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さすらい塞翁が馬

(旧タイトル『さすらい教師・大陸系』)

日本語教員として働いた中国での日々。
そして、帰国後。

さすらい完結編

2010年07月21日 01時29分58秒 | 生活(中国)
7/14(水)

いよいよ今日は帰国の日。泣いても笑っても、これで最後。

朝7時に学校を出て空港に向かう。D先生と学生Lがわざわざ空港まで見送りに来てくれた。チェックインを済ませた後、時間があったので空港内の喫茶店でお茶を飲んだ。私たち3人は学校のこと、授業のことなどについて、とりとめもなく話した。

そしてついに搭乗時間が近づき、お別れの時がやって来た。「さようなら」、2人と抱擁。
私が「中国では最後まで笑顔でいたい。泣くのは日本に帰ってからにする。」と宣言していたので、2人もそれに合わせてくれた。少々顔をこわばらせながらも笑顔で「いつでも中国に戻って来いよ!」と手を振ってくれた。私も「うん。ありがとう!」と精一杯の笑顔で出国ゲートをくぐった。

飛行機は時間通りに広州を離陸。ああ、完結だ。
すべてが終わった寂しさと、日本で新しいスタートを切る心細さ。機内でビールを飲んだら緊張が緩んだか、涙があふれてきた。しかし、客観的に見て「“飛行機で一人むせび泣くアラフォー女”って、怪しすぎるだろ!」と思い、前の席の1~2歳ぐらい(?)の男の子と遊んだりして気を紛らわせていた。

そうしているうちに成田に到着。広東の蒸し暑さに比べたら、日本の夏はなんて快適なんだろう!
日本の家族や友人から「今年の夏は湿気が多くてたまらない」と聞いていたが、広東の比ではない。息苦しいほどに蒸し暑い地からやって来た私にとって、日本の夏は過ごしやすかった。

預けた荷物を受け取って、カートを押しながら到着ゲートへ。荷物が重すぎて電車に乗れないため、必要なものだけ取り出して、空港から宅配便で送ることにした。

夜8時頃、無事帰宅。日本の家庭料理がおいしい。ものすごく疲れていたけれど、その一方でものすごく興奮していて、夜はなかなか眠れなかった。



私の『さすらい中国編』は、これで終了です。今まで読んでくださった方、どうもありがとうございました。


なお、このブログはこれからも名前を変えて続けていこうと思っております。今後どのような方向に進むのか皆目見当が付きませんが……。

最後の晩餐

2010年07月14日 02時13分46秒 | 生活(中国)
7/13(火)一時

D先生と晩御飯を食べた。中国では他の地へ移動する際、起点で餃子を食べ、到着点でラーメンを食べると縁起がいいらしい。D先生は吉林省の出身なので、中国東北部の習慣だと思う。

というわけで、二人で餃子の店に行った。私達は、とうもろこしの餃子と海老餃子をチョイス。それに、お粥と紅焼魚と菜心(青菜の一種)も!最後の中華料理を満喫した。

この学校に来てからというもの、D先生には本当に助けられた。女だてらに皆から「アニキ」と慕われているD先生は、私ともいつも仲良くしてくれた。言い尽くせないほどに感謝。

最終授業

2010年07月12日 23時59分45秒 | 生活(中国)
それぞれのクラスの最後の授業で、帰国の挨拶をした。別れを告げると泣き出す学生がいる。中には号泣している女の子もいる。私は日本で、こんなにも人から好かれたことはない。こんなにも必要とされたこともない。変だぞ……でもまあ、それは日本人が少ないからだ。冷静になれ。涙腺よ、決壊するな!

私はもともと人から好かれるタイプではないし、試験も就職も……人生すべて、何につけても“あぶれる”タイプだ。面接先で「あなたのような人は必要ない」と言われたことも何度かある。

今回も日本であぶれちゃって中国に来たようなもんだが、しかし、なぜか中国の大学でのウケは良かった。先生方も評価してくれた。なんでだろう?自分でも信じられず、毎日が夢の中の出来事のようにフワフワしていた。実は現実の私は昏睡状態にあって、長い長い夢を見ているのではないか?と思うこともあった。あるいは、日中共同企画の壮大なスケールで繰り広げられたドッキリとか(笑)。いつかどこからか野呂圭介がプラカードを掲げて現れるのではないか、と。

大体において、昔から外国語が苦手でコンプレックスを持っていた。「日本人なんだから日本語さえできれば良い」とばかり思っていた私が、中国語を話せるようになるなんて。ましてや外国で生活するなんて。そこで一人で行動するなんて。人前で話すのが嫌いなのに教員になるなんて。
……信じられないことが多すぎて、頭が混乱する。

そりゃあ辛い事もあったけれど、たぶん私はこの8年で、一生分のラッキーを体験したんだと思う。だからもう、いいんだ。そろそろ現実に戻らなきゃ。

私にとって中国は龍宮城のようなところだった。でも、浦島太郎も最終的には帰ったんだよね。その後の彼は皆さんも知るとおり……。
2日後、私は亀ではなく飛行機に乗って、日本に帰る。いい夢見せてもらったぜ!ありがとよ。

あわただしい学期末

2010年07月12日 22時50分31秒 | 生活(中国)
6月末から期末試験が始まるため、6月に入ってから何かと学期末&年度末の行事で忙しかった。

まずは期末試験関連。この学校は面倒な提出物が多い。
試験問題・解答用紙・模範解答例・試験問題自己評価・印刷申請用紙を作成、学部長や研究室主任のサインをもらう。これらは学校指定の書式・フォント厳守で作成するのだが、日本語版windowsには無い大きさの用紙指定やフォントを使っているため、毎度中国人の先生のPCで調整してもらわなければならない。

6/10(木)
日本語フランス語研究室の先生方が、私の送別会をしてくれた。学校から車で10分ほど行った所にある、中国風リゾートレストランみたいなところで食事をした。

6/17(木)
1年A組の学生たちと大・記念写真撮影会。プレゼントまでもらった。

6/23(水)
・1年生期末試験。
・日本以外はこの時期卒業シーズン。卒業生及び学部職員のための卒業食事会が行われた。4年生はずっと就職活動に出ていたため、会うのは久しぶり。みんな少し社会人らしくなって、堂々としているように見えた。特に女の子は垢抜けて、前よりキレイになっていた。

6/24(木)
・2年生期末試験。
・今度は1年B組の写真撮影会。今日もたくさん写真を撮り、またプレゼントをもらった。

6/29(火)
夜、外国人教師に対する学部長主催の慰労食事会が行われた。出席者は学部長はじめ、アメリカ人&日本人教師、外事担当職員、日本語科主任、事務長等。学内のレストランにて。事務長がワールドカップの話題を中国語で熱く語り続けていた。この人は英語が話せるから呼ばれたんだと思うけど……中国語がわからない外国人の先生方は、退屈そうだった。

7/1(木)
3年生期末試験。その後で今度は3年生との写真撮影会。そしてプレゼントも。その後、学生と夕飯を食べ、食後は散歩をしながら、ずっとおしゃべりをしていた。

7/2(金)
2年A組が送別会を開いてくれた。夜、食堂を借りてみんなで餃子を作って食べた。学生たちが余興をしてくれた。たくさんのプレゼントをもらい、たくさんの写真を撮った。胸がいっぱいだ。

7/3(土)
もう一人の日本人教師K先生が送別会をしてくれた。近所の店で、たらふく食べた。

7/4(日)
今日は2年B組の送別会。これまた食堂で、大きなケーキをみんなで食べた。またプレゼントをたくさんもらって、写真もたくさん撮って……だんだん切なくなってきた。でも、何とか最後まで笑顔を守り通す。

帰宅後、2年A・B組両方からもらった学生みんなのメッセージノートを読んだら、グッときた。

7/5(月)
成績の提出。
まず、事務室で自分用のパスワードをもらい、学生全員の成績をネット上の登録システムに入力する。すると試験の統計が出てくるので、自己分析と反省点のコメントを入れる。それをプリントアウトして、学部長や日本語科主任のサインをもらう。その他に手書きの成績表も必要。それから、学生たちの答案用紙をクラスごとにまとめ、表紙・その他をつけて冊子にする。
これが結構手間の掛かる作業だったりする。PCを使えないおじいちゃん先生たちは、学生バイトにやらせていたが……これは如何なものか?!
何はともあれ、教学関係の私の仕事は終わった。ホッとしたら涙が出そうになった。

夜、中国人の先生方と食事をした。日本語科以外の学科の先生も合流して、女ばかり5人。D先生の部屋に集まって皆で料理を作り、食べ、話をした。いい中国語の勉強になった。

7/6(火)
電化製品や台所用品、書籍類など、まだ使えそうな物をK先生に引き取ってもらった。これで部屋の中が随分とスッキリした。

7/7(木)
3年B組の学生から、みんなのメッセージ入りアルバムをもらった。

7/10(土)
3年A組を代表して学生Lに呼び出され、みんなのメッセージ入りDVDを受け取った。それからLとキャンパス内のベンチに腰掛け、ビール片手に夕涼み。いろいろと語り合った。

(これらの合間を縫って荷物をまとめては郵便局通い。以前書いたように学校近くにタクシーがないので、少しずつ運ぶしかないのだ。そのせいで、私はすっかり馴染みの客になってしまった。最初は取っつきにくかった窓口のお兄ちゃんが徐々に笑顔を見せはじめ、世間話などするようになっていった。)

学期末と言えば、期末試験や成績提出、各種食事会の他に、今学期分の交通費や雑費等の精算がある。そのため財務室や経理職員のところを行き来していた。

そして7月12日(月)、諸費用の精算が完了。ついにすべてが終わった。
なんとも言えない不思議な気分だ。

気持ち的にはゲッソリ。なのに、このところの送別会ラッシュで外食が続き、見事に肥えてしまった私。皮肉なことだ。

広州の果物いろいろ

2010年06月12日 17時52分59秒 | 生活(中国)
広州には、日本ではあまりお目にかかれない南国フルーツがたくさん売っている。しかも安い!

①いろいろなものを食べてみたけれど、最近のお気に入りは写真のマンゴスチン。
直径5~6cm、外の皮は思ったより柔らかかったが、手が紫色になってしまった。日本円にしたら1個15円程度。

②その前はマンゴーばかり食べていた。ここではマンゴーなんて、普通にその辺に植わっている木。関東地方の某寒冷地方出身の私は、たらふく食べてはトロピカル気分を満喫していた。

③マンゴーの前は、太っちょバナナ。中国語では「大蕉」というらしい。太く短く、見た目がカワイイ(直径4~5cm、長さ10~15cmぐらいか)。食べた感じは普通のバナナより粘りが弱く、サッパリとした甘さで酸味がある。もともとバナナ好きの私が選ぶ“My best banana”はコレ!

④トロピカル・フルーツといえば、パパイヤもその代表格であろう。しかし、(私にとって)パパイヤは大きい上に飽きのくる味で、たくさん食べられるものではなかった。学生達から「パパイヤを食べるとオッ○イが大きくなる!」という話をよく聞いていたので、一生懸命食べようとしたけど長続きしなかった。

⑤ドリアンは、どんなに薦められても口に入れる気になれなかった。売り場近くを通っただけで臭い!臭すぎる!!ちょっとだけ食べてみたいとも思うけど、近所では大きいのしか売ってない。ジャスコに行けば小さいパックで売っているけど、帰りのバスであのニオイが漏れてしまったら……。
臭いがゆえに好奇心をそそられるのも事実だが、同僚曰く「腐ったバターみたい。いつまでも口の中にあのニオイが残る。食べないほうが良いですよ。」と。私は「森のバター」と呼ばれるアボガドも苦手なので、やはりダメなのかなぁ。。。

⑥ドリアンに似た果物に「波羅蜜(ジャックフルーツ)」というのがある。これはニオイが弱くて、サクサクとした口当たり、なかなかイケる。お菓子になっている波羅蜜チップスも人気。

⑦ドラゴンフルーツは、見た目がカッコイイ。皮をむいて食べてみたら味の薄~い梨みたいだった。

⑧スターフルーツも見た目は面白いけれど、一口か二口食べればもう満足だ。

⑨その一方で、パッションフルーツは中身が少々グロいものの、味はgood!だった。
(以前「スワトウ土産」の記事で紹介した果物は、グァバではなくパッションフルーツだったようです。)
http://blog.goo.ne.jp/tanoshiina-jc/e/6df61fc63f1d811d906cc0898c607861

⑩蕃石榴という果物も食べたことがあるが、どうやらこちらがグァバであるらしい。しかしながら私が食べた蕃石榴は、女性の握りこぶしほどの大きさで、外は緑色、中は白かった。学生が「おいしいよ!」と言うから買ってみたけれど、私の感覚では果物と言うよりは野菜。あまり甘くなかったこともあり、生で食べるのをやめ、試しに炒めてみたら、ズッキーニみたいでおいしかった。

⑪それと、この学校付近は「楊貴妃にライチを献上した地」と言われていて、ライチの栽培も盛んだ。でも残念ながら私は、あまりライチが得意ではないんだ。どうしても「弁当の中の白菜が、甘いおかずと混ざってしまった」ような味に感じてしまう。

⑫そして龍眼は小さめのライチ、といったところか。

⑬一番ビックリしたのはエッグフルーツだ。果物なのに、食感がゆで卵の黄身!ポクポクしている!!もちろん生で、皮をむいて食べただけだ。「世の中にはこんな不思議な果物があるのか」と感動すら覚えた。



ここに紹介したのは南国フルーツの中のホンの一部分かもしれないけれど、「ところ変われば食も変わる~果物編~」ということで。

私は、中国の市場や地攤(地面に商品を並べる露店)が大好きだった。。。

広州を歩く(2)

2010年05月31日 23時26分15秒 | 生活(中国)


広州市街地へ、帰りの航空券を買いに行った。
売り場のすぐ隣には、広州火車站(広州駅)がある。

広州駅は、行き交う人の波に独特な雰囲気がある。中国の底力が痛烈に感じられる、ある意味刺激的な場所。

地方から出て来た人だろうか?大きな荷物を持って、ぞろぞろと切符売り場へ向かう群れ。荷物の入れ物は飼料袋やポリバケツ、という人も多い。そして切符売り場に目をやると、そこにはモノスゴイ人だかりができている。

駅前広場には、列車を待つ人々が座り込んだり寝たりしている。そのそばでは、弁当売りが「昼飯食べた?5元、5元だよ!」と叫んでいる。「2本3元!」と500mlの水を売っている人もいる。中には、ポリバケツにローストチキン(中華風)を山盛りにして個売りしている人も!田舎風の少女も売り子さんとして頑張っている。……と、そんな人達が大勢いる場所。

私は駅前広場に立ち、しばし“鄭州行き”列車案内の電光掲示を眺めた。あの日のように……。
あれは2006年1月の春節休暇、河南の冬の寒さに耐えられず、初めて広東にとび出したんだっけ。
( → 過去ログhttp://blog.goo.ne.jp/tanoshiina-jc/m/200704参照)
その後の4年を思うと「人生って本当に不思議だな~」と、つくづく思う。

河南にいた頃は、いつも列車で旅していたなぁ。我ながら、チャレンジャーだったと思う(笑)。列車の座席の等級なんて、長時間乗る場合でも硬臥(安い寝台の方)を利用していた。そんな河南クオリティーに何の疑問も持たなかった。というより、染まりきっていた(爆)。
( → 中国の列車事情についてはコチラ:Wikipediaより「中華人民共和国の鉄道」の項
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E3%81%AE%E9%89%84%E9%81%93)

あの頃が懐かしくなり、駅周辺を歩いた。「ホテルの勧誘さんにはお世話になったな(笑)」なんて思い出しながら。と同時に、今まで極悪な人に捉まらなかった自分の幸運に感謝しつつ。

広州駅付近には長距離バスターミナルが複数隣接しており、人が大勢行き来する場所なので、通り沿いに店が多い。特にビル内などは小さな個人経営の店でいっぱいだ。狭いところに人も商品もギュウギュウに詰まっていて、酸欠になりそう。でも、これも私にとっては中国の魅力の一つ。

そんな雑踏の中で、私の胸の中をフと一陣の風が吹き抜けていったような感じがした。
それが何を意味するのかは、自分でもよくわからない。

中国で、郵便局から荷物を送る

2010年05月28日 23時15分48秒 | 生活(中国)
8年間でたまりにたまった物を日本に送るため、郵便局に行くことにした。

大きな荷物を引いて外へ出るも、学校付近にはタクシーがない。運が良ければ三輪タクシー(オートバイで幌車を引く形の乗り物)が校門の前に待機している、という不便極まりない場所なのだ。

今の時期、広州は朝から太陽ギラギラ。校門の前で三輪タクシーを待つも、こんな時に限ってなかなか来ない。すると普通のオートバイ(これもタクシー)のお兄さんが声を掛けてきた。

バイタク兄さん:「お姉さん、乗りなよ。どこまで?」
私:「郵便局までだけど、大きい荷物があるよ。」
バイタク兄さん:「大丈夫、乗ってみ。」
と言うので、お兄さんの後ろに箱を載せ、その後ろに私が乗った。が、
私:「座る場所が少なすぎて、落ちそう!怖い!!」と訴えるも、ブーン……バイタク兄さんは無視して発進した。

こうして荷物と私を乗せたオートバイは、片側2車線の4車線道路を逆走するなど、デンジャラスな走りを見せながらも、無事に郵便局に着いた。

中国では郵便局から荷物を送る際、中身をすべてチェックされる。だから最後の封はせずに持って行かなければならない。自宅で箱の中に物をきれいに詰めて行っても、郵便局員が全部取り出して、またグチャグチャに入れなおす。毎度ため息が出る。

郵便局には大勢の人が並んでいたが、ほとんどが郵便為替の客のようだった。客は小包発送窓口の方にまであふれかえっており、私はやっとのことで局員に一声かけ、宛先を書く紙(裏がシールになってるやつ)を受け取った。

すると局員は「面倒なことは先に片付けてしまえ」とばかりに、私の荷物の手続きを一番にやり始めた。
周りには多くの人たちが、自分の順番を待って並んでいるのに

当然ブーイングが聞こえてきた。「あーあ、俺たちの列を乱す者が現れちゃったぜ」等々。
私は肩身の狭い思いでいっぱいだった。自分の耳を餃子みたいに貼り付けて、何も聞こえないようにしてしまいたかった。

一通りの手続きを終え、料金を支払うまでに1時間以上もかかったが、他の人たちは何時間待つのだろう?私から先にやってもらっちゃってゴメンね……。

さすらい総集編

2010年05月22日 22時03分57秒 | 生活(中国)
あれは2002年。そのころ会社では毎月大量のリストラがあり、私が切られるのも時間の問題だった。不安が募り、精神的にマイッていたのだろう。頭の中に何故か「中国留学」が浮かび、9月の開講に合わせて辞職してしまった。

実は私はそれ以前にも一度留学経験がある。とある日中友好団体の留学生募集に応募し、河南省の某大学に留学した。その時一緒に留学していた○ちゃんと再会して話が盛り上がり、二人してまた河南省に渡った。

一年間、大学で中国語中級クラスの授業を受けた。中国人だけではなく、韓国人やネパール人の留学生とも知り合いになって楽しかった。
冬休みには雲南省の各地を旅した。昆明、石林、西双班納(景洪)、大理、麗江……今でも忘れられない思い出だ。
しかし、この年はSARSの流行で、キャンパス内から出ることすらできなくなった時期もあった。あの時は、中国全土が大パニックだった。

一年の留学を終え、○ちゃんは日中合弁企業で通訳として働くことになった。その後、社内で知り合った日本人男性と結婚することになり、まもなく日本に帰国していった。

私は留学を終えて「そろそろ帰国か」と思っていたある日、中国人の友達に「近所に日本語科を新設する学校があるから、一緒に見学に行かないか」と言われた。行ってみたら、やたら校長が乗り気になってしまい、友達と共にそのまま採用となった。こうして2003年9月から日本語教員として河南省で3年働いた。

この学校は3年制だったので、第一期生の卒業を見届けたら、日本に帰ろうと思っていた。
日本の仕事を探しながら、ふと目についた中国の求人にも一つだけ応募してみた。しかし、その中国の求人は勤務地が広州だし、日本語教師の給料としては最高額だ。広州なら日本人もたくさんいるし、待遇がいいから応募もたくさん来るだろう。日本語教師の資格を持たない私など、採用されるわけがない。河南省では、日本人が少ないからこそ雇ってもらえたんだ。そして今回不採用になれば、何の未練もなく日本に帰れる。

そんな少し投げやりな気持ちで履歴書を送った次の日、電話が鳴った。
「(中国語で)広東××学院の者だけど、アナタいつからウチに来られるの?」
ええっ?!突然の電話にビビリまくる私。「あ、ええと……7月以降ですかねぇ?」とマヌケな答え。だってメールで連絡が来ると思ってたんだもん!
すると採用担当者、またも中国語でまくし立てる。「じゃ、書類の申請とかしなきゃなんないから必要資料送って。8月末までにはウチの学校に来てね~。詳しいことはメールするわ。」
えっ?もう決まってんの?頭の中が「?」でいっぱいになりながら「あの、今回はご連絡どうもありがとうございます。それで、あのぅ、えーとえーと……」
採用担当者「うん、じゃあ、後はよろしくね!(ガチャッ。)」
私「(ポカーン)」
……というわけで、2006年夏、私の広州行きが決まったのであった。

そして広州に渡ってから2年が過ぎた。広東に来てからは、河南省とのギャップに驚かされる毎日だった。まず、学生のカラーがぜんぜん違う。その上、私は広東語がぜんぜんわからない。河南省にいる時は、学生たちが休み時間に何を話しているのかすぐわかったから、話に入りやすかった。でも今は……。広東人が話す中国標準語(北京語由来)も聞き取りにくく、よく理解できない。
私も一時は広東語を勉強しようと思ったけれど、なかなか頭に入らなかった。北京語ができれば、必要最低限の生活はできてしまうからだろう。

広東は、確かに給料はいい。でも私にとっては河南省ほど面白くなかった。他の地域に行きたくなっていた頃、「日本語教師というよりも、いわゆる日本の“国語教師”募集」という求人広告を見かけた。四川省の大学だった。日本語教師の資格は持たないが、中学高校国語科教員免許状なら持っている私。試しに応募してみたら、即採用になった。

それから広州の大学に契約更新しないことを告げ、四川の大学と手続きを始めた。すると間もなく、あの悪夢の5月12日=四川大地震。私が行くはずだった大学も壁にヒビが入り、いつ建物が倒壊するかわからない状況で、仮校舎へ移転したらしい。私のもとには日本の親族・友人から、たくさんの連絡が来て……内定を辞退するしかなかった。

四川省の被害に心を痛めながら「ああ、今度こそ日本に帰るんだな。帰国の時が来たんだ。」と悟った2008年夏。北京オリンピックの年まで中国にいようとは、思ってもみなかった……そんなことを考えていたら、どこから情報を聞き入れたのか広州市内の別の大学の先生から電話がかかってきた。

「ちょっとウチの大学を見に来て」と言われ、断れないまま何となく見学に行った。すると学部長をはじめとする中国人幹部たちの説得。話を聞いてみると、前の学校より待遇がいいようだ。この学校の先生方の熱意に押され、引くに引けない雰囲気となり契約書にサインしてしまった。「そんなに私のことを評価してくれるなら、ここで頑張ってみるのも悪くない」そう思った。

こうして今の学校に来て2年が過ぎようとしている。学生達や先生方との交流は楽しい。しかし、サインしてからの学校側の待遇はお世辞にも良いとは言えず、正直「しくった!」とも。その上、店も娯楽もイベントもほとんどなく、交通も不便。私の生活は次第にダラダラとしていった。

中国に来て8年。毎年長期休暇に帰国するたび、両親が年老いていくのが目に見えてわかる。母はもともと体が丈夫なほうではないし、父も過去に大病を患ったことがある。心配だ。

自分もずいぶん歳を取った。体力の衰えを実感するし、健康面で不安を感じることもたまにある。もし中国で動けなくなったりしたら、どうしよう。私の家族は海外のことに疎い。もちろん外国語はできない。他の外国人教師のように夫婦で住んでいるならまだしも、私は一人だ。万が一のことがあったら、家族に絶大な迷惑をかけることになる。日本語が通じるところ=勝手知ったる日本にいたほうがいい。

そして、いつまで待っても日本の景気は良くならない。このままではいつまで経っても日本に帰れない。
……じゃあ、どうする?もういいだろう。気が済んだなら、そろそろ腹を据えて帰ったらどうだ。

まさか上海万博の年まで中国にいるなんて、2002年当時は想像もしてなかった。楽しい思い出もたくさんできたし、もう思い残すことはない。「日本の経済状況は悲惨なものだ」と周りの皆は忠告するが、立ち止まってはいられない。どうにか生きる道を探して、もう一度、日本で頑張ってみたい……考えが甘いかもしれないけれど、これが私の今の心境。ピンチをチャンスに変えられるか?!

さすらい教員、もうすぐ完結

2010年05月22日 19時34分37秒 | 生活(中国)
今学期をもちまして、中国での仕事を辞め、日本に帰国することにいたしました。
知らず知らずのうちに過ぎていった8年の中国生活にピリオドを打ちます。
7月上旬まで、残りの時間を悔いのないよう精一杯過ごしたいと思っております。
それが終わったら日本で、人生を戦う覚悟です。

私的“ちい散歩”(笑)

2010年04月25日 17時05分06秒 | 生活(中国)
4/24(土)

暇だし運動不足なので、あてどもなく近所を散歩してみた。学校の脇にある舗装されてない道を入っていくと、道はどんどん細くなる一方。私の心も心細くなってドキドキした。結局、突き当たりは地元の農家で、小さな農園で畑を耕している人や木を切っている人が見えた。

道端にはきれいな花。

こんなふうに、ちょっとした探検気分を味わうのが好き。そこには新しい発見がある。
しかし、これは無事に帰って来られたからこそ言える事であって……
好奇心と危機感のバランスというのは、難しいもんだと思う。

寿司大会2010

2010年04月25日 16時23分39秒 | 生活(中国)
4/23(金)

午後4時半から、学生たちが企画した“寿司コンテスト”が行われた。

いわゆる創作寿司(野外で)。
私は審査員として招かれたが、創意工夫を凝らした奇抜な寿司が多かった。
見た目を重視するあまり、マンゴーやリンゴを巻き寿司にしているチームも多く…あと、トッピングがマーブル・チョコとか…
審査員として味も審査しなければならない日本人教師2人、涙目

写真は作品の一部。みんな、楽しそうに作ってたね。


学校の怪談?

2010年04月25日 16時13分18秒 | 生活(中国)
4/22(木)

同僚K先生の話。
K先生はリスニング科目を担当しているため、LL教室で授業をしている。
しかしこの日はコンピューターの調子が悪く、メンテナンス部門の先生を呼ぶことにした。
それからメンテナンスの先生が来て、一通りの操作をしてみたがどうにも直らない。
ということで、裏の接続端子を見てみることにした。

この学校のコンピューター教室は、デスクトップ型PCが教壇と一体化する形(埋め込み式)になっている。後ろ側の端子を見るために、教壇のPC収納部分は開閉可能になっているのだが……
開けてビックリ!手のひらサイズの子猫が4匹も詰まってたそうだ!!

子猫達は元気にニャーニャー言ってたらしいが、なぜPCの中に???
確かに暖かそうではあるけど。
PCのある教室は管理が厳しくて、授業時以外は鍵がかけられているのに!?
こういうのも学校の七不思議になるのだろうか。

結局、その日の授業はすぐ教室変更になり、子猫の行方はK先生も知らない……。

清明時節雨紛紛

2010年04月05日 22時57分05秒 | 生活(中国)
4月5日(月)

今日は清明節で、学校はお休み。
清明節の日、中国ではお墓参りをするんだそうだ。

                清明     杜牧

清明時節雨紛紛     (清明の時節 雨 紛々)
路上行人欲断魂     (路上の行人 魂を断たんと欲す)
借問酒家何処有     (借問す 酒家は何処に有る)
牧童搖指杏花村     (牧童 遥かに指す 杏花村)

土・日・月曜と連休だけど、杜牧の詩のとおり雨。
「雨ばっかで気分が滅入っちゃうし、飲んじゃおうよ」ってこと
ここ数日、天気が悪くてスッキリしない。

君の名は・・・!

2010年04月03日 15時36分07秒 | 生活(中国)
写真は、中国でよく見かけるパン。その名も「毛毛虫」
「メロンパン」や「あんぱん」のように、フツーに「毛毛虫」という名前が使われている。
(ちなみに中国では、日本でいうメロンパンはパイナップルパンと呼ばれる。)

もっと他にいい名前は無かったのか
こんな名前をつけたら、食べる気が失せる人もいると思うんだけど。
「毛毛虫」だと思うと、このパンのフニャフニャとした柔らかさや中のクリームが、恐怖に変わる

しかし、河南でも広州でもパン屋に行けば高確率で「毛毛虫」があるので、中国では人気商品なんだろう。

私は「中国のナイススティックは、これなんだ」と自分に言い聞かせて食べた。