
 「鬼畜米英を撃て」と叫んでいた世間様一般もその舌の根の乾かないうちに、あげてアメリカ礼賛に変化する。
 「Come come everybody」に代表されるラジオ放送英会話に熱中し、コミック「ブロンディ」に表現されているアメリカ文化に憧れ、雑誌「リーダーズダイジェスト」は最大の発行部数を誇る雑誌となるというわけである。見事な変貌。
 
 少年ガラジーにはこのすべてが裏切りと映り、世間一般に対する反逆心が燃え盛る。





人工透析の費用

2017-04-28 22:00:15 | 社会

 先に人工透析の医療費用は月に10万円程度と書いたが、これは誤りだった。
 月40万円程度かかるらしい。

 がしかし、患者である後期高齢者ガラジーの支払いは月1万円だ。差額は、後期高齢者医療保険組合が支払ってくれている。こんなことになっているから当然組合は赤字だ。
 透析患者は全国で約30万人超。全体とすれば膨大な赤字だ。

 若い透析患者はともかく、ガラジーのように平均年齢を超えて生きながらえている後期高齢患者は自死したほうがよいと思われるが、それもままならない。
 希望すれば安楽死できる制度ができるのはいつの日だろうか。なんとか早く実現してもらいたいものだと思う。






中国・韓国・北朝鮮

2017-04-27 08:58:08 | 社会

 最近、北朝鮮はもとより中国・韓国など近隣諸国に対する憎悪が日本中に広がっているようである。

 ガラジーが軍国少年だったころ、こうした国の人間に憎悪むき出しの差別言葉を使うのは日常茶飯事だった。中国人を「チャンコロ」・「チャン」・「シナ」などと呼んで軽蔑していた。石原慎太郎がごく最近も「支那人」という差別言葉を使っているのをTVで見た。彼の品性の悪さが思いやられる。朝鮮人は「チョウセン」・「チョン」・「キムチ」などと呼んでさげすんでいた。
 ちなみに、
  アメリカ人を「アメ公」・「ヤンキー」・「メリケン」、
  ロシア人を「ロスケ」、
  黒人を「黒ん坊」・「ニガー」・「黒奴」・「南洋の土人」、
  白人を「毛唐」・「紅毛人」・「白ん坊」などと呼んで軽蔑していた。

 ガラジーは思う。近隣諸国とは仲良くしたいものだと。
 お互いに突張っていたのでは仲良くなりようがない。

 個人の生活でもそうだ。近所隣に仲の悪い家をよく見かける。表面は体裁を繕っていても、陰に回ると悪口タラタラなんていう近所関係も多い。こうした品性の人々に中国や韓国・北朝鮮と仲良くしてはと言っても無理なのだろうか。

 歴史をさかのぼると、中国も朝鮮も日本に様々な文化をもたらした国々だ。感謝こそすれイガミ合う所以はサラサラない。折り合って平和に暮らしたいものだ。

 竹島・尖閣諸島・北方4島など領土問題がある。
 どうすればよいのだと質問される。
 ガラジーは思う。関係諸国で共同管理すればよいのではないか。資源が発見されたらどう開発するか、共同管理している国々で相談すればよい。なんでも独り占めはよろしくない。お互いに譲り合うのが正解だと思う。譲り合えば必ず平和裡に解決する方法が見つかるはずだ。
(以上)




続々教育勅語

2017-04-26 15:11:20 | 社会

 戦前の小学校(1941からは国民学校)では、門を入ると校舎玄関までの通路片側に奉安殿(ほうあんでん)が建立されており、職員生徒はその前を通るとき、服装を正し奉安殿に向かって最敬礼をしなければならなかった。誰も見ていないと高をくくって最敬礼しないで通過したやんちゃ坊主は、隠れて監視していた先生や上級生に見つかり激しい制裁を受けたものである。

 というのは、奉安殿の中に天皇・皇后の額入り写真(御真影という)が保存されており、教育勅語も紫の袱紗に包まれ、桐の箱に収納されて保管されていたからである。最敬礼しないのは、不敬に当たるということになっていた。
 奉安殿の傍らには二宮尊徳の銅像が建てられていた。

 国の祭日には講堂で式典が挙行された。
 その折、校長先生は、奉安殿から教育勅語を桐の箱に入れたままとりだしてくる。講壇の上で箱の中から恭しく教育勅語をとり広げ、朗読するのが慣例。教育勅語の取り扱いは校長先生の専管事項のようだった。多くの場合校長先生はモーニングを着て白手袋という第一級の服装で教育勅語を取り扱う。終戦近くになると、モーニングは国民服に変化したが……。
 軍国少年たちは「朕オモウニ……」から始まって「御名御璽」で終わるまで直立不動の姿勢で聞き入るよう躾けられていた。なかには緊張のあまり倒れる子もいた。教育勅語に続く校長先生、来賓のあいさつも苦痛だったと記憶している。

 ちなみにガラジーが軍国少年だった1940~45年のころ、国の祭日は次のようだった。
   1月 1日 四方拝(しほうはい)休日ではない、以下はすべて休日
   1月 3日 元始祭
   1月 5日 新年宴会
   2月10日 紀元節
   3月20日頃(春分の日) 春季皇霊祭
   4月 3日 神武天皇祭
   4月29日 天長節
   9月23日頃(秋分の日) 秋季皇霊祭
  10月17日 神嘗祭(かんなめさい)
  11月 3日 明治節
  11月23日 新嘗祭(にいなめさい)
  12月25日 大正天皇祭
 祭日は原則として休校日だったが、職員・生徒ともに一張羅を着て午前中一時間ほど式典に参列しなければならなかった。
(以上)




続教育勅語

2017-04-26 07:41:28 | 社会

 ガラジーが教育勅語に出合ったのは小学3年生(1940)の年だ。

 まだ小学校で教育勅語を学習していなかったが、亡き父の命令で、毎朝神棚の前で教育勅語を朗読した。初めのうちは朗読だったが、10回も朗読すると暗唱できるようになる。その内容の意味はほとんど理解できなかったが、口調がよいので、簡単に暗唱できた。
 それにしても森友幼稚園の園児たちが一斉に暗唱する姿には驚かされた。彼らも意味は全く分かっていなかったに違いない。

 1941年(昭和16年)4月から小学校は国民学校に制度替えした。
 国民学校の基礎である文部省令「小学校教則大綱」(1941)によって教科の詳細が定められた。
 そこで教科「修身」は教育勅語の「道徳の内容」12徳目を教える教科とされている。最重視された第12項は「一旦緩急(いったんかんきゅう)あれはば 義勇公(ぎゆうこう)に奉(ほう)じ以(もっ)て天壌無窮(てんじょうむきゅう)の皇運(こううん)を扶翼(ふよく)すべし」であり、「徴兵の発令を受けたときは必ず喜んでこれに応じるべきで、決して逃亡して戦地に赴くことを避けてはなりません、真正の男子にとっては、国家のために死ぬことほど愉快なことはありません」と解説された。

 したがってガラジーも初等科4年生から6年生の間に12徳目の意味を教えられたに違いないが、どの学年だったかは定かではない。すべての学年にわたっていたのかもしれない。
 記憶をたどると、修身の時間はなかなか面白い授業だった。毎回徳目に応じた人物が紹介され、さながら当時大流行していた講談の一席を聞くようであった。たとえば、「夫婦相和シ」なら「山之内一豊の妻」などが語られた。話の上手な先生なら、生徒たちは一時間目を輝かして聞きほれたものだ。
 
 暗唱と言えば、中学校に入ると「軍人勅諭」(正確には「陸海軍軍人に賜りたる勅諭」)を暗記させられた。これは少し長かったから暗記にはてこずった。
 週に一回あった軍事教練の時間に暗唱させられ、暗唱できないと容赦なくビンタされたから、恐怖の時間だった。
 
 かくしてガラジーは立派な(?)軍国少年に育て上げられていく。
(以上)